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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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大林宜彦監督作品で唯一ヌードにならなかったのが原田知世で、その原田知世が永遠のアイドルになったことを、若手女優や若手女性タレントはよく考えたほうがいい。
女性というのは案外簡単に裸になるが、それによって男たちの幻想(女性、特に処女の聖性という幻想)を打ち砕いているのである。裸になった若手女優はその後の女優価値が半額に下がると思っていたほうがいい。監督の甘言に騙されないことだ。出演交渉の段階で、はっきり決めておくべきで、裸になるのはスキャンダルで既に女優価値が下がった後でいい。





@gengengengengen
町山さんの大林宣彦監督はとにかく主演女優をヌードにする、みたいな話を聴いて、確かに南果歩目当てで観た『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』(1988)でも、南果歩のヌードシーンがあったなあ、と思い出す。これは中学生か高校生の時か忘れたけど、VHSビデオで観た。









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前田有一による「天気の子」の超映画批評だが、私はこの映画を見ていないが多分的確で、しかも親切心溢れるアドバイスを監督に贈っている。
と言うのも、私は新海監督の次回作の題名が「天気の子」というタイトルだと聞いた時点で見る気を失っていたのである。それほど、視聴意欲を減退させる題名であり、それが名作だとしたら、私は自分の嗅覚を信じられなくなるところだった。私は、映画への嗅覚はかなり鋭いのである。
いい映画というのは、たった一枚のスチール写真(正しくはスチル写真だが、我々の時代には確かスチールと言っていた記憶がある。)でも「あっ、これはいい映画だろう」という嗅覚が働くものである。それは当然の話で、映画のどのシーンも、監督が神経を使って撮影した映像であり、映画から切り取られた一枚の写真になってもその魅力が消えるはずはないのである。映画のタイトルも同じで、タイトルに無神経な監督がいい映画を撮れるはずがない。その意味では「天気の子」というタイトルは落第である。天気にも子供にも興味の無い人間が、意味不明の「天気の子」というタイトルの映画を見たくなるはずがない。つまり、「君の名は。」で新海監督の名前を知った浮動層と固定的新海ファンしか見る気にはならないタイトルだ。

(以下引用)



この最新作は、前作から3年間もの月日をかけるという、おそらく彼にとって映画監督としては過去最高の制作環境に恵まれたはずで、その意味では監督の渾身の作と言える。


じっさい、新宿の街並みをはじめとする背景美術の精細さは見事なもので、おそらく世界中を見ても並ぶものはないだろう。光の表現力も同じで、それを生かせる「天気」を、絶対に失敗できない「ブレイク後の一作目」の題材に選んだのもよくわかる。


ところで、まわりは宮﨑駿の後継者などというが、新海誠は彼とは正反対の監督である。


宮﨑駿は自身の年齢とともに興味が移りゆき、作風は維持しながらもテーマはどんどん変わっていく、そういうタイプのクリエイターだ。細田守などもその系統だろう。自身の子育て時代は若いキャラクターの成長を描き、老年になれば生と死の問題に移行する。人としてじつに自然なことだ。こういうタイプのクリエイターの場合、一度ついたファンは一生ついて来てくれる。ファンも同じように年を取り、同じように興味も変化するからだ。


だが新海誠は違う。彼は「変わらない」タイプの映画作家だ。新海監督はデビュー以来、一貫して男女の心の機微といった、ようは似たようなテーマを何度も何度も何度も何度も描き続けている。『君の名は。』もそうだし、『天気の子』もまた同じだ。私は彼と同世代だが、よくぞこの年になって、こんな恋愛を描けるものだと驚かされる。普通の人なら通り過ぎて二度と振り返らない何かを、彼はずっと見つめている。なかなか真似できないことで、凄いなと思う。


だが、このタイプのクリエイターが不利なのは、ファンが年を取って先に行ってしまうことだ。


新海監督は、こういう映画をもう20年も作り続けているが、初期作に夢中になった人も、もう中高年。いまだに彼の描くテーマに興味を持ち続けているファンが、そう多く残っているとは思えない。


