忍者ブログ
ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1
6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
フリーエリア
最新CM
最新TB
プロフィール
HN:
o-zone
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
P R
カウンター
[10]  [11]  [12]  [13]  [14]  [15]  [16]  [17]  [18]  [19]  [20
GQ所載の山上たつひこの自伝的エッセイの一部であるが、残念ながら、下の文章の中で問題とされている漫画のカットがコピーできなかった。元記事にあるそのカットを見れば、山上の指摘がよく理解できる。

ところが、私はたぶんこの漫画を読んでおり、このカットそのものの記憶もあるのだが、山上が指摘するような不備や未熟さはまったく意識しなかったのである。つまり、漫画作家が思うほど漫画読者は「絵」としての漫画の完成度や逆に不自然さを意識していないのではないか、ということだ。それは、漫画というものが常に「誇張」や「簡略化」を伴う宿命にあると読者はよく分かっているからだ。それはリアルな絵を描く漫画家でも同じだろう。
ましてギャグ漫画においては不自然さや誇張はそれこそギャグとさえ捉えられるはずである。田村信とかゆでたまごの漫画が読者からは好評を博していたのは、その絵の下手さも愛嬌であり魅力だと思う層が大きく存在したためだろうと思う。
山上たつひこの不幸は、「美が理解できる」というところにあったのではないか。あるいは、心が繊細すぎたということだろう。

A・ランボー「心が繊細なばっかりに、俺はすべてをふいにした」



(以下引用)後半略


第11回 《ゼンマイ仕掛けのまくわうり》(1)
70年安保が終わり、浅間山荘の壁に大穴が開き、奥村チヨが「終着駅」を歌った頃、ぼくの遅れてきた青春が始まった──山上たつひこによる自伝的ストーリー。
文・山上たつひこ

山上たつひこ「ゼンマイ仕掛けのまくわうり」(「マンガストーリー」1972年7月22日号、双葉社)より
零細企業の社員が退職を申し出る。
そのとき経営者の心境はいかに? たとえば、その社員が創業当時から苦楽を共にしてきた人物であったりした場合──、経営者は新しい社員を雇用することよりも別の心情にとらわれて気持ちが沈むのではないだろうか。
(自分には人を惹きつけておくだけの人間としての器量がないのか)
経営者は自信が揺らぐのである。金城広道と片岡徹治が去っていったときのぼくがそうだった。
(このアシスタント達はおれの漫画家としての力量を見切ったのだろうか)
当時のぼくはアシスタントとの関係を割り切って考えることができなかった。
アシスタントが辞める理由は、仕事が過酷であるか、給料に不満があるか、そのいずれかであり、漫画家の作家的レベルやその人間性とはあまり関係がない。憧れていた漫画家が実際は人格低劣でそばにいることが耐えがたかったという例もあるのだろうけれど、大抵は単純な理由で彼等は去っていく。
金城広道の場合は「辞めます」という言葉はなかったように思う。なんとなくぼくの仕事場から遠ざかるようになり、自然消滅のような形で彼とぼくの縁は切れた。
双葉社の「マンガストーリー」編集部から読み切りの依頼があったのは五月の半ばであったか。イスラエル・テルアビブのロッド空港で岡本公三が自動小銃を乱射する少し前だったと記憶する。
ロッド空港の惨状や、ブルドーザーにまたがり日本列島を蹂躙(じゅうりん)する田中角栄の濁声(だみごえ)のせいでもあるまいが、原稿を依頼してきた編集者の顔も名前も憶えていない。組合の闘士の小尾氏やその後長いつきあいになる秋山敏道とはまだ出会っていない。あの最初の編集者は誰だったのか。
作家が原稿を依頼されるのはうれしいことに違いないが、その歓喜は電話を受けた一瞬だけであとは「逃げ場のない時間がまた続く」憂鬱のほうが大きい。他の漫画家のことは知らない。ぼくはそうだった。天性の怠け者の資質がその心理を呼ぶのか、描線に過剰に負荷をかける自意識がパニックを起こしているのかわからないが、原稿依頼を受けた直後のぼくは肉体こそ静止しているものの心の中は右往左往しているのが常であった。
このときだけは違った。編集部からの電話を受けたときもうれしかったし、その後もずっとうれしかった。
画稿制作の導入部から完成に至るまで上機嫌が続く作品というのはあまりない。
「ゼンマイ仕掛けのまくわうり」(一九七二年 マンガストーリー 七月二十二日号 双葉社)は幸せな漫画だった。
物語の冒頭、着物の前をまくった主人公がカメラに向かって突進して来る。彼は二階の窓に張り出した手すりに乗って放尿を始める。
今もはっきり憶えているけれど、小便の線をぼくは雲形定規を使って描いた。執筆のスタート時点では体力に余裕があるのでこういう馬鹿丁寧なことをしてしまうのだ。線が硬くなって液体のはずの小便が液体に見えない。人物の股間からビニールパイプでも伸びているように見える。ここはフリーハンドで小水を描くべきだった。ペニスに添えた手も不自然である。これは刀の柄(つか)を握る手の形だ。
そして肝心のペニスが見えない。この描写なら亀頭が露出していなければならないのに何もない。生殖器を描くことを憚(はばか)ったのではなく、描きようがなかったのである。体と手の部分を先に完成させたため亀頭を配置する場所がなくなってしまったのだ。無理にペニスの先端を加えれば右手と融合しない。ぼくは描き直すことを面倒臭がって曖昧な絵のままに放置したのである。絵師としてこんな恥ずかしいことはない。こういう場合は、まず体を描き、ペニスの位置を決め、それに合わせて手のデッサンを入れる、そうすればバランスのいい絵になる。
PR
バックスバニーがいつも人参を食っているのは知られているが、下の絵(「ロジャーラビット」という映画の1シーンらしい)では、その人参が葉巻に見立てられ、しかも葉が煙のように上に立ち上っているのが素晴らしい。このバックスバニーは政財界の大物か何かだろうが、顔のしわと目つきで、老けて見える。少し意地悪い感じなのはいつもどおりだが、なぜ意地悪い顔に見えるのか、誰かに分析してほしいものだ。









