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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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記事筆者が勝手に自分の主観的意見をくっつけて台無しにしている記事だが、私も町田氏の意見に同意である。「与える」とはアスリートを高い立場に置き、観戦者を低い立場と見ている表現だし、(もちろん、演者と観客は「努力した人」と「ただ観ている人」の違いはある。しかし、「カネを貰う者」と「カネを出す者」という違いもある。テレビ観客だって、自分で気づかないうちに放送スポンサーの「広告料」にカネを出しているのである。)感動するかどうかは見る者次第だ。偉そうに「全国民に感動を与える(与えた)」と自惚れるものではない。

(以下引用)記事前半が消えているのだが、面倒くさいのでそのまま載せる。町田氏は元スケート選手で、現在は大学の先生らしい。


 
 
 
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 「感動を与える」という表現は、スポーツ界から根絶すべきだ-。フィギュアスケートの元五輪選手で、現在は国学院大助教としてスポーツを研究している町田樹さんが、北京五輪を前に雑誌の最新号で書いていた。思い切った意見だ。


 理由として(1)スポーツを観(み)て応援してくれる人に失礼(2)感動するかどうかは受け手次第であり、送り手が意図して創造できるものではない-と説く。なるほど。ただし、一つ付け加えたい。


 選手が言う「感動」とは、多くは好結果を前提としている。だが観戦する側からすれば、必ずしもそうではない。


 ソチ五輪フィギュア、失意のショートプログラムから立ち直った浅田真央さんのフリーの演技。5回の五輪でメダルに届かなかったモーグルの上村愛子さん。2人を巡る記憶は金メダルより美しい。


 町田さんは続ける。感動なんて気遣いは無用、アスリートは自分の理想のパフォーマンスを追求すれば十分だと。同感だ。北京五輪は東京に続きコロナ禍での困難な「追求」の場になるだろう。お仕着せではない感動の種がきっとある。





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