その意味で彼は、最近セカイ系に入門してきた若いファンを常に開拓し続けなくてはならない宿命にある。こういうタイプの監督に、右肩上がりの興収を期待するのは相当厳しい事だろうと私は思う。


あえて乱暴に言ってしまうが、セカイ系なるものは、要するにたかが子供同士の色恋沙汰に、世界の法則をリンクさせ、"僕らの恋の素晴らしさ"を宇宙レベルにまで高めまくる世界観である。


それが実は、単にテストステロンと性欲に支配された、とるに足らない生物界の日常茶飯事だったと彼らが気づけば、自然に卒業していくようなジャンルである。


それでも中二病の新規客はこの総オタク時代、引きも切らないからニーズは今のところ絶えない。誰でも思春期にわずかばかり経験する、しあわせな盲目時代。それを今まさにすごす少年少女に、どこまでリーチできるかが勝負となる。国内は少子化だから先行きは不安だが、海外にはまだブルーオーシャンもあるだろう。


脱線したので映画に話を戻すが、前作『君の名は。』にもそうしたイタ恥ずかしい要素はあったものの、ヒット請負人・川村元気プロデューサーの手腕か、うまいことそのあたりは薄め、一般向けにエンタメ要素を高めてあり、ストーリーも面白かった。そこに旧来からの新海アニメが持つ、まだほとんどの日本人が知らなかった超絶美術のインパクトで度肝を抜き、社会現象的ヒットとなったわけだ。


そうした初期からの流れを知る者からすると、『天気の子』は「元に戻ったね」との一言に尽きる。


今回もっともまずいのは、『君の名は。』でいちげんさんの心をつかんだ、肝心の超絶美術の魅力が薄いことだ。


ストーリー上、どんよりした灰色の雨空がほとんどで、スペクタクルとなる天空のシーンも設定上、映像的快楽をもたらす使い方はほとんどされていない。


舞台となるのは都内で最も薄汚い新宿歌舞伎町で、あの新海誠が描いてもやっぱり薄汚い。


前作までは新宿が出てきても、それなりに美化していたと思うが、今回は歌舞伎町を、地方出身の少年いわく「冷たい街トーキョー」の象徴として描いているので、見ているだけで不安をかきたてるような、そこから離れたくなるような映像となっている。


次に舞台となる田端という町も、正直あまり絵になる風景ではなく、等身大の生活者の空気感は出ているし設定的にも的確だが、観客の心が上がることはない。


ギャグシーンも、相変わらず不器用で笑えない。出てくる女の子キャラも、相変わらず男の妄想的存在でリアリティが薄い。


要するに、エンタメが弱いのである。


スペクタクルの描き方、ストーリーへの活かし方が、この監督の場合、ファンタジー度合いが上がるほど下手になる。これは以前からの特徴で、それが「元に戻ったね」の意味である。


この点こそが、同じヒットアニメ請負人としての、宮﨑駿と新海誠の最大の違いといえるだろう。宮﨑監督には、天才的というほかない圧倒的なエンタメ演出の才があり、どんなにつまらないテーマを描いても、良質な娯楽作品にしてしまう。


私が考えるに、新海監督は『秒速5センチメートル』の第一話とか『言の葉の庭』のような、あまりファンタジックな要素のないドラマと相性がよく、もっとも持ち味を生かせるジャンルだと思うのだが、残念ながらそういう「興収5億円」を目指すような映画づくりは、周囲がもう許してくれまい。


また、これまでの作品を見ると、彼の本質はきっと文学者なのだろうと思うが、こういう人に大衆ウケと大ヒットを押し付けてしまうと、『天気の子』のような安易なファンタジーものをやることになり、文学でなくラノベになってしまう。


それでは前作でせっかくたくさんつかんだ「大人のお客さん」は、期待外れと感じてしまうだろう。このジレンマこそが、私が事前に感じていて、不幸にも的中した「不安」であった。


それでも、250億円を稼げる映画監督はほかにいないから、今後も彼の背中には重い重いヒットの重責がのしかかる。


個人的には、彼には「変わらないタイプの作家」として踏ん張ってほしい気持ちもあるが、一方で『天気の子』でも描いているようなイタハズい男女の物語は、われわれ大人にはかなりキツイ。


