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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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たとえば「指輪物語」って「感動する」ような内容か? あの長大な作品を「最後まで読めた」自分の偉大さに感動しているのではないか? www
あと、「話題の本だから読んだ」という、ふだん読書をしない人が挙げたと思われる本が多いようだ。漫画まで入っている。まあ、「本」であるが、趣旨が違うだろう。
ただし、中には名作も多いから、お勧め本としての意義はある。
なお、三浦綾子では「氷点」より「塩苅峠」をお勧めする。短くて読みやすい。「みずうみ」はブラッドベリだろうが、萩尾望都の漫画も名作である。ただし、一般の女性が感動するかどうかは保証しない。ある意味、究極のロリコン文学だからだ。ただし、エロはまったく無い。純愛であり、自ら作った偶像へのあこがれ(と憑依、呪い)である。どちらかと言えば「ピグマリオン」神話に近いか。

目次
みんなから寄せられた感動した本一覧


蒼穹の昴
虐殺器官
壬生義士伝
リセット
空飛ぶタイヤ
コーヒーが冷めないうちに
チルドレン
わたしの知る花
ライオンのおやつ
探査機はやぶささん
命の後で咲いた花
フリークス
塩苅峠
君の膵臓をたべたい
プロジェクト・ヘイル・メアリー
指輪物語
青の炎
時間は存在しない
シャンタラム
どこよりも遠い場所にいる君へ
夜と霧
オレンジガール
イノセント・デイズ
砂漠
ぼくのメジャースプーン
漁港の肉子ちゃん
疾走
亡国のイージス
ガラスの塔の殺人
秘密
ノルウェイの森
望み
ザリガニの鳴くところ
博士の愛した数式
よだかの星
流浪の月
二十四の瞳
青空のむこう
シンデレラ迷宮
みずうみ
精霊の守り人
蝉しぐれ
旅猫リポート
夏の滴
星の王子さま
孤宿の人
レ・ミゼラブル
中原の虹
キネマの神様
汝、星の如く
西の魔女が死んだ
わたしの美しい庭
タイタンの妖女
冷静と情熱のあいだ
トリツカレ男
ぼくの地球を守って
52ヘルツのクジラたち
ウォーターシップダウンのうさぎたち
氷点
ツナグ
小指物語
手紙
容疑者Xの献身
オルガニスト
ブレイブ・ストーリー
天帝妖狐
魍魎の匣
シーラという子
空色勾玉
はてしない物語
闇の守り人
ドナウの旅人
アルジャーノンに花束を
幻庵
姑獲鳥の夏
ああ無情
幻魔大戦
沈黙



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森博嗣のエッセイの一部で、天久何とかとやらは推理の参考にしたほうがいい。なお、森博嗣は以前は「ミステリ」と書いていたが、方針が変わったのだろうか。

(以下引用)

【ミステリィに向かない科学技術】


 点滴には関係ないが、「刑事コロンボ」で、サブリミナル効果(わからない人は検索)を利用した殺人の話があった。かつては、これが信じられていたのだ。でも、サブリミナル効果というものは存在しないことが、既に科学的に証明されている。ミステリィのネタは、時代とともに枯渇していく。

 最初に思い浮かぶのはDNA鑑定、その次は携帯電話、さらには防犯カメラなどの増加。これらが実現・普及したことで、数多くのミステリィのトリックが不可能になってしまった。


 そもそも、躰の一部でさえ、他人とすり替えることはもうできない。かつては、指紋だけが個人を特定する手がかりだったから、入念にそれを拭き取ったり、手袋をして犯行に臨んだりしたものだが、今では髪の毛一本落とせないから、犯人は大変である。どんなに洗っても、血液の反応が出たり、グラスに口をつけただけで、個人が同定できる。しかも、それが決め手となるほど重要な証拠となる。

 一方で、かつては供述が重視されたのに比べ、今では自供はほぼ証拠として扱われない。探偵による謎解きで追い詰められ逃走を図っても、それだけで犯人だとは確定できない。今でも、このような結末のミステリィが多い気がするけれど、そんなに簡単に事件は解決しない。

 ニュースを聞いていると、「警察が動機を調べています」と語られているが、動機を調べることにどんな意味があるのか、僕には理解できない。もっと気になるのは、「何らかのトラブルがあったものと見て調べています」という文句。人が殺されているのだから、トラブルがあったことは自明であり、わざわざいうほどのことか、と思う。それとも、動機もなく、トラブルもないのに、趣味で殺人を行う加害者の可能性を示唆しているのだろうか?


