宮崎駿監督「一話ですが……。僕はもう、一話を見た途端、首を吊ろうかと思った」
「ラナってのはね、コナンが一目見た途端に、 一生この女のために頑張るぞというくらいの美少女でなければならないと (僕は) 思い込んでるのに、すごいブスラナが出て来ましてね」#未来少年コナン
この「換骨奪胎」は、宮崎駿の天才性をよく示していると思う。優れた作家でも、無から何かを作り出すわけではない。その作品そのものが優れていれば、元ネタがどこから来たかはさほど問題ではないと私は思う。手塚治虫も、素人作品を参考にして自分の作品に活かしたことはあったようだ。それは、その素人にとっては名誉と言うべきだろう。
黒岩涙香なども換骨奪胎の名人で、海外の作品(無名の大衆小説含む)を見事に日本を舞台にして名作にした。「鉄仮面」など、その代表的なものだ。ボアゴベーという原作小説作家は本国でも今では誰も知らない程度の作家であり、埋もれた作品らしい。(映画の「仮面の男」の原作はデュマで、まったく別作品)
まあ、私が見る限りでは、第二話以降もそれほど「美少女化」したとは思えないというか、第一話のラナをとんでもないブスと思った宮崎駿のほうがおかしいと思うのだが、おそらく宮崎の脳内ではラナは「女神化」しており、自分でもどう描いていいか分からず、大塚氏に期待したのではないか。ところが、想像以上に「ブス」だったわけだ。つまり、漠然とした空想上の「美少女」との落差による失望だろう。
大塚氏にとっては非常に気の毒な話で、第一話のラナは海辺で気絶しており、意識が少し回復して顔を上げた途端、巨大なサメの顔と対面し、目を回すのである。その目を回す顔を「美少女」に描け、と言われたのだから理不尽な要求というものだろう。
で、「作品内現実」の次元で考えると、コナンは生まれて一度も女を見たことが無いのである。そういう子供に女性の美という観念があるだろうか。つまり、一目見た途端に、「一生この女のために頑張るぞ」と思うのは、ラナの美しさのためだとしたら、その美の基準は、たとえばおじいの老年顔の醜さとの対比によるものであり、他の少女と比較してのものであるはずはないわけだ。その意味ではラナが「絶世の美少女」である必要性は無い。
まあ、視聴者としては、ラナがブスや平凡な顔では視聴継続する気にもなれないし、宮崎駿もブスなヒロインのためにアニメ作りを延々と続けるのは御免だっただろう。まさに「永遠に女性なるもの、我らを牽きて往かしむ」なのである。それは、相手がフィクションの女性だろうが同じだ。
なお、宮崎駿をペドフィリア扱いする馬鹿がいるが、彼は単に少女というものを女性美の極致としているだけで、性欲的な対象としているわけではない。創作においてまで少女を美や崇拝の対象とすることは変態的だ、というのは馬鹿な精神科医か馬鹿なフェミニストだけである。
なお、ナボコフの「ロリータ」も、少女を性欲の対象ではなく、崇拝の対象とした物語である。主人公(語り手)のハンバート・ハンバートがロリータをセックスの相手にするのは、相手から誘われたから応じただけであり、しかもそれ以前にロリータは同年齢の少年と性体験を持っていたのだ。
ゴダールは、映画の出来は最初の五分で分かる、と言っていたと思うが、第一話を全部見ても話の内容がつかめない、というのは視聴者を馬鹿にしていないか。
私は、ヒロインは腕が義手なだけ(義手でタイプライターが打てるということ自体、ほとんどSFだが)なのか、人造人間なのか、第一話全部を見ても了解できず、第二話以降を見る気を失ったわけだ。単に絵がきれいというのは私の場合、アニメを見る必要条件だが絶対条件ではない。ただ、「ワンピース」のように絵柄自体に不快感がある場合は絶対条件に近い。
(以下引用)漫画家北崎拓のツィートである。