内田美奈子は、山本貴嗣のツィッターによく転載されるので絵柄(絵の個性)は知っているが、漫画家として40年以上のキャリアの持ち主である、つまり、かなり老齢(50代後半だろう)の漫画家であるのは意外だった。
絵の傾向は、私の好みではないが、非常にお洒落で若々しいセンスがあると思う。イラスト的な絵である。色使いと線の質に個性があり、一目見て、内田美奈子の絵だな、と分かる。しかし、漫画家としての名前を私が知らないのは、やはり話作りの能力は絵を描く能力よりかなり低かったのだろうと推定できる。それでいて画業を続けてきたのは、絵を描くのが大好きだったということだろう。それで一生を貫ければ、それはそれで「成功した人生」「望ましい人生」だと思う。



山本貴嗣さんがリツイート

内田美奈子@コミケ8/11日曜-西O-22b



@zerra01
8時間
8時間前


その他
40数年前、ストーリーの欠点=わかりにくいどころか『わからない』と強調されてしまった若き日の私の投稿作の評価をご覧ください。花とゆめの批評用紙はこういうのでした。ああ、少女漫画家さんのアシに行くと「あんたモブ描いてろ」と複数言われたことがあるのでキャラは割とよかったのかもしれず。


3件の返信
140件のリツイート
273 いいね

返信
3
リツイート
140

いいね
273
このスレッドを表示
「場末の。」が珍しく短期間で更新されていた(それでも最新回まで至っていない。)が、その中のこの言葉は勘違いがあるような気がする。まあ、ここに書いても仕方が無い話だが、「もの言はざるは腹ふくるるがごとし」なので書く。
学校の図書館に漫画、それもどちらかと言えばレディースコミックに近い少女漫画は置かないだろう。この「矢沢」は「矢沢あい」ではなく、「矢沢永吉」だとしか私は思わなかったが、(ヤンキー=矢沢永吉)という等式は今時の人間の視野にはもはや入っていないのだろうか。なお、谷川ニコの原作担当は男であり、「NANA」という作品(私は最初の2頁しか読んでいない)を好むタイプとは思えない。

(以下引用)

面白い話をしろと言われて猟奇事件の話をするもこっち。
「吉田さん 普段イキってるぶんそのギャップで怖い系苦手かと思ったけどそんなことないね」という台詞から、実際には怖がる吉田さんを見たかっただけだと推測できますが…相変わらずヤンキーへの偏見で満ち溢れています。
そういえば、喪109(「モテないし雪の日の学校」)で吉田さんからお勧めの本を聞かれたとき、著者の「矢沢」から探していたもこっちですが、あの時は恐らく「NANA」を勧めようとしていたんじゃないかと思うんですよね。
顔以外はほとんど白土三平タッチであるのが面白い。特に後ろ手のポーズや腕の造形。なぜか背後に舞う草や木の葉も。
なお、「カスミ伝」という漫画は、パンチラが大きなテーマでもあり、パンチラ研究者は必読の漫画であるwww





