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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
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あまり人の口に上らないのだが、「デルフィニア戦記」は(私は作者の趣味と合わない部分はあるが)再読に耐えるファンタジーノベルの代表作のひとつだと思う。
なお、作者の趣味とは、性的倒錯の部分である。主人公自体が、元は男だったのが異世界(今の世界)に転生して美少女になったという設定だったと記憶しているが、そのために主人公は男との恋愛に抵抗があるし、また女性の気持ちは良くわかる、ということになっている。
そういう意味では、男が好まないタイプのファンタジーと思われるかもしれないが、何しろ描写が上手いので、読んでいて面白い。栗本薫の「グイン・サーガ」に比べても引き締まった内容である。(まあ、長編作品同志とは言っても長さの桁が違うが、「グイン・サーガ」の初期は同じような描写の繰り返しが多く、かなりの読者は最初のあたりで投げ出したのではないか。しかし、中盤からは「創作の神」が乗り移ったかのような凄い作品になっている。)







「デルフィニア戦記」なんか10回近く通し読みし直ししてます。






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「君の膵臓を食べたい」というのは気持ち悪いタイトルだな、と思っているので映画(実写、アニメとも)を見る気はないが、タイトルの意味だけは気になる。調べるとこういう意味のようだ。











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ベストアンサー以外の回答

1〜4件/4件中


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    2017/8/522:24:56



    私も今日映画を観て全く同じ疑問を持ったので、是非回答をお願いしたいです。
    (原作での回答は下の方々の解釈で良いのだと思いますが、映画だけ観た場合の解釈が知りたいんです)

    映画では、爪の垢云々のセリフはなく、「膵臓を食べるとその人の中に魂が宿る」というセリフがあり、つまり死後も相手が自分の心の中で生き続けることができる、というのが(あくまで映画版での)タイトルの意味となっています。
    なのに最後の手紙で、女の子が男の子に向けて言っていたので、???となったんです。途中男の子が女の子に向けてメールで言ったのは納得できるのですが・・。
    自分の死後もあなたの心の中で生き続けたいという意味なら「私の膵臓をあなたに食べて欲しい」となるので。

    よろしくお願いします。

    2017/8/518:09:13



    映画見てないので原作目線で書きます
    お互いがお互いになりたかったと言っていました
    それを桜良の病気になぞらえて君の膵臓を食べたい(君という人間として生きたかった)と表現しているのです

    2人は膵臓を通して繋がりました
    桜良と春樹はお互いが真反対の存在であって、それが故に人生において必要な存在だったんです
    でもそれは、友達としてとか恋人としてという肩書きで表すには安易すぎるし足りないんです
    だから2人にしかわからない形で、自分にとって相手の存在の意味を表したのだと思います




    「君の膵臓を食べたい」という、気持ち悪い題名の小説が実写映画化もアニメ化もされているのだが、何のために膵臓を食べるのだろうか。

    1)食人種が主人公である。
    2)「君」とは豚とか牛とか鳥である。
    3)膵臓を食べると自分の膵臓が強化されると信じている未開人の話である。

    のどれかだろうか。それとも「食べる」とは臓器移植の比喩だろうか。
    まあ、いずれにしても、こういう気持ち悪い題名の作品はまったく観る気も読む気もしない。
    なお、膵臓だからいいものの、「腎臓」だと小便の匂いがひどくて、イギリス人という味覚ゼロ人種しか食べないらしい。







    漫画家北崎拓のブログのかなり昔の記事の一節だが、「不思議の国のアリス」についての「不穏な雰囲気が怖い作品」というのはまさにその通りだと思う。あれは、アリス以外はほとんどキチガイという世界なのであり、キチガイは帽子屋だけではない。そういう世界が不穏で怖いのは当然なのだ。ただし、キチガイというのは非常に論理的なのであり、論理的すぎるからキチガイなのだ。あの世界の登場人物(?)は皆、自分の論理に従って、非常に厳密に行動し発言している。その前提が現実世界とは違うからキチガイじみてくるわけである。


    (以下引用)




