ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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「だいなし狐の日常」というブログから転載。実に頭脳明晰な人である。なお、「ロマンチックイロニー」は漱石の「三四郎」の中で言及されているが、おそらく日本で理解している人はほとんどいないと思われる。(イロニーは「アイロニー」と同じ。)
(以下引用)
ロマンティック・アイロニーとは何か
ロマンティック・アイロニー(ロマン主義的アイロニー)とは何か?
インターネットで検索しても十分な情報が出てこないから、キツネが簡単に紹介しよう。
そもそもロマン主義というのは、啓蒙主義、古典主義への対抗言論(カウンタースピーチ)だった。これら(啓蒙主義、古典主義)が依拠するのは近代西洋の合理性。すなわち、科学的理性の力によって、人間も、社会も進化していくという、ある意味、盲目的な信仰だよ。近代合理主義の特徴は、世界は計算可能であり、それゆえに操作可能、設計可能であると信じることだった。
これに対してロマン主義が主張したのは、人間というのは狭苦しい理性の殻に囚われるだけの存在ではない、そこには想像力の翼があり、自由な意思の躍動があり、感情の沃野がある。つまり、理性によって説明し尽くされることのない〈感性〉こそが人間の本質、人間性の正体だということだ。近代合理主義への批判は二つの世界大戦の過程で先鋭化した(ダダイズム、シュールレアリスム、不条理劇)けれど、その先駆けとなったのがロマン主義なんだね。
さて、肝心のロマンティック・アイロニー。その主唱者はドイツ・ロマン派最大の理論家、フリードリヒ・シュレーゲルだ。彼は、近代合理主義の閉塞感、計量可能な〈有限性〉のイメージに囲い込まれた近代人の思考を解き放つためには、この壁を破壊するための武器、つまりは方法論が必要だと考えた。彼の脳裏に一人の髭面が浮かび上がる。
ソクラテス……!
そう、近代合理主義の地盤を固める最大の信仰は「この世界には正解がある。理性は正解に辿り着く」というものだ。これに対して「正解なんか、わからなくね?(アポリア)」という痛烈な皮肉(アイロニー)を突きつけた最古の英雄がソクラテスなんだね。
「ソクラテスのアイロニーは全てが戯れであり、同時に全てが真面目である。全てが無邪気で、全てが深遠。それはあらゆる自由のうちで最も自由なものである。なぜなら、それによって我々は自分自身を超えることができるからである」(byシュレーゲル)
普通、アイロニーというのは、表の意味と裏の意味の食い違いによって、話し手が聞き手を試すようなもののことをいう。
「そんな面白いことを言うなんて、きみは頭がいいんだね」(=そんな奇矯なことを言うなんて、きみは変人なんだね)
でも、ソクラテスのアイロニーは違う。そこには表も裏もない。なにせソクラテスだって答えを知らないのだから。彼は当時の最高の知識人たちを相手に、知識、道徳、宗教、国家のあり方を問い続けた。結果として明らかになったのは、誰も彼も、ソクラテスもソフィストたちもきみもぼくも確かなことは何にも知らないということだ。
だからこそ問いは続く。有限の正解ではない、無限の自己否定、それは必然的に次なる一歩を踏み出させる。新たな自己実現、新たな創造を実践するための、阻まれることのない無限の可能性。
これを、シュレーゲルは「自己破壊と自己創造の絶え間ない交替」、すなわちアイロニーであると説明した。無限を切り拓くものとしてのアイロニー。精神の飛翔能力。まぁ、これが本当にソクラテスの目指したものだったかはわからないよね。だから、後の人々は、このイメージをロマン主義者たちのイカロスの翼、〈ロマンティック・アイロニー〉と呼んでいるんだ。
ーーー
と、以上、YouTubeのショート動画の台本にしたくて駆け足で論じたけど、以下ではもう少し丁寧に、シュレーゲルの議論を解説するよ。
◆自己破壊
ロマン主義者たちに、無限への憧れがあったことは、上に見た通り。これは、「永遠の発展性をどのように達成するか」という問題に置き換えられる。
そして、永遠の発展性とは、〈上昇過程が際限なく続いていく〉ということだ。そんなこと、どうやったら可能なのだろうか?
「無限なるものの意識は構成されなければならない。ーー反対物を破壊することによって」
「無限なるものという意識は存在する。ただ有限なるものという幻想が破壊されれば、それはあらわれる」
シュレーゲルが最初に手掛かりとするのは、無限性へのアクセスで、それは有限性を破壊すれば得られるという。ずいぶん楽観的な気もするけれど、そもそも有限性という観念自体が幻想なのだというのがシュレーゲルの見立てだ。有限性こそ人間の条件だと考える近代理性とは拠って立つところが違うよね。自分自身の中にある、有限性という思い込みを破壊しさえすれば、人間の真実の相である〈無限なるものの意識〉を構成できる。この営為をシュレーゲルは〈自己破壊〉と呼んでいて、永遠の発展性への出発点とする。
◆自己創造
この無限なるものの意識が、次に取り組む課題は何だろうか?
そう、創造だね。創造についてシュレーゲルは、機智とか想像力とかを重視する傾向にあるようだ。
「機智とは無条件に社交的な精神である。あるいは断片的独創性である。束縛された精神の爆発である」
「機智に富んだ着想とは、さまざまな精神的素材の分解現象である。想像力はあらかじめあらゆる種類の生によって飽和していなければならない」
「自分の属している圏の外側にも、自分の感覚では捉えられない延長が存在しているということを理解していない者は、自分の属している圏においても取るに足らない存在である」
シュレーゲルは、遠いものへの想像力と、細部への眼差しを求めている。人間にとって創造とは、何もないところから何かを生み出すことではない。既にある何ものかを鋭敏な知覚し、理解し、分析し、交感し、感激する、そういった自己変容こそが創造性の正体だ。そのため彼はこれを〈自己創造〉と呼ぶんだね。これが、発展への推進力となる。
◆無限交替
こうして生じる〈自己破壊と自己創造〉は、単なる車の両輪ではない。これらは相互に喰い合い、絶え間なく交替してゆく無限否定のシステムだ。何故なら、自己創造なき自己破壊は空虚だし、自己破壊なき自己創造は欺瞞だから。
「冷静に表現すべき思想は既に全く過去のものでなくてはならない。もはやそれに没入していてはならない。芸術家が創作し、感激している限り、彼は伝達のためには不自由な状態にいるということになる」
「一つの体系を持つことも、いかなる体系も持たないことも、精神にとっては等しく致命的である。したがっておそらくはこの二つを結合するよう決心しなくてはならないだろう」
ここに、無限否定の実践としての、無限の生成、〈永遠の発展性〉の基礎が与えられる。これがロマンティック・アイロニーの構造だよ。
◆自己限定
さて、〈自己破壊と自己創造の無限交替〉によって得られる果実について、シュレーゲルが語ることにもう少し耳を傾けてみよう。
「個々の芸術や学問、人間などを正しく理解するための感覚とは、分割された精神である。それはすなわち自己限定、したがって自己創造と自己破壊の結果である」
「この自己限定こそは、人間にとって最初に最後のもの、不可欠にして最高のものである。我々が自己を限定しないときには常に、世界が我々を限定し、我々を奴隷にしてしまうのだから。我々が無限の力、自己創造と自己破壊を我が物としている場所においてのみ、自己を限定できるのだから」
本来、無限とは世界の属性であって、ちっぽけな人間はその世界に規定されるばかりの存在に過ぎない。しかし、ロマンティック・アイロニーの無限は世界の無限と拮抗し、人間に、自分自身で自らのあり方を決めることを可能とさせる。シュレーゲルはこれを〈自己限定〉と呼び、最高の価値を認めている。現代風にいえば、自己実現であり、自己決定であり、人格的自律ということになるだろう。
◆無限の帰結
それにしたって、面白いと思わないかい?
ロマンティック・アイロニー、無限への憧れから出発して、永遠の発展、無限の上昇の果てに到達するところは、自己の〈限定〉なんだ。これこそアイロニーというものではないか。
無限の帰結が有限である。このパラドクスがアイロニーの本質であるということに、もちろんシュレーゲル自身が気づいていた。
「アイロニーはパラドクスの形式である。良きものにして偉大なものは全てパラドクスである」
◆永遠の帰結
パラドクスといえば、もう一つある。
無限の否定、無限の自己破壊と自己創造だなんていうけれど、そんな生き方は本当に人間に可能なのだろうか?
