ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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小島アジコさんによる「銃・病原菌・鉄」のさわりの要旨である。
まあ、これだけ知っていれば、同書を読む必要もないのではないか? www
もっと詳しく言えば、欧州は家畜飼育が早い段階から始まったため、家畜由来の伝染病への耐性が身に付き、それが他人種を侵略する際に非常に有利だったということである。(私流に付け加えれば、タンパク質摂取量が圧倒的に優れていたので、体力的にも体格的にも有利になったわけで、これも家畜飼育文明の恩恵だろう。)
(以下引用)
今までの話で、わかってもらえたと思いますが、『ヨーロッパの人間が文明を発達させ、また他の地域を侵略できたのは、生まれ持った環境によるところがとても大きい』ということです。農耕に向いている土地に、たまたま農耕向きの作物が増えていて、また水平に行き来できる距離も大きかったから技術やほかの地域の農作物を利用できるチャンスも多かった。
なので、その分、社会や技術を発生、改良させるチャンスに恵まれ、結果、アメリカやその他の地域を侵略できた、ということです。
まあ、これだけ知っていれば、同書を読む必要もないのではないか? www
もっと詳しく言えば、欧州は家畜飼育が早い段階から始まったため、家畜由来の伝染病への耐性が身に付き、それが他人種を侵略する際に非常に有利だったということである。(私流に付け加えれば、タンパク質摂取量が圧倒的に優れていたので、体力的にも体格的にも有利になったわけで、これも家畜飼育文明の恩恵だろう。)
(以下引用)
今までの話で、わかってもらえたと思いますが、『ヨーロッパの人間が文明を発達させ、また他の地域を侵略できたのは、生まれ持った環境によるところがとても大きい』ということです。農耕に向いている土地に、たまたま農耕向きの作物が増えていて、また水平に行き来できる距離も大きかったから技術やほかの地域の農作物を利用できるチャンスも多かった。
なので、その分、社会や技術を発生、改良させるチャンスに恵まれ、結果、アメリカやその他の地域を侵略できた、ということです。
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昔々の話だが、戦後しばらくは漫画もアニメもまだ成長途上で、テレビの子供向け番組には「人形劇」というのがあった。わりと最近でもロシアの「チェブラーシカ」などは一種の人形劇と言ってもいいだろう。昔の日本の人形劇はそれより原始的なもので、「指人形」や、あるいは糸や針金で操る人形による人形劇が大真面目に放映されていたのである。
その中の大傑作に「ひょっこりひょうたん島」というのがあったのを記憶している年代のご老人も多いだろう。脚本がなにせ、あの井上ひさしである。他の脚本家もいたと思うが、とにかくあの有名な主題歌の作詞も井上ひさしである。高畑勲が或るアニメ(今題名を思い出したが、「思ひ出ぽろぽろ」である。)の中で使ったことでも有名かもしれない。
その中の凄いフレーズが、(おそらく高畑勲が使った理由も、このフレーズにあると思うが)
「泣くのはいやだ、笑っちゃお」というフレーズである。
このどこが凄いのか。
あなたは、泣きたい時に、笑えるか?
泣くというのは、泣く原因があって泣くのである。
ところが、その時に、何の笑う原因もないのに笑うというのは、凄い飛躍なのである。いわば、これも昔の言葉だが、実存主義的な「投企」と言ってもいい。人生が不条理だからこそ、その中に我が身を投げ込むわけだ。つまり、理由などなくても、自分が望む行動をすればいい、ということだ。ある意味「合理性や理性的計算」への反逆である。
そして、おそらく現代の心理学はこの事実を既に言っていると思うが、「人は泣くからいっそう悲しくなり、笑うから愉快になる」のである。さらに言えば、泣くのもひとつの快感でありカタルシスだから、人は泣くのである。だが、そこで頑張って「泣くのはいやだ、笑っちゃおう」というのは豪傑的な生き方、英雄的な生き方だとも言える。それによって、人生が前向きになる。
これが「泣くのはいやだ、笑っちゃおう」という簡明なひとつのフレーズが示すことである。
もしかしたら、あの日本の戦後の異常な発展と高度成長の原因として、人々の心の中に無意識的にこのフレーズがあったのかもしれない。
そして今は……。
その中の大傑作に「ひょっこりひょうたん島」というのがあったのを記憶している年代のご老人も多いだろう。脚本がなにせ、あの井上ひさしである。他の脚本家もいたと思うが、とにかくあの有名な主題歌の作詞も井上ひさしである。高畑勲が或るアニメ(今題名を思い出したが、「思ひ出ぽろぽろ」である。)の中で使ったことでも有名かもしれない。
その中の凄いフレーズが、(おそらく高畑勲が使った理由も、このフレーズにあると思うが)
「泣くのはいやだ、笑っちゃお」というフレーズである。
このどこが凄いのか。
あなたは、泣きたい時に、笑えるか?
泣くというのは、泣く原因があって泣くのである。
ところが、その時に、何の笑う原因もないのに笑うというのは、凄い飛躍なのである。いわば、これも昔の言葉だが、実存主義的な「投企」と言ってもいい。人生が不条理だからこそ、その中に我が身を投げ込むわけだ。つまり、理由などなくても、自分が望む行動をすればいい、ということだ。ある意味「合理性や理性的計算」への反逆である。
そして、おそらく現代の心理学はこの事実を既に言っていると思うが、「人は泣くからいっそう悲しくなり、笑うから愉快になる」のである。さらに言えば、泣くのもひとつの快感でありカタルシスだから、人は泣くのである。だが、そこで頑張って「泣くのはいやだ、笑っちゃおう」というのは豪傑的な生き方、英雄的な生き方だとも言える。それによって、人生が前向きになる。
これが「泣くのはいやだ、笑っちゃおう」という簡明なひとつのフレーズが示すことである。
もしかしたら、あの日本の戦後の異常な発展と高度成長の原因として、人々の心の中に無意識的にこのフレーズがあったのかもしれない。
そして今は……。
今年亡くなったばかりの松岡正剛のブログ記事の一節で、プルーストの小説の有名なエピソードのような話である。まあ、フロイドなら「当たり前だ」と言うところだろう。我々の意識は無意識のほんの上皮でしかないのである。
別の言い方をすれば、「無意識の思考があるからこそ意識の連続性がある」わけだ。そうでなければ、我々は朝目覚めるたびに別人になっている。我々は自分の記憶の倉庫自体を見ることはできないのである。その倉庫が無意識だ。それは寝ている間も活動している。
(以下引用)
ポアンカレは書いている、「突如として啓示を受けることはある。しかしそれは無意識下で思索的研究がずっと継続していたことを示しているのだ」。
別の言い方をすれば、「無意識の思考があるからこそ意識の連続性がある」わけだ。そうでなければ、我々は朝目覚めるたびに別人になっている。我々は自分の記憶の倉庫自体を見ることはできないのである。その倉庫が無意識だ。それは寝ている間も活動している。
(以下引用)
ポアンカレは書いている、「突如として啓示を受けることはある。しかしそれは無意識下で思索的研究がずっと継続していたことを示しているのだ」。
「悪役令嬢転生おじさん」は私も今期一番好きなアニメで、毎回楽しんで見ている。
善と悪の力関係で言えば悪のほうが強いのは明白だから、若い人は悪に憧れ、その種の(「悪の魅力」や「悪の勝利」を描いた)小説やアニメを好むだろうが、悪というのは本来残酷であり悲劇を生むものなのだから、悪を魅力的に描いた作品を娯楽とする自体、「悪への不感症」を育てる反社会的行為であり、若さゆえの愚行とも言える。悪に肯定的であること自体、既に悪の一歩手前なのである。だから愚行と言うのだ。
「深淵を見る者は深淵に見つめ返される」のだが、深淵は深遠でも何でもない。悪(沼)に近づく者はその泥に足を取られ、深淵の中に沈む。
一生、人を殺し続ける人生は楽しいか? 法網から逃げ続ける逃走の人生は楽しいか? お前は逃げ切る能力や運が自分にはあると思うのか? 悪を肯定し応援する自分は賢いとかカッコイイと思うのか?