    作者自身は『不思議の国のアリス』は昔から不穏な雰囲気が怖くてしかたない物語です。
    あれを「愉快・楽しい」作品のように言われることがあることがよくわからなかったのですが、面白いアリス映画がありまして。

    ヤン・シュヴァンクマイエル監督の映画「アリス」

    子役の少女と人形アニメーションの合成による短編映画で、この人形のウサギがなんというかこの…怖い。
    映像も子供の頃に見た悪夢のようで「これこそが作者の中のアリスのイメージ」という感じです。
    興味のある方はぜひ。

    異世界転生ものというと、主人公がその世界ではチートな能力を持っているというのがデフォルトであるが、実は本当に面白いのは、限られた武器や能力で、様々な工夫をして厳しい世界でサバイバルしていく話だと思う。(前の世界の知識が役に立つ、というのはあってもいいが、それだけで生きられるようなヤワな世界だとつまらない。)

    簡単な例を挙げれば、ロビンソン・クルーソーの面白さである。




    (以下引用)




    さんがリツイート

    異世界に転生しちゃった女の子が、ビクトリノックスの多機能ナイフ一本で必死に生きるラノベは無いんですか?早く書かないとワシが描いちゃうよ





    自然主義の真面目文学が文壇を支配していた時代には、夏目漱石の「坊ちゃん」はライトノベルだったのである。だからこそ、文壇に新風を吹き込んだのだ。ライトノベルこそが、多くの人々の支持を得る。ちなみに、江戸時代のヒロイックファンタジーノベルの代表が「里見八犬伝」。
    「西遊記」「水滸伝」「三国志演義」すべてライトノベルである。だからこそ、永遠の生命を持ち、いまだにその亜流を続々と生産している。RPG的なゲームの骨格もそれ。




    弓月 光 @h_yuzuki 11時間前

    真面目女子かw RT : 猥褻ライトノベルが図書館にか…。そういや私が小学生の時、学級文庫に弓月光の「ボクの初体験」を持ってきた勇者がいて、内容を読んだ女子どもに学級会で猥褻漫画として吊るし上げをくらっていたな。今見るとそうでもないんだが^_^


    「ジョジョの奇妙な冒険」は、題名にある「ジョジョ」という言葉(名前)が一番奇妙だが、内容自体はそれほど奇妙とは思わない。まあ、数話しか見ていないが。自分自身が超能力を持つのではなく、自分のアバター(代理的形象)が超能力を持っていて、そのアバター同士が戦いあう、というのは「遊戯王」と似ている気もする。そういうのを面白いと思う層もかなりな割合で存在するのだろう。まあ、子供が紙相撲を喜ぶのと同じだ。この方式の利点は、アバターが死んでも当人は死なない、ということか。

    以上は単なる前置きで、私が別ブログで山口記者(という名前だったか。安倍友記者だ)のレイプ事件に関して「処女のレイプと非処女のレイプ」という記事を書いた時、「処女とジョジョって似ているなあ」と思って、「ショジョの奇妙な冒険」というおふざけ小説をこのネタで書けるのではないか、と考えたのだが、よく考えると処女が奇妙な冒険をする有名な作品が既にあった。「博士の奇妙な愛情」の脚本家、テリー・サザーンの小説で、映画化もされた「キャンディ」である。この作品はヴォルテールの「カンディード」が下敷き(エロ版的な換骨奪胎)だ、とも言われているが、要するに処女の可愛い娘がセックスに憧れてさまざまな性的冒険をするが、いつも障害が起こってなかなか処女を失わず、最後に失うのだが、何とその相手は……という、おふざけ小説だ。
    考えてみれば、この小説が話題になったころは、アメリカでもまだ処女性というものが一定の価値を持っていたのだなあ、と小説の内容から推定できる。
    ストーリーのためにキャラクターがいる典型が推理小説で、だから私は概して推理小説を好まないし、推理小説が「文学」になりえないのもそのためだと思っている。もちろん、そこを打破しようとしてプロの作家は努力してきたのだが、相変わらずの作品もある。逆に森博嗣(字はこうか?)の作品の中には、キャラ作りは抜群だがストーリーやトリックは無理ゲーというものが多い。密室のための密室、のようなもの。
    一般小説で言うと、上橋菜穂子の「守り人」シリーズなどは、ドラマを成り立たせるためにわざと困難な状況を作っている面が多々あるように見える。人物たちがちゃんと他の人物に「説明」しさえすれば、面倒は何も起こらなかったのではないか、という場面が多いように見えるのである。まあ、漠然とした印象だが。これも「嘘」の一種だと私は思う。ストーリーのためのストーリー、ドラマのためのドラマ。額面以上に評価されすぎの作品だと思う。
    ドラマはもともと作り事ではあるが、「合理性」や「自然さ」が無いと読者に「嘘だ」という印象を与えるのである。作り事だから嘘と感じるわけではないのだ。意図的に困難を作り出し、ではその困難をどう解決するか、という段になってとんでもない「デウス・エクス・マキーナ」が出てきたら、読者は腹を立てるわけである。