シュレーゲルがロマンティック・アイロニーを論じたのは、『リュツェーウム断片』『アテネーウム断片』その他いくつかのエッセイとノートを著したごく僅かな期間に限られる。その後はぱったり口を閉ざす。実は彼、ロマンティック・アイロニーの理論を確立するや否やこれを放棄して、カトリックに転向したんだ。
ソクラテスが自ら毒杯をあおったように、シュレーゲルもまたロマン主義者としての自分を屠った。その意味については評価が分かれるだろうけれど、アイロニストがアイロニカルに生きようとすればアイロニーに対するアイロニーを生きざるを得ない、つまりはアイロニーというのは何らかの形で必ず〈終わり〉を迎えなければならない。永遠の発展性の帰結が必然的な終局なのだとしたら、なるほどこれもまたパラドクスであり、一際冴えたアイロニーだ。
◆
近代合理主義というのは、前近代の宗教的な盲目を啓くことに自らの価値を認めていた。天上に救いを求めるのではなく、自然の摂理、物理法則、すなわち地球の重力に縛られることに重きを置いていた。これに反発して、「なんとしてでも地に足をつけたくない! 意地でも空中浮遊したい」というのがロマン主義の本性だったともいえるかもしれない。だからこそ無限上昇の夢を追いかけたんだね。
とはいえ、冷静にみると、シュレーゲルが提示する無限のプロセスは、必ずしも上昇とか発展とかを保証しない。それは無限に右往左往しているだけかもしれないし、無限に玄関を開け閉めしているだけかもしれない。
でもね、「こうだったらいいな」の強烈な自己実現として、アイロニーを見つけ、アイロニーを生き、アイロニーとともに潰えたのだとしたら、それはやっぱり、ロマンティックだよね。イカロスの翼は太陽の熱に溶けてゆく。
◇参考文献
フリードリヒ・シュレーゲル『ロマン派文学論』(冨山房)
(以下引用)
ロマンティック・アイロニーとは何か
ロマンティック・アイロニー(ロマン主義的アイロニー)とは何か?
インターネットで検索しても十分な情報が出てこないから、キツネが簡単に紹介しよう。
そもそもロマン主義というのは、啓蒙主義、古典主義への対抗言論(カウンタースピーチ)だった。これら(啓蒙主義、古典主義)が依拠するのは近代西洋の合理性。すなわち、科学的理性の力によって、人間も、社会も進化していくという、ある意味、盲目的な信仰だよ。近代合理主義の特徴は、世界は計算可能であり、それゆえに操作可能、設計可能であると信じることだった。
これに対してロマン主義が主張したのは、人間というのは狭苦しい理性の殻に囚われるだけの存在ではない、そこには想像力の翼があり、自由な意思の躍動があり、感情の沃野がある。つまり、理性によって説明し尽くされることのない〈感性〉こそが人間の本質、人間性の正体だということだ。近代合理主義への批判は二つの世界大戦の過程で先鋭化した(ダダイズム、シュールレアリスム、不条理劇)けれど、その先駆けとなったのがロマン主義なんだね。
さて、肝心のロマンティック・アイロニー。その主唱者はドイツ・ロマン派最大の理論家、フリードリヒ・シュレーゲルだ。彼は、近代合理主義の閉塞感、計量可能な〈有限性〉のイメージに囲い込まれた近代人の思考を解き放つためには、この壁を破壊するための武器、つまりは方法論が必要だと考えた。彼の脳裏に一人の髭面が浮かび上がる。
ソクラテス……!
そう、近代合理主義の地盤を固める最大の信仰は「この世界には正解がある。理性は正解に辿り着く」というものだ。これに対して「正解なんか、わからなくね?(アポリア)」という痛烈な皮肉(アイロニー)を突きつけた最古の英雄がソクラテスなんだね。
「ソクラテスのアイロニーは全てが戯れであり、同時に全てが真面目である。全てが無邪気で、全てが深遠。それはあらゆる自由のうちで最も自由なものである。なぜなら、それによって我々は自分自身を超えることができるからである」(byシュレーゲル)
普通、アイロニーというのは、表の意味と裏の意味の食い違いによって、話し手が聞き手を試すようなもののことをいう。
「そんな面白いことを言うなんて、きみは頭がいいんだね」(=そんな奇矯なことを言うなんて、きみは変人なんだね)
でも、ソクラテスのアイロニーは違う。そこには表も裏もない。なにせソクラテスだって答えを知らないのだから。彼は当時の最高の知識人たちを相手に、知識、道徳、宗教、国家のあり方を問い続けた。結果として明らかになったのは、誰も彼も、ソクラテスもソフィストたちもきみもぼくも確かなことは何にも知らないということだ。
だからこそ問いは続く。有限の正解ではない、無限の自己否定、それは必然的に次なる一歩を踏み出させる。新たな自己実現、新たな創造を実践するための、阻まれることのない無限の可能性。
これを、シュレーゲルは「自己破壊と自己創造の絶え間ない交替」、すなわちアイロニーであると説明した。無限を切り拓くものとしてのアイロニー。精神の飛翔能力。まぁ、これが本当にソクラテスの目指したものだったかはわからないよね。だから、後の人々は、このイメージをロマン主義者たちのイカロスの翼、〈ロマンティック・アイロニー〉と呼んでいるんだ。
ーーー
と、以上、YouTubeのショート動画の台本にしたくて駆け足で論じたけど、以下ではもう少し丁寧に、シュレーゲルの議論を解説するよ。
◆自己破壊
ロマン主義者たちに、無限への憧れがあったことは、上に見た通り。これは、「永遠の発展性をどのように達成するか」という問題に置き換えられる。
そして、永遠の発展性とは、〈上昇過程が際限なく続いていく〉ということだ。そんなこと、どうやったら可能なのだろうか?
「無限なるものの意識は構成されなければならない。ーー反対物を破壊することによって」
「無限なるものという意識は存在する。ただ有限なるものという幻想が破壊されれば、それはあらわれる」
シュレーゲルが最初に手掛かりとするのは、無限性へのアクセスで、それは有限性を破壊すれば得られるという。ずいぶん楽観的な気もするけれど、そもそも有限性という観念自体が幻想なのだというのがシュレーゲルの見立てだ。有限性こそ人間の条件だと考える近代理性とは拠って立つところが違うよね。自分自身の中にある、有限性という思い込みを破壊しさえすれば、人間の真実の相である〈無限なるものの意識〉を構成できる。この営為をシュレーゲルは〈自己破壊〉と呼んでいて、永遠の発展性への出発点とする。
◆自己創造
この無限なるものの意識が、次に取り組む課題は何だろうか?
そう、創造だね。創造についてシュレーゲルは、機智とか想像力とかを重視する傾向にあるようだ。
「機智とは無条件に社交的な精神である。あるいは断片的独創性である。束縛された精神の爆発である」
「機智に富んだ着想とは、さまざまな精神的素材の分解現象である。想像力はあらかじめあらゆる種類の生によって飽和していなければならない」
「自分の属している圏の外側にも、自分の感覚では捉えられない延長が存在しているということを理解していない者は、自分の属している圏においても取るに足らない存在である」
シュレーゲルは、遠いものへの想像力と、細部への眼差しを求めている。人間にとって創造とは、何もないところから何かを生み出すことではない。既にある何ものかを鋭敏な知覚し、理解し、分析し、交感し、感激する、そういった自己変容こそが創造性の正体だ。そのため彼はこれを〈自己創造〉と呼ぶんだね。これが、発展への推進力となる。
◆無限交替
こうして生じる〈自己破壊と自己創造〉は、単なる車の両輪ではない。これらは相互に喰い合い、絶え間なく交替してゆく無限否定のシステムだ。何故なら、自己創造なき自己破壊は空虚だし、自己破壊なき自己創造は欺瞞だから。
「冷静に表現すべき思想は既に全く過去のものでなくてはならない。もはやそれに没入していてはならない。芸術家が創作し、感激している限り、彼は伝達のためには不自由な状態にいるということになる」
「一つの体系を持つことも、いかなる体系も持たないことも、精神にとっては等しく致命的である。したがっておそらくはこの二つを結合するよう決心しなくてはならないだろう」
ここに、無限否定の実践としての、無限の生成、〈永遠の発展性〉の基礎が与えられる。これがロマンティック・アイロニーの構造だよ。
◆自己限定
さて、〈自己破壊と自己創造の無限交替〉によって得られる果実について、シュレーゲルが語ることにもう少し耳を傾けてみよう。
「個々の芸術や学問、人間などを正しく理解するための感覚とは、分割された精神である。それはすなわち自己限定、したがって自己創造と自己破壊の結果である」
「この自己限定こそは、人間にとって最初に最後のもの、不可欠にして最高のものである。我々が自己を限定しないときには常に、世界が我々を限定し、我々を奴隷にしてしまうのだから。我々が無限の力、自己創造と自己破壊を我が物としている場所においてのみ、自己を限定できるのだから」
本来、無限とは世界の属性であって、ちっぽけな人間はその世界に規定されるばかりの存在に過ぎない。しかし、ロマンティック・アイロニーの無限は世界の無限と拮抗し、人間に、自分自身で自らのあり方を決めることを可能とさせる。シュレーゲルはこれを〈自己限定〉と呼び、最高の価値を認めている。現代風にいえば、自己実現であり、自己決定であり、人格的自律ということになるだろう。
◆無限の帰結
それにしたって、面白いと思わないかい?
