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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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GQ所載の山上たつひこの自伝的エッセイの一部であるが、残念ながら、下の文章の中で問題とされている漫画のカットがコピーできなかった。元記事にあるそのカットを見れば、山上の指摘がよく理解できる。

ところが、私はたぶんこの漫画を読んでおり、このカットそのものの記憶もあるのだが、山上が指摘するような不備や未熟さはまったく意識しなかったのである。つまり、漫画作家が思うほど漫画読者は「絵」としての漫画の完成度や逆に不自然さを意識していないのではないか、ということだ。それは、漫画というものが常に「誇張」や「簡略化」を伴う宿命にあると読者はよく分かっているからだ。それはリアルな絵を描く漫画家でも同じだろう。
ましてギャグ漫画においては不自然さや誇張はそれこそギャグとさえ捉えられるはずである。田村信とかゆでたまごの漫画が読者からは好評を博していたのは、その絵の下手さも愛嬌であり魅力だと思う層が大きく存在したためだろうと思う。
山上たつひこの不幸は、「美が理解できる」というところにあったのではないか。あるいは、心が繊細すぎたということだろう。

A・ランボー「心が繊細なばっかりに、俺はすべてをふいにした」



(以下引用)後半略


第11回 《ゼンマイ仕掛けのまくわうり》(1)
70年安保が終わり、浅間山荘の壁に大穴が開き、奥村チヨが「終着駅」を歌った頃、ぼくの遅れてきた青春が始まった──山上たつひこによる自伝的ストーリー。
文・山上たつひこ

山上たつひこ「ゼンマイ仕掛けのまくわうり」(「マンガストーリー」1972年7月22日号、双葉社)より
零細企業の社員が退職を申し出る。
そのとき経営者の心境はいかに? たとえば、その社員が創業当時から苦楽を共にしてきた人物であったりした場合──、経営者は新しい社員を雇用することよりも別の心情にとらわれて気持ちが沈むのではないだろうか。
(自分には人を惹きつけておくだけの人間としての器量がないのか)
経営者は自信が揺らぐのである。金城広道と片岡徹治が去っていったときのぼくがそうだった。
(このアシスタント達はおれの漫画家としての力量を見切ったのだろうか)
当時のぼくはアシスタントとの関係を割り切って考えることができなかった。
アシスタントが辞める理由は、仕事が過酷であるか、給料に不満があるか、そのいずれかであり、漫画家の作家的レベルやその人間性とはあまり関係がない。憧れていた漫画家が実際は人格低劣でそばにいることが耐えがたかったという例もあるのだろうけれど、大抵は単純な理由で彼等は去っていく。
金城広道の場合は「辞めます」という言葉はなかったように思う。なんとなくぼくの仕事場から遠ざかるようになり、自然消滅のような形で彼とぼくの縁は切れた。
双葉社の「マンガストーリー」編集部から読み切りの依頼があったのは五月の半ばであったか。イスラエル・テルアビブのロッド空港で岡本公三が自動小銃を乱射する少し前だったと記憶する。
ロッド空港の惨状や、ブルドーザーにまたがり日本列島を蹂躙(じゅうりん)する田中角栄の濁声(だみごえ)のせいでもあるまいが、原稿を依頼してきた編集者の顔も名前も憶えていない。組合の闘士の小尾氏やその後長いつきあいになる秋山敏道とはまだ出会っていない。あの最初の編集者は誰だったのか。
作家が原稿を依頼されるのはうれしいことに違いないが、その歓喜は電話を受けた一瞬だけであとは「逃げ場のない時間がまた続く」憂鬱のほうが大きい。他の漫画家のことは知らない。ぼくはそうだった。天性の怠け者の資質がその心理を呼ぶのか、描線に過剰に負荷をかける自意識がパニックを起こしているのかわからないが、原稿依頼を受けた直後のぼくは肉体こそ静止しているものの心の中は右往左往しているのが常であった。
このときだけは違った。編集部からの電話を受けたときもうれしかったし、その後もずっとうれしかった。
画稿制作の導入部から完成に至るまで上機嫌が続く作品というのはあまりない。
「ゼンマイ仕掛けのまくわうり」(一九七二年 マンガストーリー 七月二十二日号 双葉社)は幸せな漫画だった。
物語の冒頭、着物の前をまくった主人公がカメラに向かって突進して来る。彼は二階の窓に張り出した手すりに乗って放尿を始める。
今もはっきり憶えているけれど、小便の線をぼくは雲形定規を使って描いた。執筆のスタート時点では体力に余裕があるのでこういう馬鹿丁寧なことをしてしまうのだ。線が硬くなって液体のはずの小便が液体に見えない。人物の股間からビニールパイプでも伸びているように見える。ここはフリーハンドで小水を描くべきだった。ペニスに添えた手も不自然である。これは刀の柄(つか)を握る手の形だ。
そして肝心のペニスが見えない。この描写なら亀頭が露出していなければならないのに何もない。生殖器を描くことを憚(はばか)ったのではなく、描きようがなかったのである。体と手の部分を先に完成させたため亀頭を配置する場所がなくなってしまったのだ。無理にペニスの先端を加えれば右手と融合しない。ぼくは描き直すことを面倒臭がって曖昧な絵のままに放置したのである。絵師としてこんな恥ずかしいことはない。こういう場合は、まず体を描き、ペニスの位置を決め、それに合わせて手のデッサンを入れる、そうすればバランスのいい絵になる。
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