全身編集者、白取千夏雄さんの描いたくのいちカスミ。「編集者100人勝負」より。たいてい照れ臭そうに描く編集者さまが多い中、ノリノリでインクとペンを持参してくれて(時々昔のガロ参考にしながら)悠々描き切っていただきました。ありがとうございました。





アニメそのものはまったく見たことが無いのだが、これは多分知っている。『不思議なメルモ』だろう。手塚作品には珍しいパンチラシーンだが、この漫画(およびアニメ)は子供の性教育教材的な意図もあったという。メルモは小さな女の子が大人の体になったりする(だから、名前も「メタモルフォーゼ」から「メルモ」となったのだろう。素晴らしいネーミングである。)ので、服のサイズが合わなくなるわけだ。昔のロリコンはさぞ喜んだだろうが、当時はそういう性癖は死ぬまで隠したから、『不思議なメルモ』はさほどヒット作にはならなかったようだ。




さんがリツイート


手塚先生のそこそこ有名なアニメの
そこそこ有名なシーンのセル画(背景付き)





わたモテが更新されていて、まあ、それは毎度のように面白いのだが、同時に更新された「場末の。」の中の、このコマ(前回のもの)に感心したので転載しておく。元スレ(というのか、ホームページと言うのか)では分からない微妙な書きこみが、拡大転載されることで分かる。谷川ニコの作画担当の超絶的な画力が、このコマからも読み取れる。本当に、表情を描くことでは、歴史的な大漫画家以上のものがあると思う。(通常のコマと比べて、ちん子ちゃんの目の描き込みが違う。)


f:id:ciel_machine:20190606100256p:plain
柳沢きみおがネトウヨ化していて炎上しているが、政治姿勢はともかく、ここで(下の漫画で)言われていることはひとつも間違っていないのではないか。まあ、年を取ると新しいものを嫌悪しがちになるのは当然で、昔の良い物を知っている世代には現代の日本の文化がクズに思えるわけである。
下の漫画も、絵で語ることを放棄した「頭を使っていない」作品であるというブーメラン性はあるが、挿絵入りエッセイとして読めば、興味深い内容である。
なお、私はヒップホップ以降の音楽は騒音にしか聞こえないので、Jポップはほとんど聞いたこともない。メロディの無い音楽は音楽ではない。韻を踏むだけの目的で無意味な言葉を並べた歌詞も詩ではない。

なお、漫画家としての柳沢きみおは創造性が枯渇していて、画力もかなり劣化しており、「大市民」以外の漫画のほうが、内容は下らないと思う。もともとそれほど優れた漫画家ではないが、若いころの作品には絵柄の個性もあり、「青春の不安感」が醸し出す情感もあった。


さんがリツイート
返信先: さん

これをビールのみながら言ってるのがもう、なんともいえない感があって・・・
大市民シリーズは後期になると字だけになってもはや漫画であることすら放棄してしまうのだった



この、岡田伊藤と一緒にいるのが岡さんだというのは、わたモテスレで指摘されて初めて知った。よく見ると可愛い。まあ、わたモテの女の子はみな可愛いが。黒木を探していたうっちーが黒木のことを尋ねた相手も岡さんらしい。そのうち、島、松田も出てくるのだろうか。三家は「メシマズ」の名前だっただろうか。
顔を描いた人物は基本的にモブにしない、というニコの優しさが、実にいい。実際、それぞれの人生では誰もが主人公なのだから、モブは存在しないのである。
風夏(字はこんなだったか)の相棒の陽キャラ少女も、そのうち何かの役割で出てきそうである。



no title

絵柄としてはそれほど、だが、キャラによく合っている、ということで、今回の一コマは、この「歴史改造コマ」であるwww
ふうかちゃんは、まさに姫騎士的な造形だ。男役が似合う点では吉田さんと双璧か。
なお、「くっ……殺せ」の後は、エロシーンというのがお約束であるのは常識。ウィキペディアによるとFFTのアグリアスが女騎士の先駆けらしいが、あのゲームではべつにエロシーンは無い。まあ、アグリアスに惚れたファンがエロ小説を二次創作したのが「くっ……殺せ」だろう。




no title


忍者ブログ [PR]