本放送当時はこの1話を観て、「絵が綺麗だけどよくわからんなー」という感想だったんだよね。 今ならこの冒頭だけで涙ぐめる!(ぐんだ) #ヴァイオレットエヴァーガーデン
まあ、「芝浜UFO大戦」は高校生が制作したアニメだから、「改良の余地あり」は当然で、その意味では魅力が欠如していてもいいが、映像と効果音だけ(台詞や解説無し)で見せるダイジェストが長すぎる。
問題はほかにもあり、そもそも、作中に出てきた「カットされた最終シーン(人類と河童のダンスシーン)」は、「アクションにこだわる」水崎氏の作画とはまったく思えない幼稚な動画であり、前半での水崎氏のキャラ(発言)との整合性が無い。(確か前に水崎氏がスケッチで示したダンスシーンの絵ともまったく似ていない。)
百目鬼氏が、あのマニアックな「音への執着」にも関わらず、一番重要な最終シーンの音楽が勝手に変更されていたことを確認もせず、映像研に伝えていなかったことも、簡単に許せる話ではないだろう。
この最終回はあらゆる面で「やっつけ仕事」にしか、私には思えなかった。序盤のワクワク感はどこへ消えたのか。
ただし、作品の面白さが段々低減していくのは原作漫画も同じであり、アニメはそれをうまくカバーして良作に仕上げた、その手腕をこそ褒めるべきではあるだろう。
(追記)これまで怒涛のようにアニメ「映像研」に関するツィートを流していた原作者大童澄瞳が、アニメの最終回が終わっても、その回の感想を現在、火曜日の14時までほとんどツィートしていないのを見ても、最終回への不満が推測できる。だが、アニメの最終回の出来は原作自体がそのあたりから失速していることの反映だと私は思っている。とは言え、前半の秀逸な出来からしたら、原作の要素を組み合わせることで満足のいく最終回を作ることは可能だったのではないか。
つまり、浅草たちが作るアニメが完成し、公開されるところで全十二回が終わると思われるのだが、そのアニメの最後がダンスシーンで終わるようなのである。最後を祝祭的雰囲気で終わるという意味では、「映像研」自体の話とそのダンスシーンは重なっていると言えるのではないか。
なお、過去の映画やアニメへのオマージュという点では、今夜の回には「AKIRA」や「用心棒」や宮崎駿自身も登場していた。これも
そうした凄い作品との出会いで、主人公たちは「想像の世界、創造の世界の素晴らしさ」を再確認し、新しく歩き始める。
と同じことを表している、と言えるのではないか。
富野由悠季がアニメ制作希望者に「アニメなど見るな」と言っているのは、つまり、過去の優れた文学や映画などからこそ、新しいアニメ作りの養分を吸い取るべきであり、アニメだけ見ていては、過去の名作アニメの縮小再生産にしかならない、という意味だろう。アニメ「映像研」は、若い人々に同じことを伝えているように思われる。
(以下引用)
この作品の面白さは、アニメを高校の部活として作る上での様々な困難が克服される過程、つまり、「問題をいかに解決するか」に面白さの半分はかかっていると私は思うのだが、第四巻ではすでにその問題が見えなくなっていると思う。
具体的に言えば、全体の主題そっちのけで描かれた「たぬきのエルドラド」の話が、その創作過程も含め、面白くないということだ。原作者は「平成狸合戦ぽんぽこ」が大好きだということのようだが、「たぬきのエルドラド」は、その生煮えの二次創作でしかないと感じる。
いや、高校生の作品なのだから、それで当然、と言えるわけだが、問題は、おそらくこのあたりをアニメ化しても、それは視聴者には面白く思えないだろう、ということだ。
要するに、この辺のテーマは、「自分で自分の想像力の限界を小さくしてはいけない」ということだと思うが、その「改善された」想像の内容が、あきれるほど陳腐では、視聴者はがっかりするだろう、ということだ。そして、それは作者、大童澄瞳自身の想像力の限界を示しているように思う。この程度の話が、作者の「最強の世界」だとしたら第一話で高められた視聴者の期待をかなり裏切ることになるだろう。