ロマンティック・アイロニー、無限への憧れから出発して、永遠の発展、無限の上昇の果てに到達するところは、自己の〈限定〉なんだ。これこそアイロニーというものではないか。
無限の帰結が有限である。このパラドクスがアイロニーの本質であるということに、もちろんシュレーゲル自身が気づいていた。
「アイロニーはパラドクスの形式である。良きものにして偉大なものは全てパラドクスである」
◆永遠の帰結
パラドクスといえば、もう一つある。
無限の否定、無限の自己破壊と自己創造だなんていうけれど、そんな生き方は本当に人間に可能なのだろうか?
シュレーゲルがロマンティック・アイロニーを論じたのは、『リュツェーウム断片』『アテネーウム断片』その他いくつかのエッセイとノートを著したごく僅かな期間に限られる。その後はぱったり口を閉ざす。実は彼、ロマンティック・アイロニーの理論を確立するや否やこれを放棄して、カトリックに転向したんだ。
ソクラテスが自ら毒杯をあおったように、シュレーゲルもまたロマン主義者としての自分を屠った。その意味については評価が分かれるだろうけれど、アイロニストがアイロニカルに生きようとすればアイロニーに対するアイロニーを生きざるを得ない、つまりはアイロニーというのは何らかの形で必ず〈終わり〉を迎えなければならない。永遠の発展性の帰結が必然的な終局なのだとしたら、なるほどこれもまたパラドクスであり、一際冴えたアイロニーだ。
◆
近代合理主義というのは、前近代の宗教的な盲目を啓くことに自らの価値を認めていた。天上に救いを求めるのではなく、自然の摂理、物理法則、すなわち地球の重力に縛られることに重きを置いていた。これに反発して、「なんとしてでも地に足をつけたくない! 意地でも空中浮遊したい」というのがロマン主義の本性だったともいえるかもしれない。だからこそ無限上昇の夢を追いかけたんだね。
とはいえ、冷静にみると、シュレーゲルが提示する無限のプロセスは、必ずしも上昇とか発展とかを保証しない。それは無限に右往左往しているだけかもしれないし、無限に玄関を開け閉めしているだけかもしれない。
でもね、「こうだったらいいな」の強烈な自己実現として、アイロニーを見つけ、アイロニーを生き、アイロニーとともに潰えたのだとしたら、それはやっぱり、ロマンティックだよね。イカロスの翼は太陽の熱に溶けてゆく。
◇参考文献
フリードリヒ・シュレーゲル『ロマン派文学論』(冨山房)
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引用記事筆者の熊代(シロクマ)氏は精神科医で、医者らしく「ドーパミン」という言葉を多用しているが、昔私が読んだ或る文章ではこれを「やる気スイッチ」と呼んでいた。私もそのほうが「ドーパミン」なる得体の知れないものより親愛感がある。
そして、その文章(書いたのは「パプリカ」などのアニメ監督だが)では、「やる気スイッチ」は「(作業を)やっているうちに入る」という、某脳科学者の説を正しいとしていたし、私もそれは正しいと思う。
家や部屋の掃除などが代表的な事例で、やる前はまったくうんざりしてやる気も無いのだが、始めると、その作業自体が我々に「スイッチ」を入れるのである。それで、次から次へと掃除の範囲を広げたりする。読書も同じで、硬い本は読み始めるのに抵抗があるが、読み始めると興味を惹かれる部分が出てきて思考も活性化する。おそらく勉強も同じだろうが、こちらは私には「勉強が面白かった」という経験は無い。それは「勉強をすること」への心理的抵抗があまりに大きかったのだろう。仕事も同様で、始めるとルーティンワークをしているうちに一日が終わるだけだった。まあ、それは私が取り組んでいた勉強や仕事の内容が最初から私の興味の外だったからだろう。
下に書かれていることは「好きな仕事」なのにやる気が出ない場合の話ではないか。
(以下引用)
ドーパミンが出ない状況になってからが本番だ
だから、なにもかもドーパミン頼みでは詰んでしまう可能性がある。
控えめに言っても、ドーパミンの加護と寵愛がある時しか書けない・活動できない・プラクティスできないのでは、創作も仕事も勉強も続けられないし、結局モノにならないと思う。
ドーパミンを味方につけるための方策が大事なのはもちろん。だけど、ドーパミンが味方してくれない時にも書く・活動する・プラクティスすることも同じぐらい大事だ。
たとえば私自身も、うまくいっている時期もあればうまくいかない時期もある。どうしてもドーパミンが出ない、やる気も集中力も完璧とは言えない時期もある。そういう時にひねり出したアウトプットは、たいてい、色艶が足りないと感じられる。
だ け ど や る ん だ よ !
自分自身の活動を、気まぐれなドーパミンに委ねきってしまっては何もできない。ときにはドーパミンに逆らうように執筆・仕事・勉強をしなければならない場面だってある。
第一、〆切のたぐいは容赦なく迫ってくるのだから、ドーパミンが出ないから書かない・創らないなんて選択肢はないのである。また、そういう状況下でも手を動かし続けること、絶好調とは言えない状態でもあきらめないことが大切だと今はわかる。
アニメ『魔女の宅急便』にも、似たようなことを示唆するシーンがあった。
魔法のホウキで空を飛べなくなってしまったキキに、絵描きのウルスラは「そういう時はジタバタするしかないよ。描いて、描いて、描きまくる」とアドバイスする。さすが宮崎駿監督! ドーパミンの寵愛を受けていない時でも手を休めずジタバタすることの有意味性が伝わってくる。
あと、「タコ練」してみるのも割といい。ここでいう「タコ練」とは、学習効率度外視で、やけくそに練習してみることだ。じきに疲れてしまうのだけど、疲れたおかげで肩の力が抜け、意外なアウトプットが出てきたり、思ってもみなかったことに気付いたりする。
加えてウルスラは、それでも駄目だった時のアドバイスとして「描くのをやめる。散歩したり景色を見たり昼寝したり、何もしない。そのうち、急に描きたくなるんだよ」とも付け加えている。「タコ練」を続けていると疲れてくるし、じきに休みたくなるだろう。でも、リフレッシュした後なら再びドーパミンが戻ってくるかもしれない。
ここで宮崎駿監督は、ウルスラとキキをとおしてアウトプットのためのアドバイスを視聴者にくれている。
私は2013年頃にウルスラのアドバイスを再発見し、以来、彼女のいうとおりに過ごすようにしている。ドーパミンが出ているうちしか頑張れない・楽しくなくなったら手が動かせなくなってしまう限り、人はそれほど多くのことが為しえないし、だからこそドーパミンが出なくなっている時にこそ、あなたや私のクリエイティビティの真価が問われる、のだと思う。
ドーパミンの加護と寵愛を獲得するために工夫だけでなく、彼女がこちらを振り向いてくれない時期にも戦っていけるような工夫も必要だ。
そして、その文章(書いたのは「パプリカ」などのアニメ監督だが)では、「やる気スイッチ」は「(作業を)やっているうちに入る」という、某脳科学者の説を正しいとしていたし、私もそれは正しいと思う。
家や部屋の掃除などが代表的な事例で、やる前はまったくうんざりしてやる気も無いのだが、始めると、その作業自体が我々に「スイッチ」を入れるのである。それで、次から次へと掃除の範囲を広げたりする。読書も同じで、硬い本は読み始めるのに抵抗があるが、読み始めると興味を惹かれる部分が出てきて思考も活性化する。おそらく勉強も同じだろうが、こちらは私には「勉強が面白かった」という経験は無い。それは「勉強をすること」への心理的抵抗があまりに大きかったのだろう。仕事も同様で、始めるとルーティンワークをしているうちに一日が終わるだけだった。まあ、それは私が取り組んでいた勉強や仕事の内容が最初から私の興味の外だったからだろう。
下に書かれていることは「好きな仕事」なのにやる気が出ない場合の話ではないか。
(以下引用)
ドーパミンが出ない状況になってからが本番だ
だから、なにもかもドーパミン頼みでは詰んでしまう可能性がある。
控えめに言っても、ドーパミンの加護と寵愛がある時しか書けない・活動できない・プラクティスできないのでは、創作も仕事も勉強も続けられないし、結局モノにならないと思う。
ドーパミンを味方につけるための方策が大事なのはもちろん。だけど、ドーパミンが味方してくれない時にも書く・活動する・プラクティスすることも同じぐらい大事だ。
たとえば私自身も、うまくいっている時期もあればうまくいかない時期もある。どうしてもドーパミンが出ない、やる気も集中力も完璧とは言えない時期もある。そういう時にひねり出したアウトプットは、たいてい、色艶が足りないと感じられる。
だ け ど や る ん だ よ !
