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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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「もこっちを見守る会」という、わたモテの海外ファンサイトからの翻訳中心のサイトから転載。
これを見ると、「パンチラ」愛好は日本独特のものらしい。海外のオタクでもべつにパンチラには興味は無さそうだ、というのが面白い。

(以下引用)




Anonymous 01/04/19(Fri)12:05:19 No.18287240
パンツが日本人を魅了してやまない理由はいったいどうしてだ?



Anonymous 01/04/19(Fri)12:06:23 No.182872452
>>182872408
過去にパンツが大好きな変態のキャラがいて漫画のお約束になったとか?



Anonymous 01/04/19(Fri)12:07:02 No.182872471
>>182872408
間接キスみたいな独自の文化じゃないかな



Anonymous 01/04/19(Fri)15:18:45 No.182877663
>>182872408
日本の学校じゃ女子の制服はほとんどスカートだから、風が吹いてる時や階段を登っている時に「パンチラ」を見る機会も多くなる



となれば日本人の多くがパンツに対してフェティシズムを感じるようになっても不思議じゃない





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漫画は本来デフォルメの世界であり、精密で写実的な絵が見たければファインアートの絵を見ればいいだけだ。まあ、絵の世界でも実はデフォルメがあってこそ写真とは違う存在意義がある。
で、漫画を見慣れた人は、漫画のデフォルメ性は熟知しているが、問題はそのデフォルメ(あるいは漫画家の個性的タッチ)に魅力があるか無いかである。
山本貴嗣の絵のタッチには私はまったく魅力を感じないが、創作者としての姿勢や思想には感心することが多いので、彼のツィートはよく見ている。その絵になぜ私が魅力を感じないのか、と言えば、鑑賞者の主観だとしか言えないが、彼の作品が職業漫画家としてあまり多くのファンを持っていないことは、絵(漫画)の魅力というものには主観性だけではなく、何か客観的なものもあるような気がする。
たとえば手塚治虫のシンプルな絵柄の漫画が、なぜあれほど広汎なファンを持ったか、あるいは彼の師匠のはるき悦巳の「じゃりン子チエ」がなぜあれほどの人気を得たのか、というと、或る種の「作家的教養の深さ」があったからではないか、と思う。絵柄の魅力も実は漫画家的教養(つまり、魅力のある絵や漫画を膨大に見てきたこと)から生まれる(あるいは魅力のある絵柄というものの本質を多くの事例から演繹して身に付けた)のではないか、というのが私の仮説である。たとえば、頭身が小さく、形態が丸に近いほど幼児的で可愛くなる、というのは手塚治虫がその著書の中で書いていることで、これは永遠の真理だろう。
はっきり言って、確かなデッサンに基づいた「凄い技術」の漫画より、丸の中に点を二つ、線をひとつ入れただけの絵文字(顔文字)の方が、私には、たとえば山本氏の漫画より、見ていて楽しくなる、つまり絵柄として魅力を感じるのである。
その一方で、きれいきれいで作画していても、たとえば若い男がみんなジャニーズタレントかホストのような顔である最近のアニメの絵柄にはまったく魅力を感じない。そもそも顔の区別がつかない。「ガンダム00」だったと思うが、地上から戦争を無くすために戦争をする何とかビーイングという組織を描いたガンダムアニメも、テーマは面白いが、若者たち(特にガンダムマイスター)の顔がどれも似た顔で、うんざりする。(主要キャラたちの行動の幼児性やヒステリックさもガンダム物の伝統でうんざりするが、それは別の話。)

下のツィートは、「プロの技術の凄さ」を語っていて、「素人はプロに偉そうな批判をするな」という内心が滲み出ているが、素人に伝わらない(魅力を感じさせないような)技術に何の意味があるのだろうか。

