宮崎駿監督「一話ですが……。僕はもう、一話を見た途端、首を吊ろうかと思った」
「ラナってのはね、コナンが一目見た途端に、 一生この女のために頑張るぞというくらいの美少女でなければならないと (僕は) 思い込んでるのに、すごいブスラナが出て来ましてね」#未来少年コナン
				ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。			
		
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						小学生向けの、おそらく短編を集めた話(原作)を、あれほどハードな、しかもハートウォーミングな、適度にユーモアも交えた、起承転結のある脚本にした吉田玲子(ガルパンなども彼女)の功績は大きいのではないか。アニメのベテラン脚本家の存在価値はもっと高く評価されていい。もちろん、全体を高度な水準で見事に統一した高坂監督もたいしたものである。
ちなみに、宮崎駿の昔のアニメ「シャーロック・ホームズ」(犬たちが主人公で、いわば「わんわん忠臣蔵」パターン)をこの前初めて見て、やはり宮崎駿は凄いな、と思っていたら、何と脚本が片淵須直で驚かされた。
辻 真先
@mtsujiji
·
5月16日
今ごろ見たのかシリーズで,劇場アニメ「若女将は小学生!」を見る。現実と対峙せねばならぬハードな主題を、アニメで描ききった脚本監督の鮮やかさ。後景の演出、一瞬の間合い、巧みな省略など、プロの力量と同時に、人物の造形に心をこめたやさしい手つき。殆ど間然とする所がない。喝采を送ります。
																								ちなみに、宮崎駿の昔のアニメ「シャーロック・ホームズ」(犬たちが主人公で、いわば「わんわん忠臣蔵」パターン)をこの前初めて見て、やはり宮崎駿は凄いな、と思っていたら、何と脚本が片淵須直で驚かされた。
辻 真先
@mtsujiji
·
5月16日
今ごろ見たのかシリーズで,劇場アニメ「若女将は小学生!」を見る。現実と対峙せねばならぬハードな主題を、アニメで描ききった脚本監督の鮮やかさ。後景の演出、一瞬の間合い、巧みな省略など、プロの力量と同時に、人物の造形に心をこめたやさしい手つき。殆ど間然とする所がない。喝采を送ります。
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						あさりよしとおのツィートだが、考えると、一応子供向けアニメの中に女性のすっぴんの顔と化粧した顔の両方を見せたのは、史上初ではないか。
実写映画ですっぴんを見せた女優はいたような気がするが、覚えていない。たしか、化粧しても大差ない顔だったような気もするwww
(以下引用)
水領さんは、すっぴんが一番。 (異論は認める) >若おかみは小学生!
					
																								実写映画ですっぴんを見せた女優はいたような気がするが、覚えていない。たしか、化粧しても大差ない顔だったような気もするwww
(以下引用)
水領さんは、すっぴんが一番。 (異論は認める) >若おかみは小学生!