(以下引用)
悪役令嬢転生おじさん、作者が実際にアラフィフ&児童漫画出身の人で、「歳をとって悪意を描くのがしんどい」「この歳になると、この世にはちゃんとしたおじさんが普通に存在することを知っている」という理由で、優しく良識ある光の悪役令嬢モノだった話
悪役令嬢転生おじさん
悪役令嬢
上山道郎
転生
異世界転生
マンガ
ファンタジー
宙兎 渦(ちゅうと うず)☔️
@uzu_tyu
インターネットで生きてる|雑談・ネタ・イラスト・音楽(邦69/ボカロetc)・TRPG・ゲーム・AI等|BL/GL/男女CP有|連投多|手ブロ→tegaki.pipa.jp/122559
lit.link/kagitozu
宙兎 渦(ちゅうと うず)☔️
@uzu_tyu
悪役令嬢転生おじさん、作者が実際にアラフィフ&児童漫画出身の人で、「歳をとって悪意を描くのがしんどい」「この歳になると、この世にはちゃんとしたおじさんが普通に存在することを知っている」という理由で、優しく良識ある話になってて、ハッピーエンドにするとも公言されてる
光の悪役令嬢モノ
2025-01-18 13:45:22
悪役令嬢転生おじさん(1) (ヤングキングコミックス)
上山道郎
目次
「悪役令嬢転生おじさん」の上山道郎先生
みんなの反応
わかる
ハッピーエンドがいい
優しい話がいい
加齢と共に露悪的な作品を受け付けなくなる
子育て解像度の高いおじさん
「リゼロ」「チ。」との比較
上山道郎先生のマンガ
機獣新世紀ZOIDS
怪奇警察サイポリス
アニメについて
読みたくなる
「悪役令嬢転生おじさん」の上山道郎先生
リンク Wikipedia
上山道郎
上山 道郎(うえやま みちろう、1970年5月14日 - )は、日本の漫画家。埼玉県出身。男性。同じく漫画家の上山徹郎は実弟である。代表作に『機獣新世紀ZOIDS』『ツマヌダ格闘街』など。 デビュー前は主に樫本学ヴのアシスタントをしていた。1990年に『怪奇警察PSY-POLICE』で第27回小学館新人コミック大賞児童部門(第20回藤子不二雄賞)の佳作を受賞し、同作が同年12月発売の『月刊コロコロコミック スーパー新年増刊』(小学館)に掲載されデビュー。その後『別冊コロコロコミック』(小学館)1991年8
善と悪の力関係で言えば悪のほうが強いのは明白だから、若い人は悪に憧れ、その種の(「悪の魅力」や「悪の勝利」を描いた)小説やアニメを好むだろうが、悪というのは本来残酷であり悲劇を生むものなのだから、悪を魅力的に描いた作品を娯楽とする自体、「悪への不感症」を育てる反社会的行為であり、若さゆえの愚行とも言える。悪に肯定的であること自体、既に悪の一歩手前なのである。だから愚行と言うのだ。
「深淵を見る者は深淵に見つめ返される」のだが、深淵は深遠でも何でもない。悪(沼)に近づく者はその泥に足を取られ、深淵の中に沈む。
一生、人を殺し続ける人生は楽しいか? 法網から逃げ続ける逃走の人生は楽しいか? お前は逃げ切る能力や運が自分にはあると思うのか? 悪を肯定し応援する自分は賢いとかカッコイイと思うのか?
(以下引用)
悪役令嬢転生おじさん、作者が実際にアラフィフ&児童漫画出身の人で、「歳をとって悪意を描くのがしんどい」「この歳になると、この世にはちゃんとしたおじさんが普通に存在することを知っている」という理由で、優しく良識ある光の悪役令嬢モノだった話
悪役令嬢転生おじさん
悪役令嬢
上山道郎
転生
異世界転生
マンガ
ファンタジー
宙兎 渦(ちゅうと うず)☔️
@uzu_tyu
インターネットで生きてる|雑談・ネタ・イラスト・音楽(邦69/ボカロetc)・TRPG・ゲーム・AI等|BL/GL/男女CP有|連投多|手ブロ→tegaki.pipa.jp/122559
lit.link/kagitozu
宙兎 渦(ちゅうと うず)☔️
@uzu_tyu
悪役令嬢転生おじさん、作者が実際にアラフィフ&児童漫画出身の人で、「歳をとって悪意を描くのがしんどい」「この歳になると、この世にはちゃんとしたおじさんが普通に存在することを知っている」という理由で、優しく良識ある話になってて、ハッピーエンドにするとも公言されてる
光の悪役令嬢モノ
2025-01-18 13:45:22
悪役令嬢転生おじさん(1) (ヤングキングコミックス)
上山道郎
目次
「悪役令嬢転生おじさん」の上山道郎先生
みんなの反応
わかる
ハッピーエンドがいい
優しい話がいい
加齢と共に露悪的な作品を受け付けなくなる
子育て解像度の高いおじさん
「リゼロ」「チ。」との比較
上山道郎先生のマンガ
機獣新世紀ZOIDS
怪奇警察サイポリス
アニメについて
読みたくなる
「悪役令嬢転生おじさん」の上山道郎先生
リンク Wikipedia
上山道郎
上山 道郎(うえやま みちろう、1970年5月14日 - )は、日本の漫画家。埼玉県出身。男性。同じく漫画家の上山徹郎は実弟である。代表作に『機獣新世紀ZOIDS』『ツマヌダ格闘街』など。 デビュー前は主に樫本学ヴのアシスタントをしていた。1990年に『怪奇警察PSY-POLICE』で第27回小学館新人コミック大賞児童部門(第20回藤子不二雄賞)の佳作を受賞し、同作が同年12月発売の『月刊コロコロコミック スーパー新年増刊』(小学館)に掲載されデビュー。その後『別冊コロコロコミック』(小学館)1991年8
「だいなし狐の日常」というブログから転載。実に頭脳明晰な人である。なお、「ロマンチックイロニー」は漱石の「三四郎」の中で言及されているが、おそらく日本で理解している人はほとんどいないと思われる。(イロニーは「アイロニー」と同じ。)
(以下引用)
ロマンティック・アイロニーとは何か
ロマンティック・アイロニー(ロマン主義的アイロニー)とは何か?
インターネットで検索しても十分な情報が出てこないから、キツネが簡単に紹介しよう。
そもそもロマン主義というのは、啓蒙主義、古典主義への対抗言論(カウンタースピーチ)だった。これら(啓蒙主義、古典主義)が依拠するのは近代西洋の合理性。すなわち、科学的理性の力によって、人間も、社会も進化していくという、ある意味、盲目的な信仰だよ。近代合理主義の特徴は、世界は計算可能であり、それゆえに操作可能、設計可能であると信じることだった。
これに対してロマン主義が主張したのは、人間というのは狭苦しい理性の殻に囚われるだけの存在ではない、そこには想像力の翼があり、自由な意思の躍動があり、感情の沃野がある。つまり、理性によって説明し尽くされることのない〈感性〉こそが人間の本質、人間性の正体だということだ。近代合理主義への批判は二つの世界大戦の過程で先鋭化した(ダダイズム、シュールレアリスム、不条理劇)けれど、その先駆けとなったのがロマン主義なんだね。
さて、肝心のロマンティック・アイロニー。その主唱者はドイツ・ロマン派最大の理論家、フリードリヒ・シュレーゲルだ。彼は、近代合理主義の閉塞感、計量可能な〈有限性〉のイメージに囲い込まれた近代人の思考を解き放つためには、この壁を破壊するための武器、つまりは方法論が必要だと考えた。彼の脳裏に一人の髭面が浮かび上がる。
ソクラテス……!
そう、近代合理主義の地盤を固める最大の信仰は「この世界には正解がある。理性は正解に辿り着く」というものだ。これに対して「正解なんか、わからなくね?(アポリア)」という痛烈な皮肉(アイロニー)を突きつけた最古の英雄がソクラテスなんだね。
「ソクラテスのアイロニーは全てが戯れであり、同時に全てが真面目である。全てが無邪気で、全てが深遠。それはあらゆる自由のうちで最も自由なものである。なぜなら、それによって我々は自分自身を超えることができるからである」(byシュレーゲル)
普通、アイロニーというのは、表の意味と裏の意味の食い違いによって、話し手が聞き手を試すようなもののことをいう。
「そんな面白いことを言うなんて、きみは頭がいいんだね」(=そんな奇矯なことを言うなんて、きみは変人なんだね)
でも、ソクラテスのアイロニーは違う。そこには表も裏もない。なにせソクラテスだって答えを知らないのだから。彼は当時の最高の知識人たちを相手に、知識、道徳、宗教、国家のあり方を問い続けた。結果として明らかになったのは、誰も彼も、ソクラテスもソフィストたちもきみもぼくも確かなことは何にも知らないということだ。
だからこそ問いは続く。有限の正解ではない、無限の自己否定、それは必然的に次なる一歩を踏み出させる。新たな自己実現、新たな創造を実践するための、阻まれることのない無限の可能性。
これを、シュレーゲルは「自己破壊と自己創造の絶え間ない交替」、すなわちアイロニーであると説明した。無限を切り拓くものとしてのアイロニー。精神の飛翔能力。まぁ、これが本当にソクラテスの目指したものだったかはわからないよね。だから、後の人々は、このイメージをロマン主義者たちのイカロスの翼、〈ロマンティック・アイロニー〉と呼んでいるんだ。
ーーー
と、以上、YouTubeのショート動画の台本にしたくて駆け足で論じたけど、以下ではもう少し丁寧に、シュレーゲルの議論を解説するよ。
◆自己破壊
ロマン主義者たちに、無限への憧れがあったことは、上に見た通り。これは、「永遠の発展性をどのように達成するか」という問題に置き換えられる。
そして、永遠の発展性とは、〈上昇過程が際限なく続いていく〉ということだ。そんなこと、どうやったら可能なのだろうか?
