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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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昨日一昨日の野球解説が田尾だったので、懐かしくなって田尾のプロフィールをウィキペディアから探したので転載しておく。
実に、野球漫画の主人公のような人物で、高校時代から大学時代、プロ時代、トレードの話、首脳陣との衝突の話などエピソード満載である。
私は彼の大学時代の「二刀流」の頃から興味を持っていて、凄い選手だなあ、と思っていた。今でも、大学野球でこのレベルの二刀流の成績を残した人はほかにいないのではないか。今ならば、ドラフト時点から大騒ぎだろう。顔も端正だし、まさに「主人公」タイプだ。そのほかに、「5打席敬遠」の話とか、いろいろある。
今どきの若い人は彼のエピソードや記録を知らないだろうから、紹介するわけだ。




田尾安志

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

田尾 安志
基本情報
国籍日本の旗 日本
出身地大阪府大阪市西区
生年月日(1954-01-08) 1954年1月8日(63歳)
身長
体重
173 cm
75 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手
プロ入り1975年 ドラフト1位
初出場1976年4月7日
最終出場1991年10月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

田尾 安志(たお やすし、1954年1月8日 - )は、大阪府大阪市西区出身(香川県三豊市生まれ)の元プロ野球選手外野手)・監督野球解説者タレント。現役時代は中日ドラゴンズ西武ライオンズ阪神タイガースに在籍し、現役引退後は東北楽天ゴールデンイーグルスの初代監督を務めた。


 

来歴[編集]

現役時代は俊足巧打の外野手として鳴らした。甘いマスクと華のあるプレー、実直な姿勢などが幅広い年代のファンに愛され、イチローも子供の頃に憧れた選手として名前を挙げている。打席での構えでバットをグルグル回す“円月打法”から広角に打ち分け、安打製造機と呼ばれた[1]


左利き(左投左打・食事も左)だが、ペンのみ右手を使用。


夫人は歌手のMADAM REY(マダムレイ)。子供が3人(男2人、女1人)おり、歯科医師田尾耕太郎は長男。二男はSoushiとして音楽活動・ラジオ関西“MADAM REYのメッチャ★ROCK”でラジオパーソナリティをつとめ、長女もパンダと名乗り(本名は志織)音楽活動に励んでいる。

現役時代[編集]

1972年泉尾高校から同志社大学文学部社会学科産業関係学専攻へ進学する。泉尾高校の野球部は田尾の入部時先輩部員は5人しかいない弱小野球部で、キャッチボールで田尾の球が取れないほどだった。3年の夏には2回戦で近大付属に勝ち、当時もっとも激戦区だった大阪でベスト4になる。同志社大学時代は投手で4番、登板しない日は野手として試合出場することが多かった。大学3年時に春秋2季連続で首位打者になる。関西六大学リーグでは、打者として70試合出場、211打数78安打、打率.370、10本塁打、37打点。投手として35試合登板、14勝3敗、防御率2.12、112奪三振。外野手ベストナイン3度受賞。大学2年時から3年連続で日米大学野球の日本代表に選出された。


1975年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。監督の与那嶺要のコメントが「アンダースロー用の代打で期待している。」と書いてあり[1]、田尾はレギュラー取って3割を打ってやるぐらいの気持ちで入団したという[1] 。実際は4月は代打だけで「二軍でやらせてもらえませんか」とコーチに相談して[1]、二軍に行かせてもらった[1]。大学時代は投手だったので、守備、走塁に関してはまったくプロのレベルに達していなかった[1]。5、6月にきっちり二軍で練習と実戦を積み[1]、一軍でスタメンで起用されるようになる[1]。ルーキーイヤーの1976年新人王に輝く。1982年最多出塁数のタイトルを獲得し、リーグ優勝に貢献。


1982年から1984年にかけて3年連続の最多安打をマークするも、一度も首位打者のタイトル獲得はならなかった(次項にて詳述)。


1985年杉本正大石友好との交換トレード西武ライオンズに移籍し、リーグ優勝に貢献。[2]なお、西武時代の1986年に自身3回目となる日本シリーズ出場で初めて日本一を経験した。