この隘路を脱出する道はひとつである。
それは、浅草氏自身が、自分の創作した世界の陳腐さに一度絶望することだ。その上で、過去の名作アニメの世界がいかに「普通の作品」から隔絶したレベルにあったかを再度確認することだ。
つまり、冒頭の「未来少年コナン」との出会いのようなエピソードに戻るのである。たとえば、今敏の「パプリカ」などを引用してもいいだろう。
そうした凄い作品との出会いで、主人公たちは「想像の世界、創造の世界の素晴らしさ」を再確認し、新しく歩き始める。
そうすることで、最後をフェリーニの「8 1/2」のように、登場人物全員が歓喜の中で輪になって踊ることができるだろう。まさに「easy breezy」で終われるのである。
知波単学園は大日本帝国戦車の学校です。 知波の名前の由来は大日本帝国陸軍主力戦車 通称動く棺桶九七式中戦車(チハ)から来ています。 隊長の名前は西 絹代です。 西は、ロサンゼルスオリンピック馬術で金メダルを獲得した西竹一(バロン西)から来ています。2013/11/30
何より、「下手(しもて)」に敵対的存在がいる、という仮説がどうにも受け入れにくい。
確かに、歌詞の中で、「からかっていた奴ら」という部分があるのかもしれないが、アニメの中ではそういう存在はいない。単に映像研に無理解であるだけで、しかもそれは「敵」という存在ではないだろう。そもそも、現代のダンスパフォーマンスに、そのような象徴性を見出すのは無理ではないか。
いかにして、面白い動きや姿勢を作り(考案し)、それをどういう順序で構成するか、だけだろう。
いや、アニメの中では話が別だ、と言うかもしれないが、同じだと思う。
もっとも、「映像研」に関してはそう思うと言うだけで、私自身、姿勢の持つ象徴性には非常に興味があり、事象の深読みや裏読みも基本的には好ましいと思っている。(たとえば、人差し指を前方に突き出すだけで、その指の先にあるものを「指示」する、というのは人間だけに可能な行為であると言う。まさに、ここに「象徴」の文化的、文明的意義がある。つまり、「抽象化」の能力こそが人間と動物を分けるわけだ。)
ただ、関係ないものまで、「自分のお得意の土俵」に無理にねじ込むのは、「ポジショントーク」の一種に思われ、好ましいとは思わないのである。
なお、「下手」は「観客」から見て左側、というのは演劇をやる人には常識なのだろうが、一般人を相手にその言葉を使う時にはちゃんと説明する、という姿勢はいいと思う。その割には、妙なカタカナ語を説明抜きで使っている部分もあるが。
え、これから? すでにけっこう語ったのでは? いやいや、わたしはまだ問題の入口にすら立ってやしません。だって、あのひときわぐっとくる盆踊り、いや、キャラクターのダンス、というか舞いが、なぜかくも観る者の心をつかまえて離さないのか、それをただ「チープ」というひとことで説明してしまっていいのか、そこに込められたテクニックとパッションの一端を明らかにするくらいのことはしなければ、ミーム作りまくってる連中と初期衝動を分かち合うことすらできやしないではないか。というわけで、ずいぶん文字数を費やしてしまいましたが、実はここまでが話のイントロです。では、本題に入りましょう。
OP6つのカット
「映像研」OPのスタッフとしては絵コンテが湯浅政明監督、アニメーションにはAbel Gongora、木下絵李、Nick McKertowの3人がクレジットされています。わたしは一鑑賞者に過ぎないので、どのスタッフがどの作業をどんな風に進めたのかは知りません。ただ、いっけんチープに見えるこのオープニングが実はとんでもない精度でできていることは分かる。そこで、ここからは、誰の仕事か、ということはおいて、3人の舞いの部分について、あくまで映像を手がかりに分かることを考えていきます。