「無限なるものの意識は構成されなければならない。ーー反対物を破壊することによって」
「無限なるものという意識は存在する。ただ有限なるものという幻想が破壊されれば、それはあらわれる」
シュレーゲルが最初に手掛かりとするのは、無限性へのアクセスで、それは有限性を破壊すれば得られるという。ずいぶん楽観的な気もするけれど、そもそも有限性という観念自体が幻想なのだというのがシュレーゲルの見立てだ。有限性こそ人間の条件だと考える近代理性とは拠って立つところが違うよね。自分自身の中にある、有限性という思い込みを破壊しさえすれば、人間の真実の相である〈無限なるものの意識〉を構成できる。この営為をシュレーゲルは〈自己破壊〉と呼んでいて、永遠の発展性への出発点とする。
◆自己創造
この無限なるものの意識が、次に取り組む課題は何だろうか?
そう、創造だね。創造についてシュレーゲルは、機智とか想像力とかを重視する傾向にあるようだ。
「機智とは無条件に社交的な精神である。あるいは断片的独創性である。束縛された精神の爆発である」
「機智に富んだ着想とは、さまざまな精神的素材の分解現象である。想像力はあらかじめあらゆる種類の生によって飽和していなければならない」
「自分の属している圏の外側にも、自分の感覚では捉えられない延長が存在しているということを理解していない者は、自分の属している圏においても取るに足らない存在である」
シュレーゲルは、遠いものへの想像力と、細部への眼差しを求めている。人間にとって創造とは、何もないところから何かを生み出すことではない。既にある何ものかを鋭敏な知覚し、理解し、分析し、交感し、感激する、そういった自己変容こそが創造性の正体だ。そのため彼はこれを〈自己創造〉と呼ぶんだね。これが、発展への推進力となる。
◆無限交替
こうして生じる〈自己破壊と自己創造〉は、単なる車の両輪ではない。これらは相互に喰い合い、絶え間なく交替してゆく無限否定のシステムだ。何故なら、自己創造なき自己破壊は空虚だし、自己破壊なき自己創造は欺瞞だから。
「冷静に表現すべき思想は既に全く過去のものでなくてはならない。もはやそれに没入していてはならない。芸術家が創作し、感激している限り、彼は伝達のためには不自由な状態にいるということになる」
「一つの体系を持つことも、いかなる体系も持たないことも、精神にとっては等しく致命的である。したがっておそらくはこの二つを結合するよう決心しなくてはならないだろう」
ここに、無限否定の実践としての、無限の生成、〈永遠の発展性〉の基礎が与えられる。これがロマンティック・アイロニーの構造だよ。
◆自己限定
さて、〈自己破壊と自己創造の無限交替〉によって得られる果実について、シュレーゲルが語ることにもう少し耳を傾けてみよう。
「個々の芸術や学問、人間などを正しく理解するための感覚とは、分割された精神である。それはすなわち自己限定、したがって自己創造と自己破壊の結果である」
「この自己限定こそは、人間にとって最初に最後のもの、不可欠にして最高のものである。我々が自己を限定しないときには常に、世界が我々を限定し、我々を奴隷にしてしまうのだから。我々が無限の力、自己創造と自己破壊を我が物としている場所においてのみ、自己を限定できるのだから」
本来、無限とは世界の属性であって、ちっぽけな人間はその世界に規定されるばかりの存在に過ぎない。しかし、ロマンティック・アイロニーの無限は世界の無限と拮抗し、人間に、自分自身で自らのあり方を決めることを可能とさせる。シュレーゲルはこれを〈自己限定〉と呼び、最高の価値を認めている。現代風にいえば、自己実現であり、自己決定であり、人格的自律ということになるだろう。
◆無限の帰結
それにしたって、面白いと思わないかい?
ロマンティック・アイロニー、無限への憧れから出発して、永遠の発展、無限の上昇の果てに到達するところは、自己の〈限定〉なんだ。これこそアイロニーというものではないか。
無限の帰結が有限である。このパラドクスがアイロニーの本質であるということに、もちろんシュレーゲル自身が気づいていた。
「アイロニーはパラドクスの形式である。良きものにして偉大なものは全てパラドクスである」
◆永遠の帰結
パラドクスといえば、もう一つある。
無限の否定、無限の自己破壊と自己創造だなんていうけれど、そんな生き方は本当に人間に可能なのだろうか?
シュレーゲルがロマンティック・アイロニーを論じたのは、『リュツェーウム断片』『アテネーウム断片』その他いくつかのエッセイとノートを著したごく僅かな期間に限られる。その後はぱったり口を閉ざす。実は彼、ロマンティック・アイロニーの理論を確立するや否やこれを放棄して、カトリックに転向したんだ。
ソクラテスが自ら毒杯をあおったように、シュレーゲルもまたロマン主義者としての自分を屠った。その意味については評価が分かれるだろうけれど、アイロニストがアイロニカルに生きようとすればアイロニーに対するアイロニーを生きざるを得ない、つまりはアイロニーというのは何らかの形で必ず〈終わり〉を迎えなければならない。永遠の発展性の帰結が必然的な終局なのだとしたら、なるほどこれもまたパラドクスであり、一際冴えたアイロニーだ。
◆
近代合理主義というのは、前近代の宗教的な盲目を啓くことに自らの価値を認めていた。天上に救いを求めるのではなく、自然の摂理、物理法則、すなわち地球の重力に縛られることに重きを置いていた。これに反発して、「なんとしてでも地に足をつけたくない! 意地でも空中浮遊したい」というのがロマン主義の本性だったともいえるかもしれない。だからこそ無限上昇の夢を追いかけたんだね。
とはいえ、冷静にみると、シュレーゲルが提示する無限のプロセスは、必ずしも上昇とか発展とかを保証しない。それは無限に右往左往しているだけかもしれないし、無限に玄関を開け閉めしているだけかもしれない。
でもね、「こうだったらいいな」の強烈な自己実現として、アイロニーを見つけ、アイロニーを生き、アイロニーとともに潰えたのだとしたら、それはやっぱり、ロマンティックだよね。イカロスの翼は太陽の熱に溶けてゆく。
◇参考文献
フリードリヒ・シュレーゲル『ロマン派文学論』(冨山房)
(以下引用)
ロマンティック・アイロニーとは何か
ロマンティック・アイロニー(ロマン主義的アイロニー)とは何か?
インターネットで検索しても十分な情報が出てこないから、キツネが簡単に紹介しよう。
そもそもロマン主義というのは、啓蒙主義、古典主義への対抗言論(カウンタースピーチ)だった。これら(啓蒙主義、古典主義)が依拠するのは近代西洋の合理性。すなわち、科学的理性の力によって、人間も、社会も進化していくという、ある意味、盲目的な信仰だよ。近代合理主義の特徴は、世界は計算可能であり、それゆえに操作可能、設計可能であると信じることだった。
これに対してロマン主義が主張したのは、人間というのは狭苦しい理性の殻に囚われるだけの存在ではない、そこには想像力の翼があり、自由な意思の躍動があり、感情の沃野がある。つまり、理性によって説明し尽くされることのない〈感性〉こそが人間の本質、人間性の正体だということだ。近代合理主義への批判は二つの世界大戦の過程で先鋭化した(ダダイズム、シュールレアリスム、不条理劇)けれど、その先駆けとなったのがロマン主義なんだね。
さて、肝心のロマンティック・アイロニー。その主唱者はドイツ・ロマン派最大の理論家、フリードリヒ・シュレーゲルだ。彼は、近代合理主義の閉塞感、計量可能な〈有限性〉のイメージに囲い込まれた近代人の思考を解き放つためには、この壁を破壊するための武器、つまりは方法論が必要だと考えた。彼の脳裏に一人の髭面が浮かび上がる。
ソクラテス……!
