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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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中日の3外人選手がそろって横浜に移籍することは分かっていたが、どの程度の成績の選手か知らなかったので、この記事は有難い。
実に素晴らしい成績ではないか。3人とも横浜にとっては大きな戦力だ。特に投手二人の加入は、使える投手がまったくいなかった横浜にとっては最高の補強である。
これで平野が横浜に入り、梶谷のへぼ遊撃守備の不安が解消されれば、横浜は一気にAクラス入りが狙える。もっとも、平野の遊撃守備はまだ大丈夫なのかどうか不安もあるが、守備は天才だから大丈夫だろう。もちろん、平野二塁でもいいが、二塁は余り気味である。
ブランコも、怪我が無ければ30本塁打が打てる打者だし、長打力不足もこれである程度解消できる。逆に、中日は成績が相当悪化しそうである。
まあ、高木監督はあんまり好きじゃないから、どうでもいいが。
横浜は、後は監督を補佐する頭脳が欲しい。野村克也における、ドン・ブレイザー的な作戦参謀がいればいいのだが、クリート・ボイヤーあたり、もう野球からは完全に離れているのでなければ、大リーグの頭脳を横浜に注入してくれるのではないか。もっとも、ボイヤーがまだ生きているかどうかさえ私は知らないのだが。
ジョン・シピンなどは、あまり頭が良さそうには見えなかったから要らないだろう。


(以下引用)




1 :風吹けば名無し 2012/11/29(木) 08:21:40.06 ID:jzIw5Qe5

 中日の近藤康之国際部長は28日、球団が来季の戦力として契約の権利を保留する選手としてコミッショナーに提出する名簿から、トニ・ブランコ内野手(32)、ホルヘ・ソーサ投手(35)、エンジェルベルト・ソト投手(30)の3選手を外すことを明らかにした。

 代理人を通じて契約交渉してきたが条件面で折り合わず、独占交渉期間中の合意が難しくなったため。名簿の提出期限は30日で、外れた選手は自由契約選手として公示され、他球団との交渉が可能になる。すでに3選手ともにDeNAの移籍が決定的となっている。

  来日1年目の09年に本塁打、打点の2冠を獲得したブランコは今季、左手骨折の影響で96試合の出場にとどまったが、打率・248、24本塁打、65打点 をマークし、一塁手でセ・リーグのベストナインに選ばれた。ソーサは53試合で5勝1敗4セーブ、防御率1・85、ソトは18試合で4勝1敗、防御率2・ 17の成績だった。




(追記) 「クリート・ボイヤー」で検索したところ、何とこの12月4日に亡くなったばかりだそうである。「濱鯨編集工房日記」というブログから転載する。残念なことである。ボイヤーが今の梶谷の守備を見ていたら、何と嘆いていただろうか。



(以下引用)



追悼クリート・ボイヤー


こんなニュースが飛び込んできました。

米大リーグのヤンキースなどで活躍し、日本の大洋(現横浜)にも在籍したクリート・ボイヤー氏が4日、アトランタで死去した。70歳だった。 大リーグの公式ホームページによると、ボイヤー氏は三塁手としてヤンキースの5年連続ワールドシリーズ進出に貢献するなど、大リーグ通算で打率2割4分2厘、162本塁打の成績を残した。 大洋では72年から75年までプレーし、打率2割5分7厘、71本塁打、218打点。(時事)

ホエールズ/ベイスターズのオールドファンにとっては懐かしい名前ですが、もう70歳でしたか。合掌。

盛りを過ぎたとはいえ、ニューヨーク・ヤンキースの正三塁手が、あの汚い川崎球場で4年もプレーしてくれていたんですね。私が中学生の頃ですから、何度か生で見ているはずです。
いっしょにやってきたのが、まだ若僧の二塁手ジョン・シピン。そのヘアスタイルともみあげから「ライオン丸」の異名で人気を博しました。人格高潔なボイヤー先生の指導もあってか球団史を彩る名選手の一人になりましたが、現役の晩年、読売に移籍すると対戦相手である大洋の投手になぐりかかるなど、不良外人の印象が残ってしまったのが残念です。

さて、亡くなったボイヤーさんですが、なんといっても魅力はその守備でした。当時、大洋の内野は、ファーストにコンバートされた松原誠、二塁にシピン、ショートは守備の名手米田慶三郎、そしてサードにボイヤーという布陣でした。ちなみに捕手は、こちらも先日亡くなったばかりの伊藤勲さんでした。

つまり、ボイヤーをお手本にして内野守備が抜群に締まり、その伝統が今日まで連綿と続いてきたのです。
たとえば、米田のポジションを奪った、後の名遊撃手山下大輔は、ボイヤーと米田の守備に畏敬の念を持っていたといいますし、直接ボイヤーの指導を受けたという話を聞いたことがあります。そしてその系譜は、高木豊、高橋雅裕、進藤達哉、石井琢朗、そして藤田一也(まだ?)に及びます。

今思えば、あの当時、日本の野球をバカにせず、プレーそのものもさることながら、惜しみなくその技術を伝えたメジャーリーガーがいたというのは、幸せなことだと思います。そして、彼はアメリカに戻ってからも、MLBの選手の情報や事情を、当時のスカウト兼通訳の牛込惟浩氏に伝えてくれていたそうです。

ちょっと今回もマニアックな話題でしたね。けれど「ホエールズ/ベイスターズ検定」では(そんなのないけど)初級レベルの知識です。だから関係者以外は読まなくていいっす、って最後に書いてどうする……。




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