では、ここからちょっと地味な作業にお付き合いいただきますよ。めんどくさい奴とお思いでしょうが、ちゃんとあとで報われますからね。
「はい始まった」。
というところから「Easy Breezy」(作詞:Rachel・Mamiko、作曲:ryo takahashi・Rachel・Mamiko、編曲:pistacio studio)の3人の舞いは、始まります。舞いは、基本的には3+3=6つのカットでできています。まずは各カットに記号をつけましょう。キャラクターの登場順(金森→水崎→浅草)にイニシャルを用いて前半の3つをK1・M1・A1、 後半の3つをK2・M2・A2とします。また前半と後半は彩色が対照的なので、前半を「ノーマル」、後半を「サイケ」と呼びましょう。画面向かって右のことを「上手」、左のことを「下手」と呼び、登場人物にとっての左右と区別します。
それぞれのカットで3人は次のように動いています。
《ノーマル》
K1: 金森:下手に両掌を向け構える
M1: 水崎:下手に顔向けシェー
A1: 浅草:下手に向かってカンフーアクション、おどおどした目つき
《サイケ》
K2: 金森:下手に顔向け、右手構えてにらむ
M2: 水崎:上手に左腕水平に伸ばし、右腕上に上げてカメラ目線
A2: 浅草:上手から回転後、上手に体傾け、両腕上げ目ぱかーん
わかりやすいように模写した図をのっけておきますね。
下手に気をつけろ! ―3人世界の始まり―
3人の舞いを見て、まず最初に気づくのは、目の開閉の差です。ノーマルでは、金森(K1)も水崎(M1)もずっと目をつぶっており、浅草(A1)だけが、下手に向かって目を見開いている。これに対してサイケでは、金森は腕を構えた瞬間に目をかっと見開き(K2)、水崎はずっとカメラ目線で目を開けており(M2)、浅草は片目で上手を狙うように見てから、覚醒したように黄色い目を開きます。身も蓋もない言い方ですが、ノーマルに比べてサイケでは、3人は世界に対して目を開いている、と言えるでしょう。目の開き方にはキャラクターの特徴も出てますね。金森は睨む、水崎はカメラ目線で、浅草はウロがきたかと思うとぱかーんと覚醒する。
3人の体に、ある種の指向性があることにも注意しましょう。まず下手に対してはネガティブな指向が見られます。まず金森が下手に対して両掌を開き、拒絶を思わせるポーズをとり(K1)、水崎は下手に背を向けてシェーを決め(M1)、浅草も下手に向かってカンフーアクションかましてからウロたえた目つきでポーズする(A1)。とどめは再び金森が下手に仮想敵でも見つけたかのように、ぐっとにらみをきかせる(K2)。一方、上手にはポジティブな指向が見られます。水崎が読者モデルっぽく左腕を優雅に上手に出し(M2)、浅草は片目で上手に狙いを定めてから、上手に体を預けるようにぱかーんと笑む。大まかにいってノーマルでは下手に対するネガティブな指向が見られ、K2を経てサイケでは上手に対するポジティブな指向が見られるというわけです。
この指向性の変化は、背景の動きによっても後押しされてます。よく見るとノーマルでは背景は上手から下手に流れ、サイケでは逆に下手から上手に流れている。そのせいでノーマルからサイケに移ったときに、なんだか潮目が変わった感じがするのです。
さて、これら、3人の視線と体、そして背景に表れる動きは何を表しているのでしょう? それはリリックをきくと分かります。リリックは、次のように同期しているのです。
カット:リリック
K1: はい始まった
M1: 絡まった
A1: からかった
K2: やつらは
M2: どっかへ
A2: いっちゃった