 そんなこともあって、ミステリィ小説は書きにくくなった。昔の話にするか、科学捜査ができない状況(たとえば、嵐の孤島など)を無理に設定するしかない。海外のドラマでも、近代化が遅れているリゾート地を舞台にしたシリーズが幾つかある。この種の物語のクリエイタの多くが困っているのは確からしい。

私の別ブログから転載。

(以下自己引用)


「症例A」という,ダメダメタイトルの傑作 2023/08/04 (Fri)


多島斗志之の「症例A」を読了したが、凄い傑作である。ただ、さほど話題にもならなかったのは、題名のせいと、作者の知名度の低さのためだろう。これが若手の作家なら、その年の話題ナンバーワンになっていたと思う。
それよりも、題名が問題だ。まず、書店で買いたくなるタイトルではない。まるで魅力の無い題名である。もちろん、作者は報道記事における「少年A」「少女A」と同じく、病名を伏せながら、その病名が問題だ、ということを暗示したのだとは思う。しかし、一般人にとって魅力のある題名かというと、まったく魅力がない。もっと安直に「七つの顔の少女」とでもしたら良かったのではないか。ただし、真のヒロインは少女ではなく三十代の女性だが、それだと「売れない」ので、そこは誤魔化すわけだ。

なお、全体の話より、作中に出て来るエピソードで、敗戦時の日本で、美術館職員たちが進駐軍による美術品没収を怖れて、美術品の贋作を大量に作る話があるが、これなど、2時間くらいの娯楽映画に最適の話である。いわゆる「コンゲーム」(ゲーム的詐欺)物だ。有名どころでは「スティング」などがそれである。話の最後は、贋作作成集団の頭が、秘密の場所に保存した美術品を過誤による火災で焼失した、と言いながら、実はそれを独り占めして海外に売り、巨額のカネを得るという、これもまさにコンゲーム的オチである。
この「アンファニズム」のようなお遊び暇つぶしブログに「文学論」を書くのは書く場所が違うだろう、と言われそうだが、小説や文学(「学問」か?)に興味がある人向けに書く。

早朝(未明)の闇の中で散歩をしながら考えたのだが、「ハードボイルド小説は男のハーレクインロマンスだ」というセリフを最初に言ったのは誰だろうか。私は恩田陸の作品の中でこのセリフを二度見た記憶があるので、たぶん恩田陸だと思う。もちろん、このセリフはハードボイルド小説も男もけなしているのである。あんな安っぽい小説を好む連中は馬鹿だ、というわけだ。と同時に、これはハーレクインロマンスをもけなしているのだが、今でもこの類の女性向き三文小説は出版され続けているのだろうか。
で、問題は「需要があるから出版される」のは確かなのに、なぜそれをけなすのかだが、それは恩田陸に「私が書く小説は高級品であり、ハードボイルド小説やハーレクインロマンスは誰でも書ける低級品だ」という意識があるからであるのは確かだろう。
さて、問題は、たとえば100円ショップで買える品は無価値で、銀座の店で買う品は価値が高いと言えるのかどうかだ。
私が100円ショップで買った指無し手袋は非常に丈夫で使い勝手が良く、数年も愛用している。つまり、利用価値から言えば、銀座の服装品(服飾品?)店で買う手袋の数倍の価値があると私は思っている。
まあ、小説(文学)と手袋を同一には論じられないのは当然だが、では、「価値の高い文学」と「価値の低い文学」の価値を決めるのは誰か、だ。たとえば、三島由紀夫は太宰治の小説が大嫌いだったが、はたして太宰の作品価値は三島より劣るだろうか。私は、その逆だと思っている。三島は文芸評論家としての才能は髙かったし、優れた短編小説もいくつか書いている。しかし、作品全体としての価値は、太宰にはるかに及ばない、というのが私の評価だ。
恩田陸に話を戻せば、私は彼女の作品は面白いと思っていて、古書店ではかなりたくさん買っている。しかし、新刊で高いカネを出して買おうとは思わないのである。それが私にとっての彼女の作品価値だ。
もちろん、ハードボイルド作品の9割くらいは、ただでも貰う気はしない。私にとっては読む時間のほうがはるかに貴重だからだ。
しかし、それによってハードボイルド小説というジャンル全体を否定するのはおかしいだろう、というのが私の考えである。