そう、近代合理主義の地盤を固める最大の信仰は「この世界には正解がある。理性は正解に辿り着く」というものだ。これに対して「正解なんか、わからなくね?(アポリア)」という痛烈な皮肉(アイロニー)を突きつけた最古の英雄がソクラテスなんだね。
「ソクラテスのアイロニーは全てが戯れであり、同時に全てが真面目である。全てが無邪気で、全てが深遠。それはあらゆる自由のうちで最も自由なものである。なぜなら、それによって我々は自分自身を超えることができるからである」(byシュレーゲル)
普通、アイロニーというのは、表の意味と裏の意味の食い違いによって、話し手が聞き手を試すようなもののことをいう。
「そんな面白いことを言うなんて、きみは頭がいいんだね」(=そんな奇矯なことを言うなんて、きみは変人なんだね)
でも、ソクラテスのアイロニーは違う。そこには表も裏もない。なにせソクラテスだって答えを知らないのだから。彼は当時の最高の知識人たちを相手に、知識、道徳、宗教、国家のあり方を問い続けた。結果として明らかになったのは、誰も彼も、ソクラテスもソフィストたちもきみもぼくも確かなことは何にも知らないということだ。
だからこそ問いは続く。有限の正解ではない、無限の自己否定、それは必然的に次なる一歩を踏み出させる。新たな自己実現、新たな創造を実践するための、阻まれることのない無限の可能性。
これを、シュレーゲルは「自己破壊と自己創造の絶え間ない交替」、すなわちアイロニーであると説明した。無限を切り拓くものとしてのアイロニー。精神の飛翔能力。まぁ、これが本当にソクラテスの目指したものだったかはわからないよね。だから、後の人々は、このイメージをロマン主義者たちのイカロスの翼、〈ロマンティック・アイロニー〉と呼んでいるんだ。
ーーー
と、以上、YouTubeのショート動画の台本にしたくて駆け足で論じたけど、以下ではもう少し丁寧に、シュレーゲルの議論を解説するよ。
◆自己破壊
ロマン主義者たちに、無限への憧れがあったことは、上に見た通り。これは、「永遠の発展性をどのように達成するか」という問題に置き換えられる。
そして、永遠の発展性とは、〈上昇過程が際限なく続いていく〉ということだ。そんなこと、どうやったら可能なのだろうか?
「無限なるものの意識は構成されなければならない。ーー反対物を破壊することによって」
「無限なるものという意識は存在する。ただ有限なるものという幻想が破壊されれば、それはあらわれる」
シュレーゲルが最初に手掛かりとするのは、無限性へのアクセスで、それは有限性を破壊すれば得られるという。ずいぶん楽観的な気もするけれど、そもそも有限性という観念自体が幻想なのだというのがシュレーゲルの見立てだ。有限性こそ人間の条件だと考える近代理性とは拠って立つところが違うよね。自分自身の中にある、有限性という思い込みを破壊しさえすれば、人間の真実の相である〈無限なるものの意識〉を構成できる。この営為をシュレーゲルは〈自己破壊〉と呼んでいて、永遠の発展性への出発点とする。
◆自己創造
この無限なるものの意識が、次に取り組む課題は何だろうか?
そう、創造だね。創造についてシュレーゲルは、機智とか想像力とかを重視する傾向にあるようだ。
「機智とは無条件に社交的な精神である。あるいは断片的独創性である。束縛された精神の爆発である」
「機智に富んだ着想とは、さまざまな精神的素材の分解現象である。想像力はあらかじめあらゆる種類の生によって飽和していなければならない」
「自分の属している圏の外側にも、自分の感覚では捉えられない延長が存在しているということを理解していない者は、自分の属している圏においても取るに足らない存在である」
シュレーゲルは、遠いものへの想像力と、細部への眼差しを求めている。人間にとって創造とは、何もないところから何かを生み出すことではない。既にある何ものかを鋭敏な知覚し、理解し、分析し、交感し、感激する、そういった自己変容こそが創造性の正体だ。そのため彼はこれを〈自己創造〉と呼ぶんだね。これが、発展への推進力となる。
◆無限交替
こうして生じる〈自己破壊と自己創造〉は、単なる車の両輪ではない。これらは相互に喰い合い、絶え間なく交替してゆく無限否定のシステムだ。何故なら、自己創造なき自己破壊は空虚だし、自己破壊なき自己創造は欺瞞だから。
「冷静に表現すべき思想は既に全く過去のものでなくてはならない。もはやそれに没入していてはならない。芸術家が創作し、感激している限り、彼は伝達のためには不自由な状態にいるということになる」
「一つの体系を持つことも、いかなる体系も持たないことも、精神にとっては等しく致命的である。したがっておそらくはこの二つを結合するよう決心しなくてはならないだろう」
ここに、無限否定の実践としての、無限の生成、〈永遠の発展性〉の基礎が与えられる。これがロマンティック・アイロニーの構造だよ。
◆自己限定
さて、〈自己破壊と自己創造の無限交替〉によって得られる果実について、シュレーゲルが語ることにもう少し耳を傾けてみよう。
「個々の芸術や学問、人間などを正しく理解するための感覚とは、分割された精神である。それはすなわち自己限定、したがって自己創造と自己破壊の結果である」
「この自己限定こそは、人間にとって最初に最後のもの、不可欠にして最高のものである。我々が自己を限定しないときには常に、世界が我々を限定し、我々を奴隷にしてしまうのだから。我々が無限の力、自己創造と自己破壊を我が物としている場所においてのみ、自己を限定できるのだから」
本来、無限とは世界の属性であって、ちっぽけな人間はその世界に規定されるばかりの存在に過ぎない。しかし、ロマンティック・アイロニーの無限は世界の無限と拮抗し、人間に、自分自身で自らのあり方を決めることを可能とさせる。シュレーゲルはこれを〈自己限定〉と呼び、最高の価値を認めている。現代風にいえば、自己実現であり、自己決定であり、人格的自律ということになるだろう。
◆無限の帰結
それにしたって、面白いと思わないかい?
ロマンティック・アイロニー、無限への憧れから出発して、永遠の発展、無限の上昇の果てに到達するところは、自己の〈限定〉なんだ。これこそアイロニーというものではないか。
無限の帰結が有限である。このパラドクスがアイロニーの本質であるということに、もちろんシュレーゲル自身が気づいていた。
「アイロニーはパラドクスの形式である。良きものにして偉大なものは全てパラドクスである」
◆永遠の帰結
パラドクスといえば、もう一つある。
無限の否定、無限の自己破壊と自己創造だなんていうけれど、そんな生き方は本当に人間に可能なのだろうか?
シュレーゲルがロマンティック・アイロニーを論じたのは、『リュツェーウム断片』『アテネーウム断片』その他いくつかのエッセイとノートを著したごく僅かな期間に限られる。その後はぱったり口を閉ざす。実は彼、ロマンティック・アイロニーの理論を確立するや否やこれを放棄して、カトリックに転向したんだ。
ソクラテスが自ら毒杯をあおったように、シュレーゲルもまたロマン主義者としての自分を屠った。その意味については評価が分かれるだろうけれど、アイロニストがアイロニカルに生きようとすればアイロニーに対するアイロニーを生きざるを得ない、つまりはアイロニーというのは何らかの形で必ず〈終わり〉を迎えなければならない。永遠の発展性の帰結が必然的な終局なのだとしたら、なるほどこれもまたパラドクスであり、一際冴えたアイロニーだ。
◆
近代合理主義というのは、前近代の宗教的な盲目を啓くことに自らの価値を認めていた。天上に救いを求めるのではなく、自然の摂理、物理法則、すなわち地球の重力に縛られることに重きを置いていた。これに反発して、「なんとしてでも地に足をつけたくない! 意地でも空中浮遊したい」というのがロマン主義の本性だったともいえるかもしれない。だからこそ無限上昇の夢を追いかけたんだね。
とはいえ、冷静にみると、シュレーゲルが提示する無限のプロセスは、必ずしも上昇とか発展とかを保証しない。それは無限に右往左往しているだけかもしれないし、無限に玄関を開け閉めしているだけかもしれない。
でもね、「こうだったらいいな」の強烈な自己実現として、アイロニーを見つけ、アイロニーを生き、アイロニーとともに潰えたのだとしたら、それはやっぱり、ロマンティックだよね。イカロスの翼は太陽の熱に溶けてゆく。
◇参考文献
フリードリヒ・シュレーゲル『ロマン派文学論』(冨山房)
引用記事筆者の熊代(シロクマ)氏は精神科医で、医者らしく「ドーパミン」という言葉を多用しているが、昔私が読んだ或る文章ではこれを「やる気スイッチ」と呼んでいた。私もそのほうが「ドーパミン」なる得体の知れないものより親愛感がある。
そして、その文章(書いたのは「パプリカ」などのアニメ監督だが)では、「やる気スイッチ」は「(作業を)やっているうちに入る」という、某脳科学者の説を正しいとしていたし、私もそれは正しいと思う。
家や部屋の掃除などが代表的な事例で、やる前はまったくうんざりしてやる気も無いのだが、始めると、その作業自体が我々に「スイッチ」を入れるのである。それで、次から次へと掃除の範囲を広げたりする。読書も同じで、硬い本は読み始めるのに抵抗があるが、読み始めると興味を惹かれる部分が出てきて思考も活性化する。おそらく勉強も同じだろうが、こちらは私には「勉強が面白かった」という経験は無い。それは「勉強をすること」への心理的抵抗があまりに大きかったのだろう。仕事も同様で、始めるとルーティンワークをしているうちに一日が終わるだけだった。まあ、それは私が取り組んでいた勉強や仕事の内容が最初から私の興味の外だったからだろう。
下に書かれていることは「好きな仕事」なのにやる気が出ない場合の話ではないか。
(以下引用)
ドーパミンが出ない状況になってからが本番だ
だから、なにもかもドーパミン頼みでは詰んでしまう可能性がある。
控えめに言っても、ドーパミンの加護と寵愛がある時しか書けない・活動できない・プラクティスできないのでは、創作も仕事も勉強も続けられないし、結局モノにならないと思う。
ドーパミンを味方につけるための方策が大事なのはもちろん。だけど、ドーパミンが味方してくれない時にも書く・活動する・プラクティスすることも同じぐらい大事だ。
たとえば私自身も、うまくいっている時期もあればうまくいかない時期もある。どうしてもドーパミンが出ない、やる気も集中力も完璧とは言えない時期もある。そういう時にひねり出したアウトプットは、たいてい、色艶が足りないと感じられる。
だ け ど や る ん だ よ !