「始まった」といいながらまだ金森は覚醒前で(K1)、「絡まった」のは水崎なんですね(M1)。金森と浅草という同級生コンビに、水崎があとから絡みだす第一話を思い出させます。そしてA1から、リリックはひとまとまりのことを言ってます。「からかったやつらはどっかへいっちゃった」。わたしはここで「桐島、部活やめるってよ」に描かれたような、スクールカーストにおける映画部の位置づけを思い出したりするのですが、それはともかく、学校において映像に打ち込んでる自分たちをバカにする「やつら」がいて、そいつらがこちらを「からかった」。その「からかい」と浅草の挙動不審カンフーアクションが同期する(A1)。浅草の目の焦点が合ってない。危うし浅草氏。しかし「やつら」に金森がにらみをきかせると(K2)潮目が変わります。「どっかへ」で水崎が溌剌と伸びをして(M2)、「いっちゃった」で浅草が「やった!」と解放的な表情になる。
オープニング前半のごく一部、合計わずか4秒足らずの6つのカットとリリックを経て、下手の不穏な「やつら」の気配は消え、3人の目は見開かれ、せいせいして、いよいよ世界が始まりました。まだ、始まったばかりです。
(つづく)
私は、このアニメを見ていないが、クライマックスシーン(ティマ、つまり原作のミッチィの死の場面)は素晴らしいパセティックさに溢れていて、映画史に残るものだと思う。
(以下引用)
メトロポリス (2001年の映画)
メトロポリス | |
---|---|
監督 | りんたろう |
脚本 | 大友克洋 |
製作 | 丸山正雄、八巻磐 |
出演者 | 井元由香、小林桂、岡田浩暉 富田耕生、若本規夫、滝口順平 石田太郎 |
音楽 | 本多俊之 |
制作会社 | マッドハウス |
製作会社 | メトロポリス製作委員会 |
配給 | 東宝 |
公開 | 2001年5月26日 |
上映時間 | 107分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
製作費 | 10億円 |
興行収入 | 7.5億円 |
『メトロポリス』は、手塚治虫の同名漫画『メトロポリス』を原作としたアニメーション映画。2001年(平成13年)5月26日劇場公開。
概要[編集]
製作期間は5年、総制作費は10億円、総作画枚数は15万枚、興行収入は7.5億円[1]。声優としてやなせたかしや永井豪が友情出演している。
キャラクターデザインは初期の手塚の絵柄を意識している[2]。一方で、「手塚なら新しい技術に興味を持つはず」との考えから3DCGも多用されている[2]。
評価[編集]
米国で英語声優によって吹き替えされ劇場公開された本作品は、米国の映画批評家からは好評であり、もっとも権威のある米国映画評価ウエブサイトRottenTomatoesでは91点を獲得している。同じ時期に公開されたスティーヴン・スピルバーグの『A.I.』との比較が多い[3]。
全米で最も影響力のあるといわれる映画評論家ロジャー・イーバートは、満点評価である4つ星を与え、アニメ史上最高の作品の一つであると称え、これまでありえなかったような緻密な作画の質を高く評価している[4]。たとえば、探偵がノートを読むシーンでめくったページが後戻りし、それをまためくるというような一連のシーンに驚嘆している。また、駅の中の電車がホテルココナツとして使われているというような設定の工夫も評価している。映画のテーマもスティーヴン・スピルバーグの『A.I.』とリドリー・スコットの『ブレードランナー』を引き合いに出したうえで、「単純な漫画のストーリーとは程遠く、驚くほど深遠」だとしている。