						野木亜希子は好きな脚本家だが、「電脳コイル」って、子供が主役である以外は、非常にマニアックで、子供が理解できる内容ではなく、ユーモアも、或る回(アニメ内の別アニメが中心の回)以外はまったく無く、全体に陰鬱で陰惨な雰囲気が漂う作品だと思う。つまり、家族で観るアニメではまったく無いと私には思えるのだが、どうだろう。
もちろん、私はたとえばシュタインズゲートのような「頭を使うアニメ」が苦手だということもある。しかし、子供の理解力なら、私以下だろう。まあ、登場する子供たちを眺めるだけで、「何が何やら分からんけど面白いかもしれない」という子供もいるだろう。現実と別次元の現実とが侵食し合う話(たとえば「千と千尋の神隠し」)を子供がまったく理解できないとは言わないが、一見科学的な世界として描かれながら、それが異世界と交錯するのでは、かなり理解に苦しむと思う。
この作品の制作の中心となった磯光男はかなり才能のあるアニメ作家だと思うが、アニメは「時間芸術」である以上(つまり、誰もが見直しができるわけではない以上)、視聴者の瞬間的理解力に対する理解が無さすぎると思う。
なお、私は、そうした不満感と不快感をずっと持ちながら、一応最後まで見たのは、この作品の場合は結末まで見て評価しないと正しい評価はできない作品だろう、という義務感からで、観終わっての感想は、「膨大な時間を無駄にした」である。これは、作品を見ている間中、楽しさや面白さをほとんど感じられなかったのだから、当然だろう。まあ、もちろん、これは見る側の問題だ。
ただ、「家族で楽しめる」は、かなり稀な家族だけに限定されるのは確かだと思う。作品の創作性における質の高さと、その視聴価値はまったく別である。
(以下引用)
					
																								もちろん、私はたとえばシュタインズゲートのような「頭を使うアニメ」が苦手だということもある。しかし、子供の理解力なら、私以下だろう。まあ、登場する子供たちを眺めるだけで、「何が何やら分からんけど面白いかもしれない」という子供もいるだろう。現実と別次元の現実とが侵食し合う話(たとえば「千と千尋の神隠し」)を子供がまったく理解できないとは言わないが、一見科学的な世界として描かれながら、それが異世界と交錯するのでは、かなり理解に苦しむと思う。
この作品の制作の中心となった磯光男はかなり才能のあるアニメ作家だと思うが、アニメは「時間芸術」である以上(つまり、誰もが見直しができるわけではない以上)、視聴者の瞬間的理解力に対する理解が無さすぎると思う。
なお、私は、そうした不満感と不快感をずっと持ちながら、一応最後まで見たのは、この作品の場合は結末まで見て評価しないと正しい評価はできない作品だろう、という義務感からで、観終わっての感想は、「膨大な時間を無駄にした」である。これは、作品を見ている間中、楽しさや面白さをほとんど感じられなかったのだから、当然だろう。まあ、もちろん、これは見る側の問題だ。
ただ、「家族で楽しめる」は、かなり稀な家族だけに限定されるのは確かだと思う。作品の創作性における質の高さと、その視聴価値はまったく別である。
(以下引用)
あたらしいテレビの収録。実はおすすめ作品として『電脳コイル』も推しており無駄に力の入ったボードも書いていたのですが、AmazonPrimeで配信復活していた!家族で楽しめるジュブナイルSFアニメ。わくわくできて笑えてミステリーもあり最高なので未見の人は見ておくれ。
						いとうのいぢ(「のいじ」だと思っていた)の下の名前の「のいぢ」は、ほかでは聞いたことが無い名前なので、ウィキペディアで調べて、初めて、女性だと知って驚いた。まあ、「のいぢ」という名前から男性しか想像していなかったのである。NOISYから来ているなら、日本語の名前で聞いたことが無かったのは理解できる。
なお、日本のイラストやアニメキャラは、「いとうのいぢ」以前と以後に分かれると思う。つまり、萌え絵キャラを確立したのが彼女だと思う。ただし、私はそのキャラが好きではない。つまり、模倣者たちによってあまりに類型化しすぎて、顔の判別が「素人」には不可能だからだ。