本当は、そこから男と女についての哲学的考察、特に男女におけるセックスの意味の違いというものまで考察したのだが、それはまた別の機会に書くことにする。

ちなみに、私は(もちろん、全部読んではいないが)恩田陸の全小説は、柳田国男の「遠野物語」「山の人生」の中のふたつの短いエピソードとその文章にはるかに及ばないと思っている。それが「文学的価値」である。少し奇抜な言い方をすれば、ここに「ハードボイルド」の真髄がある、とも言えるような気がしないでもない。つまり、単なる現実を超えた、「象徴として天空に屹立したリアル」である。
もちろん、小説論の例として「遠野物語」「山の人生」を出すのは不適切だが、残念ながら私はハードボイルド小説の中に「ハードボイルド」の好例を思いつけないのである。ノンフィクション作品のほうがはるかにハードボイルドだろうが、また、私はそういうのが好みでもないのである。娯楽性を加味するなら、所詮は「男のハーレクインロマンス」になるしかないわけだ。つまり、私は恩田陸の発言を半分認めてはいるのである。ただ、その種のジャンルを「けなす」のはおかしいだろう、という話だ。
ハードボイルド小説が売れなくなったところで恩田陸の小説がいっそう売れるわけでもないだろうし。


小林秀雄が対談集の中で、太宰治のことを「あの人はバカじゃありません、ヒステリイです」と言っているが、至言だと思う。バカどころか太宰は異常に頭がいい人間だと思うが、自分の性格の中のヒステリー性を熟知していて、それを作品に正確に描いていると思う。そういうところは筒井康隆に似ているようだ。
三島由紀夫が太宰を嫌ったのは、そういう「道化」的なところだろう。太宰と三島はナルシストという点ではそっくりだが、三島は「他人に笑われること」が大嫌いだったと思う。それが彼の作品のユーモア性の欠如の原因でもある。他人を笑わせるには自分自身が道化にならないといけないのである。
三島は詩人として出発したはずで、そもそも詩情とユーモアは相反するものだ。筒井の作品で詩情を意図したと思われる作品(まったく笑いの無い作品)は、だいたい失敗している。つまり、読者にとっては面白くもないし、詩情も感じない。太宰の作品にも詩情は欠如している。
松岡正剛の「千夜千冊」の記事の一部である。
ここに書かれた「クリスマスの思い出」は、山岸凉子が漫画化しており、名作や傑作の多い彼女の作品の中で私がもっとも愛する作品である。それは、萩尾望都によるレイ・ブラッドベリの「みずうみ」に匹敵する。

(以下引用)

 ひとつ、付け加えておきたいことがある。それは「昼の文体」を支えたのはミス・スックという老女だったということだ。この老女はカポーティが親戚の家を転々としていたときに出会った年長の遠縁の女性で、おそらく少年カポーティの初期の「精神の印画紙」をつくりあげたようなのだ。短篇『感謝祭のお客』(新潮文庫『夜の樹』所収)や『クリスマスの思い出』(文藝春秋)には、その二人だけの印画紙づくりのエピソードが綴られている。
 この話を知ったとき、すぐに大田垣蓮月と富岡鉄斎の、また高場乱と頭山満の心と技の蜜月を想い浮かべたものだったけれど、実際のミス・スックは女丈夫などではなくて、とても優しくて傷つきやすかったのだという。カポーティはアルコールと薬物中毒で後半生を苦しんでしまったが(五九歳で没した)、ミス・スックとの日々の輝きをずっと大事にした作家生涯でもあったはずである。


英語圏ではわりと有名な詩で、出版社名は忘れたが「名訳名詩集」にも載っていた。一種の謎詩である。
「どこにすべての過去の年はあるのか私に教えてくれ」など、いいフレーズだ。

John Donne
SONG (Go and catch a falling star)

GO and catch a falling star,
Get with child a mandrake root,
Tell me where all past years are,
Or who cleft the devil's foot,
Teach me to hear mermaids singing,
Or to keep off envy's stinging,
And find
What wind
Serves to advance an honest mind.