ここは彼の個性であるセカイ系的なテーマから一度離れるか、やるならファンタジー要素を思い切って削るか。


いずれにしても、次回作となるブレイク二作目にして、新海誠監督は作り手としては相当厳しい岐路に立たされていることが、本作で明らかになったように思う。


個人的にはこういう恋愛ものはもうやめて、よいストーリー作家と組んだら新しい地平が開けるように思うが、決めるのはもちろん監督自身である。そして、どの方向に進んでも目が離せない、不世出な映画作家なのは間違いない。ぜひ次も頑張ってほしい。

町山智浩のツィートだが、私も大林宜彦監督の映画の安っぽいSFXにはいつも乗れなかった。高校生の自主映画みたいなものを、カネを払って映画館で見させられるのかよ、という感じである。
だが、「時を駆ける少女」は、その安っぽさも「青春の抒情」とうまくマッチし、原田知世の魅力もあって、好きな作品のひとつである。と言うより、「HOUSE」とこれと、あと一本か二本しか見ていない。「HOUSE」は、大学生の自主映画なら凄いと評判になっていただろう。十代の若手女優やタレントのヌードやセミヌードが拝めるという点ではなかなか得難い作品でもあった。

(以下引用)

大林宣彦監督のデビュー作『HOUSE』(77年)を観たのは中学生の頃だったが、あまりにオモチャっぽい作りに拍子抜けした。『金田一耕助の冒険』も『ねらわれた学園』も正直つらかった。ところが82年、ATGで撮った『転校生』で打ちのめされた。映画館でみんなみんな鼻を啜っていた。
保里何とかという人のツィッターだが、同感である。
面白いことに、最初の「宇宙船内ストリップ」を初めとして、ジェーンフォンダのお色気シーンはたくさんあるが、実は男役者とのベッドシーンは一度も無い(はずである)。唯一のセックスシーンが、お互いの手の平を合わせるだけの「精神感応セックス」だけwww
確か、可愛い子供(幼児)のような宇宙人が実は凶悪な種族だったという「ギャラクシークエスト」のあれの元ネタもこの映画の中にあったのではないか。

(以下引用)

DVDで「バーバレラ」鑑賞
キラキラ
オープニングからジェーン・フォンダの魅力が爆発する天才的な映像で怒涛の「俺の嫁を見てくれ」攻撃が!家族写真がプリントされた年賀状は苦手ですが、これなら嬉しいですね
嬉し泣き
キラキラ
この映画、地球上にいる全ての男子中学生は見た方が良いと思います!
キラキラ
水鉄砲
邦画がなぜ糞なのかを論じたブログだが、まさにここにその答えがありそうだ。
監督の名前で見に行く、というのがどこにも無い。
もっとも、今の日本でそういう監督はアニメの宮崎駿しか存在しない。北野タケシでも無理だろう。手堅い映画作りをする監督はいるが、天才的監督がいない。フェリーニ、ベルイマン、黒澤がいて、フォードやワイラーやクレマンなど名匠もほかにゴロゴロいた六十年代までで映画というジャンルは実質的には終わっている。



ここに答えがあるぞ
no title











「櫻井ジャーナル」から転載。
ハリウッドの大手プロダクションはすべてユダヤ資本であり、ハリウッドの作る映画がユダ金による宣伝活動の一部であるのは知る人は知っている。そして、ユダ金というのはアメリカの「奥の院」であり、アメリカ政治を動かしている「本当の権力」だ。ただし、ユダ金というのはユダヤ系上級国民のことであり、ユダヤ人全体を指すわけではない。(ハリウッドがユダヤ人迫害関連の映画を執拗に作り続けたのは、それがユダ金批判を封じる効果を持つからである。)


(以下引用)


2020.02.10
カテゴリ:カテゴリ未分類

 俳優のカーク・ダグラスが2月5日に103歳で死亡した。ジョン・フランケンハイマーが監督した「5月の7日間」は軍の好戦派によるクーデターがテーマの作戦だが、その映画で彼は主役を演じている。