(以下引用)
																								なお、日本のイラストやアニメキャラは、「いとうのいぢ」以前と以後に分かれると思う。つまり、萌え絵キャラを確立したのが彼女だと思う。ただし、私はそのキャラが好きではない。つまり、模倣者たちによってあまりに類型化しすぎて、顔の判別が「素人」には不可能だからだ。
(以下引用)
ペンネームの由来は、“いとう”はSIAM SHADEのギターリストDAITA(本名・伊藤大太)から、“のいぢ”はSEX MACHINEGUNS(当時)のベースNOISYからとったものである。英文名公式表記は“Ito Noizi”、もしくは“Noizi Ito”である。
下の名前の本名は「珠里」[1]。
						「未来少年コナン」の「原作」である、アレクサンダー・ケイの「残された人々」を、アニメを見た人が読むと驚くのではないか。まったく、原作の雰囲気も内容もアニメとは別で、まったく「話が面白くない」し、「雰囲気が暗い」し、「人物に魅力が無い」のである。つまり、宮崎駿はこの原作をアニメにしたのではなく、この原作にヒントを得て、まったく違う作品にした、と言っていい。つまり、芥川龍之介がアンブローズ・ビアスの短編から発想を得て「藪の中」を書いたようなものだ。
この「換骨奪胎」は、宮崎駿の天才性をよく示していると思う。優れた作家でも、無から何かを作り出すわけではない。その作品そのものが優れていれば、元ネタがどこから来たかはさほど問題ではないと私は思う。手塚治虫も、素人作品を参考にして自分の作品に活かしたことはあったようだ。それは、その素人にとっては名誉と言うべきだろう。
黒岩涙香なども換骨奪胎の名人で、海外の作品(無名の大衆小説含む)を見事に日本を舞台にして名作にした。「鉄仮面」など、その代表的なものだ。ボアゴベーという原作小説作家は本国でも今では誰も知らない程度の作家であり、埋もれた作品らしい。(映画の「仮面の男」の原作はデュマで、まったく別作品)
																								この「換骨奪胎」は、宮崎駿の天才性をよく示していると思う。優れた作家でも、無から何かを作り出すわけではない。その作品そのものが優れていれば、元ネタがどこから来たかはさほど問題ではないと私は思う。手塚治虫も、素人作品を参考にして自分の作品に活かしたことはあったようだ。それは、その素人にとっては名誉と言うべきだろう。
黒岩涙香なども換骨奪胎の名人で、海外の作品(無名の大衆小説含む)を見事に日本を舞台にして名作にした。「鉄仮面」など、その代表的なものだ。ボアゴベーという原作小説作家は本国でも今では誰も知らない程度の作家であり、埋もれた作品らしい。(映画の「仮面の男」の原作はデュマで、まったく別作品)
						一部で有名になってあちこちでリツィートされているものだが、宮崎駿が第一話のラナの描き方に大落胆したのは事実だろう。実際、原画の大塚康夫(字はこうだったか)は第二話以降はラナを描かせてもらえなかったと言う。
まあ、私が見る限りでは、第二話以降もそれほど「美少女化」したとは思えないというか、第一話のラナをとんでもないブスと思った宮崎駿のほうがおかしいと思うのだが、おそらく宮崎の脳内ではラナは「女神化」しており、自分でもどう描いていいか分からず、大塚氏に期待したのではないか。ところが、想像以上に「ブス」だったわけだ。つまり、漠然とした空想上の「美少女」との落差による失望だろう。
大塚氏にとっては非常に気の毒な話で、第一話のラナは海辺で気絶しており、意識が少し回復して顔を上げた途端、巨大なサメの顔と対面し、目を回すのである。その目を回す顔を「美少女」に描け、と言われたのだから理不尽な要求というものだろう。
で、「作品内現実」の次元で考えると、コナンは生まれて一度も女を見たことが無いのである。そういう子供に女性の美という観念があるだろうか。つまり、一目見た途端に、「一生この女のために頑張るぞ」と思うのは、ラナの美しさのためだとしたら、その美の基準は、たとえばおじいの老年顔の醜さとの対比によるものであり、他の少女と比較してのものであるはずはないわけだ。その意味ではラナが「絶世の美少女」である必要性は無い。
