ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
カテゴリー
フリーエリア
最新CM
最新記事
(12/22)
(12/22)
(12/22)
(12/21)
(12/21)
(12/21)
(12/20)
(12/20)
(12/19)
(12/19)
最新TB
プロフィール
HN:
o-zone
性別:
非公開
ブログ内検索
アーカイブ
最古記事
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
P R
カウンター
私は「義務」と「責任」という言葉が大嫌いで、したがって、仕事も常に嫌いだった。学校時代は学校に行くのも嫌いだったから、この年まで生きられたのは奇跡のようなものだが、10代くらいのころは、自分は20歳まで生きられそうな気もしなかった。
大学に入ることは入ったが、そこもつまらなかったし、また学業をさぼることに罪の意識が常にあったので、いつも鬱屈した気分だった。大学を中退して常にその場しのぎの仕事をしているうちに今の年になって、今は「したくないことはしないですむ」から人生最高の時である。カネはあまり無いから贅沢はできないが、もともとそういう欲望はゼロであるから問題はない。性欲も無いからその方面の焦燥感もない。貧しいながら日々を生きるだけの生活費は一応あるので、それ以上は欲しいものは無い。
本題に戻る。私の前半生の問題は、常に「したくないことをする義務がある」ことだったわけだ。学生時代は勉強、社会人になってからは仕事である。この両者の中では後者のほうがややマシだろうか。というのは、仕事は生命維持に直結するので、とにかくやるしかないからだ。仕事自体が面白いとかやりがいがあると思ったことは一度もないが、そういう仕事への夢想を捨てれば、我慢することはだいたいできると思う。仕事とはそれが当たり前ではないか? ビジネス書が教える「仕事のやりがい」というのは、経営者を儲けさせるだけのことだろう。つまり、低賃金で馬車馬的に働く労働者を大量に生産するのだから。
まあ、資本主義社会というのは文字どおり、「資本」が生命のようなもので、最初から資本を持って生まれた層しか上級国民にはなれないわけだ。戦後日本の、貧困から立身出世した偉人たちというのは、時代の産物で、階級が固定した後には、最初から資本が無い人間が上に行く機会は、ゼロではないが、ごく少数だろう。それも、数知れない競争に勝った場合のことだ。中にはライバルを蹴落とすために悪辣な手段を取る者もいるだろう。つまり、下層社会は「蟲毒」であり、その中で勝ち残った最強の毒虫が上に上がる、ということだろうか。欧米資本主義国家がすべて無残な状態になっているのは資本主義の必然かもしれない。日本も当然、そうなりつつある。
まあ、個人の問題と社会の問題をごっちゃにした話になってしまったが、本題に戻るなら、私があれほど「義務」と「責任」が嫌いだったのに対して、世間の人の多くはあまりそういう気持ちを持たないように見えるのが不思議なのだが、それはおそらく私が異常に生真面目で、「義務」と「責任」を過大に考える性質だったからだと思う。
つまり、世間の人間の大半はそういうプレッシャーがさほどなく、失敗しても「笑って済ます」連中が普通だったのではないだろうか。もちろん、重大な仕事での失敗は笑いごとではないが、それでも命までは取られない。首になるだけだ。で、私のように何度も転職した人間が、義務と責任を重大視するのは、かなり頭が悪かったと言えそうだ。とは言っても、傍から見たら私は無責任極まる人間に見えた可能性は大であるwww
人間の自己評価と他者による評価は大きく違うのが普通で、だいたいは後者のほうが客観的なのであるからwww
大学に入ることは入ったが、そこもつまらなかったし、また学業をさぼることに罪の意識が常にあったので、いつも鬱屈した気分だった。大学を中退して常にその場しのぎの仕事をしているうちに今の年になって、今は「したくないことはしないですむ」から人生最高の時である。カネはあまり無いから贅沢はできないが、もともとそういう欲望はゼロであるから問題はない。性欲も無いからその方面の焦燥感もない。貧しいながら日々を生きるだけの生活費は一応あるので、それ以上は欲しいものは無い。
本題に戻る。私の前半生の問題は、常に「したくないことをする義務がある」ことだったわけだ。学生時代は勉強、社会人になってからは仕事である。この両者の中では後者のほうがややマシだろうか。というのは、仕事は生命維持に直結するので、とにかくやるしかないからだ。仕事自体が面白いとかやりがいがあると思ったことは一度もないが、そういう仕事への夢想を捨てれば、我慢することはだいたいできると思う。仕事とはそれが当たり前ではないか? ビジネス書が教える「仕事のやりがい」というのは、経営者を儲けさせるだけのことだろう。つまり、低賃金で馬車馬的に働く労働者を大量に生産するのだから。
まあ、資本主義社会というのは文字どおり、「資本」が生命のようなもので、最初から資本を持って生まれた層しか上級国民にはなれないわけだ。戦後日本の、貧困から立身出世した偉人たちというのは、時代の産物で、階級が固定した後には、最初から資本が無い人間が上に行く機会は、ゼロではないが、ごく少数だろう。それも、数知れない競争に勝った場合のことだ。中にはライバルを蹴落とすために悪辣な手段を取る者もいるだろう。つまり、下層社会は「蟲毒」であり、その中で勝ち残った最強の毒虫が上に上がる、ということだろうか。欧米資本主義国家がすべて無残な状態になっているのは資本主義の必然かもしれない。日本も当然、そうなりつつある。
まあ、個人の問題と社会の問題をごっちゃにした話になってしまったが、本題に戻るなら、私があれほど「義務」と「責任」が嫌いだったのに対して、世間の人の多くはあまりそういう気持ちを持たないように見えるのが不思議なのだが、それはおそらく私が異常に生真面目で、「義務」と「責任」を過大に考える性質だったからだと思う。
つまり、世間の人間の大半はそういうプレッシャーがさほどなく、失敗しても「笑って済ます」連中が普通だったのではないだろうか。もちろん、重大な仕事での失敗は笑いごとではないが、それでも命までは取られない。首になるだけだ。で、私のように何度も転職した人間が、義務と責任を重大視するのは、かなり頭が悪かったと言えそうだ。とは言っても、傍から見たら私は無責任極まる人間に見えた可能性は大であるwww
人間の自己評価と他者による評価は大きく違うのが普通で、だいたいは後者のほうが客観的なのであるからwww
PR
この記事にコメントする