If thou be'st born to strange sights,
Things invisible to see,
Ride ten thousand days and nights,
Till age snow white hairs on thee,
Thou, when thou return'st, wilt tell me,
All strange wonders that befell thee,
And swear,
No where
Lives a woman true and fair.

If thou find'st one, let me know,
Such a pilgrimage were sweet;
Yet do not, I would not go,
Though at next door we might meet,
Though she were true, when you met her,
And last, till you write your letter,
Yet she
Will be
False, ere I come, to two, or three.
私の別ブログから転載。

(以下自己引用)

創作のための哲学的考察テーマ

創作のための哲学的考察 2020年05月08日

別ブログに載せる予定だった記事だが、「データベース上のエラーで登録できませんでした」という事故があったので、ここに載せておく。

(以下自己引用)

このブログテーマで思いつく内容を少しまとめておく。

1:快感原則と心情移入
2:自己愛と超人幻想
3:問題と解決
4:敵と味方
5:愛情や執着の対象

といったところだろうか。前に書いた「戦い」なども小説(脚本・漫画原作)創作のための哲学的考察テーマとしては必須だろう。
上に書いた中では1から3が主要で、4と5は副次的な感じがある。たとえば、戦いの話に愛情の対象という存在は必須ではない。しかし、ハリウッド映画ならほぼ必須になる。そして、執着の対象というのは表面的には必須ではなくても水面下の存在としては在るのが望ましい。初期のヒッチコックの映画では、「謎の存在」(多くの人の執着の対象)の争奪戦がだいたいの話の大筋である。「めまい」では謎の美女への主人公の執着が話を生む。
また4の敵と味方というのは、漱石の「坊ちゃん」では明白だが「三四郎」ではさほど役割化されない。つまり、「仲間」や「友人」というのは、敵が存在する場合に「味方」となるのであって、最初からそういう役割として存在するわけではない。

言い換えれば、小説的フィクションは大きく

A:戦いの話
B:愛情の話

に分類されると言えるかもしれない。当然、男はAを好み、女はBを好む。

そしてどちらの場合も「問題と解決」が話の大筋(あるいは各エピソード)になる。
たとえば「赤毛のアン」では、主人公の「赤毛」が主な問題であり、それに伴う劣等感と癇癪と夢と希望が話を作っていく。つまり、「容姿」というものが女性に持つ意味は男の場合の「戦闘能力」に等しいと言えるかもしれない。(男なら、戦闘能力の養成課程そのものが「話の面白さ」のひとつである。つまり武芸訓練の話などだ。)(「赤毛のアン」だと、容姿の問題は自然に解決する。つまり、主人公の肉体的成長で容姿の醜さが目立たなくなり、人格的成長で容姿をあまり気にしなくなる。だが、最初から実は主人公はさほど醜くはなく、その自意識過剰のために過度に反応するのだが、そういう設定は、後の少女漫画の「自分を平凡と思っている女の子(あるいはメガネの女の子)が実は美人」という「トリック」に共通するかもしれない。自分の知らない長所を他人が高く評価している、という「幻想」も快いのである。)
だが、「問題と解決」というのは大きな考察テーマなので、稿を改めて考察したい。

