(以下引用)
織田信長の居城だった安土城跡=滋賀県近江八幡市
織田信長の居城だった安土城跡=滋賀県近江八幡市
© 産経新聞
滋賀県近江八幡市の安土町商工会は19日、来年1月に予定していた新春講演会「信長と弥助 本能寺を生き延びた異国の侍」を中止すると発表した。講師は日大准教授のトーマス・ロックリー氏が務めることになっていた。同会は「会員や地域の人の参加を想定していたものだったが、批判的な意見を多くいただいたため、中止することにした」としている。弥助は織田信長に仕えた黒人だが、史料が少なく、どのような立場だったか不明。しかし、弥助を「侍」だと断定する演題で、ロックリー氏にはそういう内容の著書もあることから、批判の電話やメールが寄せられたようだ。
講演会は2025年1月22日に同市の万博国際交流プログラム活用事業として開催される予定だった。信長の居城だった安土城跡があることから、関連するイベントを考えたという。安土町商工会は19日、ホームページで「多くのご意見を頂戴いたしました。これらの状況を真摯に受け止め、協議を重ねた結果、講演会を中止させていただくこととなりました」という声明を公表。「今後も地域社会に貢献できる活動を目指して邁進してまいりますので、何卒ご理解のほどよろしくお願い申し上げます」としている。
今年5月、フランスのゲーム会社による人気シリーズ最新作『アサシン クリード シャドウズ』の主人公の一人に、屈強な侍として描かれた弥助が〝採用〟されるという設定が発表され、SNSなどで批判の声が上がった。日本史を題材にしたゲームで史実に反した登場人物やストーリーが採用されることは珍しくないが、すでに海外で弥助についての不確かな歴史を信じている人がいる所に、影響力のあるゲームがその拡散を後押しするという懸念が強まったようだ。ロックリー氏は、弥助の海外への周知に大きな役割を果たしたとされる。
絶対の密室の中に一人しかいなくて、そこで長時間経過した後にもうひとりがいて、それが殺されたとなると答えはひとつしかないだろう。そういう馬鹿な「謎」を大真面目で書いたのが高く評価されたのか、一時期かなり評判になったものである。あるいは、答えがゼロ秒で分かった私が下のコメントにあるような「天才」なのか? いや、まったくそうは思えないどころか、子どもレベルの頭だと思っているから、このブログのタイトルを「アンファニズム(子供主義)」と付けているのである。
念のために言えば、森博嗣はかなり頭がいいと思うし、娯楽作品の書き手としてはかなり優秀だとは思っている。ただし、(たぶん)自分で思っているほどの天才とは思わない。量産能力が高い、出版社には得難い才能だろう。西尾維新とかの同類か。
なお、若いころには同人誌で漫画も描いていて、それを山本直樹が自分の絵柄のヒントにしたという話もある。
(以下引用)
239: 2021/11/24(水) 11:19:16.78 ID:hA2p6dcg0
天才型は天才的な発想を考えるのはできないから、判断、思考の速さ路線で描くしかなくなるよね
常人が時間かけてたどり着く答えに一瞬でたどり着くとかで
736: 2021/11/24(水) 11:41:07.72 ID:cG9wfZmd0
>>239
すべてがFになるとかもそうだな
「正解」はまだ見ていないが、おそらく、
正五角形は、同じ形、同じサイズの二等辺三角形が頂角(と言ったか)を中心に5つ集まったもので、その頂角の和が360度だから、ひとつの頂角は360÷5となり、残る2つの低角の和は180-360÷5で、5つの二等辺三角形全体の低角の和、つまり五角形の内角の和は
(180-360÷5)×5
で540度になるのではないか。
ただし、これは今、暗算したものなので、正確さは保証しない。
なお、今気がついたが、上のような面倒な数式を作らなくても、五角形のひとつの頂点から線を引いて3つの三角形に分割したら、五角形の内角の和はその3つの三角形の内角の和になるから、簡単に
180×3=540
となる。
では、15角形の内角の和はいくつか、あなたは5分以内で答えられるだろうか。
(まあ、図を描いて確認すればいいが、図を描くのも面倒で厄介である。となると、最初の一見面倒な数式のほうが、おそらく早く確実に答えを出せるかと思う。あるいは、角がひとつ増えるごとに分割された三角形の数がひとつ増えるが、多角形を内分してできる三角形の数は「角数-2」として、「(角数-2)×180」が内角の和で、たとえば三角形だと「(3-2)×180=180」となり、四角形だと「(4-2)×180=360」となる。つまり15角形だと「(15-2)×180」で出せるかと思う。)
