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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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森博嗣の「日常のフローチャート」というブログ記事の一節を転載。
私は森博嗣の小説も人物もあまり好きではないが、エッセイでは非常に正直だと思う。その正直さの原因のひとつは、彼が孤独を好む性格であることだろう。つまり、敵を作り、仲間外れになることが怖くないわけだ。
なお、彼の小説は根本のトリックは馬鹿げたもの(不可能ではないが、「謎のための謎」であり、無意味かつ確率的にはほぼ不可能)が多いが、キャラや事件の描き方が上手い。ただし、そのキャラたちは当然作者の分身なので、「面白いけれど身近にはいてほしくない」キャラが多い。つまり、フィクション内の人物としては優秀ということだ。

なお、資本主義の神々的には人間の「孤独を好む」性向は非常に好ましくないのである。消費は交際によって倍増するとすら言える。私はヴェブレンを読んだことは無いが、「有閑階級の経済学」は、推測するとほとんどが人間が「孤独でない」ことが前提だと思う。つまり、虚栄や虚飾こそが消費を大きく拡大するのである。下の文章の赤字にした部分に関しては、これが「謎の解明」だろう。電通的には「女をターゲットにしろ。そうすれば男もついてくる」というのも同じである。もっとも、今のように急進的フェミのおかげで味噌死に男が増えたら、話も違ってくるだろう。

(以下引用)

【孤独を恐れる人は大勢の中にいる】


 実は、ひとりぼっちの人が孤独なのではない。本当に孤独なのは、大勢の仲間の中にぽつんといる人だ。たとえるなら、田舎や山の中の一軒家ではなく、大勢が暮らしているマンションなのに、隣に誰が住んでいるかわからない一室みたいな存在。距離的には多数の他者に囲まれているのに、周りのみんなが自分にとっては明らかに無関係だ、と感じる。真面目な話ができない、話が噛み合わないし、みんなが秘密を持っている、それをけっして明かさない。仲間はいるけれど、これが本当の「親しさ」だろうか、と疑問を抱く。

 まず、孤独を感じるのは、この「親しさ」への幻想があるためで、いうならば、「他者への期待」が根元となる。「親しい他者」の虚像を信じている。そういうものが存在すると何故か思い込んでいる。それは、神を信じるようなものであり、根拠はまったくない。しかし、子供の頃から見せられてきた数々のフィクション、ドラマ、映画、漫画、小説などに描かれているものだから、絶対にこの世に存在すると信じている。神や超能力などの超自然現象と同じくファンタジィでありSFなのだが、周囲の誰もが信じているように見えるし、そう振る舞うから、いつまでも期待してしまう。自分の前にも「親しさ」がやってくる、と待っているのだ。つまり、この状態が「孤独」というものの正体である。


 仲間と一緒にいて安心できる人は、一人でいる人を見て、「寂しそうだな」と感じるし、一方、一人で楽しんでいる人は、仲間と一緒にいる人を見て、「つき合わされて可哀想だな」と感じる。いずれの立場にいても、自身の境遇が良いと感じる人は多い。でも、一部の人は、逆の立場へ憧れを持っている。仲間と一緒にいても、「こんなグループからは早く抜け出して、一人でのんびり過ごしたい」と感じる人はいるし、一人でなにかをしていても、「大勢で一緒に楽しめたら良いな」と感じる人もいる。

 そういった個々の立場、それぞれの感覚を無視して、一人だと孤独だ、と決めつける場合があって、特にマスコミなどは、そういった勘違いをしやすい。勘違いではなく、なにかスポンサを配慮して故意にイメージを捏造している可能性もある。マスコミというのは、このような意図的な捏造を長年にわたって続けて、それを自分たちでも信じてしまうようだ。
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大岡昇平の「食欲について」という短文の中に、こういう一節がある。