  1. 山本貴嗣‏ @atsuji_yamamoto 13時間13時間前
  1. 制度→精度 変換ミスをおわびします
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  1. 無論、あくまで原則論であって、プロよりも目の肥えたアマチュアもいる。
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  1. 続き)今はわかる。プロの目というのはアマチュアとは別のところを見てる。有名だとか世間的にどうとかいうことにはだまされない。だからアマチュアがプロに向かってヘタに「●●先生は」と比較しない方がいい。世間には知られていない触れられたくない弱点を暴くことになるかもしれないから。
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  1. 続き)を見せられて「君もこういう作品を見てデッサンを学ぶといい」とか言われて閉口されたらしい。ある時、有名な劇画家の作品を見て「このコマとこのコマの牛は何か写真資料を見て描いたんやろな。こっちのコマは形になっとらんもんな」と言われた。まだ20才くらいの私にはわからなかった(続く
  2. 1件の返信 65件のリツイート 122 いいね
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  1. 素人のかなりな人が絵のうまさは写実的な絵を描けることだと思ってる(無論そうでない人もいる)。『じゃりン子チエ』のはるき先生はああいうラフな絵柄の方だったけど実はすっごいリアルな絵も描ける方で0.×mm単位の制度の建築模型とかも作れる方だった。持ち込み時代に編集からヘタクソな劇画(続く
  2. 8件の返信 222件のリツイート 463 いいね
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私は紙屋高雪氏の知性を非常に高く評価している人間なので、紙屋氏の下の記事を読んで、いささか安心した。「ワンピース」がつまらない、と第一話の途中で判断し、それ以降まったく読まなかったのは大正解であったようだからだ。人生の貴重な時間を無駄にしないでよかったwww


(以下引用)

2010-06-28 なぜ『ONE PIECE』はつまらないのか?

尾田栄一郎『ONE PIECE』Add Starcoleusikanosukeokatigum4irdetfhkuketudanxyomotarosumida


 『ONE PIECE』は言うまでもなく最も売れているマンガである。まわりに「何のマンガが好き?」と聞いてもたいていのやつは『ONE PIECE』と答える。


 そもそもぼくは『ONE PIECE』と相性がよくない。人気マンガというので数年前に読み始めたのだが、途中で挫折した。はっきり言って全然面白くないからである。「それでもまあ人気マンガだから」と今回再度がんばったのだが、27巻でくじけた。



少年マンガの感性についていけなくなっただけか

ONE PIECE 22 (ジャンプ・コミックス)


 少年マンガだからお前の感性がついてけなくなったのだろう、とお前ら言うつもりだろう。まあ半分くらいはそうなんだろうよ。でもなあ、『NARUTO』や『銀魂』はそれなりに楽しく読めるんだよ。『バクマン。』や『いぬまるだしっ』はかなり愉快に読める。なのに、『ONE PIECE』は……ちっとも面白くならないのである。ぼくにとって。


 「50巻くらいまで読まんと真価はわからんよ」という言い分もあろう。まあそうかもしれん。しかし、50巻まで読まないと真価がわからんってどんな少年マンガだよ。少なくともどんな人気マンガだよ、と思うね。


 さて、その『ONE PIECE』の「面白くなさ」について書きたい。


 とはいえ、それは山ほどある。


 いま強く思っている一点についてだけ書きたい。



「あきらめたらそこで試合終了ですよ…?」というテーゼ

 幼児期から小学生、そうだなあ中学生くらいまで、自分が何かの勝負に敗北に追いこまれそうになるシチュエーションがあって(たいていはスポーツ)、そのとき、ぼくを長く支配したのは「その状況を脱するには(勝つ、もしくは逆境を跳ね返すという)強い信念を抱き続ける」ということだった。


 これは『スラムダンク』の安西先生の有名な言葉「あきらめたらそこで試合終了ですよ…?」に通ずるテーゼでもある。


 しかし、この命題が成立するためには、実はいくつもの前提や条件が必要なはずであった。あたり前の話だが、スポーツにおいては一定の技量がどうしても前提になる。そういう技量をつね日ごろ持っていたものだけが「あきらめたらそこで試合終了」かどうかという選択肢を持つことができるのである。


