ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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山田風太郎の「忍法八犬伝」を読んで、その面白さ、フィクションとしての完璧性に驚いたのだが、それを読むまで私は風太郎の「忍法物」をエログロ小説としか思っていなかったのである。そして私はエロ小説が嫌い(マルキ・ド・サドの小説は哲学として面白いから読む)なのである。
だが、風太郎の小説は少しもエロではない。つまり、読者の性的興奮を高める目的の描写ではなく、「忍法として面白いから」書いているだけだ。むしろ、元医学生らしい医学的記述が多い。
そして何より、そのユーモア性の高さに驚いた。それも無理に作ったユーモアではなく、キャラそのものが生み出すユーモアである。
さらに言えば、「忍法八犬伝」は一種の「騎士道物語」である。八犬士は、八人とも高貴な「一種の聖女」に恋をし、その人の幸福を守るために死んでいくのである。「無法松の一生」と同じ精神であり、これを「騎士道精神」と言う。それに殉じて死ぬのは最も高貴な形のgallantryである。
なお、通常の「愛」と称するものは、たいていは「自分の満足」のために相手(特に相手の体、相手の屈服、奉仕)を求めるのであり、それは最低のエゴイズムである。「子宮恋愛」も「ペニス恋愛」も愛でも恋でもない、ただの動物的性欲だ。
参考までに「はてな匿名ダイアリー」から、たぶん女性の投稿を転載。
だが、風太郎の小説は少しもエロではない。つまり、読者の性的興奮を高める目的の描写ではなく、「忍法として面白いから」書いているだけだ。むしろ、元医学生らしい医学的記述が多い。
そして何より、そのユーモア性の高さに驚いた。それも無理に作ったユーモアではなく、キャラそのものが生み出すユーモアである。
さらに言えば、「忍法八犬伝」は一種の「騎士道物語」である。八犬士は、八人とも高貴な「一種の聖女」に恋をし、その人の幸福を守るために死んでいくのである。「無法松の一生」と同じ精神であり、これを「騎士道精神」と言う。それに殉じて死ぬのは最も高貴な形のgallantryである。
なお、通常の「愛」と称するものは、たいていは「自分の満足」のために相手(特に相手の体、相手の屈服、奉仕)を求めるのであり、それは最低のエゴイズムである。「子宮恋愛」も「ペニス恋愛」も愛でも恋でもない、ただの動物的性欲だ。
参考までに「はてな匿名ダイアリー」から、たぶん女性の投稿を転載。
2025-05-05
■性行為しなくていい彼氏が欲しいという話
Xで見かけた「性行為しなくていい彼氏が欲しい」という一連の話題
前提として私個人としては正直なところ性行為があってもなくてもどちらでもいいのだが、性行為がデートのゴールになっていないか?という問題提起?には考えさせられるものがあった
私はここのところずっと「彼氏」というものを重く受け止めすぎている ここのところではなく生まれてこのかた の間違いかもしれない
私は心のつながりを大事にしたい
例えば彼氏が風俗に行きたいのであれば全然行ってもらって構わないし、ハードなプレイがしたいとか私で満たせない欲求があるのならばプロに任せたほうがいいと思うタイプだ
ただ現実はそう甘くはない
他の女と寝てもいいんだ?と拡大解釈する人、俺に対する愛の気持ちってその程度なんだねと言い出す人、外野なのに本当に好きな人が見つかったら風俗に行っていいなんて言えなくなるよと謎に助言してくる人、、、
結局世の中は体の繋がりを大事にしてるように思える
ヤれば愛があることになるのか?
ヤらない2人には愛はないのか?