「素人は戦場において職業軍人より軍人らしいことがよくある。愛国の観念が軍隊のシニスムで毒されていないからである。」

シニスムはシニシズムと同じで、「冷笑主義」のことだが、軍隊に限らず、プロはしばしば自分の仕事へのシニスムを持つものだろう。その仕事の内容と限界を熟知するからである。
だが、こういう「軍人のシニスム」を描いた映画は少ないようだ。いや、昔の日本映画には案外多かったのだが、それは大岡昇平と同様、素人が軍隊体験をした例が膨大にあり、多くの兵士が軍隊の現実を知っていたからだろう。よく知られているのが、「弾は前からばかり来るとは限らねえぞ」という言葉だ。軍隊で上官に抑圧されている古参兵士が、戦闘の時にその上官を背後から撃ってもおかしくない、ということである。
最近のアニメなどでも中世西洋的異世界での戦争が話の一部になることがあるが、そういう「軍隊の、あるいは軍人のシニスム」のエピソードを見たことはない。それを描けば抜群のリアリティが出せると思う。これはロボット戦争アニメでも同じである。たとえば「ガンダム」などでそれが描かれたことがあるだろうか。おそらく、制作陣に戦争経験者がいないから無理だろう。
私の別ブログから転載。まあ、どちらかのブログが突然弾圧された場合の保険である。あるいは、既に転載したかもしれない。

(以下自己引用)

笑いのメカニズム


思想、思想の断片、考えるヒント 2024年05月20日
笑いのメカニズム



1 笑いは優越性に基づく。この優越性は「主観的」なもので良い。下僕は主人より社会的には下位だが、主人の失敗を見て笑う時、彼は心理的に主人に優越しているのである。



2 笑いは心理的攻撃である。笑うことによって、彼は自分の優越性を確認する。これはまたナルシズム(自己愛)の満足である。自己の優越を確認することで、彼の自己愛が満足させられるのである。



3 したがって、笑いは自然が人間に与えた「生きる武器・防具」の一つである。ナルシズムそのものが人間を外界や境遇の攻撃から彼を守るように、笑いも彼を守る。



4 笑いの共有は、「犠牲者」を要する。その犠牲者が権威ある者、上位者であるほどその笑いの効果は大きいが、また笑うことの危険性もある。こうして「オブラートにくるんだ笑い」が生まれる。比喩や寓話による笑いなどはその原初的なものであり、風刺はその発展的なものである。



5「攻撃としての笑い」は、知られざる相手の弱点を表にさらけ出すことで作られる。相手の肉体的欠点を笑うのはその初歩的なものである。それが事実であるだけに、この攻撃は避けようが無く、これは初歩的だがもっとも残酷な笑いでもある。それに続いて、相手の性癖、仕草、言葉癖なども、少しの誇張によって笑いの攻撃対象となる。



6 笑いの気持ち良さは、笑う自分が笑われる相手より上にいることからも来るが、それ以前に、笑い自体が生理的に気持ちいいのである。それは3で述べた、自然のプレゼントだろう。満足した赤ん坊が笑うように、最初、笑いは気持ち良さの無意識の表現であったが、それが「笑うから気持ちよい」という自動的連結になっていったのである。



7 レナード・ファインバーグの『ユーモアの秘密』に、「単純な虐待は子供にも未開人にも面白い」という言葉があるが、この事実の持つ意味が、上記の1~5に述べたことなのである。「ユーモア」の定義にもよるが、「笑い」そのものは相手を引き下げる行為以外の何物でもないのである。したがって、笑われる当人にはその事が相当の苦痛であることも当然である。



8 ビート・たけし曰く、「俺は笑わせるのは好きだが、笑われるのは嫌いだ」~この言葉も、上記の事実からは当然である。しかし、演技によって自分自身を笑いの対象とすることは、けっして本人が笑われているのではなく、「架空の自分」が笑われているのであるから、この「笑われる苦痛」からは免れることになる。



9 セックスや糞尿の話などのいわゆる「下ネタ」は、どのような気取った人間でも免れられない「人間の動物性」を明るみに出すがために、もっとも確実に笑いを生む。しかしこれは特定の人間への攻撃ではなく、「人間」そのものが攻撃対象となるために、こうしたジョークに笑う当人たちもその攻撃から免れてはいない。したがって、こうした下卑たジョークに苦い顔をする人々が多いのも当然である。