自分自身の活動を、気まぐれなドーパミンに委ねきってしまっては何もできない。ときにはドーパミンに逆らうように執筆・仕事・勉強をしなければならない場面だってある。
第一、〆切のたぐいは容赦なく迫ってくるのだから、ドーパミンが出ないから書かない・創らないなんて選択肢はないのである。また、そういう状況下でも手を動かし続けること、絶好調とは言えない状態でもあきらめないことが大切だと今はわかる。
アニメ『魔女の宅急便』にも、似たようなことを示唆するシーンがあった。
魔法のホウキで空を飛べなくなってしまったキキに、絵描きのウルスラは「そういう時はジタバタするしかないよ。描いて、描いて、描きまくる」とアドバイスする。さすが宮崎駿監督! ドーパミンの寵愛を受けていない時でも手を休めずジタバタすることの有意味性が伝わってくる。
あと、「タコ練」してみるのも割といい。ここでいう「タコ練」とは、学習効率度外視で、やけくそに練習してみることだ。じきに疲れてしまうのだけど、疲れたおかげで肩の力が抜け、意外なアウトプットが出てきたり、思ってもみなかったことに気付いたりする。
加えてウルスラは、それでも駄目だった時のアドバイスとして「描くのをやめる。散歩したり景色を見たり昼寝したり、何もしない。そのうち、急に描きたくなるんだよ」とも付け加えている。「タコ練」を続けていると疲れてくるし、じきに休みたくなるだろう。でも、リフレッシュした後なら再びドーパミンが戻ってくるかもしれない。
ここで宮崎駿監督は、ウルスラとキキをとおしてアウトプットのためのアドバイスを視聴者にくれている。
私は2013年頃にウルスラのアドバイスを再発見し、以来、彼女のいうとおりに過ごすようにしている。ドーパミンが出ているうちしか頑張れない・楽しくなくなったら手が動かせなくなってしまう限り、人はそれほど多くのことが為しえないし、だからこそドーパミンが出なくなっている時にこそ、あなたや私のクリエイティビティの真価が問われる、のだと思う。
ドーパミンの加護と寵愛を獲得するために工夫だけでなく、彼女がこちらを振り向いてくれない時期にも戦っていけるような工夫も必要だ。
この増田に対して、書き手がネカマだと推理するコメントもあるが、そうだとしても女性心理をよく分かっている気がする。いや、私はテレビが映らないからこのCMは見たことがないし、女性経験が少ないし、前世で女性であった記憶もないし、現世で女性であった経験ももちろんないが、何となく女性は「他者との共感性」が生存と生活の必須条件だという気がするのである。
(以下引用)
2025-02-18
■女だけど炎上したCMについての解説をする
結論から言うと、
「現実のまともな女(リアルな私達)はこんなムーブしないし、気持ち悪いぶりっこした女の表現が見てて不快。特に台詞と仕草があざとくて腹立つしキモい。背後に非モテのキモ男が透けて見えてそれがまた生理的にキモい」
というとにかくゴキブリを見たらそりゃ嫌悪感湧いて駆除したくなるでしょ、って言う案件。
※誤解がないように言うが、女である私自身は、男性アニメ向きな、男ウケの女の子の演出かもな、と少し思ったくらいで、食べ物美味しそう、作画綺麗だなーとしか思わなかった、と前置きしておく。
女って生き物は、基本異物を煙たがるんですよ。
おんなじ行動、格好、考え、価値観、好き嫌い。そういうものを雰囲気で擦り合わせて生きてる。
ネットのオタクコミュニティ見て欲しい、分かりやすいから。
限界集落が沢山あるよ、共通の話題と仲間との結束感に飢えてる。
そして時間を持て余した暇人の声がネットではでかくなる。
自分と異なる存在が、特にそれが不快に思う存在ならばもうね、存在自体が許せんのよ。
一人じゃ弱いから言えないけど、流れを見て私も実は、となる。その流れが作れたらあとはもう、勝手に増えてく。共感と不快と結束感の飢えと、生きてる感覚が沸き立ってきちゃう。
いやいや大袈裟な、って思うかもしれないけど、女にとっては生死に関わるくらいのイベントな訳。同じ気持ちを共有出来ればそれはもう、生を感じるし、安心感がすごいわけよ。
男がおっぱい大きい女の子が居た時につい無意識に胸を見てしまうくらい、無視できないわけ。
それが生存本能なんだよ、女の。
危険を察知しちゃったわけ。
お前に何か実害あったのかって思うじゃん?
客観的に見ればない。
でも、女の主観からはあるんだよ。
居心地のいい場所を守ることにとても敏感だから、そんなところに突然Gがでたら「なんでここに!?くつろいだ空間にGが出てくるなんて、許せない駆除しなきゃ…!」って命の危険信号がもう全力で出てくるわけよ。
これは頭がおかしいんじゃなくて、もうね、普段から少しでも危険なものへのアンテナが強いの、本能的に。だからはたからみたら被害妄想じゃん、って思われるような状態になりがち。
まともな人はSNSやネットが居場所じゃないので、そもそも炎上したことも知らないだろうし、してたとしてもどうでもいいってなる。
でもそこを拠点として、居場所としている人達はそうもいかない。少しでも居心地のいい巣を作ろうと命かけちゃうわけ。もうこれね、脳のバグ。
そんな中で、Gキモっ!って発言したら、
「Gキモいとか頭おかしい」
「どこがキモいの?鈴虫は許されるのに?」
「残念ながら蝶々にも触角あるんですよね」
「もう嫌ならG見るなよ、ほっとけ」
とか言われた感覚になっちゃうわけ。
今くつろいでた空間に現れたGに対して、うわキモ!って感想を呟いて、それに対して
「分かります〜Gキモいですよね」
「私もあの触角とか苦手です…」
「G?!うわ!ほんとだキモ!!」
「こういうの見せないでほしい」
「なんで料理メインなのにG見せるのか」
と共有しながら、じゃあ不快の元であるGを駆除した方がいいよね、ってなってみんなでより良い巣にしよう!ってしてる事を否定されてわけがわからなくなっちゃってるわけ。
まともなひとは色んな立場や価値観、考えがある事を知っているので割り切って考えるけど、
自分の居場所が限られてる人ほど守ろうとする本能がGを擁護して、G不快でキモいものって図式の自分の感情を否定してくる人をより敵認定して必死に守ろうと、反撃しようと、反発しようとしちゃうわけ。
って事を自覚できない女は大人でもたーくさんいるんだ。特にね、現実に居場所がなかったり、他責思考が癖になってたりする人はそうなりがち。
なので自分が不快に思ったものを伝えれば意見が通るって思ってる。
多分、成功体験積んでるタイプ。自分がいかに辛い思いをしたか、そう話すと同情されやすいし、さらに弱者マウント王決定戦に勝ち残ればもう最強のカードになるわけ。
だからせめてネットではと声が高くなるし、連鎖しやすいわけ。
そしてその村が苦手な女は死ぬか、女のいないコミュニティに行くか、村から抜けて自立して自分で生きてくか、あるいは上手く変わった人だけど害のない人ポジションに落ち着いてのらりくらり生きてくようになる
これ男には説明してもわけわからんと思うし、アホくさって思うかもしれないけど
女の本能と理性の問題だと思ってる
だから仕方ないというつもりはないけど、理解が広まればいいなとは思う
分かりやすくゴキブリに例えたのはごめん
カップ麺たべたくなってきた
(以下引用)
2025-02-18
■女だけど炎上したCMについての解説をする
結論から言うと、
「現実のまともな女(リアルな私達)はこんなムーブしないし、気持ち悪いぶりっこした女の表現が見てて不快。特に台詞と仕草があざとくて腹立つしキモい。背後に非モテのキモ男が透けて見えてそれがまた生理的にキモい」
というとにかくゴキブリを見たらそりゃ嫌悪感湧いて駆除したくなるでしょ、って言う案件。
※誤解がないように言うが、女である私自身は、男性アニメ向きな、男ウケの女の子の演出かもな、と少し思ったくらいで、食べ物美味しそう、作画綺麗だなーとしか思わなかった、と前置きしておく。
女って生き物は、基本異物を煙たがるんですよ。
おんなじ行動、格好、考え、価値観、好き嫌い。そういうものを雰囲気で擦り合わせて生きてる。
ネットのオタクコミュニティ見て欲しい、分かりやすいから。
限界集落が沢山あるよ、共通の話題と仲間との結束感に飢えてる。
そして時間を持て余した暇人の声がネットではでかくなる。
自分と異なる存在が、特にそれが不快に思う存在ならばもうね、存在自体が許せんのよ。
一人じゃ弱いから言えないけど、流れを見て私も実は、となる。その流れが作れたらあとはもう、勝手に増えてく。共感と不快と結束感の飢えと、生きてる感覚が沸き立ってきちゃう。
いやいや大袈裟な、って思うかもしれないけど、女にとっては生死に関わるくらいのイベントな訳。同じ気持ちを共有出来ればそれはもう、生を感じるし、安心感がすごいわけよ。
男がおっぱい大きい女の子が居た時につい無意識に胸を見てしまうくらい、無視できないわけ。
それが生存本能なんだよ、女の。
危険を察知しちゃったわけ。
お前に何か実害あったのかって思うじゃん?