 いまは選挙の時期だからw、選挙の例でいうと、「議席を獲得できる票を得られるかどうか」は選挙に動員できる資源を何らかの形で持っている陣営にのみ問われることだ。動員できるカネもヒトもないような陣営には初めから「あきらめたらそこで選挙終了ですよ」という問いは存在しない。


 試合や選挙が始まる前、もっと長いスパンをとって、実力を養い、経験を蓄えていくということをやったらどうか。もちろん、それならアリだ。だが、その努力がある種の科学性に裏づけられていなければ、努力の大半はムダになる。たしかに「あきらめずに」意思が持続する者は、膨大な試行錯誤の中からついに実力を高める方策を選びとることができるかもしれない。


 しかし、では、そのような意思の持続が一体何によってもたらされるのか、少なくとも小さい子どもにはまったくわからない。あきらめない気持ち、強い信念などというものはどんなふうに獲得できるというのだろうか。偶然しかないではないか。



「強い信念」は「叫び」という表現を求める

 「強い信念」ということを、足りなかった小さな頃のアタマでぼくは考えてみた(もちろん今でも足りないというツッコミは甘受しよう)。


 強く念じるとは、フンと腹に力をいれて念じることであった。


 歯を食いしばる、ということであった。


 あきらめない、とは体のどこかの筋肉をこわばらせて、力をこめることであった。ソフトボールだのサッカーだのをしていたぼくにとって、試合に負けそうになる、逆境に立たされたときに「あきらめずに、ふんばり、強い信念をもって反転攻勢に出る」ということは畢竟そのようなことであった。


 もちろんそれはスポーツにおいて、不必要な体の硬直をもたらし、客観的には試合に逆効果をもたらすはずのものであったのだろうが。


 体の硬直だけでは足りない。


 揺るがぬ意思、強固な信念は、わかりやすい外形を欲する。


 それには大声を出すのが一番だ。


 「ファイトー!」などと言ってみる。部活動で応援してくれる仲間たちも一様にそのように大声を出してくれたから、それが「あきらめない、強い気持ち」を保つ上で巷間でよく用いられてきた方法には違いなかったのだろう。


 だけど、ダメなものはだめだ。


 中学で軟式庭球をしていたぼくは、中学最後の試合、1回戦でテもなく捻られた。前衛であるぼくが「穴」であることを見透かされて集中的に抜かれて、実にあっさり終わった。何のプレイもさせてもらえなかった味方の後衛が哀れ極まった。


 そんなとき、どんなに「強い信念」をもとうが、いわんや「大声」を出そうが勝てなかった。


 そしていま、『ONE PIECE』である。



ルフィにおける「信念」と「叫び」

 『ONE PIECE』は「ワンピース」というひとつながりになった伝説の巨大な財宝を求める海賊の物語であるが、主人公たちの海賊グループはまったく本物の海賊らしくはなく、略奪行為はほとんど行なわない。


 訪れる島々でより強く、凶悪な海賊や「敵」と武闘をおこなうのである。


 主人公のルフィは、しばしば強大な敵に出会い、苦境に陥る。いつも死の渕寸前まで追いやられるのであるが、そのときルフィはしぶとい。目を見開いて決してあきらめようとしない。そして、必ず大声を出す。


 ルフィの(というか作者尾田栄一郎の)グラフィックに特徴的なのは、見開かれた目と食いしばるための大きな口、そして踏ん張るための安定した足(foot)である。


 それはまさに、幼少期から中学時代まで、ぼくが考えていたような「強い信念」を維持し、「大声をあげて踏ん張る」ために格好の備えを持っているかのように思える。


 今手元に『ONE PIECE』22巻がある。


 最も強い7人の海賊「七武海」の一人、クロコダイルにのされてしまったルフィはそれでも再起し、クロコダイルに戦いを挑む。


「お前が…? おれに勝つ気なのか…!!?」


「ああ」


「確かによく見抜いたもんだ 死に際のあの状況でな…」


「……」


「……だがそんな事じゃあ埋め尽くせねェ格の差がおれとお前にはある!!


