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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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現在の野球がつまらない、とお嘆きの諸兄に、「ウィキペディア」からタイ・カッブについての項目を引用して紹介する。
私が見たいのも、こういう「タイ・カッブ的野球」なのであって、「統一球」になった今の日本では実はそれが可能であり、効果的なはずなのである。
デブ打者が馬鹿でかい打球を空に打ち上げ、その大半が凡フライになる寝ぼけた野球ではなく、相手の一瞬の隙をついて次の塁を狙う、殺気に満ちた格闘技的野球がここにはある。



(以下引用)




タイ・カッブが生んだ野球とプレースタイル [編集]






この節の内容に関する文献や情報源が必要です。
出典を明記するためにご協力をお願いします。(2011年8月)






野球殿堂のタイ・カッブのブース 握りの部分(グリップエンド)が根元に近づくにつれて円錐状に太くなっているバットを発案し、愛用していた。日本では、そのようなバットを「タイ・カッブ型バット」と呼ぶことがある。
右手と左手を離してバットを握っていた[2]。このようなバットの握り方を「タイ・カッブ式グリップ」と呼ぶことがある。
走塁時、二塁に滑り込む際にタッチを避けるためになるべくベースから遠ざかって爪先をひっかけることでセーフ判定を狙う「フック・スライディング」を考案・実践した。さらに、二塁へ進む際、ダブルプレーをとられないよう相手内野手に足を向けて滑り込んでゆく「ゲッツー崩し」を積極的にしかけたのもカッブが初めてである。また、鉛をつめて普通の3倍も重くした靴を履いて走塁の訓練をしていたという。
相手投手の投球フォームやクセの観察によって弱点を見つけたり、攻撃時や守備時に外野へ吹く風を計算に入れるという戦術を最初に編み出した。
選手の権利と言う概念を主張し、メジャーリーグでの選手雇用契約の基礎を作った。
打率維持のため、長打狙いのバッティングはしなかったが、実際は長打力も併せ持っており、ある時、ベーブ・ルースの豪打ばかりもてはやすマスコミ陣に対し、「君たちに見せたいものがある」と宣言して、セントルイス・ブラウンズ戦に臨んだことがある(1925年5月5日と6日)。カッブはその日の試合で柵越えの本塁打を3本、その次の日の試合でも本塁打を2本放ち、フェンス直撃の二塁打も2本打ってその実力を証明している。また、その話を聞いた警官が、自動車のスピード違反でカッブを捕まえた際、「今日の試合でホームランを2本打てば違反はなかった事にしよう」と言ったところ、カッブは本当に本塁打を2本打ち、約束どおりに違反は取り消しになったという逸話もある。





1924年8月16日、カッブの三塁打 シングルヒット狙いで、普段は柵越えを狙わないため、通算本塁打の半分近くがランニング本塁打である。
両手をあけてバットを握るため、ボールに十分「力」が乗らないのではとの声もあったが、単に「力」のみが強い打球を生み出すものではないと言い、そのグリップで剛速球をたたいて、奥深く守っていた右翼手のグローブをはじきとばした上に彼の指を折ってしまったこともあったという。
足はそれほど速くはなかったと自身も語っており、上記に記したように相手にスパイクを研ぐところを見せたことや、クセを見つける戦術によって、盗塁数を稼いでいた。1イニングで二盗、三盗、本盗を決めるサイクル・スチールを通算4度達成している。また1年に2度やってのけたこともあった。
外野の三つのポジション以外にもファースト、セカンド、サード、さらには投手として3試合に登板している。打撃面だけではなく守備面の能力も高く、堅実なプレーをしていた。
以上のように細かい野球をするカッブだが、闘志を前面に出すプレーをし、それが結果として悪態として扱われてしまったことも少なくない。乱闘のときなどは、ボールをあてられたチームメイトのために激しく攻撃したことも多かったとされ、観客との乱闘などもプレーに集中したいがためにしてしまったことであった。また乱闘などは基本的に、これらはこうしておけばやじはなくなる、こうしておけば相手は恐れを抱くなど、したたかな計算の上での行動であったとのことである[要出典]。





逸話 [編集]






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野球選手として [編集]