画面がコピーできていないが、この問題は「三角形の内角の和は180度、四角形の内角の和は360度、では五角形の内角の和はいくらか」と前置き付きなので、180ずつ増えるなら、次は540度だろう、とあてずっぽうで答えた人もいるかもしれない。(なお、今、「づつ」か「ずつ」か迷って国語辞書を引いた。国語のほうが難しいww)
(以下引用)
【悲報】慶應義塾大学鈴木福さん、五角形の内角の和を答えられない・・・・・・・
2024年12月13日
1: 2024/12/12(木) 18:42:03.00 ID:au6I8cbv01212
うーんこの
「それはパリ左岸の芸術家のたまり場のカフェ〈ドゥー・マゴ〉でもなく」
という一節だが、これを読んで私は初めて「ドゥマゴ文学賞」の「ドゥマゴ」の意味が分かったのだった。ドウマゴ文学賞は若いSF作家(志望者)のための文学賞だったと思うが、筒井康隆も選考委員で、川上弘美はその受賞者だった記憶がある。(現在もある文学賞かどうかは知らない。)
ドゥーの意味は分からないが、magotは「小人、小男」の意味があるようだ。
なお、この自叙伝は、ダニエル・キース(訳者の小尾芙佐は「キイス」と書いている)が「アルジャーノンに花束を」という作品に至るまでの「精神的冒険」の小説でもある。つまり、彼がほとんど前半生を使って見つけ出そうとした、彼の強迫観念ともいうべき存在(自分が書きたい作品の核)への探求(クエスト)の旅である。自叙伝には稀な、「嘘の無い自叙伝」であり、魂を籠めた作品がどのようにして生まれるかのレポートである。若い作家志望者には非常に有益な書物だろう。
それを「フィクション不感症」と言っておく。あまりに多くのフィクションに接した結果、その中で何が起こっても意外性を感じないわけだ。それは、「ギャグが理解できない」ことにつながるのだが、なぜかというとギャグというのは「不自然な事態」をネタにするからである。不自然を不自然と感じないのは、精神的欠陥であり、ある意味、精神的疾患だとも言える。これは間違いではないと思う。気取った言い方をすれば、昔よくインテリが愛用したヴァレリーの「(あらゆる)書は読まれたり。肉(体)は悲し」も同じことだろう。
ちなみに、この文章の中で私は「ロマキラ」作中人物の名前を書いていない。アニメなどを見ると、その次の瞬間には細部を忘れているから書けないのである。これは認知症ではなく、「フィクション不感症」だと私は断定する。過去に記憶した知識がジャングルのようになっていて、新しい知識を覚える余地が無くなるのであって、「忘却する」のではない。もちろん、新しい知識のために古い知識が消去されることを忘却と言ってもいい。「日常に使わない記憶や知識は脳の奥に埋もれ。消えたに等しくなる」ということだ。
この状態が悪化すると、読書すら困難になる。なぜなら、小説を読むことは「前に出た事柄の記憶の上に、その先の出来事が理解される」システムであるからだ。実際、特に推理小説などだと、私は人名や出来事をどんどん忘却するので、しばしば前の部分を確認しながら読まないと理解できない始末である。
これを敷衍すると、有名作家の創作活動が人生の前半にほぼ限定される理由も分かる。おそらく、創作中に自分が前に書いた部分を忘れるので、創作が難儀になり、やる気を失うからだろう。
バルザックが死に際に「ビアンション(彼の「人間喜劇」シリーズの登場人物で名医)を呼べ」と言ったのは、それだけ彼が自分の創作世界に没頭していたからであり、彼には現実生活より自分の作り出したフィクション内世界のほうがリアルだったのである。
で、この「ビアンション」という名前が自分の記憶から出て来たこと自体が、今の私には驚異である。
(以下引用)
■anond:20241116115204言及先エントリを閉じる
■
漫画の両思い以降のイチャラブフェーズって同人誌みたいでストーリーとしてはつまらんと思ってしまうが、交際って実際二次創作みたいな間延びした感じなのだろうか
「漫画の中で恋愛成就以降の話はつまらないが、同様に現実の男女交際もつまらないのだろうか?」
なかなか異様な疑問を投げかけてるのだが、もっと異様なのは反応してる奴の過半が
「恋愛成就以降もつまらなくない漫画」についてひたすら語ってるということ
ガチ文盲牧場ののどかなワンシーン
「ルッキズム」問題への小さな感想
メモ 2024年11月16日
先に、この言葉を赤字にして引用する。
ルッキズムに苦しむ人というのは、たいてい、
その人自身が「みかけ」で人を判断し、値踏みしているのです。
だから、「差別主義者」なわけですよ、その人自身もね。
これは、「暴言王」孔徳秋水氏の言葉で、言われてみれば「成る程」だが、氏が「当人が解脱すればよい」と言うほど、問題はそう簡単ではない。第一、解脱など聖人の話であり、凡人にできることではない。そして、いかに当人が気にしないつもりでいても、世間や世界がその人をルッキズムで判断することに、そしてその結果不利益を与えることに変わりはない。
