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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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横浜のために、自由契約選手の中から拾いものになる可能性のある選手を、これから不定期に数名紹介しよう。
というのは、選手の中には不運のため、あるいはより具体的には一軍での「使われ方が悪かった」ために能力を発揮できないままでいる選手もけっこういるからだ。逆に監督やフロントの人間のえこひいきで、たいした成績でもないのに使われ続ける選手もいる。
下に紹介する䔥一傑などは、その不運な選手の一人だろう。二軍ではずっと阪神のエース的存在だのに一軍にはほとんど上げて貰えず、上げて貰えてもほとんど使われないままですぐまた二軍に落とされる。そういう理不尽な仕打ちの繰り返しである。では、一軍で結果を残せなかったのか、と言うと、一軍での結果は登板2回、8.1イニング投げて被安打7、与死四球4、失点2、奪三振7個で防御率2.16である。悪くない成績だ。これで自由契約になるなら、楽天の田中マー君など、最初の登板で大量失点した段階で自由契約だろう。
高卒と大卒は違う、とは言っても、わずか2回の登板でクビは無い。
中でもひどいのが

「2009年は後半戦に一軍へ昇格したが、投球練習でコーチ陣から評価を得られず登板はなかった。」

というものだ。二軍で実績を残して一軍に昇格しながら、「投球練習」だけでダメと決めつけられたのである。それほどご立派な批評眼をお持ちの阪神首脳陣、コーチ陣が残したチーム成績はさぞご立派なものなのだろう。(笑)
横浜も以前よりは風通しが良くなっているように思われるので、こうした「各球団の埋もれた存在」を探し出して、自チーム強化に役立ててもらいたい。その方が、海のものとも山のものともしれない新人選手に大金を使うよりよほど確実だろう。少なくとも、プロの二軍で結果を出せるなら、後少しで一軍、というレベルにあるのは確かなのだから。
䔥一傑はまだ26歳くらいだろうから、これからが働き盛りである。ぜひ、横浜あたりで拾ってほしい選手だ。



(以下「ウィキペディア」より引用)




選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手

プロ入り 2008年 ドラフト1位

初出場 NPB / 2011年8月11日
年俸 1,000万円(2012年)
経歴(括弧内は在籍年)
• 日南学園高等学校
• 奈良産業大学
• 阪神タイガース (2009 - 2012)



蕭 一傑(しょう いっけつ、1986年1月2日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手(投手)。
中華民国(台湾)国籍だが、プロ入り前に日本に5年以上在住していたため登録上は日本人選手と同じ扱いとなっている。中国語(台湾國語)での名前の発音はシャオ・イージェ (Xiao Yijie) だが、登録名は本人の希望もあり日本語読みにしている[1]。

経歴 [編集]
屏東県屏東市出身。台湾大聯盟の高屏雷公などでコーチを務めた蕭良吉を伯父に持つなど、祖父から3代続く野球一家に育った。自らも小学3年時に野球を始めて捕手や内野手を務めた。当時は郭泰源に憧れ、西武ライオンズのファンだった。
日本の高校野球でのプレーを希望し、2002年に台湾から宮崎県の日南学園高等学校に留学して投手に転向。2年夏の第85回全国高等学校野球選手権大会、3年春の第76回選抜高等学校野球大会に出場したが、選抜では登板機会がなかった。留学前に台湾の高校に半年間在学していたため、規定により3年夏は公式戦への出場資格がなかった[2]。
近畿学生野球連盟所属の奈良産業大学に進学後は1年先輩に桑原謙太朗がいたこともあり主にリリーフで起用され、4年時からは主に先発投手として登板した。2008年の春季リーグではMVPとベストナインを受賞。大学通算16勝1敗、防御率0.63[3]。第57回全日本大学野球選手権大会では1回戦で延長13回を投げて完封勝利を挙げ、翌日の2回戦では延長11回サヨナラ負けを喫したが、自身は2日で331球を投げ特別賞を受賞した。
2008年のドラフト会議で松本啓二朗、藤原紘通らの交渉権を逃した阪神から1位指名を受け、日本プロ野球のドラフトで指名された初の台湾出身投手となった。ドラフト前は西武か横浜ベイスターズへの入団を希望していた[4]が、12月8日に契約金9,000万円、出来高4,000万円、年俸1,300万円(金額は推定)で阪神と仮契約。背番号は19に決定した。
第2回WBCの台湾代表候補にも選出されたが、オーストラリアとの練習試合で打球を体に受け、代表入りを辞退した[5]。
2009年は後半戦に一軍へ昇格したが、投球練習でコーチ陣から評価を得られず登板はなかった。二軍ではフレッシュオールスターゲームに出場し、同期入団の西村憲らと共に優秀選手賞を受賞[6]。また、ウエスタン・リーグでは7勝を挙げて最多勝利のタイトルを獲得した[7]。
2010年は一軍の沖縄キャンプに帯同。二軍ではエースとして活躍し、9月7日に鶴直人と入れ替えでプロ入り初の一軍昇格を果たした[8]。当初は9月11日のヤクルト戦で登板予定であったが、チーム事情により9月15日に出場選手登録抹消となり、一軍公式戦での登板はなかった[9]。11月、広州アジア大会に台湾代表として出場し、銀メダルを獲得した。
2011年は充実した先発ローテーションに割り込めず二軍スタートとなったが、8月11日中日ドラゴンズ戦でプロ初登板・初先発を果たし、5回1失点の好投も味方打線が0点に抑えられたため敗戦投手となる。
2012年は一度も一軍登板がなく、10月2日、戦力外通告を受けた[10]。
プレースタイル [編集]
速球は最速148 km/hを記録し、制球力もある[11]。縦に大きく割れるカーブやスライダー、フォークボール、ツーシームなども投げる。


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