自分自身の活動を、気まぐれなドーパミンに委ねきってしまっては何もできない。ときにはドーパミンに逆らうように執筆・仕事・勉強をしなければならない場面だってある。
第一、〆切のたぐいは容赦なく迫ってくるのだから、ドーパミンが出ないから書かない・創らないなんて選択肢はないのである。また、そういう状況下でも手を動かし続けること、絶好調とは言えない状態でもあきらめないことが大切だと今はわかる。
アニメ『魔女の宅急便』にも、似たようなことを示唆するシーンがあった。
魔法のホウキで空を飛べなくなってしまったキキに、絵描きのウルスラは「そういう時はジタバタするしかないよ。描いて、描いて、描きまくる」とアドバイスする。さすが宮崎駿監督! ドーパミンの寵愛を受けていない時でも手を休めずジタバタすることの有意味性が伝わってくる。
あと、「タコ練」してみるのも割といい。ここでいう「タコ練」とは、学習効率度外視で、やけくそに練習してみることだ。じきに疲れてしまうのだけど、疲れたおかげで肩の力が抜け、意外なアウトプットが出てきたり、思ってもみなかったことに気付いたりする。
加えてウルスラは、それでも駄目だった時のアドバイスとして「描くのをやめる。散歩したり景色を見たり昼寝したり、何もしない。そのうち、急に描きたくなるんだよ」とも付け加えている。「タコ練」を続けていると疲れてくるし、じきに休みたくなるだろう。でも、リフレッシュした後なら再びドーパミンが戻ってくるかもしれない。
ここで宮崎駿監督は、ウルスラとキキをとおしてアウトプットのためのアドバイスを視聴者にくれている。
私は2013年頃にウルスラのアドバイスを再発見し、以来、彼女のいうとおりに過ごすようにしている。ドーパミンが出ているうちしか頑張れない・楽しくなくなったら手が動かせなくなってしまう限り、人はそれほど多くのことが為しえないし、だからこそドーパミンが出なくなっている時にこそ、あなたや私のクリエイティビティの真価が問われる、のだと思う。
ドーパミンの加護と寵愛を獲得するために工夫だけでなく、彼女がこちらを振り向いてくれない時期にも戦っていけるような工夫も必要だ。
そして、その文章(書いたのは「パプリカ」などのアニメ監督だが)では、「やる気スイッチ」は「(作業を)やっているうちに入る」という、某脳科学者の説を正しいとしていたし、私もそれは正しいと思う。
家や部屋の掃除などが代表的な事例で、やる前はまったくうんざりしてやる気も無いのだが、始めると、その作業自体が我々に「スイッチ」を入れるのである。それで、次から次へと掃除の範囲を広げたりする。読書も同じで、硬い本は読み始めるのに抵抗があるが、読み始めると興味を惹かれる部分が出てきて思考も活性化する。おそらく勉強も同じだろうが、こちらは私には「勉強が面白かった」という経験は無い。それは「勉強をすること」への心理的抵抗があまりに大きかったのだろう。仕事も同様で、始めるとルーティンワークをしているうちに一日が終わるだけだった。まあ、それは私が取り組んでいた勉強や仕事の内容が最初から私の興味の外だったからだろう。
下に書かれていることは「好きな仕事」なのにやる気が出ない場合の話ではないか。
(以下引用)
ドーパミンが出ない状況になってからが本番だ
だから、なにもかもドーパミン頼みでは詰んでしまう可能性がある。
控えめに言っても、ドーパミンの加護と寵愛がある時しか書けない・活動できない・プラクティスできないのでは、創作も仕事も勉強も続けられないし、結局モノにならないと思う。
ドーパミンを味方につけるための方策が大事なのはもちろん。だけど、ドーパミンが味方してくれない時にも書く・活動する・プラクティスすることも同じぐらい大事だ。
たとえば私自身も、うまくいっている時期もあればうまくいかない時期もある。どうしてもドーパミンが出ない、やる気も集中力も完璧とは言えない時期もある。そういう時にひねり出したアウトプットは、たいてい、色艶が足りないと感じられる。
だ け ど や る ん だ よ !
自分自身の活動を、気まぐれなドーパミンに委ねきってしまっては何もできない。ときにはドーパミンに逆らうように執筆・仕事・勉強をしなければならない場面だってある。
第一、〆切のたぐいは容赦なく迫ってくるのだから、ドーパミンが出ないから書かない・創らないなんて選択肢はないのである。また、そういう状況下でも手を動かし続けること、絶好調とは言えない状態でもあきらめないことが大切だと今はわかる。
アニメ『魔女の宅急便』にも、似たようなことを示唆するシーンがあった。
魔法のホウキで空を飛べなくなってしまったキキに、絵描きのウルスラは「そういう時はジタバタするしかないよ。描いて、描いて、描きまくる」とアドバイスする。さすが宮崎駿監督! ドーパミンの寵愛を受けていない時でも手を休めずジタバタすることの有意味性が伝わってくる。
あと、「タコ練」してみるのも割といい。ここでいう「タコ練」とは、学習効率度外視で、やけくそに練習してみることだ。じきに疲れてしまうのだけど、疲れたおかげで肩の力が抜け、意外なアウトプットが出てきたり、思ってもみなかったことに気付いたりする。
加えてウルスラは、それでも駄目だった時のアドバイスとして「描くのをやめる。散歩したり景色を見たり昼寝したり、何もしない。そのうち、急に描きたくなるんだよ」とも付け加えている。「タコ練」を続けていると疲れてくるし、じきに休みたくなるだろう。でも、リフレッシュした後なら再びドーパミンが戻ってくるかもしれない。
ここで宮崎駿監督は、ウルスラとキキをとおしてアウトプットのためのアドバイスを視聴者にくれている。
私は2013年頃にウルスラのアドバイスを再発見し、以来、彼女のいうとおりに過ごすようにしている。ドーパミンが出ているうちしか頑張れない・楽しくなくなったら手が動かせなくなってしまう限り、人はそれほど多くのことが為しえないし、だからこそドーパミンが出なくなっている時にこそ、あなたや私のクリエイティビティの真価が問われる、のだと思う。
ドーパミンの加護と寵愛を獲得するために工夫だけでなく、彼女がこちらを振り向いてくれない時期にも戦っていけるような工夫も必要だ。
この増田に対して、書き手がネカマだと推理するコメントもあるが、そうだとしても女性心理をよく分かっている気がする。いや、私はテレビが映らないからこのCMは見たことがないし、女性経験が少ないし、前世で女性であった記憶もないし、現世で女性であった経験ももちろんないが、何となく女性は「他者との共感性」が生存と生活の必須条件だという気がするのである。
(以下引用)
2025-02-18
■女だけど炎上したCMについての解説をする
結論から言うと、
「現実のまともな女(リアルな私達)はこんなムーブしないし、気持ち悪いぶりっこした女の表現が見てて不快。特に台詞と仕草があざとくて腹立つしキモい。背後に非モテのキモ男が透けて見えてそれがまた生理的にキモい」
というとにかくゴキブリを見たらそりゃ嫌悪感湧いて駆除したくなるでしょ、って言う案件。
※誤解がないように言うが、女である私自身は、男性アニメ向きな、男ウケの女の子の演出かもな、と少し思ったくらいで、食べ物美味しそう、作画綺麗だなーとしか思わなかった、と前置きしておく。
女って生き物は、基本異物を煙たがるんですよ。
おんなじ行動、格好、考え、価値観、好き嫌い。そういうものを雰囲気で擦り合わせて生きてる。
ネットのオタクコミュニティ見て欲しい、分かりやすいから。
限界集落が沢山あるよ、共通の話題と仲間との結束感に飢えてる。
そして時間を持て余した暇人の声がネットではでかくなる。
自分と異なる存在が、特にそれが不快に思う存在ならばもうね、存在自体が許せんのよ。
一人じゃ弱いから言えないけど、流れを見て私も実は、となる。その流れが作れたらあとはもう、勝手に増えてく。共感と不快と結束感の飢えと、生きてる感覚が沸き立ってきちゃう。
いやいや大袈裟な、って思うかもしれないけど、女にとっては生死に関わるくらいのイベントな訳。同じ気持ちを共有出来ればそれはもう、生を感じるし、安心感がすごいわけよ。
男がおっぱい大きい女の子が居た時につい無意識に胸を見てしまうくらい、無視できないわけ。
それが生存本能なんだよ、女の。
危険を察知しちゃったわけ。
お前に何か実害あったのかって思うじゃん?
