(イラスト=小田嶋 隆)
(イラスト=小田嶋 隆)

 サッカーワールドカップ(W杯)アジア最終予選の日本対オーストラリア戦を見た。勝ったことはもちろんめでたいが、中継自体が扇情的な演出に終始しているのは残念だった。さらに悲しかったのは、「サムライブルー」という愛称がいまだに使われていたことだ。


 問題は語感ではない。内容だ。

 われら令和の世に生きる日本人にとって、「サムライ」という言葉のイメージとは、弁解をしない、自己犠牲の権化、所属する組織が犯した過ちであってもその責を甘んじて受け、上の人間から発せられた指示や命令が理不尽であっても粛々と服従し、組織が一丸となって戦う際には無言の部品として働き、自己都合や個人的な見解やプライベートな事情にとらわれることを退け、常に「お家」「公」「藩」のために尽くすことを最上の規範、プライドの基盤とする、挙げてみればそんなところだろうか。


 集団の成員として望ましい点も多いようではある。ならば、日本代表がサムライを名乗ってもよさそうだ。


 だが、サッカーは実は個人のスポーツである。


 11人の選手は、それぞれ信じるところに従って戦い、その結果として、たまたま「チームプレー」が生まれる。そんなものだと私は思っている。


 このスポーツに興味がない方のために言葉を足せば、実力通りの結果に終わらない番狂わせ、いわゆる「ジャイアントキリング」がサッカーには多い。そこが野球と違う。試合時間が長く、フィールドが広く、選手も多いことで、まぐれの要素が大きく影響するためだろう。実際、豪州戦でも明らかに相手のほうが「いいゲーム」をしていた。だが、オウンゴールで勝利は日本のものとなった。


 偶然が支配しがちなゲームであるサッカーに、サムライが向かないと思うのは、「一つになろう」とするからだ。勝っているうちはまだいいが、相手に突き放されると、全員が「もうだめだ」と思ってしまう。そうなるとサムライたちは、最後まで自らの分を守り、負けるべくして負ける戦い方を続け、敗北の美しさに殉じて「一丸となって玉砕」しようとし始めるのだ。われら日本人が「サムライ」という言葉を口に出すとき、すでにして敗戦処理は始まっている。


 サッカーに大事なのは不協和音であり、「オレはオレのやりたいことをやる」選手なのだ。彼らは戦況がどんなに絶望的だろうがおかまいなしに、一人でも相手ラインを突破しようと試み、監督から怒られようが嫌われようが気にしない。というか、監督の言うことを素直に聞くようでは、多分サッカーには向いていない。


 森保監督は人格者だし、指導者としての能力も高いと本当に思う。だからこそ、選手たちが「この監督のために」とか考えて、余計にサムライになってしまう気がする。今必要なのは「言ってることがまったく理解できない」と、選手が開き直らざるを得ないくらい、高圧的で非論理的な監督ではないか。前から言っているのだが、イタリアのその辺のレストランから、頑固なシェフを引っこ抜いてチームを任せては、と、これも結構本気で思っている。