客観的に見ればない。
でも、女の主観からはあるんだよ。
居心地のいい場所を守ることにとても敏感だから、そんなところに突然Gがでたら「なんでここに!?くつろいだ空間にGが出てくるなんて、許せない駆除しなきゃ…!」って命の危険信号がもう全力で出てくるわけよ。
これは頭がおかしいんじゃなくて、もうね、普段から少しでも危険なものへのアンテナが強いの、本能的に。だからはたからみたら被害妄想じゃん、って思われるような状態になりがち。
まともな人はSNSやネットが居場所じゃないので、そもそも炎上したことも知らないだろうし、してたとしてもどうでもいいってなる。
でもそこを拠点として、居場所としている人達はそうもいかない。少しでも居心地のいい巣を作ろうと命かけちゃうわけ。もうこれね、脳のバグ。
そんな中で、Gキモっ!って発言したら、
「Gキモいとか頭おかしい」
「どこがキモいの?鈴虫は許されるのに?」
「残念ながら蝶々にも触角あるんですよね」
「もう嫌ならG見るなよ、ほっとけ」
とか言われた感覚になっちゃうわけ。
今くつろいでた空間に現れたGに対して、うわキモ!って感想を呟いて、それに対して
「分かります〜Gキモいですよね」
「私もあの触角とか苦手です…」
「G?!うわ!ほんとだキモ!!」
「こういうの見せないでほしい」
「なんで料理メインなのにG見せるのか」
と共有しながら、じゃあ不快の元であるGを駆除した方がいいよね、ってなってみんなでより良い巣にしよう!ってしてる事を否定されてわけがわからなくなっちゃってるわけ。
まともなひとは色んな立場や価値観、考えがある事を知っているので割り切って考えるけど、
自分の居場所が限られてる人ほど守ろうとする本能がGを擁護して、G不快でキモいものって図式の自分の感情を否定してくる人をより敵認定して必死に守ろうと、反撃しようと、反発しようとしちゃうわけ。
って事を自覚できない女は大人でもたーくさんいるんだ。特にね、現実に居場所がなかったり、他責思考が癖になってたりする人はそうなりがち。
なので自分が不快に思ったものを伝えれば意見が通るって思ってる。
多分、成功体験積んでるタイプ。自分がいかに辛い思いをしたか、そう話すと同情されやすいし、さらに弱者マウント王決定戦に勝ち残ればもう最強のカードになるわけ。
だからせめてネットではと声が高くなるし、連鎖しやすいわけ。
そしてその村が苦手な女は死ぬか、女のいないコミュニティに行くか、村から抜けて自立して自分で生きてくか、あるいは上手く変わった人だけど害のない人ポジションに落ち着いてのらりくらり生きてくようになる
これ男には説明してもわけわからんと思うし、アホくさって思うかもしれないけど
女の本能と理性の問題だと思ってる
だから仕方ないというつもりはないけど、理解が広まればいいなとは思う
分かりやすくゴキブリに例えたのはごめん
カップ麺たべたくなってきた
森博嗣の「日常のフローチャート」というブログ記事の一節を転載。
私は森博嗣の小説も人物もあまり好きではないが、エッセイでは非常に正直だと思う。その正直さの原因のひとつは、彼が孤独を好む性格であることだろう。つまり、敵を作り、仲間外れになることが怖くないわけだ。
なお、彼の小説は根本のトリックは馬鹿げたもの(不可能ではないが、「謎のための謎」であり、無意味かつ確率的にはほぼ不可能)が多いが、キャラや事件の描き方が上手い。ただし、そのキャラたちは当然作者の分身なので、「面白いけれど身近にはいてほしくない」キャラが多い。つまり、フィクション内の人物としては優秀ということだ。
なお、資本主義の神々的には人間の「孤独を好む」性向は非常に好ましくないのである。消費は交際によって倍増するとすら言える。私はヴェブレンを読んだことは無いが、「有閑階級の経済学」は、推測するとほとんどが人間が「孤独でない」ことが前提だと思う。つまり、虚栄や虚飾こそが消費を大きく拡大するのである。下の文章の赤字にした部分に関しては、これが「謎の解明」だろう。電通的には「女をターゲットにしろ。そうすれば男もついてくる」というのも同じである。もっとも、今のように急進的フェミのおかげで味噌死に男が増えたら、話も違ってくるだろう。
(以下引用)
【孤独を恐れる人は大勢の中にいる】
実は、ひとりぼっちの人が孤独なのではない。本当に孤独なのは、大勢の仲間の中にぽつんといる人だ。たとえるなら、田舎や山の中の一軒家ではなく、大勢が暮らしているマンションなのに、隣に誰が住んでいるかわからない一室みたいな存在。距離的には多数の他者に囲まれているのに、周りのみんなが自分にとっては明らかに無関係だ、と感じる。真面目な話ができない、話が噛み合わないし、みんなが秘密を持っている、それをけっして明かさない。仲間はいるけれど、これが本当の「親しさ」だろうか、と疑問を抱く。
まず、孤独を感じるのは、この「親しさ」への幻想があるためで、いうならば、「他者への期待」が根元となる。「親しい他者」の虚像を信じている。そういうものが存在すると何故か思い込んでいる。それは、神を信じるようなものであり、根拠はまったくない。しかし、子供の頃から見せられてきた数々のフィクション、ドラマ、映画、漫画、小説などに描かれているものだから、絶対にこの世に存在すると信じている。神や超能力などの超自然現象と同じくファンタジィでありSFなのだが、周囲の誰もが信じているように見えるし、そう振る舞うから、いつまでも期待してしまう。自分の前にも「親しさ」がやってくる、と待っているのだ。つまり、この状態が「孤独」というものの正体である。
仲間と一緒にいて安心できる人は、一人でいる人を見て、「寂しそうだな」と感じるし、一方、一人で楽しんでいる人は、仲間と一緒にいる人を見て、「つき合わされて可哀想だな」と感じる。いずれの立場にいても、自身の境遇が良いと感じる人は多い。でも、一部の人は、逆の立場へ憧れを持っている。仲間と一緒にいても、「こんなグループからは早く抜け出して、一人でのんびり過ごしたい」と感じる人はいるし、一人でなにかをしていても、「大勢で一緒に楽しめたら良いな」と感じる人もいる。
そういった個々の立場、それぞれの感覚を無視して、一人だと孤独だ、と決めつける場合があって、特にマスコミなどは、そういった勘違いをしやすい。勘違いではなく、なにかスポンサを配慮して故意にイメージを捏造している可能性もある。マスコミというのは、このような意図的な捏造を長年にわたって続けて、それを自分たちでも信じてしまうようだ。
私は森博嗣の小説も人物もあまり好きではないが、エッセイでは非常に正直だと思う。その正直さの原因のひとつは、彼が孤独を好む性格であることだろう。つまり、敵を作り、仲間外れになることが怖くないわけだ。
なお、彼の小説は根本のトリックは馬鹿げたもの(不可能ではないが、「謎のための謎」であり、無意味かつ確率的にはほぼ不可能)が多いが、キャラや事件の描き方が上手い。ただし、そのキャラたちは当然作者の分身なので、「面白いけれど身近にはいてほしくない」キャラが多い。つまり、フィクション内の人物としては優秀ということだ。
なお、資本主義の神々的には人間の「孤独を好む」性向は非常に好ましくないのである。消費は交際によって倍増するとすら言える。私はヴェブレンを読んだことは無いが、「有閑階級の経済学」は、推測するとほとんどが人間が「孤独でない」ことが前提だと思う。つまり、虚栄や虚飾こそが消費を大きく拡大するのである。下の文章の赤字にした部分に関しては、これが「謎の解明」だろう。電通的には「女をターゲットにしろ。そうすれば男もついてくる」というのも同じである。もっとも、今のように急進的フェミのおかげで味噌死に男が増えたら、話も違ってくるだろう。
(以下引用)
【孤独を恐れる人は大勢の中にいる】
実は、ひとりぼっちの人が孤独なのではない。本当に孤独なのは、大勢の仲間の中にぽつんといる人だ。たとえるなら、田舎や山の中の一軒家ではなく、大勢が暮らしているマンションなのに、隣に誰が住んでいるかわからない一室みたいな存在。距離的には多数の他者に囲まれているのに、周りのみんなが自分にとっては明らかに無関係だ、と感じる。真面目な話ができない、話が噛み合わないし、みんなが秘密を持っている、それをけっして明かさない。仲間はいるけれど、これが本当の「親しさ」だろうか、と疑問を抱く。
まず、孤独を感じるのは、この「親しさ」への幻想があるためで、いうならば、「他者への期待」が根元となる。「親しい他者」の虚像を信じている。そういうものが存在すると何故か思い込んでいる。それは、神を信じるようなものであり、根拠はまったくない。しかし、子供の頃から見せられてきた数々のフィクション、ドラマ、映画、漫画、小説などに描かれているものだから、絶対にこの世に存在すると信じている。神や超能力などの超自然現象と同じくファンタジィでありSFなのだが、周囲の誰もが信じているように見えるし、そう振る舞うから、いつまでも期待してしまう。自分の前にも「親しさ」がやってくる、と待っているのだ。つまり、この状態が「孤独」というものの正体である。