    (以下引用)



     羽海野チカは、ニコ・ニコルソン『マンガ道場破り・破』の中で、マンガ家にとって一番大事なことを「嘘をつかないこと」だと書いている。

     ニコ・ニコルソンが描いてきた原稿を直す際に、




    「気の弱いこの子がここでこんなこと言うかなぁ…」


    と疑問を呈する。ニコ・ニコルソンは、「でも話の流れ上、そうしないとバトルにならんので」と羽海野の疑問を退けようとする。羽海野の再反論。




    「私なら… 最初から台詞の応酬を書いていって…


     『この子はこんな選択肢選ばないなぁ』となったら


     話の筋を変えるよ」


     これが羽海野のいう「嘘をつかないこと」、つまり「嘘の感情を描かない」ということであり、別の言い方をすれば、キャラクターをストーリーの従属物にしない、ということでもある。(ただ、ニコ・ニコルソンの『破』を読むと、別の作家は逆にストーリーを大事にしている方法を取っており、それは作家が選ぶ方法の一つに過ぎないのであろうが。)


    私も最近、「異世界ファンタジー」という言葉に疑問を持っており、それは上橋菜穂子の「守り人」シリーズを読んでいて持った不満がきっかけであった。まあ、「守り人」シリーズがなかなかの出来の作品であることは認めるが、私の気に入らないのは、趣味が違うと言えばそれまでの話だが、その「リアリズム」と「ファンタジー性」の混合ぶりなのである。
    それこそが「守り人」シリーズの最大の長所だ、というファンが大半だろうとは思うが、私から見ると、
    「せっかくこれだけリアリティのある描写力と構成力を持っているのに、なぜナユグ世界との往来などというつまらないファンタジー描写ですべてを台無しにするのだろう」
    と思うわけである。
    ナユグ世界の描写をいかに丹念にやろうと、所詮はファンタジーであり、大人の読者が没頭できるようなものではない。私などから見ると、ファンタジーはどうでもいいから、さっさと権力闘争の物語に戻れ、と言いたくなるのだ。特に「天と地の守り人」は、国家間の戦争や策謀の部分が面白いだけに、定期的に挟まれるファンタジー描写にいらいらさせられる。
    同様の異世界ファンタジーの一つ、「デルフィニア戦記」もファンタジー部分はあるが、その割合は非常に小さく、「現実世界(人間世界)」部分の話とのバランスがいい。(ただし、こちらもファンタジー部分は私には非常につまらない。)
    「異世界物」と言えば、田中芳樹の「アルスラーン戦記」や「マヴァール年代記」が代表的だと思うが、後者にはほとんどファンタジー性は無い。地球上のある時代のある場所にあってもおかしくない世界で、地球上の人間と同じ思考や嗜好を持った人々が物語をつむいでいくわけで、こうなると「時代考証の不要な時代劇」というのが実は「異世界物」が書かれる真の理由ではないか、と思う。私も昔そういう小説を書いたし、凡百のライトノベル作家が書く作品の大半が異世界物である理由も、「変に時代考証で突っ込まれることもないし、非日常性の楽しみという小説の最大の効用が得られるから」かと思われる。
    だが、小説世界に読者を没頭させるには細部の「リアリティ」が必要なのであり、ファンタジーノベルは、最初からそういうリアリティが欠如しているために、私のような読者を遠ざけるのである。そういう意味では「十二国記」も私には読むのが苦痛な作品で、冒頭部分だけで投げ出したものである。麒麟が王を選ぶなどという筋を少し聞いただけでも、ああ、これは私には駄目だ、と思って何年も読まなかったが、思い切って読んでもやっぱり駄目だった。それよりは怪獣などが登場して町や村を破壊するほうが私にはリアリティがある。大昔には恐竜がちゃんといたのだから、騎士物語にドラゴンが出ても、何も不思議はないわけだ。幽霊の実在だって信じる人間もいるのだから、少し超自然的な描写があっても問題ではない。だが、人語を話す怪物、となると途端にファンタジーになるのである。
    というわけで、私が「異世界ファンタジー」という言葉に最近違和感を持っているのは、「異世界の中に最初からいる」と「異世界に行く」の問題ではなく、「ファンタジー要素があるから面白い」という多くの人の思い込みとは逆に「ファンタジー要素」が異世界物をつまらなくしているのではないか、という疑問を持っているからだ。