1987年吉竹春樹前田耕司との交換トレードにより学生時代からの念願だった阪神タイガースに移籍。先発出場の機会は減るもののここ一番の強さを発揮し、1988年には、3本のサヨナラ本塁打(うち、鹿取義隆から2本)を打つなど活躍する。1991年、現役引退。

五打席敬遠[編集]

1982年10月18日、田尾は首位打者争いでトップの大洋長崎啓二に1厘差まで迫っていた[3]。この日の大洋対中日は中日のシーズン最終戦で、大洋は田尾に対して5打席連続敬遠を行った[4]。この大洋の行為に対し、田尾は5打席目で敬遠球に対し抗議の意味を込めた空振りを行ったほどだった[4]。一方の長崎はこの試合を含め欠場し、最終的に長崎は首位打者となった[4]


敬遠行為そのものは、この他にも特定の打者への全打席敬遠の例が多数存在し、ルール上認められる行為でもある。ところが、この試合は長崎と田尾の首位打者争いよりもはるかに重要な意味がある試合だったため、この5打席連続敬遠が大きな災いを招く事となる。


試合前の時点で中日は全日程を終えた読売ジャイアンツとゲーム差0で並んでおり、中日が勝つか引き分けなら中日の優勝だが、大洋が勝てば巨人の優勝と、リーグ優勝が掛かった大一番だった[5]フジテレビも急遽、『月曜ナイター 大洋×中日』を放送し、大洋球団主催試合歴代トップ[6][7]となる番組平均世帯視聴率36.5%を記録した。このような試合であったが、大洋は田尾に5打席連続敬遠を行い、走者として出塁した田尾が失点に絡むケースもあり試合は大敗。この結果、中日の優勝が決まった。


世論は中日のリーグ優勝よりも、大洋が勝利よりも個人記録を優先した行為を問題視していた。納得できない多数のファンが試合後に「イニングの先頭打者である田尾へ敬遠した大洋の行為は敗退行為[8]ではないか」と連盟に抗議が集中する事態となった。


「田尾の敬遠だけでは故意に失点させたとはいえず、敗退行為には当たらない」「過去の全打席敬遠の試合との整合性を考慮すると、特定の試合だけを敗退行為として認めるわけにはいかない」などと反論されて抗議は退けられたが、一段落した後も、世論は大洋の行為に疑問を投げかけ、宇佐美徹也は自身の著書「プロ野球データブック」で大洋の行為を糾弾した。


当時大洋監督だった関根潤三は、その後フジテレビの野球解説者として解説者となった田尾と再会し、「当時の大洋では個人成績だけがニュースになる状態だった」と敬遠へ至った経緯を説明し、「時々、あの敬遠の場面を夢に見て目を覚ますことがある」とも打ち明けた。これ以降、関根と田尾との関係が修復された。

 

人物[編集]

野球人として[編集]

柔和な風貌とは対照的に硬骨漢で知られ、上層部相手にも「言うべきことは言う」という姿勢を貫いており、それに纏わるエピソードはとても多い。中日時代は選手会長として球団側に物申す選手であった(人気・実力を持ちながらトレードに出されたのはそれが一因とされる(後述)。また、西武時代には監督の森祇晶が、「清原和博三塁にして、秋山幸二中堅、田尾に一塁を守らせる」構想を練ったが田尾は反対した。そのことがスタメン起用の減少、シーズンオフのトレードに繋がったとも言われるが定かではない。田尾本人は「森監督は勝負師でしたが、僕とは馬が合わなくて、根本さんにトレードに出してくれと直訴し阪神に行くことになったんですよ。」と語っている[1]。阪神時代も、チーム成績が低迷したため若手育成目的の選手起用をする監督の村山実に対し、勝つための野球をすべきであると主張した。田尾によると「その年の開幕前、村山監督に助言を求められ、言いたいことを言ったら、イヤな奴と思われたんでしょう。5月に二軍行きを命じられたんですよ。その時、村山監督がいる間はクビにならないと決めた。僕のエネルギー源でしたね。弱みを見せないで、やる気を前面に出しながら、若手の模範になってやろうと。それで二軍で結果を残して、一軍に上げざるを得ない状況にして、そのあとサヨナラ本塁打を3本打ったんですよ。翌年も1本打っているんですが、僕のサヨナラ本塁打は村山監督の時だけなんですよ」と語っている[1]。徒党を組んだり派閥を作ったりすることも嫌っており、中日時代には当時「犬猿の仲」と噂され、それぞれを筆頭にチーム内が二派に分かれているとも言われた星野仙一谷沢健一の両者ともそれぞれ普通に付き合っていた。