まあ、視聴者としては、ラナがブスや平凡な顔では視聴継続する気にもなれないし、宮崎駿もブスなヒロインのためにアニメ作りを延々と続けるのは御免だっただろう。まさに「永遠に女性なるもの、我らを牽きて往かしむ」なのである。それは、相手がフィクションの女性だろうが同じだ。
なお、宮崎駿をペドフィリア扱いする馬鹿がいるが、彼は単に少女というものを女性美の極致としているだけで、性欲的な対象としているわけではない。創作においてまで少女を美や崇拝の対象とすることは変態的だ、というのは馬鹿な精神科医か馬鹿なフェミニストだけである。
なお、ナボコフの「ロリータ」も、少女を性欲の対象ではなく、崇拝の対象とした物語である。主人公(語り手)のハンバート・ハンバートがロリータをセックスの相手にするのは、相手から誘われたから応じただけであり、しかもそれ以前にロリータは同年齢の少年と性体験を持っていたのだ。
 
					
																								まあ、私が見る限りでは、第二話以降もそれほど「美少女化」したとは思えないというか、第一話のラナをとんでもないブスと思った宮崎駿のほうがおかしいと思うのだが、おそらく宮崎の脳内ではラナは「女神化」しており、自分でもどう描いていいか分からず、大塚氏に期待したのではないか。ところが、想像以上に「ブス」だったわけだ。つまり、漠然とした空想上の「美少女」との落差による失望だろう。
大塚氏にとっては非常に気の毒な話で、第一話のラナは海辺で気絶しており、意識が少し回復して顔を上げた途端、巨大なサメの顔と対面し、目を回すのである。その目を回す顔を「美少女」に描け、と言われたのだから理不尽な要求というものだろう。
で、「作品内現実」の次元で考えると、コナンは生まれて一度も女を見たことが無いのである。そういう子供に女性の美という観念があるだろうか。つまり、一目見た途端に、「一生この女のために頑張るぞ」と思うのは、ラナの美しさのためだとしたら、その美の基準は、たとえばおじいの老年顔の醜さとの対比によるものであり、他の少女と比較してのものであるはずはないわけだ。その意味ではラナが「絶世の美少女」である必要性は無い。
まあ、視聴者としては、ラナがブスや平凡な顔では視聴継続する気にもなれないし、宮崎駿もブスなヒロインのためにアニメ作りを延々と続けるのは御免だっただろう。まさに「永遠に女性なるもの、我らを牽きて往かしむ」なのである。それは、相手がフィクションの女性だろうが同じだ。
なお、宮崎駿をペドフィリア扱いする馬鹿がいるが、彼は単に少女というものを女性美の極致としているだけで、性欲的な対象としているわけではない。創作においてまで少女を美や崇拝の対象とすることは変態的だ、というのは馬鹿な精神科医か馬鹿なフェミニストだけである。
なお、ナボコフの「ロリータ」も、少女を性欲の対象ではなく、崇拝の対象とした物語である。主人公(語り手)のハンバート・ハンバートがロリータをセックスの相手にするのは、相手から誘われたから応じただけであり、しかもそれ以前にロリータは同年齢の少年と性体験を持っていたのだ。
						私は、この第一話があまりに「不親切」なので一話切りした部類である。「二話以降も続けて見れば分かる」、という傲慢な作り手の姿勢にカチンと来たとも言える。
ゴダールは、映画の出来は最初の五分で分かる、と言っていたと思うが、第一話を全部見ても話の内容がつかめない、というのは視聴者を馬鹿にしていないか。
私は、ヒロインは腕が義手なだけ(義手でタイプライターが打てるということ自体、ほとんどSFだが)なのか、人造人間なのか、第一話全部を見ても了解できず、第二話以降を見る気を失ったわけだ。単に絵がきれいというのは私の場合、アニメを見る必要条件だが絶対条件ではない。ただ、「ワンピース」のように絵柄自体に不快感がある場合は絶対条件に近い。
(以下引用)漫画家北崎拓のツィートである。