客観的に見ればない。
でも、女の主観からはあるんだよ。
居心地のいい場所を守ることにとても敏感だから、そんなところに突然Gがでたら「なんでここに!?くつろいだ空間にGが出てくるなんて、許せない駆除しなきゃ…!」って命の危険信号がもう全力で出てくるわけよ。
これは頭がおかしいんじゃなくて、もうね、普段から少しでも危険なものへのアンテナが強いの、本能的に。だからはたからみたら被害妄想じゃん、って思われるような状態になりがち。
まともな人はSNSやネットが居場所じゃないので、そもそも炎上したことも知らないだろうし、してたとしてもどうでもいいってなる。
でもそこを拠点として、居場所としている人達はそうもいかない。少しでも居心地のいい巣を作ろうと命かけちゃうわけ。もうこれね、脳のバグ。
そんな中で、Gキモっ!って発言したら、
「Gキモいとか頭おかしい」
「どこがキモいの?鈴虫は許されるのに?」
「残念ながら蝶々にも触角あるんですよね」
「もう嫌ならG見るなよ、ほっとけ」
とか言われた感覚になっちゃうわけ。
今くつろいでた空間に現れたGに対して、うわキモ!って感想を呟いて、それに対して
「分かります〜Gキモいですよね」
「私もあの触角とか苦手です…」
「G?!うわ!ほんとだキモ!!」
「こういうの見せないでほしい」
「なんで料理メインなのにG見せるのか」
と共有しながら、じゃあ不快の元であるGを駆除した方がいいよね、ってなってみんなでより良い巣にしよう!ってしてる事を否定されてわけがわからなくなっちゃってるわけ。
まともなひとは色んな立場や価値観、考えがある事を知っているので割り切って考えるけど、
自分の居場所が限られてる人ほど守ろうとする本能がGを擁護して、G不快でキモいものって図式の自分の感情を否定してくる人をより敵認定して必死に守ろうと、反撃しようと、反発しようとしちゃうわけ。
って事を自覚できない女は大人でもたーくさんいるんだ。特にね、現実に居場所がなかったり、他責思考が癖になってたりする人はそうなりがち。
なので自分が不快に思ったものを伝えれば意見が通るって思ってる。
多分、成功体験積んでるタイプ。自分がいかに辛い思いをしたか、そう話すと同情されやすいし、さらに弱者マウント王決定戦に勝ち残ればもう最強のカードになるわけ。
だからせめてネットではと声が高くなるし、連鎖しやすいわけ。
そしてその村が苦手な女は死ぬか、女のいないコミュニティに行くか、村から抜けて自立して自分で生きてくか、あるいは上手く変わった人だけど害のない人ポジションに落ち着いてのらりくらり生きてくようになる
これ男には説明してもわけわからんと思うし、アホくさって思うかもしれないけど
女の本能と理性の問題だと思ってる
だから仕方ないというつもりはないけど、理解が広まればいいなとは思う
分かりやすくゴキブリに例えたのはごめん
カップ麺たべたくなってきた
(以下引用)
2025-02-18
■女だけど炎上したCMについての解説をする
結論から言うと、
「現実のまともな女(リアルな私達)はこんなムーブしないし、気持ち悪いぶりっこした女の表現が見てて不快。特に台詞と仕草があざとくて腹立つしキモい。背後に非モテのキモ男が透けて見えてそれがまた生理的にキモい」
というとにかくゴキブリを見たらそりゃ嫌悪感湧いて駆除したくなるでしょ、って言う案件。
※誤解がないように言うが、女である私自身は、男性アニメ向きな、男ウケの女の子の演出かもな、と少し思ったくらいで、食べ物美味しそう、作画綺麗だなーとしか思わなかった、と前置きしておく。
女って生き物は、基本異物を煙たがるんですよ。
おんなじ行動、格好、考え、価値観、好き嫌い。そういうものを雰囲気で擦り合わせて生きてる。
ネットのオタクコミュニティ見て欲しい、分かりやすいから。
限界集落が沢山あるよ、共通の話題と仲間との結束感に飢えてる。
そして時間を持て余した暇人の声がネットではでかくなる。
自分と異なる存在が、特にそれが不快に思う存在ならばもうね、存在自体が許せんのよ。
一人じゃ弱いから言えないけど、流れを見て私も実は、となる。その流れが作れたらあとはもう、勝手に増えてく。共感と不快と結束感の飢えと、生きてる感覚が沸き立ってきちゃう。
いやいや大袈裟な、って思うかもしれないけど、女にとっては生死に関わるくらいのイベントな訳。同じ気持ちを共有出来ればそれはもう、生を感じるし、安心感がすごいわけよ。
男がおっぱい大きい女の子が居た時につい無意識に胸を見てしまうくらい、無視できないわけ。
それが生存本能なんだよ、女の。
危険を察知しちゃったわけ。
お前に何か実害あったのかって思うじゃん?
客観的に見ればない。
でも、女の主観からはあるんだよ。
居心地のいい場所を守ることにとても敏感だから、そんなところに突然Gがでたら「なんでここに!?くつろいだ空間にGが出てくるなんて、許せない駆除しなきゃ…!」って命の危険信号がもう全力で出てくるわけよ。
これは頭がおかしいんじゃなくて、もうね、普段から少しでも危険なものへのアンテナが強いの、本能的に。だからはたからみたら被害妄想じゃん、って思われるような状態になりがち。
まともな人はSNSやネットが居場所じゃないので、そもそも炎上したことも知らないだろうし、してたとしてもどうでもいいってなる。
でもそこを拠点として、居場所としている人達はそうもいかない。少しでも居心地のいい巣を作ろうと命かけちゃうわけ。もうこれね、脳のバグ。
そんな中で、Gキモっ!って発言したら、
「Gキモいとか頭おかしい」
「どこがキモいの?鈴虫は許されるのに?」
「残念ながら蝶々にも触角あるんですよね」
「もう嫌ならG見るなよ、ほっとけ」
とか言われた感覚になっちゃうわけ。
今くつろいでた空間に現れたGに対して、うわキモ!って感想を呟いて、それに対して
「分かります〜Gキモいですよね」
「私もあの触角とか苦手です…」
「G?!うわ!ほんとだキモ!!」
「こういうの見せないでほしい」
「なんで料理メインなのにG見せるのか」
と共有しながら、じゃあ不快の元であるGを駆除した方がいいよね、ってなってみんなでより良い巣にしよう!ってしてる事を否定されてわけがわからなくなっちゃってるわけ。
まともなひとは色んな立場や価値観、考えがある事を知っているので割り切って考えるけど、
自分の居場所が限られてる人ほど守ろうとする本能がGを擁護して、G不快でキモいものって図式の自分の感情を否定してくる人をより敵認定して必死に守ろうと、反撃しようと、反発しようとしちゃうわけ。
って事を自覚できない女は大人でもたーくさんいるんだ。特にね、現実に居場所がなかったり、他責思考が癖になってたりする人はそうなりがち。
なので自分が不快に思ったものを伝えれば意見が通るって思ってる。
多分、成功体験積んでるタイプ。自分がいかに辛い思いをしたか、そう話すと同情されやすいし、さらに弱者マウント王決定戦に勝ち残ればもう最強のカードになるわけ。
だからせめてネットではと声が高くなるし、連鎖しやすいわけ。
そしてその村が苦手な女は死ぬか、女のいないコミュニティに行くか、村から抜けて自立して自分で生きてくか、あるいは上手く変わった人だけど害のない人ポジションに落ち着いてのらりくらり生きてくようになる
これ男には説明してもわけわからんと思うし、アホくさって思うかもしれないけど
女の本能と理性の問題だと思ってる
だから仕方ないというつもりはないけど、理解が広まればいいなとは思う
分かりやすくゴキブリに例えたのはごめん
カップ麺たべたくなってきた
森博嗣の「日常のフローチャート」というブログ記事の一節を転載。
私は森博嗣の小説も人物もあまり好きではないが、エッセイでは非常に正直だと思う。その正直さの原因のひとつは、彼が孤独を好む性格であることだろう。つまり、敵を作り、仲間外れになることが怖くないわけだ。
なお、彼の小説は根本のトリックは馬鹿げたもの(不可能ではないが、「謎のための謎」であり、無意味かつ確率的にはほぼ不可能)が多いが、キャラや事件の描き方が上手い。ただし、そのキャラたちは当然作者の分身なので、「面白いけれど身近にはいてほしくない」キャラが多い。つまり、フィクション内の人物としては優秀ということだ。
なお、資本主義の神々的には人間の「孤独を好む」性向は非常に好ましくないのである。消費は交際によって倍増するとすら言える。私はヴェブレンを読んだことは無いが、「有閑階級の経済学」は、推測するとほとんどが人間が「孤独でない」ことが前提だと思う。つまり、虚栄や虚飾こそが消費を大きく拡大するのである。下の文章の赤字にした部分に関しては、これが「謎の解明」だろう。電通的には「女をターゲットにしろ。そうすれば男もついてくる」というのも同じである。もっとも、今のように急進的フェミのおかげで味噌死に男が増えたら、話も違ってくるだろう。