    (以下引用)



    2016-02-01

    『ロードス島戦記』は異世界ファンタジーではない……のかもしれない。



    ライトノベルにおける異世界ファンタジーの代表作といえば水野良『ロードス島戦記』だろう……。

     といったような文章を、僕はこれまでいろんなところで書いた記憶がある。

     なぜ、では僕は「ライトノベルにおけるファンタジーの代表作」でなく「ライトノベルにおける異世界ファンタジーの代表作」と書いてきたか。

    ファンタジーには大きく分けてふたつの系譜があるとされる(このへん、僕も理解が曖昧なところがあるので、識者がこれを読まれていたら補足していただけると嬉しい)。

    ・私たちの住む現代社会を舞台に、そこに隠れて存在する魔法や妖精、不思議や奇跡といったものを描いた、たとえば『モモ』のような児童文学や『崖の上のポニョ』や「魔法少女もの」のアニメといった「エブリデイ・マジック」「ロー・ファンタジー」



    ・現代とは遠く隔たった、全く別の異世界を舞台にした、たとえば『指輪物語』や『ゲド戦記』のような「ハイ・ファンタジー」

    のふたつだ。

    『ロードス島戦記』を「異世界ファンタジー」と呼ぶ時、僕はこの語をほぼ「ハイ・ファンタジー」とイコールの意味で使っていた。
    『ロードス島戦記』は、『メリー・ポピンズ』や『魔女の宅急便』みたいな方の私たちの世界が舞台のファンタジーでなくて、『指輪物語』や『ケド戦記』や『ドラゴンクエスト』みたいな方の異世界が舞台のファンタジーの、ライトノベルにおける代表作です、という意味で。

    しかし。

    『ロードス島戦記』は「異世界ファンタジーではない」と考えている人が少なからずいるらしい、というのを本日、ふとしたことで気付かされることになった。
    詳しくはこちらのtoggetterをご覧頂きたい。

    togetter.com


    そうした方たちの定義によれば、

    ・「主人公が現代(ないしは元いた世界)から別の異世界にいくファンタジー」

    が「異世界ファンタジー」なのであって、『ロードス島戦記』のような、元々異世界で生まれた人たちが生まれた異世界で冒険するファンタジーというのは(パーンやディードリットたちにとってロードス島やフォーセリアは異世界でなく、自分たちの生まれ育った世界なので)、ただの「ファンタジー」ということになるらしい。

    つまり、

    ・「指輪物語」「ゲド戦記」「ロードス島戦記」「ルナル・サーガ」「スレイヤーズ!」は「ファンタジー」。

    ・「ナルニア国物語」「十二国記」「聖戦士ダンバイン」「ゼロの使い魔」、「なろう」の異世界転生・異世界召喚ものは「異世界ファンタジー」。

    という区分だ。

    僕は前述の「ハイ・ファンタジー」「ロー・ファンタジー」の区別に基づいた「異世界ファンタジー」という語の使い方に慣れすぎていたので、最初ウッソーと思った。そんな定義使ってるのごく一部だろう……と。