 この映画の原作はジャーナリストのフレッチャー・ネベルとチャールズ・ベイリーが1962年に書いた小説。1961年7月にアメリカ空軍の参謀総長に就任したカーティス・ルメイをインタビューしたことが小説を書くひとつの切っ掛けになったとされている。



 言うまでもなく、ルメイは第2次世界大戦の終盤、東京を含む日本の都市を焼夷弾を使った空爆で焼き尽くし、多くの非戦闘員を殺した作戦の責任者であり、広島や長崎へ原子爆弾を投下する上で重要な役割を果たした。



 1948年にはSAC(戦略空軍総司令部)の司令官就任、50年6月に勃発した朝鮮戦争でも日本に対する以上の空爆を実施、朝鮮の人口の20%を殺したと本人も認めているほどだ。大戦中、アメリカ軍が日本へ投下したのは約16万トンだが、朝鮮戦争で投下された爆弾は約63万5000トンに達する。



 ネベルとベイリーがインタビューした当時、ルメイはライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長と同じようにソ連への先制核攻撃計画に参加、その準備としてキューバへアメリカ軍を侵攻させようとしていた。



 このふたりを含む好戦派の計画を阻止したのが1961年1月に大統領となったジョン・F・ケネディで、1962年9月にはレムニッツァーの再任を拒否している。



 その前にはCIAの長官と副長官が解任されている。1961年11月には長官だったアレン・ダレスを、62年1月には副長官だったチャールズ・キャベルを大統領はCIAから追い出したのだ。ルメイをSACの司令官に留めたことがケネディにとって致命傷になったと考える人もいる。



 ソ連に対する先制核攻撃の準備が進められる中、アメリカ国内ではファシズムに反対する人びとの粛清が始まる。映画界へもその波は押し寄せ、下院の非米活動特別委員会が1947年9月にハリウッドのシナリオ作家、監督、俳優ら19名に対して召喚状を送り、10月23日に出頭するように命じている。



 そのうちのひとりはドイツから亡命していた著名な劇作家のベルトルト・ブレヒト。指定された日に実際、証言させられたのは11名だった。そのうちブレヒトを除く10名が「ハリウッド・テン」と呼ばれている。



 そのうちのひとりが脚本や小説を書いていたドルトン・トランボで、自分の名前で仕事することができなくなった。トランボが自分の名前を取り戻したのはスタンリー・キューブリックが監督、カーク・ダグラスが主役を演じた1960年公開の「スパルタカス」。映画のクレジットにトランボの名前が明記されたのだ。



 しかし、現在のハリウッドは支配層の利益に反する作品を作ることは不可能な状態になっている。表現の自由は失われた。エル・サルバドへアメリカの軍や情報機関が関与している実態を描いた1986年公開の「サルバドル」、ベトナム戦争を描いた86年公開の「プラトーン」、89年公開の「7月4日に生まれて」、93年公開の「天と地」、あるいは87年公開の「ウォール街」や91年公開の「JFK」を監督した​オリバー・ストーン​によると、冷戦が終わってから情況は悪くなり、今では軍を批判したりイラク戦争を取り上げることが困難になっているという。有力メディアと同じように、単なるプロパガンダ機関になったということだ。



 以前にも書いたことだが、「5月の7日間」を映画化するようフランケンハイマーに頼んだのはケネディ大統領である。1962年にホワイトハウス報道官のピエール・サリンジャーを介して依頼したのだが、その大統領は映画が公開される3カ月前にテキサス州ダラスで暗殺された。当時、ダラスの市長はチャールズ・キャベルの弟だ。



 映画の原作が書かれる切っ掛けになる話をしたルメイに対し、ケネディ大統領が暗殺された翌年に日本政府は「勲一等旭日大綬章」を授与している。




宍戸錠の演技のモデルがバート・ランカスターであるのは当人も認めていたようだ。一部では知られた話なのだろうか。



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8時間前

吹替のお仕事も忘れてはならない。TVシリーズ『警部マクロード』のデニス・ウィーヴァーのお声がいちばん有名だが『戦略大作戦』のドナルド・サザーランドもよかった。ご本人も意識していたバート・ランカスターの吹替も何本か担当なさっています(と)


