ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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不思議なことというか、あまり誰も指摘しないことだが、「嫁・姑問題」は、かなり日本限定の問題ではないか、という気がする。
欧米の場合は、子供は最初から別個人という感覚が強いのか、息子がどういう女と結婚しようが我関せず、という感じがする。そもそも、息子夫婦が両親と同居する例が少ないから軋轢が生まれにくいのだろう。つまり、「嫁・姑問題」は日本の住宅事情問題ではないか。インドや韓国や中国などには日本と似たものがあるかもしれない。「血縁者集団の中にエイリアンが入ってくる軋轢」である。
下の記事は、記事中の引用部分の書き手が脚本家のわりにはその部分には面白さはない。相互の異常な憎悪感がたちこめている。まあ、嫁がおせちを作る、と聞いて「エスニック?」と皮肉を言う義母の頭の鋭どさと言うか回転の速さは凄いな、と思う。「お見事!」と言いたいほどだが、嫁にはそれどころではないだろう。
まあ、こういう記事が増えると、ますます日本の非婚化は進むと思う。もはや日本の若者は恋愛にも結婚にも二の足を踏む人が多いのではないか。単なる経済低迷と貧困化のためだけでもなさそうだ。子供たちも、自分を育ててくれた親への感謝どころか、「こんな世界になぜ生んだ」と恨まれそうであるww それで結婚する気が起きるはずもない。
(以下「紙屋研究所」から引用)記事中の引用部分は囲み記事だが枠が消えたので青字にする。
2024-12-26
今井雅子「涙のエスニックおせち」
新聞記事
脚本家・今井雅子が「しんぶん赤旗」でエッセイを連載している。
今日付の今井のエッセイは「涙のエスニックおせち」。「十年あまり前の大晦日、夫の実家で鍋を囲んでいた」という状況を描いている。
冒頭に、義母と自分の会話を描く。
義母と自分の関係がドライであることを、会話から伝える。
義母はねちねちと嫌味ったらしい感じではなく、サクッと皮肉を言ったり、矛盾を突いたりする、そういうサバサバさがある。他方で、今井の方も、それに過剰に突っかかるというほどはないが、負けじと言い返すタイプである。
おせちを作らないといけないので帰る、と今井は宣言する。義母は皮肉とも驚きともつかぬ調子でおせちなんか作るの? と聞き、今井は作りますよと意地を張る。しかし本当はおせちなど作らないのである。
そこに義母が一言。
「エスニック?」
次の瞬間、涙がダバーッとあふれた。アニメ脚本のト書きで「滝涙(たきなみだ)」という表現がある。キャラクターの目から滝のように涙が流れる様子を指す。アニメならではの大げさな表現だと思っていたが、リアル滝涙に我ながら驚いた。
もし、「本当に作れるの?」と挑発されたら、「おせちくらい作れますよ!」とムキになって言い返したはずだ。ところが、不意打ちの「エスニック」に緊張が緩み、隙ができた。そこに涙が流れ込んだ。予定調和を崩して会話にメリハリを生む「ずらし」の手法。これを義母は無意識にやってのけだ。「あなたがおせちを作るとしたら、さぞ風変わりでしょうね」というスパイスも利かせ、お見事である。
あの日のわたしには「エスニックおせちって、お義母さん面白すぎます」と笑い飛ばす余裕はなかったが、今は講演や脚本講座でネタにしている。
脚本の技法としての「ずらし」として興味深いとともに、日常の会話やコミュニケーションの一つの手法としての「ずらし」にも思いが及んだ。会話の緊張を緩ませて隙をつくる上で、こういう手法があるのかと。(ただヘタにやると、相手をいっそう激怒させそうではある。)
義母にキレてかかるのでもなく、涙を滂沱と流したあたりも、今井が本当にテンパっていたのだということが伝わり「姑vs嫁」ではなく、やさしく同情や共感を誘う文章に変わる。文章としてだけでなく、実際にその場に居合わせたら、「大変そうだな…」という思いを、側に居て思ったに違いない。
そして時間が経ってみれば「あの日のわたしには『エスニックおせちって、お義母さん面白すぎます』と笑い飛ばす余裕はなかった」という総括もできる。対立で頭がいっぱいの今にはあまりそういうことを考えられないだろうが、やはり寝かせておけばそういう感情を持てるんだろうかと、ふと裁判をたたかっている身として思いがよぎる。