 それが“七武海”のレベルだ…!!!」


「……お前が七武海だから何だ…!! だったらおれは


 “八武海”だ!!!」


20100628182052


 「“八武海”だ!!!」と叫ぶルフィのグラフィックを見てほしい(右図。尾田栄一郎ONE PIECE』22、集英社、p.93)。まさに目を見開き、口を大きく開け、自らの恃むところを強く叫んでいる。


 「“八武海”だ!!!」という叫び、そして、クロコダイルに再び敗れる201話までの間にルフィがそう叫ぶ根拠らしいものはあまりない。目の前の敵に決して負けない、という決意だけがそこにある。そしてその決意は「“八武海”だ!!!」という大声によって形にされているだけだ。


 ここにあるものは、まさにぼくが幼少期から中学まで苦しめられてきた空虚精神論。それしかない。勝負において、これほど無内容なものがあるだろうか。いや何の役にも立たぬばかりか、それを信じることによって現実に裏切られるという有害な形を果たす、「信念」と「叫び」、あるいは「あきらめない気持ち」を少年たちに吹聴する危険な思想がここにあるではないか。



「叫び」の必然を描く──河合克敏モンキーターン

モンキーターン 12 (少年サンデーコミックススペシャル)


 突如、ぼくは河合克敏モンキーターン』を引き合いに出す。


 波多野憲二という競艇選手が選手として生まれ、ライバルたちに勝ち上がっていくまでを描く河合の代表作の一つだが、主人公の波多野が福岡競艇で転覆し、左手を切断寸前までの大けがを負い、再起不能かと思われるエピソードがある。


 しかし、波多野は懸命のリハビリによって奇跡的、いやある意味で科学的に手の動きを回復させ、再び福岡競艇でリベンジに挑む。波多野はスタートしながら心中で自分に言い聞かせる。


舟券を買ってるお客さんには悪いが…


今回のこのレースだけは、オレは着順を取ることが目的じゃない!


オレの敵は他の艇じゃない!


福岡競艇場1マーク!


今はコイツがオレの敵なんだっ!


20100628182013


 1マークは、波多野が事故に遭ったポイントである。


 リハビリを重ねる努力もしてきた。復調のために様々な準備も整えてきた。技量的には万を持しての再出発であるが、波多野は強い緊張をもってこのレースに臨んでいるのだ。自分の選手生命を断つ寸前のところまで追いやり、恐怖と絶望のどん底に陥れた同じシチュエーションにまさに波多野は挑もうする。


 すべてを万全に準備したはずなのに、波多野の脳裏には、事故のときざっくりと開いてしまった左手の無惨な映像がよみがえり、一瞬波多野は恐怖に縮み上がる。歯が鳴る。そしてすぐ次の瞬間、波多野はその恐怖を押さえ込み、それと戦うために雄叫びをあげるのだ(右図、河合『モンキーターン』、小学館、2008年版、12巻、p.32)。


ちくしょおおおっ!


こわくねえぞっ!


おまえなんかっ!


 ここには、すべての人事を尽くした後になおもわき上がってくる恐怖が、実に的確に描かれている。そして、それに一瞬すべてをからめとられ、心を折りそうになる波多野が短いコマの中にはっきりととらえられている。


 その恐怖と格闘し、圧伏させんとする波多野において、「叫び」は絶対的に必要なものだ。強い意思を持ち、おらぶことがこれほど必然のなかで描かれたものはなかなかあるまい。


 ルフィが叫ぶ、その空虚さは、この波多野の叫びと比べてみるとあまりに鮮明だ。


 わかっている。


 ぼくはとってもいま野暮なことを書いていると。


 「人間はウルトラマンのように変身できないのに、突然力を得られるような幻想をあおりたててきたのが『ウルトラマン』シリーズだ」という批判がどれほどみっともないことかは重々承知だ。


 だけど、このルフィ的な信念と叫びに「騙された」少年時代を送ってきたぼくは、どうしてもこのルフィの勝負に臨む態度の「つまらなさ」「有害さ」に一言言っておきたいのである。


