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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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麿赤児も大森南朋も好きな俳優なのに、この二人が父子であることを今までまったく知らなかった。あの野蛮な顔の麿赤児から、なぜあの知的な顔の大森南朋が生まれるのだ。
なお、映画「明日のジョー」(見てないが)の丹下段平役は麿赤児がやるべきだったと思う。



麿赤児

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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本来の表記は「麿赤兒」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。
まろ あかじ
麿 赤兒
本名大森 宏
生年月日1943年2月23日(72歳)
出生地日本の旗 日本石川県金沢市
身長170cm
職業俳優舞踏家演出家
ジャンル映画テレビドラマ舞台
活動期間1964年 -
活動内容1964年 - 1970年状況劇場に在籍
1972年大駱駝艦結成
著名な家族長男:大森立嗣
次男:大森南朋
所属劇団大駱駝艦
事務所キャメルアーツ
公式サイト大駱駝艦

麿 赤兒(まろ あかじ、1943年2月23日 - )は、日本俳優舞踏家演出家。本名は大森 宏[1]暗黒舞踏集団・大駱駝艦主宰。所属事務所は同傘下の芸能事務所・キャメルアーツ。長男は映画監督の大森立嗣、次男は俳優の大森南朋



 

来歴・人物[編集]

1943年(昭和18年)2月23日石川県金沢市に生まれる[1][2]。1歳の時、父親が太平洋戦争で戦死。また母親が精神を病んだため小学5年生の時に奈良県三輪山麓に住むおじ夫婦に預けられる。奈良県立畝傍高等学校卒業、早稲田大学文学部哲学科中退。山本安英に共感して劇団『ぶどうの会』に参加するが、劇団上部の政治的な議論に嫌気がさして劇団を離れる[3]。その後舞踏家の土方巽に師事した[1]


1964年(昭和39年)6月、唐十郎の劇団・状況劇場に参加し、唐が提唱する「特権的肉体論」を体現する役者として活動した[4]1970年(昭和45年)、劇団を退団[3][5]1972年(昭和47年)には独自で舞踏集団・大駱駝艦を旗揚げ、主宰する[3][6]。海外公演も積極的に行い、舞踏を「BUTOH」として広めている。


1974年(昭和49年)、1987年(昭和62年)、1996年(平成8年)、1999年(平成11年)、2008年(平成20年)に舞踊評論家協会賞を、2006年(平成18年)に文化庁長官表彰を受賞。同年に日本アウトドアジャーナリスト協会顧問[7]、安藤百福記念 自然体験活動指導者養成センター客員教授[8]も務める。


舞台や舞踏での活躍のほか、映画やテレビドラマにも多数出演している。状況劇団時代から映画に出演しており、大和屋竺監督の『毛の生えた拳銃』では、僚友の大久保鷹とともに殺し屋を演じ[2]若松孝二監督の『金瓶梅』では花和尚魯智深役で助演。中平康監督の『闇の中の魑魅魍魎』では主役の絵師金蔵を演じた。以後も脇役で活躍し、鈴木清順監督の「大正浪漫三部作」(『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』『夢二』)には全作に出演しており、クエンティン・タランティーノ監督の『キル・ビル Vol.1』ではやくざの親分役で出演した。ほか、阪本順治監督の『どついたるねん』、新藤兼人監督の『午後の遺言状』、北野武監督の『菊次郎とさき』などに出演。長男の立嗣が監督を務めている『まほろ駅前多田便利軒』シリーズにも常連出演しており、次男の南朋と親子共演している。


芸名「赤兒」の由来については、「寒い冬の日に便所で尻を拭いたら、切れ痔で紙が真っ赤っかだった。それを見てつけた」と述べている。本人は「赤兒」という芸名から「赤字」を連想させる為にスポンサーの付くテレビドラマからお声が掛からないと、本気か冗談か判らない事を言っている。また、それゆえ「青兒」と名乗る事もあったという。[要出典]

出演作品[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

 

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