1920年、ベーブ・ルースとカッブ(右)
カッブ(キツい性格、しかしたゆまない努力と引き締まった体)はよくベーブ・ルース(愛嬌のある性格、それでいて天賦の才能とたるんだ体)と対極を成す人物として挙げられることが多い。引退後のメジャーリーグでの本塁打至上主義には批判的な見解を示し、「野球本来の面白さは、走塁や単打の応酬にある」と自らの回顧録で語っているように「スモール・ベースボール」の重要性を説いている。

本塁打至上主義に批判的な見解をしめす理由の一つとして、本塁打狙いになることによっての大振りによる打率低下を言っており、ベーブ・ルースの本塁打狙いの打撃はまさにその典型だと語り、その打撃スタイルを否定していた。さらに、ルースがカッブの安打狙いの打法に対し、「あんたみたいな打ち方なら俺なら六割はいけるだろうな。でも、客は俺のけちなシングルヒットじゃなくて、ホームランを見に来ているのさ」とコメントしたため、カッブも「打てるものなら打ってみろ。3割そこそこでなにを言ってやがる」と反論している。しかし、そのルースが.376という高打率を記録したため、ルースを認める評価をするようになる。さすがに本塁打狙いの打撃への否定は続けたが、ルースの打撃の才能を高く評価しはじめ、打率.393で投票数満票でのMVPをとったときなどは「本塁打狙いの打撃をやめれば、4割を超えるのは間違いない」と述べ、自らのバッティングとの考え方の差を感じたコメントをしている。

そのルースに黒人の血が流れているという噂が流れた時などは、同室にいることを拒否したほか、対ヤンキース戦での乱闘のときなども、いつもカッブに向かって野次を飛ばしていたルースに真っ先に殴りかかり、激しい乱闘をしていた。しかし、そのようなカッブも野球選手としてのルースには高い評価をし、回顧録で記した『自身の選ぶオールスターチーム』のメンバーにもルースを選び、ルースの死にも「また来世で会えることを願う」という一節を記している。

本塁打狙いの打撃を否定していたカッブだが、バースデーアーチだけは狙っていたらしく、20歳と40歳の誕生日に本塁打を打っている。

カッブの球歴の大部分はメジャーリーグの初期であり、非常に「飛ばない」ボールの時代であった。その時代において、4割打者であるカッブに来るボールはひどいものが多く、今日とは比較にならない、スピットボール(ボールに唾を塗りたくって作る不正球)による変速投球だったと言われている(1920年にメジャーリーグが公式に禁止を発表するまで、スピットボールは黙認されていた)。始めは普通の速球のようにプレートに近づくが、打者のバットの下までくると突飛な曲がり方をするボールや、速球のスピードでナックルのように揺れるボールなどが当たり前のようにカッブに投げられていたという。
また、絶好調のときのカッブはさらに凄まじく打つため、相手から報復とも言える行動をされることも少なくはなかった。相手選手の中には、審判がボールをストライクと言うところのみしか投げないよう投手に指示する捕手や、危険球ともいえるようなボールしか投げてこない投手などが非常に多かったという。ボールをストライクと言う審判については、選球眼に絶対の自信があったカッブはすぐさま文句を言い、審判との乱闘になることもあった。カッブへ行われた乱暴行為は打席のみに留まらず、外野への安打で、二塁をまわった際に腰に体当たりをされて三塁打を二塁打にされ、乱闘になったなどの逸話もある。

対ヤンキース戦で、相手チームの選手から打席のカッブにひどい野次が飛んだ。野次のせいで集中力を失ったカッブは、三振を喫してしまう。試合後、野次に怒ったカッブは、銃を持って選手控え室に乗り込み、野次を飛ばしていた選手に銃口を向けた。カッブの悪評を聞いていたその選手は本気で殺されると思い、野次について謝罪した。その後、ルースに「おい、カッブ。まさか俺を打ちはしないだろうな」と宥められ、事態は収まった。この試合以後、ヤンキースの選手は「タイ・カッブを怒らせると、どうなるかわからない」と野次やラフプレーを全くしなくなったという。また、この時の銃は空砲であった。

足は速くないが、盗塁の技術が素晴らしかった理由の一つとして練習方法に理由があるという。カッブの秘密の練習場は台所で、妻が台所で料理をしているときに、横から背中を叩いて反対側に逃げる。妻が後ろを向くまでに反対側にいけたら盗塁成功で、妻のほうが先に振り向いたら盗塁失敗。これを繰り返しているうちに、盗塁のスタートのタイミングがうまくなったとのことである。妻からは「あなたは邪魔だから台所に来ないで」と何度も怒られたという。