本放送当時はこの1話を観て、「絵が綺麗だけどよくわからんなー」という感想だったんだよね。 今ならこの冒頭だけで涙ぐめる!(ぐんだ) #ヴァイオレットエヴァーガーデン
					
																								ゴダールは、映画の出来は最初の五分で分かる、と言っていたと思うが、第一話を全部見ても話の内容がつかめない、というのは視聴者を馬鹿にしていないか。
私は、ヒロインは腕が義手なだけ(義手でタイプライターが打てるということ自体、ほとんどSFだが)なのか、人造人間なのか、第一話全部を見ても了解できず、第二話以降を見る気を失ったわけだ。単に絵がきれいというのは私の場合、アニメを見る必要条件だが絶対条件ではない。ただ、「ワンピース」のように絵柄自体に不快感がある場合は絶対条件に近い。
(以下引用)漫画家北崎拓のツィートである。
本放送当時はこの1話を観て、「絵が綺麗だけどよくわからんなー」という感想だったんだよね。 今ならこの冒頭だけで涙ぐめる!(ぐんだ) #ヴァイオレットエヴァーガーデン
						「映像研」最終話をファンは高評価しているようだが、私としてはかなり残念な、「まだまだ改良の余地あり」な印象だった。特に、「芝浜UFO大戦」がまったく魅力的には見えず、そのダイジェストが「貴重な最終回」の時間の無駄にしか思えないのである。もともと「コアなアニメマニア」が原作者であるアニメであり、対象もコアなアニメマニアが視野に入っていたとは思うが、序盤で多くの子供がこのアニメに惹きつけられたのは、「コアファンでなくてもある程度理解できる」内容だったからだろう。最終回は、そうした「素人層」や「低年齢層」をすべて置き去りにした感がある。
まあ、「芝浜UFO大戦」は高校生が制作したアニメだから、「改良の余地あり」は当然で、その意味では魅力が欠如していてもいいが、映像と効果音だけ(台詞や解説無し)で見せるダイジェストが長すぎる。
問題はほかにもあり、そもそも、作中に出てきた「カットされた最終シーン(人類と河童のダンスシーン)」は、「アクションにこだわる」水崎氏の作画とはまったく思えない幼稚な動画であり、前半での水崎氏のキャラ(発言)との整合性が無い。(確か前に水崎氏がスケッチで示したダンスシーンの絵ともまったく似ていない。)
百目鬼氏が、あのマニアックな「音への執着」にも関わらず、一番重要な最終シーンの音楽が勝手に変更されていたことを確認もせず、映像研に伝えていなかったことも、簡単に許せる話ではないだろう。
この最終回はあらゆる面で「やっつけ仕事」にしか、私には思えなかった。序盤のワクワク感はどこへ消えたのか。
ただし、作品の面白さが段々低減していくのは原作漫画も同じであり、アニメはそれをうまくカバーして良作に仕上げた、その手腕をこそ褒めるべきではあるだろう。
(追記)これまで怒涛のようにアニメ「映像研」に関するツィートを流していた原作者大童澄瞳が、アニメの最終回が終わっても、その回の感想を現在、火曜日の14時までほとんどツィートしていないのを見ても、最終回への不満が推測できる。だが、アニメの最終回の出来は原作自体がそのあたりから失速していることの反映だと私は思っている。とは言え、前半の秀逸な出来からしたら、原作の要素を組み合わせることで満足のいく最終回を作ることは可能だったのではないか。
					
																								まあ、「芝浜UFO大戦」は高校生が制作したアニメだから、「改良の余地あり」は当然で、その意味では魅力が欠如していてもいいが、映像と効果音だけ(台詞や解説無し)で見せるダイジェストが長すぎる。
問題はほかにもあり、そもそも、作中に出てきた「カットされた最終シーン(人類と河童のダンスシーン)」は、「アクションにこだわる」水崎氏の作画とはまったく思えない幼稚な動画であり、前半での水崎氏のキャラ(発言)との整合性が無い。(確か前に水崎氏がスケッチで示したダンスシーンの絵ともまったく似ていない。)
百目鬼氏が、あのマニアックな「音への執着」にも関わらず、一番重要な最終シーンの音楽が勝手に変更されていたことを確認もせず、映像研に伝えていなかったことも、簡単に許せる話ではないだろう。