goatdog.comは「史上もっとも優れたアニメのひとつ」であり、「ミルクの箱に載ってる栄養表示まで読めるほどの」極めて緻密な作画の質を絶賛し、さらに最後のジグラット崩壊シーンをスタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』の影響が見られ、背景画を軽視する西洋アニメからは考えられない日本アニメが生み出した快挙だと絶賛している。また、本作のテーマである「ロボットであることに対する苦悩」も、スピルバーグの『A.I.』よりもうまく知的に描かれていると評価している。
ストーリー[編集]
ケンイチ少年とその叔父、私立探偵ヒゲオヤジこと伴俊作は、人とロボットが共存する大都市メトロポリスへやって来た。生体を使った人造人間製造の疑惑で国際指名手配されている科学者ロートン博士を逮捕するためだった。
ちょうど、高層ビル「ジグラット」の完成記念式典の真っ最中で、町の広場でレッド公による演説が華々しく行われていた。が、ロボットが式典を妨害し騒ぎが起こる。そして、1人の青年が平然とロボットを破壊して去っていった。
メトロポリスは、「人とロボットの共存都市」と言われていた。しかし、そこでは、ロボットたちが人間に酷使されていた。一方、労働者たちも、ロボットに働き口を奪われ、都市の地下部に押し込められ、ロボットに憎しみをたぎらせていた。ロボットに人間と同等の権利を認めるよう叫ぶ団体が存在し、また上層部ではレッド公とブーン大統領が表向きは手を取り合いつつ対立しているなど、さまざまな確執が噴出していた。
ヒゲオヤジとケンイチは、ロボット刑事ペロの手助けを借りて、ロートン博士が潜伏していると思われる都市の地下部ZONE1へと潜入する。そこで、彼の地下研究所を見つけるが、原因不明の火事が起こっていた。研究所内部に突入したケンイチは、逃げ後れた謎の少女を助ける。彼女は、大統領に成り代わり都市の実権を握る影の実力者、レッド公の亡き娘・ティマに瓜二つだった。そうとは知らないケンイチは、彼女を連れ脱出を図るが、ロボット弾圧の先鋒である過激派組織マルドゥク党の総帥ロックに狙われてしまうのだった。
登場人物[編集]
- ティマ
- 声:井元由香
- レッド公がロートン博士に造らせたロボットの少女。その名前と姿はレッド公の死んだ娘がモデルとなっている。
- レッド公が自身の権力を永遠のものにするために造らせたロボットであり、ジグラット最上部の「超人の間」に座ることでその力を発揮する。
- 原作での両性具有の人造人間「ミッチイ」に相当するキャラクター。
- ケンイチ
- 声:小林桂
- 叔父のヒゲオヤジと共にメトロポリスに来た少年。ふとしたことからティマと行動を共にすることとなる。
- ロック
- 声:岡田浩暉
- レッド公の養子で政治結社マルドゥク党の若手実力者[5]。レッド公に心酔し、ロボットを憎んでいる。
- レッド公が執着するティマを破壊しようとする。
- レッド公
- 声:石田太郎
- ジグラットを建設したメトロポリスの有力者。ジグラット内部の秘密兵器を使いメトロポリスの、そして世界の支配を画策する。マルドゥク党の設立者でもあり、現在も支援していることは公然の秘密となっている。
- ヒゲオヤジ
- 声:富田耕生
- ロートン博士を追って日本から来た名探偵。ケンイチの叔父で、本名は「伴俊作」。
- ペロ
- 声:若本規夫
- メトロポリス警察のロボット刑事。正式名称は「803-D,R-P,D.M.497-3-C」で、「ペロ」の名はヒゲオヤジが付けた愛称。ロートン博士を追うヒゲオヤジ達と行動を共にする。革命の際、アトラスに破壊される。
- ロートン博士
- 声:滝口順平
- 人体実験や臓器密売の罪により国際手配されている科学者。メトロポリスの地下に潜伏し、レッド公の依頼でティマを造った。序盤でロックに射殺される。
- ポンコッツ博士
- 声:青野武