 一体みんなは、このマンガのどこを面白いと思っているのか。逆にそれを聞いてみたい。


死ぬほどどうでもいい話なんだが、今時、「バレエ仲間がライバルに意地悪する」という漫画が存在するのだろうか。そもそもバレエ漫画そのものが死滅状態で、山岸凉子の「テレプシコーラ」あたりが最後なのではないか。山岸作品でも「仲間による意地悪」というのはデビュー直後の「アラベスク」に少しあったか無かったか、くらいで、あったとしても、それも主要なエピソードではないと思う。それ以前になると、それこそ終戦後しばらくしてから出た少女漫画の一部にあったくらいだと思う。ところが、なぜか、「トゥシューズに押しピンを入れる」だけが独り歩きして、「バレエ=いじめ」のイメージが出来上がったのだろう。
まあ、ツィートをした人の言う「あるバレエダンサー」が実在しているかどうかも怪しいが、いたとして、その人が「バレエ漫画=いじめ」という既成のイメージで語っているのなら、おそらく60歳以上、いや、70歳以上の女性か、バレエ漫画のパロディを読んだことがあるだけだと思う。



さんがリツイート

あるバレエダンサーが以前「漫画のように意地悪したりされたりなんてことはない。そんな時間があったらみんな自分の練習をします。誰かを落としても自分が上がるだけの実力がなければ何にもならないから」と言っていたの思い出すな。




私は、連載当時は、手塚作品にしてはちょっとなー、という感じだった。と言うのは、腕が義手(しかも刃を内蔵)なのに、それで何かをつかんだりできる、という設定(だったと思う)があまりにナンセンスで、つまり、今で言えば「名探偵コナン」の、コナンが麻酔銃で毛利小五郎を眠らせる度に小五郎が都合よく椅子に腰かけるように気絶するアホらしさに近いものを感じたわけだ。まあ、変に合理性を重視する嫌な子供だったのだろう。
だが、手が刃になる、というのはネットフリックスアニメの「B the bigining」でも使われていたし、案外、大きな影響を与えた設定かもしれない。フィクションというのは奔放であっていいし、なまじ理屈っぽくする必要はない、ということだろう。
ちなみに、前にも書いたかもしれないが、実写版「どろろ」も案外よくできた映画で、妻夫木聡というのは、手塚絵にぴったりの顔だなあ、と思わせる。まあ、どろろ役を子供ではなく若い娘という設定にしたのはどうかなあ、と思うが、「どろろ」を下敷きにした翻案と見ればいいだけである。SFXも、だいたい良かったし、漫画の実写化、しかもファンタジーの実写化としては成功例の中に入ると思う。



さんがリツイート

『どろろ』は 数ある手塚作品の中でも「発表時の評価がひどかった」と 御本人が述懐されているのだが 当時からそれなりの人気はあったし 何よりアニメ化もされている 何度も映像化され トリビュート作品も多く 歿後三十年に制作されたアニメも高評価 むしろ 最高傑作に近い部類では?




浅利よしとおというのは、根っからのロリコンだなあ、と分かるイラストである。まあ、犯罪者的なロリコンではないが、可愛さというものとエロティシズムが不可分である嗜好の持ち主だということだ。アトムの絵を描いてこれほどエロっぽいのは稀だろう。ウランは言うまでもない。お茶の水博士がやっていることが、何やら怪しげな行為に見える。



