忍者ブログ
ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
カレンダー
02 2024/03 04
S M T W T F S
4 8
10 13 14 16
17 19 20 21 23
25 30
31
フリーエリア
最新CM
最新TB
プロフィール
HN:
o-zone
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
P R
カウンター
[1367]  [1366]  [1365]  [1364]  [1363]  [1362]  [1361]  [1360]  [1359]  [1358]  [1357
「前田有一の超映画批評」から転載。
映画は未見だが、ここに書かれたことはほぼ正しいだろうと、キャストを見ただけで想像できる。原作ファン、そして監督山崎貴ファンの私としては残念な結果だが、もともと山崎貴はウェットな感性の持ち主で、だからこそ「三丁目の夕日」などをあんなフーテンの寅風味にしたりしたのだろう。ただ、SFXが上手い監督だから、「寄生獣」の監督に選ばれたのだと思う。つまり、原作とは最初から合わない監督だったわけだ。
原作では村野里美以上に存在感のある不良少女の役こそ橋本愛に演じさせるべきだっただろう。染谷将太はビジュアル的に新一役には合わないと思うが、演技は見たことが無いから何とも言えない。神木隆之介くんくらいが、主役を張れる格もあり、ビジュアル的にはよさそうだが、他にもいい若手役者はいるだろう。ミギーの声を阿部サダ夫というのも首をひねる。ミギーの声は、無機的で底冷えを感じさせる不気味なものでなければならないと思うのだが、あんな喜劇的役柄の多い俳優をなぜ選んだのか。
要するに、監督が最初から原作に対する思い入れがまったく無かったのだろう、と推察する。原作とは別のもの、として観るしかないのだろうが、原作ファンにとってはいわゆる「原作レイプ」という嫌な性質の作品になっているだろうと覚悟したほうがよさそうだ。


(以下引用)

「寄生獣」25点(100点満点中)
監督:山崎貴 出演:染谷将太 深津絵里

これじゃない感が強い

岩明均の原作コミックを実写映画化した「寄生獣」はこの秋一番の大作として期待される話題作。だからこそ大ヒット請負人の山崎貴監督で挑んだわけだが、残念ながら失敗作に終わった。


のちにパラサイトと人類が呼ぶことになる奇妙な寄生生物に脳を食い破られる寸前、とっさの判断で食い止めた高校生・泉新一(染谷将太)は、しかし右手に寄生されてしまう。はからずも共生関係となったその生物をミギー(声:阿部サダヲ)を名付けた新一だが、他の寄生された者たちは他の人間を食料とすべく、周囲の人々をひそかに襲い始めていた。


脳すなわち人間らしさを残したまま寄生獣の力を得た人間の高校生が、100%寄生獣となった元人間たちと戦うホラー風味のアクションドラマ。この「人間らしさ」と母性の関係性というものが、重要な物語の要素となっている。


さて、この映画版「寄生獣」が失敗した理由ははっきりしていて、まずはキャスティングの違和感がひとつめ。具体的には染谷将太、橋本愛、阿部サダヲの3主要人物ともにまずい。とくに橋本愛は気弱な同級生の主人公に恋をする母性豊かなヒロインにはまったく見えないところが痛い。むしろスマホでぎゃるるでもやっていそうな正反対のルックスであり、いかに人気者とはいえ村野里美役には適さないというのは万人の認めるところであろう。


さらに合わないのはモーションアクターも担当した阿部サダヲの声で、これは二つ目の問題点とも深くかかわる。


その二つ目の問題点とは、この物語をお気楽なバディムービーにしてしまったことである。ひらたくいうと、新一にとってのミギーが、ちょっぴり変わったお友達、になってしまっているのである。


原作をしっかり読み込む山崎貴監督にしては首をひねるところなのだが、これは明らかにおかしい。原作におけるこの二人の関係はお友達などではなく、典型的な「補完関係」である。


まず、ごく平凡な新一は人間らしさの象徴で、一方寄生生物であるミギーは冷酷な自然界の摂理そのもの。だから新一がミギーに共感を抱きかけたところで、ミギーのとてつもない冷酷さに冷や水をぶっかけられるシーンが原作には何度も出てくる。


互いの価値観はなかなか相容れない、理解しあえない関係であるがゆえに、サバイバルの場ではきわめて強力な補完関係となっているのである。だからこそ、この二人には、親しくはなれど決して越えられない壁、という距離感を持たせなくてはならなかった。それが、原作ラストの後藤戦における感動の結末への伏線でもある。


それがこの映画では、のっけから夫婦漫才がごとき楽しい会話を交わすなど打ち解けあっている。阿部サダヲのコミカルな声と演技がまた拍車をかける。読者として、作品の胆を理解されていない悲しさを感じる一瞬である。


そもそも、男の子にとっていろいろと大事な右手があんな気持ちの悪い生物にとってかわられたというのに、初対面で即座に打ち解ける展開にまったくリアリティがない。実写だとこういうところが悪い意味で目立つので、演出家はアレンジが必要なのであるが、この映画にそうした配慮はない。


また、はじめて他の寄生獣の食事シーンに出くわす場面の新一の反応も、ありえないほど平然としていると批判すべきところだろう。にんげん、あんな場面に出くわしたら腰が抜けるか絶叫して逃げるか、いずれにしても正気ではいられまい。その場に普通にとどまる新一は鉄の心と冷静さを持ったデューク東郷か。


さらに、彼が初めて戦闘参加することになる展開も早すぎていけない。そんなに簡単に、平和国家日本のヘタレ少年が、人間を殺せるわけがない。殺そうと決意できるはずがない。


これは、新一がそれを決意するまでに踏むべき段階をまったく踏んでいない手抜き演出のたまものである。


ここは本来なら、まずミギーが圧倒的な強さで(原作での空飛ぶ犬など)恐ろしい化け物をぶち殺すのを新一が目の当たりにする。そしてミギーの徹底した合理主義と冷静さ、豊富な知識量に圧倒される前段階が絶対に必要だったのである。


それがあれば、その時点での二人の関係性は圧倒的にミギー>新一となり、だからこそ、そのミギーの「自分じゃこの敵には勝てない」という言葉に新一(と読者)は絶望と説得力を感じるわけだ。だから勝つため、生きるためやむなく自らも戦闘に参加する(しかも大事な人を守るため)、という流れに説得力が生まれる。


だが映画はのっけから新一=ミギーの関係性だから、ミギーの言葉に何の重さもない。これこそがこの映画版最大の問題点である。


それどころか新一ばかりがどんどん強く成長していき、あっというまに新一>ミギーになってしまう。これではもはや完全にパワーアップ新一の添え物になってしまい、ミギーの存在価値がほとんどない。


この映画版は、来年4月に完結編が予定されている2部作の前篇だが、かように中途半端になるのであれば、最初から上映時間を2時間45分×2の長編にしてでも、こうしたドラマ部分を強化すべきであった。


ところでその完結編には、原作通りなら橋本愛演じる村野里美の重要なシーンがあるはずである。橋本愛は確かにミスキャストだが、ここは大きな期待を持って見守っていく所存である。なにしろあれときたら、少年漫画きってのエロさである。件のシーンこそが、橋本愛の完結編におけるほとんど唯一にして最大の仕事であるといっても過言ではない。


橋本愛は演技力もある本物の女優と当サイトでは以前より高く評価している。ここで万が一彼女が弱気を見せたらもはやヒトケタ点をつけるほかはない。山崎貴監督においては、全力を持ってこの小さな大女優および関係方面の説得にあたっていただけるよう、心より応援する次第である。

PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
忍者ブログ [PR]