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  • さんがリツイート
    8時間前

    宍戸錠さんは本当に一挙手一投足が絵になるかっこいい映画スターでかつコメディアンだった。映画的教養を言語で「語れる」人でもあった。TVドラマ『クルクルくりん』ではくりんの父親を演じていただいたが、当時はなんだか色々申し訳ない気持ちで観ていた。今となってはありがたいことである(とり)


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まあ、86歳なら大往生というべき年齢だろうが、中年以降に、もう少し活躍の場を与えてほしい、個性のある俳優だった。こういうバイプレイヤーこそ日本映画に厚みを与えていたのである。なお、(これは私の兄が昔言っていたが)彼はおそらく「ヴェラクルス」でのバート・ランカスターの演技を自分の映画的個性の土台にしたと思う。そしてそれは見事に成功している。
ちなみにショーケン(萩原健一)の演技は「灰とダイヤモンド」のチブルスキーの演技を研究して作ったのではないか。あるいはゴダール映画のベルモンドかもしれない。優れた演技者はまったくオリジナルでその演技上の個性を作るというより、自分の演技の「先生」を発掘するのが上手いのだと思う。なお、赤木圭一郎はもちろん、ジェームス・ディーンであるが、その死まで似ていたのは完全な偶然なのか、圭一郎の深層心理に死への願望があったのか、分からない。
沢田研二も演技の上手い人だったが、あの演技に「オリジナル」があったのかどうかは分からない。あまりに自然すぎる演技なのである。まったくカメラや人の目を意識しないで演じられるというところに、元歌手などが演技が上手い理由があるような気がする。舞台俳優などは最初から作り物としての演技だから、身振りも発声なども自然のものではないはずだ。それが昔の俳優の演技の「臭み」だったと思う。



宍戸錠さん、86歳で死去。日活の黄金時代を支えた映画スター


1/21(火) 18:06配信


ハフポスト日本版


日活の黄金時代を支えた映画俳優の宍戸錠(ししど・じょう)さんが、86歳で死去した。NHKニュースなどが報じた。

【宍戸錠さんの画像集】

TBSニュースが関係者の証言として報じたところによると、1月21日に東京・世田谷区の自宅で倒れているのが見つかり、警察官や救急隊が駆けつけたが、現場で死亡が確認されたという。


ほっぺたを美容整形して敵役に転身

宍戸さんは1933年、大阪生まれ。1954年、日大芸術学部演劇科在学中に、日活ニューフェイス第一期生に合格した。

著書を出した新潮社の紹介文によると、1955年に『警察日記』で初出演後、二枚目俳優として売り出していた。しかし、日活映画が石原裕次郎の登場で黄金期を迎えたとき、鳴かず飛ばずの下降線をたどり始める。日本の男優にあって初めて美容整形手術(豊頬手術)を受け、大きくイメージを変えた。

「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」によると、美容整形後は小林旭さんの「渡り鳥」シリーズ、赤木圭一郎さんの「拳銃無頼帖」シリーズなどで敵役として売り出し、「エースのジョー」と呼ばれて人気を集めた。

やがて、「元祖ドッキリカメラ」の司会や「食いしん坊!万歳」などテレビの世界にも進出。スポニチによると、2001年3月に美容整形で入れた頬の隆起を切除する手術を受けて、無事に成功している。


自宅を火事で失ってからは露出が減っていた

2009年のNHK大河ドラマ「天地人」では、主人公・直江兼続の伯父にあたる直江景綱を演じていた。ただ、2013年に東京・世田谷区の自宅が全焼してからは露出が減っていた。


