忍者ブログ
ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
カレンダー
11 2018/12 01
S M T W T F S
11 12 13 14
17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31
フリーエリア
最新CM
プロフィール
HN:
o-zone
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
P R
カウンター
[1382]  [1381]  [1380]  [1379]  [1378]  [1377]  [1376]  [1375]  [1374]  [1373]  [1372


ディッケンズ「大いなる遺産」読書中。非常に高度な表現方法が使われている。


話法全体は1人称話法でありながら、その語る内容(事件)への主人公の感想・想念がまったく話し手(主人公)の主観にしかすぎず、語り手以外の人間からはどう思われているかが、主人公の語りそのものによってその都度その都度如実に分かるというアクロバティックな手法である。こうした手法を他の文学作品で見た記憶はまったく無い。筒井康隆でさえやっていない。いや、初期短編でそれに近い作品があったか。平凡人が特殊な状況に置かれてうろたえて支離滅裂な言動をするのを1人称話法で書いたものが幾つかあった。語りは1人称でありながら、読む人間はそれを(神の視点から)客観的に見て、その喜劇性を楽しむ作品で、性質的にこれに近いものがある。しかし、長編小説で、その全体に渉ってこうした手法で描かれたのは初めて見た。1人称話法(主観中心描写)でありながら、同時に3人称話法(神の視点)の客観性をも有するという稀有な例だ。


小説以外では、漫画「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」が、主観と客観の交互描写で見事に主観の欺瞞性を描いている。だが、これは漫画だからできた部分が大きい。


もしも小説でやるなら、簡単な方法は、ページ上段を1人称で、下段で同じ出来事を他者の視点で書くことか。

PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
忍者ブログ [PR]