この最終回はあらゆる面で「やっつけ仕事」にしか、私には思えなかった。序盤のワクワク感はどこへ消えたのか。
ただし、作品の面白さが段々低減していくのは原作漫画も同じであり、アニメはそれをうまくカバーして良作に仕上げた、その手腕をこそ褒めるべきではあるだろう。
(追記)これまで怒涛のようにアニメ「映像研」に関するツィートを流していた原作者大童澄瞳が、アニメの最終回が終わっても、その回の感想を現在、火曜日の14時までほとんどツィートしていないのを見ても、最終回への不満が推測できる。だが、アニメの最終回の出来は原作自体がそのあたりから失速していることの反映だと私は思っている。とは言え、前半の秀逸な出来からしたら、原作の要素を組み合わせることで満足のいく最終回を作ることは可能だったのではないか。
						一月十一日に書いたブログ記事だが、この最後に書いてあるフェリーニの「8 1/2」へのオマージュが、少し違う形で実現されそうだ。
つまり、浅草たちが作るアニメが完成し、公開されるところで全十二回が終わると思われるのだが、そのアニメの最後がダンスシーンで終わるようなのである。最後を祝祭的雰囲気で終わるという意味では、「映像研」自体の話とそのダンスシーンは重なっていると言えるのではないか。
なお、過去の映画やアニメへのオマージュという点では、今夜の回には「AKIRA」や「用心棒」や宮崎駿自身も登場していた。これも
そうした凄い作品との出会いで、主人公たちは「想像の世界、創造の世界の素晴らしさ」を再確認し、新しく歩き始める。
と同じことを表している、と言えるのではないか。
富野由悠季がアニメ制作希望者に「アニメなど見るな」と言っているのは、つまり、過去の優れた文学や映画などからこそ、新しいアニメ作りの養分を吸い取るべきであり、アニメだけ見ていては、過去の名作アニメの縮小再生産にしかならない、という意味だろう。アニメ「映像研」は、若い人々に同じことを伝えているように思われる。
(以下引用)
 
					
																								つまり、浅草たちが作るアニメが完成し、公開されるところで全十二回が終わると思われるのだが、そのアニメの最後がダンスシーンで終わるようなのである。最後を祝祭的雰囲気で終わるという意味では、「映像研」自体の話とそのダンスシーンは重なっていると言えるのではないか。
なお、過去の映画やアニメへのオマージュという点では、今夜の回には「AKIRA」や「用心棒」や宮崎駿自身も登場していた。これも
そうした凄い作品との出会いで、主人公たちは「想像の世界、創造の世界の素晴らしさ」を再確認し、新しく歩き始める。
と同じことを表している、と言えるのではないか。
富野由悠季がアニメ制作希望者に「アニメなど見るな」と言っているのは、つまり、過去の優れた文学や映画などからこそ、新しいアニメ作りの養分を吸い取るべきであり、アニメだけ見ていては、過去の名作アニメの縮小再生産にしかならない、という意味だろう。アニメ「映像研」は、若い人々に同じことを伝えているように思われる。
(以下引用)
アニメの「映像研」が面白かったので、原作漫画を一巻から四巻まで読み直したのだが、少し前に書いた懸念の理由が分かった。つまり、原作は第四巻で既に失速しているように感じられるということだ。
この作品の面白さは、アニメを高校の部活として作る上での様々な困難が克服される過程、つまり、「問題をいかに解決するか」に面白さの半分はかかっていると私は思うのだが、第四巻ではすでにその問題が見えなくなっていると思う。
具体的に言えば、全体の主題そっちのけで描かれた「たぬきのエルドラド」の話が、その創作過程も含め、面白くないということだ。原作者は「平成狸合戦ぽんぽこ」が大好きだということのようだが、「たぬきのエルドラド」は、その生煮えの二次創作でしかないと感じる。
いや、高校生の作品なのだから、それで当然、と言えるわけだが、問題は、おそらくこのあたりをアニメ化しても、それは視聴者には面白く思えないだろう、ということだ。
