(イラスト=小田嶋 隆)
(イラスト=小田嶋 隆)

 最近「親ガチャ」という言葉を、しきりと目にする。で、「君がガチャを回した結果として親を登場させたわけではなくて、むしろ親がガチャを回して君を出したと思うのだが、オレのガチャ解釈は間違っているのか?」と、ツイッターに書き込んだのだが、どうやら少し違っていた。「親ガチャ」という言葉を使う人たちが、「ガチャ」に込めている意味は「子は親を選ぶことができない」「どんな親の元に生まれてくるのかは運次第だ」という心持ちであるようだ。なんだ。当たり前じゃないか。


 こんな月並みな観察が人々の心をとらえている背景には、たぶん、自己責任万能思想が、この世界のあらゆる場所でハバをきかせている現実がある。個人が何を選び、どこに住んで、どんなものを食べ、いかなる健康状態で暮らしているのかも含めて、すべての結果は自己の責任に帰せられる。政府の施策に苦言を呈する国民に対しては「そんなにこの国がいやならさっさとほかの国に脱出しろよ」という声が四方八方から寄せられることになる。


 してみると、「親は選べない」「子は選べない」という一種の運命主義というのか諦観を含んだ「ガチャ」思想は、責任放棄的な救済をもたらす。「どうなろうがオレの責任じゃねえし」「別にオレの意思で選んだわけじゃないから」という、一種投げやりな態度の向こう側に、はじめてなけなしの自由が顔を出すわけだ。


 ……などと思っていたら、正反対の感慨を抱かせる事件が起きた。その昔「ハンカチ王子」と呼ばれた甲子園のアイドル、斎藤佑樹投手が引退を発表したのだ。なんということだ。高校時代から斎藤佑樹投手のピッチングを見続けてきた者として、ささやかなはなむけの言葉を贈りたい。


 残念なことに、斎藤投手は、プロ入り以来、故障や積年の疲労で、本来のボールを投げることができなかった。しかし、その意想外の棒球で、打者を手玉に取る不可思議な投手だった。


 特に1年目から2年目にかけて、あれほど、甘い球でバッターを打ち取っていた投手を私はほかに知らない。つまり、プロ投手としての斎藤佑樹は、球威やボールの切れや生まれ持った潜在能力とは別のところで、野球をやっていたのである。


 別の言い方をするなら、斎藤投手は、はずれた「ガチャ」から出発して、それでも卓越した投球術と、打者の待ちダマを読む精密な眼力と、意表を突いた緩急の魔術を駆使しつつ、ハーフスピードの直球で空振りを稼ぐ稀有なアスリートだったわけだ。彼は、バッターに打ち気が無いことを喝破すると、ど真ん中のゆるいタマでカウントを取りに行くことを恐れなかった。私は、斎藤投手の投球を見ながら、素質や天性や体力やボールの勢いとは別の次元で繰り広げられている、野球の深淵さに心を打たれたものだった。


 なるほど、人生はガチャだけで決まるものではない。ガチャで得たものをもう一度ひっくり返したガチャガチャの先に運命がある。


 斎藤佑樹氏の今後に期待したい。