仲間と一緒にいて安心できる人は、一人でいる人を見て、「寂しそうだな」と感じるし、一方、一人で楽しんでいる人は、仲間と一緒にいる人を見て、「つき合わされて可哀想だな」と感じる。いずれの立場にいても、自身の境遇が良いと感じる人は多い。でも、一部の人は、逆の立場へ憧れを持っている。仲間と一緒にいても、「こんなグループからは早く抜け出して、一人でのんびり過ごしたい」と感じる人はいるし、一人でなにかをしていても、「大勢で一緒に楽しめたら良いな」と感じる人もいる。
そういった個々の立場、それぞれの感覚を無視して、一人だと孤独だ、と決めつける場合があって、特にマスコミなどは、そういった勘違いをしやすい。勘違いではなく、なにかスポンサを配慮して故意にイメージを捏造している可能性もある。マスコミというのは、このような意図的な捏造を長年にわたって続けて、それを自分たちでも信じてしまうようだ。
大岡昇平の「食欲について」という短文の中に、こういう一節がある。
「素人は戦場において職業軍人より軍人らしいことがよくある。愛国の観念が軍隊のシニスムで毒されていないからである。」
シニスムはシニシズムと同じで、「冷笑主義」のことだが、軍隊に限らず、プロはしばしば自分の仕事へのシニスムを持つものだろう。その仕事の内容と限界を熟知するからである。
だが、こういう「軍人のシニスム」を描いた映画は少ないようだ。いや、昔の日本映画には案外多かったのだが、それは大岡昇平と同様、素人が軍隊体験をした例が膨大にあり、多くの兵士が軍隊の現実を知っていたからだろう。よく知られているのが、「弾は前からばかり来るとは限らねえぞ」という言葉だ。軍隊で上官に抑圧されている古参兵士が、戦闘の時にその上官を背後から撃ってもおかしくない、ということである。
最近のアニメなどでも中世西洋的異世界での戦争が話の一部になることがあるが、そういう「軍隊の、あるいは軍人のシニスム」のエピソードを見たことはない。それを描けば抜群のリアリティが出せると思う。これはロボット戦争アニメでも同じである。たとえば「ガンダム」などでそれが描かれたことがあるだろうか。おそらく、制作陣に戦争経験者がいないから無理だろう。
「素人は戦場において職業軍人より軍人らしいことがよくある。愛国の観念が軍隊のシニスムで毒されていないからである。」
シニスムはシニシズムと同じで、「冷笑主義」のことだが、軍隊に限らず、プロはしばしば自分の仕事へのシニスムを持つものだろう。その仕事の内容と限界を熟知するからである。
だが、こういう「軍人のシニスム」を描いた映画は少ないようだ。いや、昔の日本映画には案外多かったのだが、それは大岡昇平と同様、素人が軍隊体験をした例が膨大にあり、多くの兵士が軍隊の現実を知っていたからだろう。よく知られているのが、「弾は前からばかり来るとは限らねえぞ」という言葉だ。軍隊で上官に抑圧されている古参兵士が、戦闘の時にその上官を背後から撃ってもおかしくない、ということである。
最近のアニメなどでも中世西洋的異世界での戦争が話の一部になることがあるが、そういう「軍隊の、あるいは軍人のシニスム」のエピソードを見たことはない。それを描けば抜群のリアリティが出せると思う。これはロボット戦争アニメでも同じである。たとえば「ガンダム」などでそれが描かれたことがあるだろうか。おそらく、制作陣に戦争経験者がいないから無理だろう。
私の別ブログから転載。まあ、どちらかのブログが突然弾圧された場合の保険である。あるいは、既に転載したかもしれない。
(以下自己引用)
笑いのメカニズム
思想、思想の断片、考えるヒント 2024年05月20日
笑いのメカニズム
1 笑いは優越性に基づく。この優越性は「主観的」なもので良い。下僕は主人より社会的には下位だが、主人の失敗を見て笑う時、彼は心理的に主人に優越しているのである。
2 笑いは心理的攻撃である。笑うことによって、彼は自分の優越性を確認する。これはまたナルシズム(自己愛)の満足である。自己の優越を確認することで、彼の自己愛が満足させられるのである。
3 したがって、笑いは自然が人間に与えた「生きる武器・防具」の一つである。ナルシズムそのものが人間を外界や境遇の攻撃から彼を守るように、笑いも彼を守る。
4 笑いの共有は、「犠牲者」を要する。その犠牲者が権威ある者、上位者であるほどその笑いの効果は大きいが、また笑うことの危険性もある。こうして「オブラートにくるんだ笑い」が生まれる。比喩や寓話による笑いなどはその原初的なものであり、風刺はその発展的なものである。
5「攻撃としての笑い」は、知られざる相手の弱点を表にさらけ出すことで作られる。相手の肉体的欠点を笑うのはその初歩的なものである。それが事実であるだけに、この攻撃は避けようが無く、これは初歩的だがもっとも残酷な笑いでもある。それに続いて、相手の性癖、仕草、言葉癖なども、少しの誇張によって笑いの攻撃対象となる。
6 笑いの気持ち良さは、笑う自分が笑われる相手より上にいることからも来るが、それ以前に、笑い自体が生理的に気持ちいいのである。それは3で述べた、自然のプレゼントだろう。満足した赤ん坊が笑うように、最初、笑いは気持ち良さの無意識の表現であったが、それが「笑うから気持ちよい」という自動的連結になっていったのである。
7 レナード・ファインバーグの『ユーモアの秘密』に、「単純な虐待は子供にも未開人にも面白い」という言葉があるが、この事実の持つ意味が、上記の1~5に述べたことなのである。「ユーモア」の定義にもよるが、「笑い」そのものは相手を引き下げる行為以外の何物でもないのである。したがって、笑われる当人にはその事が相当の苦痛であることも当然である。
8 ビート・たけし曰く、「俺は笑わせるのは好きだが、笑われるのは嫌いだ」~この言葉も、上記の事実からは当然である。しかし、演技によって自分自身を笑いの対象とすることは、けっして本人が笑われているのではなく、「架空の自分」が笑われているのであるから、この「笑われる苦痛」からは免れることになる。
9 セックスや糞尿の話などのいわゆる「下ネタ」は、どのような気取った人間でも免れられない「人間の動物性」を明るみに出すがために、もっとも確実に笑いを生む。しかしこれは特定の人間への攻撃ではなく、「人間」そのものが攻撃対象となるために、こうしたジョークに笑う当人たちもその攻撃から免れてはいない。したがって、こうした下卑たジョークに苦い顔をする人々が多いのも当然である。
10 下ネタと同様に確実に笑いを生むのが「ずっこけ」、つまり思いがけない転倒である。これは「人間の物体性」を顕在化することから生じる笑いである。同様に「死体を物として粗雑に扱うことから生じる笑い」(映画『毒薬と老嬢』、落語の『らくだ』『黄金餅』など)も「人間の尊厳」を踏みにじる面白さなのである。人間の尊厳についての偽善的弁舌に飽き飽きしている我々は、そうした偽善への攻撃を楽しんでいるわけだ。
11 リチャード・シェリダン曰く、「ウィットが面白くあるためには悪意に満ちていなければならぬ」 (上記『ユーモアの秘密』より)
12 笑いには、我々の潜在的不満の解消という積極的効果もある。我々は事実上自分に優越する人々を笑う(あるいは主観的に見下すことで)ことで、毎日の惨めな生活への不満を一時的に忘れるのである。そして、あるいはこれは社会全体を破滅から救っているかもしれない。
13 ウィル・ロジャース曰く、「何事であれ面白い。ただしそれが他人に起こることであれば」(『ユーモアの秘密』より)
15 ユーモア(笑い)の原則=1.意外さ 2.価値低下(見下し)
14 ユーモアの方法その1「誇張と歪曲」
15 ユーモアの方法その2「意外な連想・結びつけ」
16 ユーモアの方法その3「論理的逆襲」つまり、相手の論理を利用して逆に相手への攻撃とすること。抜群の機転が必要。
17 ユーモアの方法その4 「ナンセンス・意味への反逆」
(以下自己引用)
笑いのメカニズム
思想、思想の断片、考えるヒント 2024年05月20日
笑いのメカニズム
1 笑いは優越性に基づく。この優越性は「主観的」なもので良い。下僕は主人より社会的には下位だが、主人の失敗を見て笑う時、彼は心理的に主人に優越しているのである。
2 笑いは心理的攻撃である。笑うことによって、彼は自分の優越性を確認する。これはまたナルシズム(自己愛)の満足である。自己の優越を確認することで、彼の自己愛が満足させられるのである。
3 したがって、笑いは自然が人間に与えた「生きる武器・防具」の一つである。ナルシズムそのものが人間を外界や境遇の攻撃から彼を守るように、笑いも彼を守る。
4 笑いの共有は、「犠牲者」を要する。その犠牲者が権威ある者、上位者であるほどその笑いの効果は大きいが、また笑うことの危険性もある。こうして「オブラートにくるんだ笑い」が生まれる。比喩や寓話による笑いなどはその原初的なものであり、風刺はその発展的なものである。