10 下ネタと同様に確実に笑いを生むのが「ずっこけ」、つまり思いがけない転倒である。これは「人間の物体性」を顕在化することから生じる笑いである。同様に「死体を物として粗雑に扱うことから生じる笑い」(映画『毒薬と老嬢』、落語の『らくだ』『黄金餅』など)も「人間の尊厳」を踏みにじる面白さなのである。人間の尊厳についての偽善的弁舌に飽き飽きしている我々は、そうした偽善への攻撃を楽しんでいるわけだ。



11 リチャード・シェリダン曰く、「ウィットが面白くあるためには悪意に満ちていなければならぬ」 (上記『ユーモアの秘密』より)



12 笑いには、我々の潜在的不満の解消という積極的効果もある。我々は事実上自分に優越する人々を笑う(あるいは主観的に見下すことで)ことで、毎日の惨めな生活への不満を一時的に忘れるのである。そして、あるいはこれは社会全体を破滅から救っているかもしれない。



13 ウィル・ロジャース曰く、「何事であれ面白い。ただしそれが他人に起こることであれば」(『ユーモアの秘密』より)



15 ユーモア(笑い)の原則=1.意外さ 2.価値低下(見下し)



14 ユーモアの方法その1「誇張と歪曲」



15 ユーモアの方法その2「意外な連想・結びつけ」



16 ユーモアの方法その3「論理的逆襲」つまり、相手の論理を利用して逆に相手への攻撃とすること。抜群の機転が必要。



17 ユーモアの方法その4 「ナンセンス・意味への反逆」


元コメント(ツィートか)もそれに対するコメント(青字にしておく)も、どちらもかなり問題のある発言だと思うが、現在の日本のアモラル(無道徳)な一面の指摘になっているかと思うので転載する。
まあ、他人にあれこれ言うより、個々人が考えるべき問題だ。
私としては、元コメントのパートナーを非常に立派な人間だと思う。そして、投稿者を下種っぽいと思う。それをやわらげて言えば、男らしい男と女らしい女の「モラル」に関する生物的相違だろうか。女性は、「まず生存(現実)が第一」であり、男は「理念先行」なのである。理念は無謀さにもつながる。けっして後者(男らしさ)だけを肯定するわけではない。そして女性にも理想主義的行動をとった英傑はたくさんいる。

(以下引用)


anond:20250201051214言及先エントリを閉じる
■正義感と息苦しさ
パートナーは見た目もタイプで優しくて思いやりがあって、一緒にいるといつでも楽しい。3年一緒にいて、喧嘩したことはない。

けど、正義感が息苦しい。

店で大声で店員に文句を言っている場面を見かけると必ず仲裁をしにいくし、信号が赤だとどんな場合でも渡らない(夜中の全く車が通らない所でも)、ゴミ捨ての分別はプラスチックゴミをわざわざ保管してまでやる、おそらくポイ捨てしたであろう人にわざわざ落としましたよとゴミを渡しに行くとか、見ていたテレビで容姿についていじられている芸人を見ると不愉快だとチャンネルを変える、とか。


他にも、確かに人としては正しい寄りだとは思うけどそこまでやる?みたいなことが多々ある。

こうしろ、ああしろと言ってくることはないけど、こうしないとなのかなと思うと息苦しい。


一度だけ、文句を言っている客と店員の仲裁に行った後に危ないからやめてほしいと伝えたことがある。

危ないかもしれないけど、あれを見るのが不快だし、関係のない第三者だから仲裁できるんだよと言っていた。

(正直これは正しいというより気持ち良くなってないか?とも思う、仲裁に行っている間は自分は遠くから眺めているだけ)