ハフポスト日本版・安藤健二














最近の洋画のタイトルがひどいのは、英語題名をカタカナにするだけのタイトルだけでなく、日本用の日本語タイトルもひどい。「They shall not grow old」が、なぜ「彼らは生きていた」というタイトルになるのか。直訳するなら「彼らは年を取らない」だろうし、彼らの生きた記録を見て現在の我々が彼らの存在をありありと実感する意味の題としてなら「彼らは今も生きている」だろう。「生きていた」では、その実感が無い。少し気取るなら「永遠の兵士たち」でもいい。
なお、なぜ彼らが年を取らないのかというと、その「彼ら」とは記録フィルムの中の兵士たちで、その多くは戦場で、若くして死んだからである。


さんがリツイート

>帝国戦争博物館に保存されていた記録映像を再構築して1本のドキュメンタリー映画として完成。2200時間以上あるモノクロ、無音、経年劣化が激しく不鮮明だった100年前の記録映像にを修復・着色するなどし、BBCが保有していた退役軍人たちのインタビューなどから、音声や効果音も追加した









「天気の子」は見ていないし、最初から見る気もなかったのだが、なぜそういう気持ちだったのかというと、実は「天気の子」というタイトルがすべてである。実に「面白くなさそう」な映画題名だ。
で、下に「細田守へのアンチテーゼ」とあるが、私も含め、多くの映画ファンがこの映画タイトルを初めて聞いた(見た、読んだ)時に思った、あるいは連想したのは細田守だろう、というのが私の推測だ。それも悪い意味での連想だ。「新海誠も、細田守の方向に行ったのではないか」、という疑念を多くの人が抱き、それがあの不入りの最大原因だったと思う。
(注:これは私の勘違いで、かなりヒットしたらしい。いや、私はまったくこの映画の評判をネットで聞かなかったので、不入りだったとばかり思っていた。下にウィキより転載。)

興行成績


日本では、2019年(令和元年)7月19日に全国公開され、7月20日から21日の観客動員数で初登場1位となった。最初の3日間で動員数は115万9020人、興行収入は16億4380万9400円に達し、前作の『君の名は。』対比128.6%を記録した[43]。週末の全国映画動員ランキングで3週連続で1位を獲得した[44]。公開から8月21日までの34日間の興行収入が100億円を突破し、2作連続100億円を突破するのは日本の映画監督では宮崎駿に続く2人目の達成となった[45](通算2作なら本広克行を加えて3人目)。公開から10月1日までの75日間の観客動員数が1000万人を突破した[46]。11月11日までには、累計観客動員数は1042万人を超え、興行収入は139億円を突破し、日本で公開された映画で歴代興収は12位となっ


(以上引用)

つまり、誰も見たくもない、「作者の空想上の家族を映した『ホームビデオ』を映画館で見せられる」という地獄を細田守の最近の映画の観客は味わうわけだが、「天気の子」というタイトルはその地獄を連想させられるのである。
では、なぜ「君の名は。」は大ヒットしたのか。これは単純であり、タイトルからすでに「恋愛要素が確実にある」ことが示されており、しかも「愛する人の名前を、その人を愛した後で知る」という、「すれ違い要素」「メロドラマ要素」が入っていることも題名から分かる。これは、昔の佐田啓二と岸恵子の「君の名は」を知っている人も知らない人も、題名から感じ取れるのだ。
映画館に行ってまで「家族」の話かよ、と多くの人は心の底で思っていると思う。「家族」とは毎日を無事にすごせればそれが最高という存在であり、映画的なドラマ性とは方向が正反対なのだ。たとえそれが「疑似家族」でもそうであり、家族にドラマ性が生まれるのは「悲劇」の場合だけ、と相場が決まっている。そして、普通の人間なら、家族の悲劇は誰も見たくないのである。「万引き家族」のような疑似家族でもそれは同じだ。だから、映画祭で賞を取っても、ヒット作にはならないのである。
だが、恋愛はそれだけでドラマである。特に美男美女の話なら、観客はそのどちらかを自分に置き換えて陶酔できる。悲劇なら悲劇で、「自分は安全な場所にいて」その悲劇のドラマ性に陶酔できるのである。



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町山智浩の映画ムダ話142 新海誠監督『天気の子』(2019年)。モノにあふれたディストピア、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」と拳銃、細田守へのアンチテーゼ。




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