5「攻撃としての笑い」は、知られざる相手の弱点を表にさらけ出すことで作られる。相手の肉体的欠点を笑うのはその初歩的なものである。それが事実であるだけに、この攻撃は避けようが無く、これは初歩的だがもっとも残酷な笑いでもある。それに続いて、相手の性癖、仕草、言葉癖なども、少しの誇張によって笑いの攻撃対象となる。
6 笑いの気持ち良さは、笑う自分が笑われる相手より上にいることからも来るが、それ以前に、笑い自体が生理的に気持ちいいのである。それは3で述べた、自然のプレゼントだろう。満足した赤ん坊が笑うように、最初、笑いは気持ち良さの無意識の表現であったが、それが「笑うから気持ちよい」という自動的連結になっていったのである。
7 レナード・ファインバーグの『ユーモアの秘密』に、「単純な虐待は子供にも未開人にも面白い」という言葉があるが、この事実の持つ意味が、上記の1~5に述べたことなのである。「ユーモア」の定義にもよるが、「笑い」そのものは相手を引き下げる行為以外の何物でもないのである。したがって、笑われる当人にはその事が相当の苦痛であることも当然である。
8 ビート・たけし曰く、「俺は笑わせるのは好きだが、笑われるのは嫌いだ」~この言葉も、上記の事実からは当然である。しかし、演技によって自分自身を笑いの対象とすることは、けっして本人が笑われているのではなく、「架空の自分」が笑われているのであるから、この「笑われる苦痛」からは免れることになる。
9 セックスや糞尿の話などのいわゆる「下ネタ」は、どのような気取った人間でも免れられない「人間の動物性」を明るみに出すがために、もっとも確実に笑いを生む。しかしこれは特定の人間への攻撃ではなく、「人間」そのものが攻撃対象となるために、こうしたジョークに笑う当人たちもその攻撃から免れてはいない。したがって、こうした下卑たジョークに苦い顔をする人々が多いのも当然である。
10 下ネタと同様に確実に笑いを生むのが「ずっこけ」、つまり思いがけない転倒である。これは「人間の物体性」を顕在化することから生じる笑いである。同様に「死体を物として粗雑に扱うことから生じる笑い」(映画『毒薬と老嬢』、落語の『らくだ』『黄金餅』など)も「人間の尊厳」を踏みにじる面白さなのである。人間の尊厳についての偽善的弁舌に飽き飽きしている我々は、そうした偽善への攻撃を楽しんでいるわけだ。
11 リチャード・シェリダン曰く、「ウィットが面白くあるためには悪意に満ちていなければならぬ」 (上記『ユーモアの秘密』より)
12 笑いには、我々の潜在的不満の解消という積極的効果もある。我々は事実上自分に優越する人々を笑う(あるいは主観的に見下すことで)ことで、毎日の惨めな生活への不満を一時的に忘れるのである。そして、あるいはこれは社会全体を破滅から救っているかもしれない。
13 ウィル・ロジャース曰く、「何事であれ面白い。ただしそれが他人に起こることであれば」(『ユーモアの秘密』より)
15 ユーモア(笑い)の原則=1.意外さ 2.価値低下(見下し)
14 ユーモアの方法その1「誇張と歪曲」
15 ユーモアの方法その2「意外な連想・結びつけ」
16 ユーモアの方法その3「論理的逆襲」つまり、相手の論理を利用して逆に相手への攻撃とすること。抜群の機転が必要。
17 ユーモアの方法その4 「ナンセンス・意味への反逆」
元コメント(ツィートか)もそれに対するコメント(青字にしておく)も、どちらもかなり問題のある発言だと思うが、現在の日本のアモラル(無道徳)な一面の指摘になっているかと思うので転載する。
まあ、他人にあれこれ言うより、個々人が考えるべき問題だ。
私としては、元コメントのパートナーを非常に立派な人間だと思う。そして、投稿者を下種っぽいと思う。それをやわらげて言えば、男らしい男と女らしい女の「モラル」に関する生物的相違だろうか。女性は、「まず生存(現実)が第一」であり、男は「理念先行」なのである。理念は無謀さにもつながる。けっして後者(男らしさ)だけを肯定するわけではない。そして女性にも理想主義的行動をとった英傑はたくさんいる。
(以下引用)
anond:20250201051214言及先エントリを閉じる
■正義感と息苦しさ
パートナーは見た目もタイプで優しくて思いやりがあって、一緒にいるといつでも楽しい。3年一緒にいて、喧嘩したことはない。
けど、正義感が息苦しい。
店で大声で店員に文句を言っている場面を見かけると必ず仲裁をしにいくし、信号が赤だとどんな場合でも渡らない(夜中の全く車が通らない所でも)、ゴミ捨ての分別はプラスチックゴミをわざわざ保管してまでやる、おそらくポイ捨てしたであろう人にわざわざ落としましたよとゴミを渡しに行くとか、見ていたテレビで容姿についていじられている芸人を見ると不愉快だとチャンネルを変える、とか。
他にも、確かに人としては正しい寄りだとは思うけどそこまでやる?みたいなことが多々ある。
こうしろ、ああしろと言ってくることはないけど、こうしないとなのかなと思うと息苦しい。
一度だけ、文句を言っている客と店員の仲裁に行った後に危ないからやめてほしいと伝えたことがある。
危ないかもしれないけど、あれを見るのが不快だし、関係のない第三者だから仲裁できるんだよと言っていた。
(正直これは正しいというより気持ち良くなってないか?とも思う、仲裁に行っている間は自分は遠くから眺めているだけ)
ポイ捨てする人にゴミを渡しに行くのを見た時、そんなことしなくていいよと言うと、やりたいからやってると笑ってた。
少し行き過ぎな気もするけど、パートナーの何かが悪いと思うことでもないから自分の中での消化が難しい。
今後耐えられなくなったりするんかな
あなたの考えはいわゆる「弱者を見殺しにして権力にばかり媚びへつらう意地悪で幼稚な国民性」「怠惰でおとなしい愚民」と呼ばれるものだと思う。
日本人はとにかく意地悪で不親切で、幼稚で愚か。
店で大声を言う人間に必ず仲裁をしにいく人が少なく全員が店員を見殺しにするからカスハラ世界一のスゴイ国になったし、
国民のゴミ捨ての分別などの環境保護意識が後進国レベルの低さだからSDGEs達成度は他国にめちゃくちゃ遅れをとっている。
ポイ捨てしたであろう人に落としましたよとゴミを渡しに行く人もいない、見て見ぬ振りで何もしない事を賢いと誇るバカばかりだから他国と比べてもずば抜けて民度が低い
容姿いじりをキャンセルするような高い精神性を国民どもが持たないから、いつまで経っても市場に自浄作用がなく、何十年も永遠に課題が解決されない。
全てはこの人のような「何もしないのが1番いい、賢く安全」と思い込んでる奴が多いから。
自分たちの手で作った人権後進国である
まあ、他人にあれこれ言うより、個々人が考えるべき問題だ。
私としては、元コメントのパートナーを非常に立派な人間だと思う。そして、投稿者を下種っぽいと思う。それをやわらげて言えば、男らしい男と女らしい女の「モラル」に関する生物的相違だろうか。女性は、「まず生存(現実)が第一」であり、男は「理念先行」なのである。理念は無謀さにもつながる。けっして後者(男らしさ)だけを肯定するわけではない。そして女性にも理想主義的行動をとった英傑はたくさんいる。
(以下引用)
anond:20250201051214言及先エントリを閉じる
■正義感と息苦しさ
パートナーは見た目もタイプで優しくて思いやりがあって、一緒にいるといつでも楽しい。3年一緒にいて、喧嘩したことはない。
けど、正義感が息苦しい。
店で大声で店員に文句を言っている場面を見かけると必ず仲裁をしにいくし、信号が赤だとどんな場合でも渡らない(夜中の全く車が通らない所でも)、ゴミ捨ての分別はプラスチックゴミをわざわざ保管してまでやる、おそらくポイ捨てしたであろう人にわざわざ落としましたよとゴミを渡しに行くとか、見ていたテレビで容姿についていじられている芸人を見ると不愉快だとチャンネルを変える、とか。
他にも、確かに人としては正しい寄りだとは思うけどそこまでやる?みたいなことが多々ある。
こうしろ、ああしろと言ってくることはないけど、こうしないとなのかなと思うと息苦しい。
一度だけ、文句を言っている客と店員の仲裁に行った後に危ないからやめてほしいと伝えたことがある。
危ないかもしれないけど、あれを見るのが不快だし、関係のない第三者だから仲裁できるんだよと言っていた。
(正直これは正しいというより気持ち良くなってないか?とも思う、仲裁に行っている間は自分は遠くから眺めているだけ)
ポイ捨てする人にゴミを渡しに行くのを見た時、そんなことしなくていいよと言うと、やりたいからやってると笑ってた。
少し行き過ぎな気もするけど、パートナーの何かが悪いと思うことでもないから自分の中での消化が難しい。
今後耐えられなくなったりするんかな
あなたの考えはいわゆる「弱者を見殺しにして権力にばかり媚びへつらう意地悪で幼稚な国民性」「怠惰でおとなしい愚民」と呼ばれるものだと思う。
日本人はとにかく意地悪で不親切で、幼稚で愚か。