  1. 浅利与一義遠‏ @hologon15 2月9日
  1. 鉄腕アトムと言えば、これ。  アトムの、これを推せないリメイクや二次創作は、いかんのである。
  2. 5件の返信 69件のリツイート 227 いいね
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  1. 以前も書いたけど、手塚治虫の模写って、ガキの頃は一切やった事無くて、描くようになったのは、ここ20年くらい。  ガキからすると、線が多かったり、少ないキャラは似ないとかで、苦手だったからかな。(大体、オバQとか描いてた)
  2. 2件の返信 117件のリツイート 385 いいね
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超常現象の謎を主人公のコンビが解決する、というのは米テレビドラマの「スーパーナチュラル」と同じだから、手塚プロは、パクられた、と裁判に訴えてもいいのではないかwww
まあ、「スーパーナチュラル」はほとんど見ていないので、想像しただけだが。
で、主人公が「写楽呆介」(字は不確か)と「和登さん」で、言うまでもなく「シャーロック・ホームズ」と「ワトソン」だ。ワトソンを可愛いボーイッシュな女の子にして「和登さん」というのは、キャラ作りとしてまさに神技だ。なお、呆介は、額の三つ目の目に絆創膏を貼ると知恵遅れの子供になる。そこが和登さんの母性愛をくすぐり、また額の目が現れると悪魔的に頭のいい「怪物」になる、というのがまたいい。きっとこちらは「力のある存在に弱い」という、女性の通有性を刺激するだろう。つまり、和登さんはメロメロ。今の時代のほうがウケる漫画かもしれない。「どろろ」が人気のようだし、今度は「三つ目が通る」のアニメ化希望。





命日だからじゃなく、偶然今日押し入れ整理中に謎の段ボール箱を掘り当てて、開けて見たら『三つ目がとおる』の切り抜きがごっそり。当時すでに連載と単行本でストーリーが全然違うのはファンの常識になってたので全て切り抜いていたんだね。完全版が出たからもう不要、とは言え処分はできないなー。





わたモテは更新されているているのだが、ひとつ前の回のハイライト。
やはり、美少女のこういう姿を見て男たるもの平静ではいられるはずがないだろう。私が高校生なら、その夜のオカズはこれになるwww



f:id:ciel_machine:20190130234249p:plain
こういうことを言い出したら、それこそ手塚治虫、いや、それ以前の漫画に既に「萌え」を感じさせるキャラは常に存在したのである。もっとも、「萌え」とは何か、私は定義を知らないが、たとえば、子供の頃の私は馬場のぼるの絵に不思議な魅力を感じていた。童心というのを漫画の絵柄そのものにしたという感じの絵だ。あれが私にとっての「萌え」の最初かもしれない。
女性キャラなら、関谷ひさしの「ストップ”! 兄ちゃん」のサブキャラで、新聞部の女の子が大好きだったのだが、あれは萌えなのかどうか、よく分からない。
もちろん、手塚治虫の絵も素晴らしい魅力に満ちていたが、手塚の場合は絵よりも物語のパワーと鋭さが凄かった。まさに「センス・オブ・ワンダー」を私は手塚治虫作品で知ったのである。逆に、絵は手塚のアシスタントから漫画家になった小沢さとるとか色々、「手塚のパチモン」がたくさん出てきたのでむしろ手塚絵は早い時期から一般人の目には通俗化してしまい、その後の長期間の人気低下につながったのだと思う。
「亜流が出てくると本家が衰退する」と言われているのは、多くの人が「見飽きる」からである。
あずまきよひこは賢いから、「あずまんが大王」のパチモンが市場に出始めると、「女子学生日常漫画」をすっぱりやめ、絵柄も大きく変えて「よつばと!」という新しいジャンル(日常漫画ではあるが、むしろ「『日常の非日常性』発見漫画」と言うべきだろう。)を開拓したのである。それで「ダンボー」という金脈にぶつかって漫画創作意欲が衰えたらしいのはアクシデント的な出来事と言うべきだろう。




さんがリツイート

よく漫画史で「萌え」を吾妻ひでおを起点に語ることがあるけど、僕はつげ義春を起点にしても良いと思うんだよねえ。おかっぱ少女に定評があるつげ義春だけど、ボーイッシュな美少女キャラも描くんだね。

不思議なことに日本の萌えの歴史的文脈においては、つげ義春は無視され続けている。




今時の人は知らないかもしれないが、これは黒澤明の「天国と地獄」が公開された時、問題となった部分である。と言うより、一部のアンチ黒澤の批評家が批判した部分と言うべきだろうか。下の漫画を描いたちょぼらうにょぽみ自身はそういう出来事があったとも知らないと思う。







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