ポイ捨てする人にゴミを渡しに行くのを見た時、そんなことしなくていいよと言うと、やりたいからやってると笑ってた。


少し行き過ぎな気もするけど、パートナーの何かが悪いと思うことでもないから自分の中での消化が難しい。

今後耐えられなくなったりするんかな




あなたの考えはいわゆる「弱者を見殺しにして権力にばかり媚びへつらう意地悪で幼稚な国民性」「怠惰でおとなしい愚民」と呼ばれるものだと思う。

日本人はとにかく意地悪で不親切で、幼稚で愚か。




店で大声を言う人間に必ず仲裁をしにいく人が少なく全員が店員を見殺しにするからカスハラ世界一のスゴイ国になったし、


国民のゴミ捨ての分別などの環境保護意識が後進国レベルの低さだからSDGEs達成度は他国にめちゃくちゃ遅れをとっている。



ポイ捨てしたであろう人に落としましたよとゴミを渡しに行く人もいない、見て見ぬ振りで何もしない事を賢いと誇るバカばかりだから他国と比べてもずば抜けて民度が低い




容姿いじりをキャンセルするような高い精神性を国民どもが持たないから、いつまで経っても市場に自浄作用がなく、何十年も永遠に課題が解決されない。

全てはこの人のような「何もしないのが1番いい、賢く安全」と思い込んでる奴が多いから。

自分たちの手で作った人権後進国である
このブログの「人生論」的なシリーズの中でも書いたが、社会に生きていく上では嘘と演技の能力はほぼ必須であり、その能力が無いと、社会の落伍者になるわけだ。私などは嘘も演技も苦手で、その能力を身につけるのも面倒くさいので、一生(精神的には子供のまま)、社会の底辺で生きていく決心を20代で決めている。正確には、大学を中退した時点で決めている。それが「子どもの精神のまま生きていくことだ」と気づいたのは、たぶん、このブログを書き始めたころだろう。つまり、開き直りである。
社会というのは他者との関係が必須なので、他者の機嫌を取り、他者を自分の都合のいいように動かすのに正直一方では無理なのである。嘘をつくとは、ある面では「相手に合わせる」ことで、努力が必要なのだ。まあ、それが生まれつき容易にできるサイコパスもいるが、だからといって、正直な自分が偉いということにはならない。単に怠惰であることが多いわけだ。そもそも、嘘をつくには、いろいろと記憶し、嘘の整合性をつける知力が必要なのである。頭の悪い人間の嘘は、ついたそばからぼろぼろバレていく。

昔、予備校で教師をしていたころ、生徒のひとりが、全国模試でちょっと信じがたい成績を取ったことがある、と私との雑談で言ったのだが、それに感心して、後で同僚との雑談の中でその話をすると、その同僚は(非常に頭のいい人だったが)「フカシだよ、フカシ」と笑いながら、即座に言ったので、驚いたことがある。そういう無意味な嘘を生徒が教師に言うことも、その同僚が即座にそれを嘘だと見抜いたことも、私には信じがたいことだったのである。そこが、私が「子ども頭脳」であるゆえんだ。世間では、嘘というのがごく日常的であり、周囲もそれを見抜いているわけだ。たぶん、私に嘘をついた生徒は、私がその嘘を見抜けない馬鹿だと分かっていたのだろう。

まあ、そういう物事に慣れるのが「世慣れる」ということである。世渡りの上手い人は、それ自体、つまり世渡り行為自体を楽しんでいるのだろう。そして、自分が騙した相手を、「こいつ、馬鹿だな」と考えて楽しむわけだ。まあ、正直さは馬鹿と紙一重であり、それはトルストイの「イワンの馬鹿」という童話(民話)で描かれているが、長年生きてきて、自分が馬鹿だと分かったのは、私はごく最近なのである。「汝自身を知れ」というのは、なかなか困難なようだ。

「富とは自由に処分できる時間のことなのであって、それ以外のなにものでもない」



これはマルクスの言葉らしいが、私もこれに賛成である。しかし、これには大前提があって、「生きるのに必要な金銭が保証されている」ことだ。
つまり、生活保護を受けている者や年金老人こそが、この世で一番豊かな人間だということだ。ただしこれはあくまで「生きるのに必要なカネが」保証されているという話であり、「贅沢するのに必要なカネ」の話ではない。