店で大声を言う人間に必ず仲裁をしにいく人が少なく全員が店員を見殺しにするからカスハラ世界一のスゴイ国になったし、
国民のゴミ捨ての分別などの環境保護意識が後進国レベルの低さだからSDGEs達成度は他国にめちゃくちゃ遅れをとっている。
ポイ捨てしたであろう人に落としましたよとゴミを渡しに行く人もいない、見て見ぬ振りで何もしない事を賢いと誇るバカばかりだから他国と比べてもずば抜けて民度が低い
容姿いじりをキャンセルするような高い精神性を国民どもが持たないから、いつまで経っても市場に自浄作用がなく、何十年も永遠に課題が解決されない。
全てはこの人のような「何もしないのが1番いい、賢く安全」と思い込んでる奴が多いから。
自分たちの手で作った人権後進国である
このブログの「人生論」的なシリーズの中でも書いたが、社会に生きていく上では嘘と演技の能力はほぼ必須であり、その能力が無いと、社会の落伍者になるわけだ。私などは嘘も演技も苦手で、その能力を身につけるのも面倒くさいので、一生(精神的には子供のまま)、社会の底辺で生きていく決心を20代で決めている。正確には、大学を中退した時点で決めている。それが「子どもの精神のまま生きていくことだ」と気づいたのは、たぶん、このブログを書き始めたころだろう。つまり、開き直りである。
社会というのは他者との関係が必須なので、他者の機嫌を取り、他者を自分の都合のいいように動かすのに正直一方では無理なのである。嘘をつくとは、ある面では「相手に合わせる」ことで、努力が必要なのだ。まあ、それが生まれつき容易にできるサイコパスもいるが、だからといって、正直な自分が偉いということにはならない。単に怠惰であることが多いわけだ。そもそも、嘘をつくには、いろいろと記憶し、嘘の整合性をつける知力が必要なのである。頭の悪い人間の嘘は、ついたそばからぼろぼろバレていく。
昔、予備校で教師をしていたころ、生徒のひとりが、全国模試でちょっと信じがたい成績を取ったことがある、と私との雑談で言ったのだが、それに感心して、後で同僚との雑談の中でその話をすると、その同僚は(非常に頭のいい人だったが)「フカシだよ、フカシ」と笑いながら、即座に言ったので、驚いたことがある。そういう無意味な嘘を生徒が教師に言うことも、その同僚が即座にそれを嘘だと見抜いたことも、私には信じがたいことだったのである。そこが、私が「子ども頭脳」であるゆえんだ。世間では、嘘というのがごく日常的であり、周囲もそれを見抜いているわけだ。たぶん、私に嘘をついた生徒は、私がその嘘を見抜けない馬鹿だと分かっていたのだろう。
まあ、そういう物事に慣れるのが「世慣れる」ということである。世渡りの上手い人は、それ自体、つまり世渡り行為自体を楽しんでいるのだろう。そして、自分が騙した相手を、「こいつ、馬鹿だな」と考えて楽しむわけだ。まあ、正直さは馬鹿と紙一重であり、それはトルストイの「イワンの馬鹿」という童話(民話)で描かれているが、長年生きてきて、自分が馬鹿だと分かったのは、私はごく最近なのである。「汝自身を知れ」というのは、なかなか困難なようだ。
社会というのは他者との関係が必須なので、他者の機嫌を取り、他者を自分の都合のいいように動かすのに正直一方では無理なのである。嘘をつくとは、ある面では「相手に合わせる」ことで、努力が必要なのだ。まあ、それが生まれつき容易にできるサイコパスもいるが、だからといって、正直な自分が偉いということにはならない。単に怠惰であることが多いわけだ。そもそも、嘘をつくには、いろいろと記憶し、嘘の整合性をつける知力が必要なのである。頭の悪い人間の嘘は、ついたそばからぼろぼろバレていく。
昔、予備校で教師をしていたころ、生徒のひとりが、全国模試でちょっと信じがたい成績を取ったことがある、と私との雑談で言ったのだが、それに感心して、後で同僚との雑談の中でその話をすると、その同僚は(非常に頭のいい人だったが)「フカシだよ、フカシ」と笑いながら、即座に言ったので、驚いたことがある。そういう無意味な嘘を生徒が教師に言うことも、その同僚が即座にそれを嘘だと見抜いたことも、私には信じがたいことだったのである。そこが、私が「子ども頭脳」であるゆえんだ。世間では、嘘というのがごく日常的であり、周囲もそれを見抜いているわけだ。たぶん、私に嘘をついた生徒は、私がその嘘を見抜けない馬鹿だと分かっていたのだろう。
まあ、そういう物事に慣れるのが「世慣れる」ということである。世渡りの上手い人は、それ自体、つまり世渡り行為自体を楽しんでいるのだろう。そして、自分が騙した相手を、「こいつ、馬鹿だな」と考えて楽しむわけだ。まあ、正直さは馬鹿と紙一重であり、それはトルストイの「イワンの馬鹿」という童話(民話)で描かれているが、長年生きてきて、自分が馬鹿だと分かったのは、私はごく最近なのである。「汝自身を知れ」というのは、なかなか困難なようだ。
「富とは自由に処分できる時間のことなのであって、それ以外のなにものでもない」
これはマルクスの言葉らしいが、私もこれに賛成である。しかし、これには大前提があって、「生きるのに必要な金銭が保証されている」ことだ。
つまり、生活保護を受けている者や年金老人こそが、この世で一番豊かな人間だということだ。ただしこれはあくまで「生きるのに必要なカネが」保証されているという話であり、「贅沢するのに必要なカネ」の話ではない。
モームの「世界の十大小説」の中の、大小説家たちの伝記部分を読むと、バルザックもドストエフスキーもカネが入るようになると、まったく無駄で無意味なカネの使い方をして大散財するのである。それが癖になるのか、借金してまで浪費するのである。
もともとの貴族であり、カネに不自由はしなかったトルストイも、カネのロクな使い方はしなかった。彼らには「カネを持つ意味」は無かったのである。なぜなら、彼らは素晴らしい「脳内世界」を持っていて、それを小説として書くだけで十分であり、実はカネを持つ必要性など無かったからである。
高橋留美子などは「漫画を描くより楽しいことってあります?」と言ったそうである。賢者の言である。この言葉は、清少納言が「一番の幸福は白い紙を得た時だ」と言っているのと同じである。つまり、この紙に何を書こうかと考えるのが一番の幸福だったわけだ。
「内田樹の研究室」所載の「知性について(仮題)」の後書きの一部だが、私は内田樹という人物を今ひとつ信頼できないような印象を持っているが、まあ、それは現代のあらゆる「知識人」に対する私の偏見だろう。
で、この引用文に書かれた思想は、私も100%同意する。そもそも、人類の文化はすべて先人の文化を土台として生まれたもので、知識には所有権も、そして本当は「著作権」もありえない、というのが私の思想である。模倣者が出ても、それによって「オリジナル」の受ける迷惑は知れたものだ。で、原理的にはその「オリジナル」も、その土台になる先人の創作物があるわけだ。
(以下引用)
21世紀に入って日本が知的生産において著しく劣化した最大の理由は、みんなが「自分はどれくらいものを知っているか」「自分はどれくらい賢いか」を誇示し、他人をおしのけて権力や財貨の「割り前」に与ろうと競争しているからです。そんなこと、すればするほど集団的な知性は衰えてゆく。どうしてそれに気がつかないんでしょう。
自分がどれくらいものを知っているかとか、自分がどれくらい賢いかなんて、どうだっていいじゃないですか。自分の所有する知的な財があったら、それは共有地に供託して、みんなに使ってもらう。自分もみんなが供託してくれたものを使わせてもらう。それが知的に豊かな社会だと僕は思います。
同意してくれる人はまだまだ少数ですけれども、これからも僕はそう訴え続けるつもりです。みなさんもそういうふうに考えて下さるとうれしいです。
2025年1月
内田樹
で、この引用文に書かれた思想は、私も100%同意する。そもそも、人類の文化はすべて先人の文化を土台として生まれたもので、知識には所有権も、そして本当は「著作権」もありえない、というのが私の思想である。模倣者が出ても、それによって「オリジナル」の受ける迷惑は知れたものだ。で、原理的にはその「オリジナル」も、その土台になる先人の創作物があるわけだ。
(以下引用)
21世紀に入って日本が知的生産において著しく劣化した最大の理由は、みんなが「自分はどれくらいものを知っているか」「自分はどれくらい賢いか」を誇示し、他人をおしのけて権力や財貨の「割り前」に与ろうと競争しているからです。そんなこと、すればするほど集団的な知性は衰えてゆく。どうしてそれに気がつかないんでしょう。
自分がどれくらいものを知っているかとか、自分がどれくらい賢いかなんて、どうだっていいじゃないですか。自分の所有する知的な財があったら、それは共有地に供託して、みんなに使ってもらう。自分もみんなが供託してくれたものを使わせてもらう。それが知的に豊かな社会だと僕は思います。
同意してくれる人はまだまだ少数ですけれども、これからも僕はそう訴え続けるつもりです。みなさんもそういうふうに考えて下さるとうれしいです。
2025年1月
内田樹