また、たとえば「無法松の一生」のように「運命に恵まれない優れた人間の崇高な悲劇」というのは、話全体が象徴性を持ち、市井の人間の話でもギリシア悲劇的な象徴性と偉大な感じを与えるわけだが、或る種の「神々しさ」というのは単に自己犠牲だけから生まれるのかどうか、というのも考察したい。おそらく「運命(持って生まれた環境や条件など)という、勝利不可能な強大な敵」との戦い、あるいはそれに翻弄される人間(善なる存在)の奮闘努力が観る者に痛ましさと同情を生むのだろう。この観る側(受容者側)の「同情」や「共感」というのも考察テーマにするべきかと思う。
つまり、「勝てる相手」との戦いは「面白い」し、「勝てない相手」との戦いは悲劇として崇高感やシンパシーを生むと言えるだろうか。
もちろん、「無法松の一生」の表面的テーマは恋愛であるが、それは「最初から実現化不可能な恋愛」であることから、観る者に主人公への同情と応援したい気持ちを生み、また、その恋愛が実現することはマドンナ的存在が聖性を失うことへの失望を生むという、「極限状況の恋愛」なのである。だから、それは「勝てない相手(運命)との戦い」でもあるわけだ。この作品の異常な感動の原因はそこにあると思う。つまり、原理そのものは「オイディプス王」なのである。それが、愛嬌と超人性(超人性ではジャン・ヴァルジャンと共通している。)を共に備えた主人公によって親しみやすい話になっているから、構造の持つ「運命悲劇」という面が隠れているわけだろう。要するに、「解決不能な問題」もまた感動の対象になる(それどころか、描き方次第では最大の感動の対象になる)、ということだ。
私の別ブログから加筆転載する。「吾輩は猫である」の該当箇所を後で追記するかもしれない。今、気が付いたが、「ロマンチックイロニー」の出てくるのは「猫」ではなく「三四郎」だったかもしれない。

(以下自己引用)

ロマンチックイロニー

思想、思想の断片、考えるヒント 2022年09月19日


北林あずみ氏のエッセイの一部である。
部分的に日本語化したら「ロマン主義的反語」精神とでも言えるだろうか。機械的合理性への反逆だ。反語、つまり言葉で表現された裏に真意があるわけである。ロマン主義自体が「損得計算に基づく近代合理性」への反逆であり、イロニー(アイロニー)はその表現的部分だろう。(具体的な表現形態としては「冷笑的」「皮肉」であることが多く、本来は詩情とは無縁だが、それが「ロマン主義」と結びつくことで、「反語的精神」が見えにくくなる。)
この言葉は漱石の「猫」にも出て来る。だが「ロマンチック」の意味を花や夢みたいなものと思うからたいていの人(かつての私含む)は混乱、あるいは誤解しそうである。古い文学観念のように見えるが、実は合理主義で衰弱した人間精神にとって、今こそロマンチックイロニー的なものが社会に必要かもしれない。


(以下引用)

 ドイツロマン派の思想の中心には、ロマンティック・イロニーがある。
 ロマン派とは、西欧近代主義の世界像の土台をなしている機械論と理性(=科学)至上主義への反逆なのだろうが、反逆の仕方が優れて西欧近代主義的なのだ。
 西欧近代主義は個人主義的自我を前提とする。面白いもので、個人主義的自我を前提にしているのに機械論と科学至上主義が土台にあるのだ。ロマン的に自我の絶対的な自由を希求すれば、機械論と科学至上主義とぶつかるだろうことは首肯できる。
 西欧近代主義は資本主義と一心同体だ。社会主義もまた資本主義の亜種でしかない。しかし、西欧近代主義は個人主義的自我なくして成立しない。個人主義的自我の権利と自由と資本主義とは矛盾した関係にある。
 ドイツロマン派は、絶対的自我を希求して、機械論に唾を吐く。絶対的自我を希求する方法がロマンティック・イロニーなのだ。
 要は機械論的な論理の破壊である。論理のしがらみに雁字搦めになれば絶対的自我は望めない。だから脈絡性と整合性の檻を突き破り、Aの地点からまったく無関係なBという地点に、目にはみえない橋を架けてひょいっと乗り移ってしまう。Aの地点にいたときの自分はもう自分ではない。だから責任も発生しない。何ものにも捕らわれることなく、絶対的自我の自由の赴くままにあっちにぶっ飛んだり、こっちにぶっ飛んだりするのだが、そのぶっ飛び方に論理的整合性も脈絡性もなく、責任も蹴飛ばしてしまうのだ。
 ドイツロマン派の悪魔性といわれる所以だが、重要なのは、政治的には機会主義に陥り、現状肯定になるという点だ。
 ドイツロマン派のナチズムへの影響は指摘されているし、ヒトラーも接近した過去を持っているようだ。
 ドイツロマン派を貶してばかりでは申し訳ないので書き添えておくと、芸術的には優れた作品を残した作家や芸術家が多くいる。
前に「詩情と笑い」という一文で「ナルニア国ものがたり」をつまらないと批判したが、その理由を作者が詩人でありユーモアが欠如しているから、とした。その部分を後で自己引用するが、その前に、少し考えが深化した気がするので、それを先に書く。それは「一神教には反戦思想は無い」というものだ。
これは当たり前の話で、一神教というのは、その神を信じている者は善、信じない者は悪であるという思想であり、つまり、その神を信じない相手がどういう国や民族であろうと、それは悪なのであり、戦争して国土を奪ってもいいし、その国民を皆殺しにしても奴隷にしてもいい、となる。つまり「帝国主義は一神教文化圏の必然」なのである。では、一神教どうしの国と国はどうなるか。それはまず根底に善と悪の戦いという「戦争完全肯定思想」があって、さらに「相手側はこちらを攻撃しようとしているから(とにかく相手は悪だから)、戦争するしかない」というプロパガンダでいい。これも世界史で常態的に見られる戦争理由だ。ちなみに、バチカンが戦争中止に動いた例は無い、と思う。まあ、形だけの仲裁行動はあるだろう。