モームの「世界の十大小説」の中の、大小説家たちの伝記部分を読むと、バルザックもドストエフスキーもカネが入るようになると、まったく無駄で無意味なカネの使い方をして大散財するのである。それが癖になるのか、借金してまで浪費するのである。
もともとの貴族であり、カネに不自由はしなかったトルストイも、カネのロクな使い方はしなかった。彼らには「カネを持つ意味」は無かったのである。なぜなら、彼らは素晴らしい「脳内世界」を持っていて、それを小説として書くだけで十分であり、実はカネを持つ必要性など無かったからである。
高橋留美子などは「漫画を描くより楽しいことってあります?」と言ったそうである。賢者の言である。この言葉は、清少納言が「一番の幸福は白い紙を得た時だ」と言っているのと同じである。つまり、この紙に何を書こうかと考えるのが一番の幸福だったわけだ。
「内田樹の研究室」所載の「知性について(仮題)」の後書きの一部だが、私は内田樹という人物を今ひとつ信頼できないような印象を持っているが、まあ、それは現代のあらゆる「知識人」に対する私の偏見だろう。
で、この引用文に書かれた思想は、私も100%同意する。そもそも、人類の文化はすべて先人の文化を土台として生まれたもので、知識には所有権も、そして本当は「著作権」もありえない、というのが私の思想である。模倣者が出ても、それによって「オリジナル」の受ける迷惑は知れたものだ。で、原理的にはその「オリジナル」も、その土台になる先人の創作物があるわけだ。

(以下引用)

 21世紀に入って日本が知的生産において著しく劣化した最大の理由は、みんなが「自分はどれくらいものを知っているか」「自分はどれくらい賢いか」を誇示し、他人をおしのけて権力や財貨の「割り前」に与ろうと競争しているからです。そんなこと、すればするほど集団的な知性は衰えてゆく。どうしてそれに気がつかないんでしょう。
 自分がどれくらいものを知っているかとか、自分がどれくらい賢いかなんて、どうだっていいじゃないですか。自分の所有する知的な財があったら、それは共有地に供託して、みんなに使ってもらう。自分もみんなが供託してくれたものを使わせてもらう。それが知的に豊かな社会だと僕は思います。
 同意してくれる人はまだまだ少数ですけれども、これからも僕はそう訴え続けるつもりです。みなさんもそういうふうに考えて下さるとうれしいです。

2025年1月
内田樹
北野武(ビートたけし)のインタビュー記事の一部である。インタビュアーは渋谷陽一。


ーーそれはやっぱり、たけしさん的な恋愛観というか、人生観が色濃く反映されてますよね。

「うん。なまじね、過去を悔いてね、いい人になろうなんて思った奴はたいてい癌かなんかになって死ぬんだよ」

ーーははははは!

「大体、『仏心』なんだから、仏になっちゃうんだから(笑)。それは駄目だろうっていうかさ、だからもう、いいことあると警戒する。イヤなことは意外にサウナ入ってるようなもんでさ」

ーーははははは。

「耐え忍んだら気持ちいいっていう。要するに、酷い目に遭って解放されたときがいいわけじゃん? すっと人間が生きてて解放されるって、くたばるときなんだから」
私は「義務」と「責任」という言葉が大嫌いで、したがって、仕事も常に嫌いだった。学校時代は学校に行くのも嫌いだったから、この年まで生きられたのは奇跡のようなものだが、10代くらいのころは、自分は20歳まで生きられそうな気もしなかった。
大学に入ることは入ったが、そこもつまらなかったし、また学業をさぼることに罪の意識が常にあったので、いつも鬱屈した気分だった。大学を中退して常にその場しのぎの仕事をしているうちに今の年になって、今は「したくないことはしないですむ」から人生最高の時である。カネはあまり無いから贅沢はできないが、もともとそういう欲望はゼロであるから問題はない。性欲も無いからその方面の焦燥感もない。貧しいながら日々を生きるだけの生活費は一応あるので、それ以上は欲しいものは無い。