    が、twitterでアンケートを取ったところ、「ロードス島戦記は主人公が異世界に行かないので異世界ファンタジーではない」と考える人が結構な割合でいると教えられた。二度ビックリ。

    f:id:cherry-3d:20160201004001p:plain

    (twitterのアンケートは現時点では集計中なので画像を。本日零時半前後の時点で、20%が「『ロードス島戦記』は異世界ファンタジーではない」と答えている。)

    私見だが、「異世界ハーレム」や「異世界チート」と言った、主に「なろう」系小説を中心に使われるジャンル名における異世界という語は、そのままの「ファンタジー世界」というより「異世界(にいって)ハーレム(をつくる)」「異世界(にいって)チート(する)」という意味で使われており、そこから前述の(20%のほうの)「異世界ファンタジー」という語の使い方も生まれたのではないかと思う。

    別に僕は、ここでどちらの「異世界ファンタジー」の使い方が正しいかみたいな話をしようというわけではない。(ただ、こう「ファンタジーが異世界なのは当たり前であって、わざわざ異世界とつけるからには現代から異世界への移動があるはず」というような意見については、いやいや異世界じゃないファンタジーあるでしょ! 『魔女の宅急便』とか『R.D.G』とか『Kanon』とか現代が舞台のファンタジー、いっぱいあるでしょ! とちょっとだけ思うけど……)。

    とにかく、僕が10代20代、そして今の今まで自信満々で使っていた「異世界ファンタジー」とは、また異なる定義の「異世界ファンタジー」という言葉が今けっこうな範囲(おそらくは「なろう」ユーザー中心ではないか)で使われているのは事実らしい。それにとにかくビックリして、その驚きを思わず書いてしまったのがこの記事なのである。



    でこれからが本題だが、我々は今後、異世界ファンタジーという語を使うときには、少し注意が必要かと思う。うっかり確認を怠ると、

    編集者様「前島さん、ライトノベルの名作異世界ファンタジー特集やりますんで五本ぐらい選んでレビューしてください!」
    僕「へへえ、全身全霊をかけてレビューして参りました、どうぞお納めください!」
    編集者様「ハァ? 『ロードス』に『スレイヤーズ』に『ルナル』に『オーフェン』に『爆れつ』って、一個も異世界ファンタジー入ってないじゃないですか、勘弁してくださいよ」
    僕「ア、アイエ!?」

    編集者「異世界ファンタジーって言ったら『日帰り』や『MAZE』みたいなヤツです!」

    なんてことにもなりかねないのだ。コワイ!


    『ロードス島戦記』は異世界ファンタジーだと僕は思う。
    けれどもどうやらそれは「それが他人の同意を得られるとは限」らなそうなのだ……。



    36も並べたわりには、似たようなものが多い印象がある。詳しく読んだわけではない。あくまで、印象である。たとえば、笑いの要素が、ここにはゼロではないか。
    もともとフランス人にはユーモア感覚が欠如している、というのが私の説だが、ユーモアをかなり軽視しているのは確かだと思う。
    たとえば、シャルリー・エブドの風刺画の中で、私が面白いとかユーモアがあると思ったものは一枚も無かった。ほとんどが、ムハンマドを下劣に皮肉るだけのものであった。
    フランスの小説などでも、ユーモアはかなり貧弱だ。ラブレーなど、下ネタだけである。概して、セックスネタとスカトロネタしか、フランス人が好む笑いは無い。後は、ブラックジョークくらい。シニカルであることを知的だと考える風土があるような気もする。
    なお、こうした「局面」の順列組み合わせで物語を創作しよう、などという行為は、絶対にいい結果を生まない、と私は考えている。というのは、前に書いたように、物語創造に一番必要なのは、作者自身のオブセッション(強迫観念:四六時中、頭を離れない思考)だ、と私は考えているからだ。


    竹熊健太郎《一直線》@kentaro666 11月23日

    ジョルジュ・ポルティの「物語の36局面」物語の基本構造は36通りのパターンしかないと、フランスのジョルジュ・ポルティが古今のシナリオを分析して発表したもの。シナリオ作家の基本教養とされる。

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