- レッド公配下の科学者。オモテニウム発生装置を開発した。
- ブーン大統領
- 声:池田勝
- メトロポリスの大統領。レッド公の影響力を疎ましく思い、市民を扇動してその失脚を企むが、スカンクに裏切られて粛清される。
- ノタアリン
- 声:八代駿
- メトロポリス警視庁警視総監。ヒゲオヤジにペロを紹介する。
- スカンク
- 声:古川登志夫
- 軍を統括するメトロポリスの国務長官[6]でブーン大統領の腹心。ブーン大統領にレッド公逮捕のための軍出動を命令されるが、そのことをレッド公に密告し、逆にブーン大統領を粛清する。
- ランプ
- 声:千葉繁
- メトロポリスの諜報省長官でブーン大統領の腹心。アトラスに反レッド公・反ロボットの革命を持ち掛けるが、スカンクに裏切られ射殺される。
- ハムエッグ
- 声:江原正士
- メトロポリス地下ゾーンの管理責任者。ロックを地下ゾーンに案内する。ティマを破壊しようとするロックを制止して射殺される。
- リヨン
- 声:土師孝也
- メトロポリスの市長。ジグラット完成記念式典に招待される。
- アトラス
- 声:井上倫宏
- ZONE-1のスラム街に住む失業者達の指導者。ロボットの躍進によって失業者が増えていることから反ロボットの革命を起こす。ブーン大統領の支援を取り付けていたが、軍とマルドゥク党に阻止され失敗し死亡。
- フィフィ
- 声:愛河里花子
- アルバートII型の清掃ロボット。ZONE-3の下水処理場でケンイチと出会う。
- エンミィ
- 声:小山茉美
- レッド公に仕えるメイド。ロックに買収され、ティマを引き渡す。
用語[編集]
- メトロポリス
- 世界の産業・経済・文化をリードする巨大都市国家。超高層ビル群が立ち並ぶ地上部とエネルギープラントや下水処理施設、スラム街が広がる地下部で構成される。
- ジグラット
- レッド公が建設した超高層ビル。内部にはオモテニウム発生装置が秘密裏に設置し、最上部には支配者の椅子(超人の間)がある。メトロポリス繁栄のシンボルとなる一方、反レッド公派やスラムの住人からは打倒すべき存在と認識されていた。
- オモテニウム発生装置
- ジグラットの屋上に設置されている兵器。太陽黒点を操作し、地球上の特定の地域に磁気嵐を起こすことができる。人体に影響は無いがロボットを暴走させることができ、レッド公はこれを持って世界を支配しようとした。
- マルドゥク党
- メトロポリスで活動する自警団・政治結社。ロボットが人間の地位に近づくことに反発し、人間の与えた制限を超えた行動を取ったり、暴走したロボットを自警活動の名目で破壊する。常に武器を携帯し、周囲の被害に構わず使用するため、市民からも恐れられる。
- レッド公が設立者で、現在も支援をするなど、事実上、彼の私的な武装組織となっている。
- 地下ゾーン
- 下級労働者や失業者が居住するZONE-1、エネルギープラントが置かれたZONE-2、下水処理施設のあるZONE-3で構成される。地上及び各ゾーン間の移動は厳しく制限され、ZONE-3は一部のロボット以外は立ち入りを禁じられている。
スタッフ[編集]
- 企画:りんたろう、丸山正雄、渡辺繁
- 企画協力:手塚プロダクション
- 製作:角田良平、宗方謙、平沼久典、塩原徹、阿部忠道、長瀬文男、松谷孝征、寺島昭彦
- 監督:りんたろう
- 脚本:大友克洋
- キャラクターデザイン・総作画監督:名倉靖博
- 作画監督:赤堀重雄、桜井邦彦、藤田しげる
- 作画監督補佐:辻繁人、平田敏夫