本題に戻る。私の前半生の問題は、常に「したくないことをする義務がある」ことだったわけだ。学生時代は勉強、社会人になってからは仕事である。この両者の中では後者のほうがややマシだろうか。というのは、仕事は生命維持に直結するので、とにかくやるしかないからだ。仕事自体が面白いとかやりがいがあると思ったことは一度もないが、そういう仕事への夢想を捨てれば、我慢することはだいたいできると思う。仕事とはそれが当たり前ではないか? ビジネス書が教える「仕事のやりがい」というのは、経営者を儲けさせるだけのことだろう。つまり、低賃金で馬車馬的に働く労働者を大量に生産するのだから。

まあ、資本主義社会というのは文字どおり、「資本」が生命のようなもので、最初から資本を持って生まれた層しか上級国民にはなれないわけだ。戦後日本の、貧困から立身出世した偉人たちというのは、時代の産物で、階級が固定した後には、最初から資本が無い人間が上に行く機会は、ゼロではないが、ごく少数だろう。それも、数知れない競争に勝った場合のことだ。中にはライバルを蹴落とすために悪辣な手段を取る者もいるだろう。つまり、下層社会は「蟲毒」であり、その中で勝ち残った最強の毒虫が上に上がる、ということだろうか。欧米資本主義国家がすべて無残な状態になっているのは資本主義の必然かもしれない。日本も当然、そうなりつつある。

まあ、個人の問題と社会の問題をごっちゃにした話になってしまったが、本題に戻るなら、私があれほど「義務」と「責任」が嫌いだったのに対して、世間の人の多くはあまりそういう気持ちを持たないように見えるのが不思議なのだが、それはおそらく私が異常に生真面目で、「義務」と「責任」を過大に考える性質だったからだと思う。
つまり、世間の人間の大半はそういうプレッシャーがさほどなく、失敗しても「笑って済ます」連中が普通だったのではないだろうか。もちろん、重大な仕事での失敗は笑いごとではないが、それでも命までは取られない。首になるだけだ。で、私のように何度も転職した人間が、義務と責任を重大視するのは、かなり頭が悪かったと言えそうだ。とは言っても、傍から見たら私は無責任極まる人間に見えた可能性は大であるwww

人間の自己評価と他者による評価は大きく違うのが普通で、だいたいは後者のほうが客観的なのであるからwww


「感動ポルノ」という言葉は秀逸な言葉だと思うし、私もしばしば使うが、何が「感動ポルノ」に当たるのかという定義は見たことがないので、私が定義する。
それは「視聴者や読者を感動させる狙い」が最初からあざとく見え透いているドラマである。「JIN」の演出、具体的には背景となる風景の使い方や「感動シーン」での音楽の使い方にそれは明白だろう。俳優の大袈裟な表情、演技は言うまでもない。

一方、「感動的な作品」、あるいは「心から感動するドラマ」には、そういう「あざとさ」や「いやらしさ」が無いし、そもそもで言えば、作り手や書き手自身がそのドラマに感動しているからそれを作り、書いた、という作品だ。
「ハンター×ハンター」のキメラアントの王の死と、それを看取るコムギのシーンは、作者の富樫自身が感動して泣きながら描いたと思う。そうでないなら、彼は「芸術の悪魔」だ。

もちろん、その中間の作品も無数にあり、「感動ポルノ」と「感動作」を分類するのは容易ではなく、見る人の感性次第である。

ついでに言えば、私は「芸術の悪魔」を否定しているわけではない。芸術の天才はしばしば芸術の悪魔でもある。悪魔とは科学者的な冷徹さの謂である。人間を「高みから見下ろしている」わけだ。また、天才でなくても、映画やテレビドラマのような総合芸術だと、集まった才能の化合で傑作が生まれることもある。映画「第三の男」などがそれである。
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