要するに、この辺のテーマは、「自分で自分の想像力の限界を小さくしてはいけない」ということだと思うが、その「改善された」想像の内容が、あきれるほど陳腐では、視聴者はがっかりするだろう、ということだ。そして、それは作者、大童澄瞳自身の想像力の限界を示しているように思う。この程度の話が、作者の「最強の世界」だとしたら第一話で高められた視聴者の期待をかなり裏切ることになるだろう。
この隘路を脱出する道はひとつである。
それは、浅草氏自身が、自分の創作した世界の陳腐さに一度絶望することだ。その上で、過去の名作アニメの世界がいかに「普通の作品」から隔絶したレベルにあったかを再度確認することだ。
つまり、冒頭の「未来少年コナン」との出会いのようなエピソードに戻るのである。たとえば、今敏の「パプリカ」などを引用してもいいだろう。
そうした凄い作品との出会いで、主人公たちは「想像の世界、創造の世界の素晴らしさ」を再確認し、新しく歩き始める。
そうすることで、最後をフェリーニの「8 1/2」のように、登場人物全員が歓喜の中で輪になって踊ることができるだろう。まさに「easy breezy」で終われるのである。
この作品の面白さは、アニメを高校の部活として作る上での様々な困難が克服される過程、つまり、「問題をいかに解決するか」に面白さの半分はかかっていると私は思うのだが、第四巻ではすでにその問題が見えなくなっていると思う。
具体的に言えば、全体の主題そっちのけで描かれた「たぬきのエルドラド」の話が、その創作過程も含め、面白くないということだ。原作者は「平成狸合戦ぽんぽこ」が大好きだということのようだが、「たぬきのエルドラド」は、その生煮えの二次創作でしかないと感じる。
いや、高校生の作品なのだから、それで当然、と言えるわけだが、問題は、おそらくこのあたりをアニメ化しても、それは視聴者には面白く思えないだろう、ということだ。
要するに、この辺のテーマは、「自分で自分の想像力の限界を小さくしてはいけない」ということだと思うが、その「改善された」想像の内容が、あきれるほど陳腐では、視聴者はがっかりするだろう、ということだ。そして、それは作者、大童澄瞳自身の想像力の限界を示しているように思う。この程度の話が、作者の「最強の世界」だとしたら第一話で高められた視聴者の期待をかなり裏切ることになるだろう。
この隘路を脱出する道はひとつである。
それは、浅草氏自身が、自分の創作した世界の陳腐さに一度絶望することだ。その上で、過去の名作アニメの世界がいかに「普通の作品」から隔絶したレベルにあったかを再度確認することだ。
つまり、冒頭の「未来少年コナン」との出会いのようなエピソードに戻るのである。たとえば、今敏の「パプリカ」などを引用してもいいだろう。
そうした凄い作品との出会いで、主人公たちは「想像の世界、創造の世界の素晴らしさ」を再確認し、新しく歩き始める。
そうすることで、最後をフェリーニの「8 1/2」のように、登場人物全員が歓喜の中で輪になって踊ることができるだろう。まさに「easy breezy」で終われるのである。
						前々から心の底でかすかに疑問に思っていたことだが、「知波単学園」の名前があまりに奇妙なので調べてみたら、次のようにあった。なお、千葉に実在するかのような記事もあり、それが嘘なら面白い冗談と言うより犯罪的であると思う。
知波単学園は大日本帝国戦車の学校です。 知波の名前の由来は大日本帝国陸軍主力戦車 通称動く棺桶九七式中戦車(チハ)から来ています。 隊長の名前は西 絹代です。 西は、ロサンゼルスオリンピック馬術で金メダルを獲得した西竹一(バロン西)から来ています。2013/11/30
					
																								知波単学園は大日本帝国戦車の学校です。 知波の名前の由来は大日本帝国陸軍主力戦車 通称動く棺桶九七式中戦車(チハ)から来ています。 隊長の名前は西 絹代です。 西は、ロサンゼルスオリンピック馬術で金メダルを獲得した西竹一(バロン西)から来ています。2013/11/30
	