- 原画 : 小松原一男、川名久美子、戸倉紀元、大橋學、村木靖、小曽根正美、加来哲郎、安藤真裕、野田卓雄、新川信正、多田雅治、新岡浩美、橋本晋治、山田勝哉、及川博志、うえだひとし、本間嘉一、栗田務、遠藤正明、清水洋、井上鋭、笹木信作、入好聡、仲盛文、辻繁人、濱田邦彦、北尾勝、平田かほる、春日井浩之、新留俊哉、遠藤靖裕、宇田川一彦、我妻宏、西条隆詞、木村十司、渡辺章、吉村正純、内田裕、西田正義、三浦厚也、片山みゆき、細居純子、岩佐裕子、川添博基、反田誠二、沖浦啓之、浜崎博嗣、川崎博嗣、箕輪豊、高坂希太郎、川尻善昭、藤田しげる、赤堀重雄、杜多尋光、平田敏夫、金田伊功
- キャラクターメカニック:反田誠二
- レイアウト協力:兼森義則、阿部恒、川尻善昭
- 美術監督・CGアートディレクター:平田秀一
- CGテクニカルディレクター:前田庸生
- 撮影監督:山口仁
- 助監督・コンポジットディレクター(撮影監督):楠美直子
- 音楽:本多俊之
- 音楽プロデューサー:岡田こずえ
- 音響監督:三間雅文
- アニメーション制作:マッドハウス
- エグゼクティブ・プロデューサー:渡邊繁、川城和実、滝山雅夫、藤原正道、遠谷信幸、安田猛、高野力、清水義裕、大月俊倫
- 配給:東宝
- 製作:メトロポリス製作委員会(バンダイビジュアル、ソニー・ピクチャーズテレビジョン・ジャパン、東宝、電通、角川書店、手塚プロダクション、IMAGICA、キングレコード)
キャスト[編集]
- ティマ:井元由香
- ケンイチ:小林桂
- ロック:岡田浩暉
- レッド公:石田太郎
- ヒゲオヤジ:富田耕生
- ペロ:若本規夫
- ロートン博士:滝口順平
- ポンコッツ博士:青野武
- ブーン大統領:池田勝
- ノタアリン:八代駿
- スカンク:古川登志夫
- ランプ:千葉繁
- ハムエッグ:江原正士
- リヨン:土師孝也
- アトラス:井上倫宏
- フィフィ:愛河里花子
- 麻生智久
- 天田真人
- 佐々木健
- 渋谷茂
- 志村知幸
- 杉田智和
- 鈴村健一
- 園部啓一
- 千葉進歩
- 肥後誠
友情出演
特別出演
主題歌・挿入歌[編集]
- 主題歌 「THERE'LL NEVER BE GOOD-BYE」
- 作詞、歌:minako "mooki" obata/作曲、編曲:本多俊之
- 挿入歌「I Can't Stop Loving You」(愛さずにはいられない)
- 歌:レイ・チャールズ
備考[編集]
- 大友克洋は、本作監督のりんたろうによる1983年に公開された映画『幻魔大戦』においてもキャラクターデザイン・原画で参加し、それが彼がアニメーション制作を本格的に始める契機となった。
- アメリカでの本作品公開直前の2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件は、本作のラストシーンの高層ビル崩壊のシーンの類似性などもあり、アメリカ国内での興行成績に悪影響を及ぼしたと思われる。
- 企画の丸山正雄は、手塚に対する想いを果たすことができたことから、本作品を自身が手掛けた中で最も心に残っている作品であるとしている[2]。
- 原作漫画が描かれた時点での未来社会はレトロフューチャーである。本作には携帯電話のような個人所有の移動体通信機器が登場しない。
私は、原作漫画は第四巻から「この設定で書くことが無くなっている」のではないか、という感じを持っている(ソワンデと金森の対話とか、タヌキの話とか、無理にひねり出した感じを受ける)のだが、アニメは第七話までを見たところ原作の第二巻終了時点がアニメの第八話終了時点に一致する感じだ。そして、第三巻終了でアニメは十二話が終了で、ほぼワンクールになる計算ではないか。しかも、この後(9話から後)、「ちび森氏」の話や、「浅草氏と金森氏が知り合った時の話」という「重要イベント」がある。三人娘の過去の話と現在の「アニメ制作」の話がうまくミックスされて、一番話がまとまった時点でアニメは終わりそうである。これは非常にきれいな「原作とアニメの結婚」だろう。