これが「ナルニア国ものがたり」と何の関係があるかというと、この話の中で「戦争の理由」がまったく書かれていないからである。単に「氷の魔女」は悪であり、それがこちらを襲ってくるから戦うべきだ、というだけだ。なぜ氷の魔女が悪かというと、生き物をどんどん氷に変えるから、という話で、なぜ氷の魔女がそうするかの説明はない。まあ、氷の魔女だから、世界全体が氷漬けのほうがいいのだろう。
何だか、欧米諸国がある国を攻撃する時に似ている。つまり、存在そのものが悪だから退治する、という無茶苦茶ぶりである。その理由に「独裁国家だから」というのがあり、それは国内問題で外国の口出しすることではないだろう、という反論は、「いや、その国民のためという『人道的理由』なのだから、その政府を倒すのは当然だ」となる。

まあ、「ナルニア国ものがたり」とも「一神教」とも話がずれたが、そのまま載せておく。
どうせ思考の途中の思考素材の一部である。宗教論はいずれまた考察する。

ここでは、日本の童話のような人道主義や「万人愛」は一神教世界の児童文学には見られない、としておく。動物を擬人化しても、それは「主人公たち(白人)の側」だから善とされるにすぎない。敵側の動物は悪なのである。つまり、最初から善の側(白人側)と悪の側(非白人側)が区別されているわけだ。有色人種も「白人の味方」である場合に善とされるのである。

なお、宗教が信じられなくなっても、その宗教の影響下で書かれた児童文学がその国民の成長途上で精神的に影響を与え、深層心理になるのである。つまり、その国の「物語」文化が国民性や民族性になり、また新たな文化の土台となり永久化する。

(以下自己引用)

「ナルニア国ものがたり」という、有名な児童文学があって、名前だけは昔から知っていたが、なぜか読む気になれなくて、この年(何歳かは特に秘す)になって初めて読んでみた。
私は児童文学は好きで、名作と呼ばれているものは、何歳の人間が読んでも面白いはずだ、という考えだが、これが、まるで面白くないのである。子供向けの本だから当然だ、とはならない。優れた児童文学や童話は大人が読んでも面白いのである。
「ナルニア国ものがたり」がなぜ面白くないかというと、私の考えでは、作者自身が面白くない人間で、つまり「ユーモア感覚」がないからだろう、と思う。作者はC.S.ルイスという、詩人としては有名な人らしい。

(中略)

なお、「ナルニア国ものがたり」第一巻だけは我慢して最後まで読んだが、第二巻は最初で放棄した。第一巻の「衣装箪笥の奥が異世界に通じる」というギミックは面白いと思ったが、第二巻では、特に明白な理由もなく、いきなり異世界に行くという雑さである。そう言えば、第一巻でも、話をかなり端折っており、ライオンが子供たちを王や女王に任命したから王や女王になりました、で話はほとんど尽きている。その前に少し、氷の魔女とやらとの戦争があるが、それも簡単に終わり、描写らしい描写はほとんどない。こんな調子で全7巻の「ナルニア国クロニクル」を書かれても、すべてが単なる「説明」で終わることは予測できるのである。
まあ、その「壮大さ」の印象だけで感心する子供も多いだろうから、これが児童文学の古典扱いされているのだろう。
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