カッブは安打を放った際、走りながら常に相手野手を観察していた。自伝でカッブが述べたところによると、走者は心理的な面や確率上から見ても、本人にその気さえあれば、ほとんどいつでも余分のベースを取ることが出来るという。同時代の選手であったケーシー・ステンゲルは、現役時代におけるカッブの進塁の巧さを振り返り、「あなたは外野に打ったヒットで、どうしてああも余分にベースを取ることが出来たのですか。足はそれほど速くなかったと思いますが」と質問した。
これに対しカッブは、「そう、足は速くない。しかし、私は外野手がボールを処理するときに、利き腕で取っているかどうかを常に見ることにしていた。それが私のつけ目だった」と答えた。 外野手が走者にばかり気を取られていた場合、走者の動きを見極めるために、ほんの一瞬にせよ野手はボールから眼を離す。その隙を突いて進塁すれば、野手はジャッグルし、走者は野手に打ち勝って進塁することができたのだという。

来日した際、中等野球に飛び入り参加して盗塁を試み、当時強肩で鳴らしていた嘉義農林の捕手に刺された。カッブはセカンドから捕手のもとへ駆け寄った。判定を不服として一瞬怒鳴りにいったのかと思いきや、笑顔で「やるな坊主」と言い、捕手の頭を撫でたという。人種差別で有名だったカッブだが、来日して野球を熱心に指導していたとのこと。

カッブは野球というスポーツについて、「50cm先に転がしたヒットと、50m先に飛ばしたヒット。この両方が同じヒット一本として扱われることは、野球のルールの最も素晴らしい部分である」と述べている。

1942年、MLBの監督や引退した名選手らを対象に、「史上最高の選手は誰か」というアンケートが行われた。最終的に回収できた票数は102票で、得票は14人の選手に分かれることとなった。結果は半数を大きく越える60票をカップがひとりで集め、断トツの1位であった。投票に参加してカップに1票を投じたエディ・コリンズは、理由を書く欄に「明白である」とだけ記入していたという。他には「カップはすべての事を他の誰よりも上手くやることができた。」いう声もあった[3]。

日本プロ野球の元コミッショナーである内村祐之は、自著において、印象に残ったメジャーリーガーとしてカッブの名を挙げている。1927年の春、内村はフィラデルフィアにて、メジャーリーグ視察のためにアスレチックス対インディアンズの試合を観戦した。同年シーズンはカッブがタイガースからアスレチックスヘ移籍して1年目のシーズンであった。試合はアスレチックスが劣勢の展開となり、9回の最終回に1点をリードされたまま、アスレチックス最後の攻撃となった。この回の先頭打者であったカッブは、安打で出塁を果たす。カッブの安打にアスレチックスのベンチは沸き返った。しかし直後にカッブが相手投手の牽制球に刺され、アウトとなり、アスレチックスはそのまま敗退した。
内村はその時のカッブのプレーを見て、「4000本安打を目前にしている、あの海千山千のカッブでもあんな無駄死にをする事があると思うと、とても面白かった」と回想している一方で、「しかしそれより感心したのは、カッブのその時の態度である」と述べている。内村によると、それは文句なしのアウトであり、審判に抗議の余地はなかった。カッブは気の毒な程に項垂れ、ベンチに帰る顔がないという表情で天を仰ぎ、打ちひしがれていたという。この時のカッブは既に40歳の大ベテランであり、しかも同試合はシーズン初頭のゲームであった。それにも関わらず、カッブは前述のような真剣さと闘志を持って試合に臨んでいた。内村はカッブの野球に対するこの姿勢に、たいへん驚いたと述懐している。

引退後に出場した試合で、捕手に「ひさしぶりにバットを握るので、バットがすっぽ抜けてしまうかもしれない。少し後ろにさがっていてもらえるか?」と頼んだ。捕手が後ろにさがると、カッブはすかさずセーフティーバントを試み、見事に成功させた。これを見ていた周りの選手は、「引退してもタイ・カッブという選手はあくまで勝利のみにこだわっている」と感心していたという。





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