(以下引用)
【孤独を恐れる人は大勢の中にいる】
実は、ひとりぼっちの人が孤独なのではない。本当に孤独なのは、大勢の仲間の中にぽつんといる人だ。たとえるなら、田舎や山の中の一軒家ではなく、大勢が暮らしているマンションなのに、隣に誰が住んでいるかわからない一室みたいな存在。距離的には多数の他者に囲まれているのに、周りのみんなが自分にとっては明らかに無関係だ、と感じる。真面目な話ができない、話が噛み合わないし、みんなが秘密を持っている、それをけっして明かさない。仲間はいるけれど、これが本当の「親しさ」だろうか、と疑問を抱く。
まず、孤独を感じるのは、この「親しさ」への幻想があるためで、いうならば、「他者への期待」が根元となる。「親しい他者」の虚像を信じている。そういうものが存在すると何故か思い込んでいる。それは、神を信じるようなものであり、根拠はまったくない。しかし、子供の頃から見せられてきた数々のフィクション、ドラマ、映画、漫画、小説などに描かれているものだから、絶対にこの世に存在すると信じている。神や超能力などの超自然現象と同じくファンタジィでありSFなのだが、周囲の誰もが信じているように見えるし、そう振る舞うから、いつまでも期待してしまう。自分の前にも「親しさ」がやってくる、と待っているのだ。つまり、この状態が「孤独」というものの正体である。
仲間と一緒にいて安心できる人は、一人でいる人を見て、「寂しそうだな」と感じるし、一方、一人で楽しんでいる人は、仲間と一緒にいる人を見て、「つき合わされて可哀想だな」と感じる。いずれの立場にいても、自身の境遇が良いと感じる人は多い。でも、一部の人は、逆の立場へ憧れを持っている。仲間と一緒にいても、「こんなグループからは早く抜け出して、一人でのんびり過ごしたい」と感じる人はいるし、一人でなにかをしていても、「大勢で一緒に楽しめたら良いな」と感じる人もいる。
そういった個々の立場、それぞれの感覚を無視して、一人だと孤独だ、と決めつける場合があって、特にマスコミなどは、そういった勘違いをしやすい。勘違いではなく、なにかスポンサを配慮して故意にイメージを捏造している可能性もある。マスコミというのは、このような意図的な捏造を長年にわたって続けて、それを自分たちでも信じてしまうようだ。
私は森博嗣の小説も人物もあまり好きではないが、エッセイでは非常に正直だと思う。その正直さの原因のひとつは、彼が孤独を好む性格であることだろう。つまり、敵を作り、仲間外れになることが怖くないわけだ。
なお、彼の小説は根本のトリックは馬鹿げたもの(不可能ではないが、「謎のための謎」であり、無意味かつ確率的にはほぼ不可能)が多いが、キャラや事件の描き方が上手い。ただし、そのキャラたちは当然作者の分身なので、「面白いけれど身近にはいてほしくない」キャラが多い。つまり、フィクション内の人物としては優秀ということだ。
なお、資本主義の神々的には人間の「孤独を好む」性向は非常に好ましくないのである。消費は交際によって倍増するとすら言える。私はヴェブレンを読んだことは無いが、「有閑階級の経済学」は、推測するとほとんどが人間が「孤独でない」ことが前提だと思う。つまり、虚栄や虚飾こそが消費を大きく拡大するのである。下の文章の赤字にした部分に関しては、これが「謎の解明」だろう。電通的には「女をターゲットにしろ。そうすれば男もついてくる」というのも同じである。もっとも、今のように急進的フェミのおかげで味噌死に男が増えたら、話も違ってくるだろう。
(以下引用)
【孤独を恐れる人は大勢の中にいる】
実は、ひとりぼっちの人が孤独なのではない。本当に孤独なのは、大勢の仲間の中にぽつんといる人だ。たとえるなら、田舎や山の中の一軒家ではなく、大勢が暮らしているマンションなのに、隣に誰が住んでいるかわからない一室みたいな存在。距離的には多数の他者に囲まれているのに、周りのみんなが自分にとっては明らかに無関係だ、と感じる。真面目な話ができない、話が噛み合わないし、みんなが秘密を持っている、それをけっして明かさない。仲間はいるけれど、これが本当の「親しさ」だろうか、と疑問を抱く。
まず、孤独を感じるのは、この「親しさ」への幻想があるためで、いうならば、「他者への期待」が根元となる。「親しい他者」の虚像を信じている。そういうものが存在すると何故か思い込んでいる。それは、神を信じるようなものであり、根拠はまったくない。しかし、子供の頃から見せられてきた数々のフィクション、ドラマ、映画、漫画、小説などに描かれているものだから、絶対にこの世に存在すると信じている。神や超能力などの超自然現象と同じくファンタジィでありSFなのだが、周囲の誰もが信じているように見えるし、そう振る舞うから、いつまでも期待してしまう。自分の前にも「親しさ」がやってくる、と待っているのだ。つまり、この状態が「孤独」というものの正体である。
仲間と一緒にいて安心できる人は、一人でいる人を見て、「寂しそうだな」と感じるし、一方、一人で楽しんでいる人は、仲間と一緒にいる人を見て、「つき合わされて可哀想だな」と感じる。いずれの立場にいても、自身の境遇が良いと感じる人は多い。でも、一部の人は、逆の立場へ憧れを持っている。仲間と一緒にいても、「こんなグループからは早く抜け出して、一人でのんびり過ごしたい」と感じる人はいるし、一人でなにかをしていても、「大勢で一緒に楽しめたら良いな」と感じる人もいる。
そういった個々の立場、それぞれの感覚を無視して、一人だと孤独だ、と決めつける場合があって、特にマスコミなどは、そういった勘違いをしやすい。勘違いではなく、なにかスポンサを配慮して故意にイメージを捏造している可能性もある。マスコミというのは、このような意図的な捏造を長年にわたって続けて、それを自分たちでも信じてしまうようだ。
大岡昇平の「食欲について」という短文の中に、こういう一節がある。
「素人は戦場において職業軍人より軍人らしいことがよくある。愛国の観念が軍隊のシニスムで毒されていないからである。」
シニスムはシニシズムと同じで、「冷笑主義」のことだが、軍隊に限らず、プロはしばしば自分の仕事へのシニスムを持つものだろう。その仕事の内容と限界を熟知するからである。
だが、こういう「軍人のシニスム」を描いた映画は少ないようだ。いや、昔の日本映画には案外多かったのだが、それは大岡昇平と同様、素人が軍隊体験をした例が膨大にあり、多くの兵士が軍隊の現実を知っていたからだろう。よく知られているのが、「弾は前からばかり来るとは限らねえぞ」という言葉だ。軍隊で上官に抑圧されている古参兵士が、戦闘の時にその上官を背後から撃ってもおかしくない、ということである。
最近のアニメなどでも中世西洋的異世界での戦争が話の一部になることがあるが、そういう「軍隊の、あるいは軍人のシニスム」のエピソードを見たことはない。それを描けば抜群のリアリティが出せると思う。これはロボット戦争アニメでも同じである。たとえば「ガンダム」などでそれが描かれたことがあるだろうか。おそらく、制作陣に戦争経験者がいないから無理だろう。
「素人は戦場において職業軍人より軍人らしいことがよくある。愛国の観念が軍隊のシニスムで毒されていないからである。」
シニスムはシニシズムと同じで、「冷笑主義」のことだが、軍隊に限らず、プロはしばしば自分の仕事へのシニスムを持つものだろう。その仕事の内容と限界を熟知するからである。
だが、こういう「軍人のシニスム」を描いた映画は少ないようだ。いや、昔の日本映画には案外多かったのだが、それは大岡昇平と同様、素人が軍隊体験をした例が膨大にあり、多くの兵士が軍隊の現実を知っていたからだろう。よく知られているのが、「弾は前からばかり来るとは限らねえぞ」という言葉だ。軍隊で上官に抑圧されている古参兵士が、戦闘の時にその上官を背後から撃ってもおかしくない、ということである。
最近のアニメなどでも中世西洋的異世界での戦争が話の一部になることがあるが、そういう「軍隊の、あるいは軍人のシニスム」のエピソードを見たことはない。それを描けば抜群のリアリティが出せると思う。これはロボット戦争アニメでも同じである。たとえば「ガンダム」などでそれが描かれたことがあるだろうか。おそらく、制作陣に戦争経験者がいないから無理だろう。
私の別ブログから転載。まあ、どちらかのブログが突然弾圧された場合の保険である。あるいは、既に転載したかもしれない。
(以下自己引用)
笑いのメカニズム
思想、思想の断片、考えるヒント 2024年05月20日