とまあそんなことをあれこれ思いいたさせるエッセイであった。
欧米の場合は、子供は最初から別個人という感覚が強いのか、息子がどういう女と結婚しようが我関せず、という感じがする。そもそも、息子夫婦が両親と同居する例が少ないから軋轢が生まれにくいのだろう。つまり、「嫁・姑問題」は日本の住宅事情問題ではないか。インドや韓国や中国などには日本と似たものがあるかもしれない。「血縁者集団の中にエイリアンが入ってくる軋轢」である。
下の記事は、記事中の引用部分の書き手が脚本家のわりにはその部分には面白さはない。相互の異常な憎悪感がたちこめている。まあ、嫁がおせちを作る、と聞いて「エスニック?」と皮肉を言う義母の頭の鋭どさと言うか回転の速さは凄いな、と思う。「お見事!」と言いたいほどだが、嫁にはそれどころではないだろう。
まあ、こういう記事が増えると、ますます日本の非婚化は進むと思う。もはや日本の若者は恋愛にも結婚にも二の足を踏む人が多いのではないか。単なる経済低迷と貧困化のためだけでもなさそうだ。子供たちも、自分を育ててくれた親への感謝どころか、「こんな世界になぜ生んだ」と恨まれそうであるww それで結婚する気が起きるはずもない。
(以下「紙屋研究所」から引用)記事中の引用部分は囲み記事だが枠が消えたので青字にする。
2024-12-26
今井雅子「涙のエスニックおせち」
新聞記事
脚本家・今井雅子が「しんぶん赤旗」でエッセイを連載している。
今日付の今井のエッセイは「涙のエスニックおせち」。「十年あまり前の大晦日、夫の実家で鍋を囲んでいた」という状況を描いている。
冒頭に、義母と自分の会話を描く。
義母と自分の関係がドライであることを、会話から伝える。
義母はねちねちと嫌味ったらしい感じではなく、サクッと皮肉を言ったり、矛盾を突いたりする、そういうサバサバさがある。他方で、今井の方も、それに過剰に突っかかるというほどはないが、負けじと言い返すタイプである。
おせちを作らないといけないので帰る、と今井は宣言する。義母は皮肉とも驚きともつかぬ調子でおせちなんか作るの? と聞き、今井は作りますよと意地を張る。しかし本当はおせちなど作らないのである。
そこに義母が一言。
「エスニック?」
次の瞬間、涙がダバーッとあふれた。アニメ脚本のト書きで「滝涙(たきなみだ)」という表現がある。キャラクターの目から滝のように涙が流れる様子を指す。アニメならではの大げさな表現だと思っていたが、リアル滝涙に我ながら驚いた。
もし、「本当に作れるの?」と挑発されたら、「おせちくらい作れますよ!」とムキになって言い返したはずだ。ところが、不意打ちの「エスニック」に緊張が緩み、隙ができた。そこに涙が流れ込んだ。予定調和を崩して会話にメリハリを生む「ずらし」の手法。これを義母は無意識にやってのけだ。「あなたがおせちを作るとしたら、さぞ風変わりでしょうね」というスパイスも利かせ、お見事である。
あの日のわたしには「エスニックおせちって、お義母さん面白すぎます」と笑い飛ばす余裕はなかったが、今は講演や脚本講座でネタにしている。
脚本の技法としての「ずらし」として興味深いとともに、日常の会話やコミュニケーションの一つの手法としての「ずらし」にも思いが及んだ。会話の緊張を緩ませて隙をつくる上で、こういう手法があるのかと。(ただヘタにやると、相手をいっそう激怒させそうではある。)
義母にキレてかかるのでもなく、涙を滂沱と流したあたりも、今井が本当にテンパっていたのだということが伝わり「姑vs嫁」ではなく、やさしく同情や共感を誘う文章に変わる。文章としてだけでなく、実際にその場に居合わせたら、「大変そうだな…」という思いを、側に居て思ったに違いない。
そして時間が経ってみれば「あの日のわたしには『エスニックおせちって、お義母さん面白すぎます』と笑い飛ばす余裕はなかった」という総括もできる。対立で頭がいっぱいの今にはあまりそういうことを考えられないだろうが、やはり寝かせておけばそういう感情を持てるんだろうかと、ふと裁判をたたかっている身として思いがよぎる。
とまあそんなことをあれこれ思いいたさせるエッセイであった。
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