まあ、秋水氏の言葉は「一見有難そうなお念仏」でしかないだろう。
突然、話が変わるが、「ハンター×ハンター」と言う漫画があって、アニメにもなっている。この作者の冨樫は、珍しい「反ルッキズム作家」ではないか、と私は思っている。と言うのは、彼が描く漫画には美人美少女が無数に出るが、その大半は単なるモブで、その美人美少女の半分くらいは悪女で、残り半分は「偽装した男(女)」なのである。つまり、人間の外貌など、いくらでも変えられるし、その内面の価値は判断できない、という思想がここにはあるわけだ。
私が「H×H」の登場人物で好きなのがビスケとパームだが、前者はマッチョなオカマの偽装した姿でありその絵画的意味でのキャラが好きなだけだが、後者は恋愛脳の半サイコパスである。しかし、その一途さは、ある意味女性の本質的な美質を表してもいる。サイコパスだのに「性格が美しい」というのはおかしいだろうが、つまり「可愛い」性格なのである。やたらと包丁を振り回す危険な女性だが、それも恋愛脳のためだ。その「恋愛がすべてに優先する」というのを、私は女性性と言っているわけだ。
まあ、父親が梨園の御曹司というわけではないだろう。
さて、量子とは、私の持っている辞書ではこう説明されている。
連続的でなく、ある単位量の整数倍に限られる値で表される、物理量の最小単位。1900年にプランクが量子仮説を提唱し、量子論の端緒となった。
つまり、量子論は仮説でしかないのである。それについて、私が先ほど寝床で拾い読みしていた「奇妙な論理」(原題は「科学の名の下に」:「in the name of science」)という文庫本の中にこういう記述がある。
量子力学では、古典物理学の根底にある厳密な因果関係はもはや成立せず、すべてが確率・統計的に解釈される。ある事象を観測するとき、これこれの結果がこれこれの確率で起こりそうだと予言することしかできない。だから量子力学者は、競馬の予想屋にいくらか似ている。アインシュタインはこのような事情を量子力学の「不完全さ」だと考え、「神は世界を使ってさいころばくちをしない」といって、最後まで納得しなかった。
これが、有名な「神はさいころを振らない」という言葉の所以だが、多くの人は、この言葉が「量子力学」について言われたことを知らないと思う。少なくとも私は知らなかった。
そして私は量子論は少なくとも現段階では信じるに値しないと思っている。発見されていないのだから信じようがない。まあ、存在しないとは言わないが、それを基にした言説は意味がないだろうと思っている。特に「量子コンピューター」など愚の骨頂だろう。存在しないものを土台にして、合理的な「計算」ができるか。単に統計的推定なら「量子」とは無関係だろう。
ついでに言えば、私はアインシュタインの相対性理論もただの仮説にすぎないと思っている。
ところで、「バームクーヘンエンド」って何だ? 気になる。
(以下引用)
ここで話は全く変わるのですが、私は女児歴30年以上の大ベテランでありながら「セーラームーン」を全く通っていません。
最近ネットで「美少女戦士セーラームーン『月野うさぎは人生の同志』」という見出しを見て「なんて激シブな劇場版タイトルなんだ、俺もセーラームーンの事を『月野同志!』と呼べるならセーラームーンを履修しておけば良かった」と激しく後悔しました。
その後、そういうタイトルではなく、声優さんがインタビューで答えたコメントの引用ということが判明したのですが、それにしても強い文字列なので、ぜひ次のタイトル候補にしてもらいたいです。
私の記憶では「推しに重い設定をつけたり生と死の境を彷徨わせたり、果てはバームクーヘンエンドを食らわせてしまう創作オタ」に向けて発せられた言葉だった気がします。
推しや推しカプのことが好きなはずなのに、気づいたら推しカプに死体を埋めさせ、何だったら推しを埋めてしまう。何故好きな相手にこんなことをしてしまうのか、と悩む創作オタに対し、セーラーメリバが「だきしめてキスをするだけが愛してる証拠じゃないわ、せっかく平和なギャグ時空に生まれた推しにバトロワパロ(アラフォーオタが即死)をさせて、カップリング相手に撃ち殺させる愛のかたちもあるの」と、言ったような幻覚をいま見ました。
実際、推しに対する愛情表現というのは人それぞれであり、エグすぎるR-18G二次創作を描く人に「そのキャラが嫌いだからそんなヒドいことをするのか」と聞いたところ「嫌いな相手の内臓なんか描きたいわけないだろう」という言葉が返って来たそうです。
あなたも「好きでも嫌いでもないキャラに重い設定を見いだし生死の境を彷徨わせろ」と言われても「桃に入れられて川に流された」とか、どこかで聞いたような設定しか思いつかないと思います。