笑いのメカニズム
1 笑いは優越性に基づく。この優越性は「主観的」なもので良い。下僕は主人より社会的には下位だが、主人の失敗を見て笑う時、彼は心理的に主人に優越しているのである。
2 笑いは心理的攻撃である。笑うことによって、彼は自分の優越性を確認する。これはまたナルシズム(自己愛)の満足である。自己の優越を確認することで、彼の自己愛が満足させられるのである。
3 したがって、笑いは自然が人間に与えた「生きる武器・防具」の一つである。ナルシズムそのものが人間を外界や境遇の攻撃から彼を守るように、笑いも彼を守る。
4 笑いの共有は、「犠牲者」を要する。その犠牲者が権威ある者、上位者であるほどその笑いの効果は大きいが、また笑うことの危険性もある。こうして「オブラートにくるんだ笑い」が生まれる。比喩や寓話による笑いなどはその原初的なものであり、風刺はその発展的なものである。
5「攻撃としての笑い」は、知られざる相手の弱点を表にさらけ出すことで作られる。相手の肉体的欠点を笑うのはその初歩的なものである。それが事実であるだけに、この攻撃は避けようが無く、これは初歩的だがもっとも残酷な笑いでもある。それに続いて、相手の性癖、仕草、言葉癖なども、少しの誇張によって笑いの攻撃対象となる。
6 笑いの気持ち良さは、笑う自分が笑われる相手より上にいることからも来るが、それ以前に、笑い自体が生理的に気持ちいいのである。それは3で述べた、自然のプレゼントだろう。満足した赤ん坊が笑うように、最初、笑いは気持ち良さの無意識の表現であったが、それが「笑うから気持ちよい」という自動的連結になっていったのである。
7 レナード・ファインバーグの『ユーモアの秘密』に、「単純な虐待は子供にも未開人にも面白い」という言葉があるが、この事実の持つ意味が、上記の1~5に述べたことなのである。「ユーモア」の定義にもよるが、「笑い」そのものは相手を引き下げる行為以外の何物でもないのである。したがって、笑われる当人にはその事が相当の苦痛であることも当然である。
8 ビート・たけし曰く、「俺は笑わせるのは好きだが、笑われるのは嫌いだ」~この言葉も、上記の事実からは当然である。しかし、演技によって自分自身を笑いの対象とすることは、けっして本人が笑われているのではなく、「架空の自分」が笑われているのであるから、この「笑われる苦痛」からは免れることになる。
9 セックスや糞尿の話などのいわゆる「下ネタ」は、どのような気取った人間でも免れられない「人間の動物性」を明るみに出すがために、もっとも確実に笑いを生む。しかしこれは特定の人間への攻撃ではなく、「人間」そのものが攻撃対象となるために、こうしたジョークに笑う当人たちもその攻撃から免れてはいない。したがって、こうした下卑たジョークに苦い顔をする人々が多いのも当然である。
10 下ネタと同様に確実に笑いを生むのが「ずっこけ」、つまり思いがけない転倒である。これは「人間の物体性」を顕在化することから生じる笑いである。同様に「死体を物として粗雑に扱うことから生じる笑い」(映画『毒薬と老嬢』、落語の『らくだ』『黄金餅』など)も「人間の尊厳」を踏みにじる面白さなのである。人間の尊厳についての偽善的弁舌に飽き飽きしている我々は、そうした偽善への攻撃を楽しんでいるわけだ。
11 リチャード・シェリダン曰く、「ウィットが面白くあるためには悪意に満ちていなければならぬ」 (上記『ユーモアの秘密』より)
12 笑いには、我々の潜在的不満の解消という積極的効果もある。我々は事実上自分に優越する人々を笑う(あるいは主観的に見下すことで)ことで、毎日の惨めな生活への不満を一時的に忘れるのである。そして、あるいはこれは社会全体を破滅から救っているかもしれない。
13 ウィル・ロジャース曰く、「何事であれ面白い。ただしそれが他人に起こることであれば」(『ユーモアの秘密』より)
15 ユーモア(笑い)の原則=1.意外さ 2.価値低下(見下し)
14 ユーモアの方法その1「誇張と歪曲」
15 ユーモアの方法その2「意外な連想・結びつけ」
16 ユーモアの方法その3「論理的逆襲」つまり、相手の論理を利用して逆に相手への攻撃とすること。抜群の機転が必要。
17 ユーモアの方法その4 「ナンセンス・意味への反逆」
(以下自己引用)
笑いのメカニズム
思想、思想の断片、考えるヒント 2024年05月20日
笑いのメカニズム
1 笑いは優越性に基づく。この優越性は「主観的」なもので良い。下僕は主人より社会的には下位だが、主人の失敗を見て笑う時、彼は心理的に主人に優越しているのである。
2 笑いは心理的攻撃である。笑うことによって、彼は自分の優越性を確認する。これはまたナルシズム(自己愛)の満足である。自己の優越を確認することで、彼の自己愛が満足させられるのである。
3 したがって、笑いは自然が人間に与えた「生きる武器・防具」の一つである。ナルシズムそのものが人間を外界や境遇の攻撃から彼を守るように、笑いも彼を守る。
4 笑いの共有は、「犠牲者」を要する。その犠牲者が権威ある者、上位者であるほどその笑いの効果は大きいが、また笑うことの危険性もある。こうして「オブラートにくるんだ笑い」が生まれる。比喩や寓話による笑いなどはその原初的なものであり、風刺はその発展的なものである。
5「攻撃としての笑い」は、知られざる相手の弱点を表にさらけ出すことで作られる。相手の肉体的欠点を笑うのはその初歩的なものである。それが事実であるだけに、この攻撃は避けようが無く、これは初歩的だがもっとも残酷な笑いでもある。それに続いて、相手の性癖、仕草、言葉癖なども、少しの誇張によって笑いの攻撃対象となる。
6 笑いの気持ち良さは、笑う自分が笑われる相手より上にいることからも来るが、それ以前に、笑い自体が生理的に気持ちいいのである。それは3で述べた、自然のプレゼントだろう。満足した赤ん坊が笑うように、最初、笑いは気持ち良さの無意識の表現であったが、それが「笑うから気持ちよい」という自動的連結になっていったのである。
7 レナード・ファインバーグの『ユーモアの秘密』に、「単純な虐待は子供にも未開人にも面白い」という言葉があるが、この事実の持つ意味が、上記の1~5に述べたことなのである。「ユーモア」の定義にもよるが、「笑い」そのものは相手を引き下げる行為以外の何物でもないのである。したがって、笑われる当人にはその事が相当の苦痛であることも当然である。
8 ビート・たけし曰く、「俺は笑わせるのは好きだが、笑われるのは嫌いだ」~この言葉も、上記の事実からは当然である。しかし、演技によって自分自身を笑いの対象とすることは、けっして本人が笑われているのではなく、「架空の自分」が笑われているのであるから、この「笑われる苦痛」からは免れることになる。
9 セックスや糞尿の話などのいわゆる「下ネタ」は、どのような気取った人間でも免れられない「人間の動物性」を明るみに出すがために、もっとも確実に笑いを生む。しかしこれは特定の人間への攻撃ではなく、「人間」そのものが攻撃対象となるために、こうしたジョークに笑う当人たちもその攻撃から免れてはいない。したがって、こうした下卑たジョークに苦い顔をする人々が多いのも当然である。
10 下ネタと同様に確実に笑いを生むのが「ずっこけ」、つまり思いがけない転倒である。これは「人間の物体性」を顕在化することから生じる笑いである。同様に「死体を物として粗雑に扱うことから生じる笑い」(映画『毒薬と老嬢』、落語の『らくだ』『黄金餅』など)も「人間の尊厳」を踏みにじる面白さなのである。人間の尊厳についての偽善的弁舌に飽き飽きしている我々は、そうした偽善への攻撃を楽しんでいるわけだ。
11 リチャード・シェリダン曰く、「ウィットが面白くあるためには悪意に満ちていなければならぬ」 (上記『ユーモアの秘密』より)
12 笑いには、我々の潜在的不満の解消という積極的効果もある。我々は事実上自分に優越する人々を笑う(あるいは主観的に見下すことで)ことで、毎日の惨めな生活への不満を一時的に忘れるのである。そして、あるいはこれは社会全体を破滅から救っているかもしれない。
13 ウィル・ロジャース曰く、「何事であれ面白い。ただしそれが他人に起こることであれば」(『ユーモアの秘密』より)
15 ユーモア(笑い)の原則=1.意外さ 2.価値低下(見下し)
14 ユーモアの方法その1「誇張と歪曲」
15 ユーモアの方法その2「意外な連想・結びつけ」
16 ユーモアの方法その3「論理的逆襲」つまり、相手の論理を利用して逆に相手への攻撃とすること。抜群の機転が必要。
17 ユーモアの方法その4 「ナンセンス・意味への反逆」