チームが広島と激しく優勝争いをしていた1984年のシーズン中、選手会長として優勝時の年俸アップを球団に打診したが色よい返事が得られなかった。優勝を逸してシーズンが終わった後「お望み通り2位になりましたよ」と球団サイドとの話し合いで発言した[10]。田尾が西武にトレードされたのはそのあとである[11]


阪神に移籍して2年目の1988年には、村山との確執から出場機会が減少したが、その中で代打によるものも含めて3本のサヨナラホームランを放った。シーズン3本のサヨナラ本塁打は当時のプロ野球記録だったが(のち1993年にヤクルトスワローズジャック・ハウエルが更新、現在は5本)、田尾の場合シーズン4本塁打のうち3本がサヨナラ本塁打だった。


現役引退を決断した理由は視力の悪化。体力はまだまだやれる自信があったと後年語っている。


楽天監督時代には三木谷との確執が取りざたされた。監督就任時には田尾が「フランチャイズが仙台なので、ユニフォームに『東北』、『仙台』などの地域名を入れて欲しい」と三木谷に言い、三木谷が「いい案だねえ」と答えたのにもかかわらずユニフォームには地域名は一文字も入ってなかったとのこと。なお、退団後の2010年から「TOHOKU」と入った限定ユニフォームという形でこの案は採用されている。


山崎武司は「田尾監督の指導によるフォームの改造が、楽天時代に好成績を残すことができるようになった要因の一つだと思っています。」と述べている[12]


監督退任後の2006年には『行列のできる法律相談所』にゲスト出演し、監督解任時の交渉について語っている。3年契約の途中で契約を解除だったこともあり、楽天フロントに「残りの契約分は功労金を出すが、楽天に対しての悪口を言えばカットする」という条件を出された田尾は憤慨し「功労金は要らない」と突っぱねた。ただし、2006年の1年分に関しては保障された。

 

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1976中日671831661946633672103001601273.277.344.404.748
197796166152194261668191041900313.276.315.447.762
19781023723394293120111384732232711623.274.327.407.734
19791234193834796221131595005313002667.251.308.415.723
198012249847260141293719734169322011477.299.327.417.745
19811245134627214017615214537115341726211.303.360.463.823
1982129565497921742531424741910735870325.350.416.497.913
198313057450674161263132326197336052505.318.391.458.849
1984130603536941662162025949351035450508.310.371.483.854
1985西武127534477661282151319860142350123310.268.338.415.753
1986106341313428312281232862522011353.265.310.393.702
1987阪神104262249275582685120142710282.221.240.341.582
1988801601402142904632110211760181.300.373.450.823
19898426625220721305100270231901309.286.312.397.709
1990119428386411081401115550212040105613.280.347.402.749
19914093842130101510000900183.155.237.179.415
通算:16年168359775414738156024136149232057458625528467361364493.288.344.429.773
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績[編集]

年度球団順位試合勝利敗戦引分勝率ゲーム差チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2005年楽天6位13638971.28151.588.2555.6751歳
通算:1年13638971.281Bクラス1回

タイトル[編集]

表彰[編集]

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