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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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huluで、1989年松竹映画「226」を見たのだが、かなりの駄作でがっかりである。最後のクレジットで脚本が笠原和夫だと知って、あの名作「仁義無き戦い」の脚本家が、なぜこんなつまらない脚本を書いたのか、と思ったのだが、ここには日本映画の宿疴(本当はやまいだれの中に「阿」の字だが、これで代用)が現れているかと思うので、簡単にメモしておく。
それは、歴史ドラマに女や子供を出す愚かしさ、ということだ。女や子供との関わりを描くことで、他の重要事項が描けなくなる。そして、余計なウェットさ、過度の情緒が出てくる。日本映画独特の臭み、と言ってもいい。そもそも歴史ドラマで重要なのは、権力や闘争の力学であり、ドキュメント性なのである。それを、「人情を描くのが映画だ」と思い込んでいる馬鹿監督や馬鹿脚本家が担当すると、馬鹿映画にしかならない。
226事件は「軍隊における天皇の存在の意味(すなわち統帥権の問題)」や、陸軍内部における権力闘争の問題(すなわち、皇道派と統制派の対立)、当時の日本の置かれた状況(すなわち、満州や蒙古での軍隊の行動と、各国の非難、中国との対立)、日本の国民の生活苦の問題など、さまざまな要因があり、それを描くだけで2時間の尺が一杯になるだろう。226当日のクーデターの計画と実際の齟齬を描くだけでもドラマはたくさんあるはずだ。女子供など出る余地は無い。
これは、NHKの、たとえば「ハゲタカ」を作った製作陣で、ドキュメンタリータッチの「226」を新たに製作してほしいものである。
なお、1989年の「226」の監督は五社英雄で、私はもともと彼を二流監督だと思っていたが、三流監督であると評価を下げることにした。





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