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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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私は、他人が読む可能性のある文章を書くときには、いつも「面白く読んでもらう」ことを意識している。べつに職業作家でなくても、他人に「読んでもらう」のだから、それは当然だということだ。その結果、冗談が滑ったり、ユーモアのつもりが不快感を催させたりするのは仕方がない。
などと書いたのは、昨日はそういう気になれなかったからだ。
一生の友人が亡くなったという知らせを受けたからである。ここ数年は、こちらの貧乏暮らしや「会っても特に話すことがない」ということで直接に会うことはなかったが、生涯の恩人であり、いざとなれば、身命を捧げて恩に報いたい気持ちもあったのである。
まあ、昨日は一日、ほとんど外にも出ずぼんやり過ごしたが、或る種の服喪の気分もあったようだ。
思えば、私自身この年齢まで生きてこられたこと自体が「個人的奇跡」のようなもので、平々凡々とした人生でも「生きること自体が成功だ」と言える。まあ、明石家さんまが同じようなことを言っている。かと言って、特に生にしがみつくつもりはない。もちろん、いざとなれば「死にたくない」とわめいて見苦しいふるまいをするだろうが、それは単なるヒステリーだ。
で、そういう意味では「毎日の生活自体が奇跡の顕現だ」とも言える。何も起こらなくても、日の光を見、風を感じ、木々の葉が揺れるのを眺めるだけで幸福である。
先ほど思い出したのが、そういう幸福感を描いたのが「ヨコハマ買い出し紀行」という漫画(あるいはアニメ)だったと思う。あの漫画、あるいはアニメはもっと高く評価されていい。
あるいは、漫画(アニメ)における小津安二郎的作品とも言える。
「生きる」とは、黒澤明の同名映画のように「社会に有益なことをする」だけでなく、毎日の幸福感こそがひとりひとりの生きる意味だろう。

なお、この文章は「悼辞」ではなく、「悼詩」としての散文詩のつもりである。友よ、別天地で安らかなれ。
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