ハグやキスだけしていたい、性行為がなくてもいい彼氏が欲しいっていうのは結局「体の繋がりより心の繋がりを大事にしたい」という話だと思う
でもそれは「逆に面倒なやり取りやデートなどを全部すっ飛ばして性行為だけしたい人」と何ら変わりないという意見もあった
心のつながりを大事にしたいと思うことはただの綺麗事なのだろうか
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庄司薫が「赤ずきんちゃん気をつけて」で芥川賞を取った時に、選考委員の三島由紀夫が「ケストナーの『ファービアン』を思わせる」と選評を書いたことで、私は「あの」ケストナーがそんな小説を書いていたのか、と思って心にその名を記銘したものである。その後、「赤ずきんちゃん」はサリンジャーの「ライ麦畑で捕まえて」が下敷きだ、という説がほぼ定説になり、私もそれに同意するが、「ライ麦畑」を読む前に、たまたま「ファービアン」を入手する事ができ(おそらく、その後この小説が世間に出ることが無いと思うので、これはかなりの僥倖だった。)それを読んで、「赤ずきん」には「青春彷徨」の筋以外、雰囲気などはさほど似ていないし、ダークな内容だが、傑作青春小説で、人生と社会のリアルを見事に描いている、と思ったものである。
その内容を、「ドイツの子どもの本」という評論本(野村何とか著)の中に見つけたので、赤字にして引用する。注:「野村何とか」氏の名前は読み方不明。「サンズイに玄」→「ひろし」のようである。
(なお、カレル・チャペックの「山椒魚戦争」も、書かれた当時のチェコの社会のダークな部分を根底に描いていると思う。これも傑作で、こちらの方が入手しやすいだろう。)
『ファービアン』(1931年)は…(中略)…ベルリンを舞台にした小説です。レズビアン、映画界にデビューするために監督に体を提供する娘(老幼児注:主人公ファービアンの恋人である。彼は、おそらくそのショックで、最後は自殺する。)、妻の欲求不満を解消するために間男を認める弁護士など、当時の猥雑な風俗が詳しくうつされています。
その内容を、「ドイツの子どもの本」という評論本(野村何とか著)の中に見つけたので、赤字にして引用する。注:「野村何とか」氏の名前は読み方不明。「サンズイに玄」→「ひろし」のようである。
(なお、カレル・チャペックの「山椒魚戦争」も、書かれた当時のチェコの社会のダークな部分を根底に描いていると思う。これも傑作で、こちらの方が入手しやすいだろう。)
『ファービアン』(1931年)は…(中略)…ベルリンを舞台にした小説です。レズビアン、映画界にデビューするために監督に体を提供する娘(老幼児注:主人公ファービアンの恋人である。彼は、おそらくそのショックで、最後は自殺する。)、妻の欲求不満を解消するために間男を認める弁護士など、当時の猥雑な風俗が詳しくうつされています。
私の別ブログに載せた「アイザック・アシモフの創作論(*他記事の引用)」の一部である。概して賛成だが、ちょっと揚げ足を取るなら、「完璧主義」に批判的な作家であった結果、彼には「完璧な名作短編」が無い、ということになったと思うwww 短編小説は完璧であることが条件なのだから。無名作家でも、「冷たい方程式」のような歴史的傑作を書くこともあるのが短編小説である。
(以下引用)
また、アシモフ氏は書くだけでなく多くの本を読み、その経験について「むさぼるように読んだ雑多な読書は、指導の欠如の結果として私に消えないしるしを残した。このおかげで私の興味は20の異なる方向へ喚起され、そこから得たものは頭に残っている。私は、神話や聖書、シェイクスピア、歴史、化学などについての本を書いてきた」と言及。本を書き続けるには、多くのジャンルの本を読み、そこからかき立てられた自分の興味心に従い、自分自身への投資(学習)をやめないということです。
◆2:作業に詰まっても戦わない
多くの本を書いたアシモフ氏でさえも、アイデアが思い浮かばず詰まってしまうことがあり、「SF作品を書いているときは、書くことが嫌になり言葉が思い浮かばないことがある」と話しています。
By English106
しかし、経験を積むことで作業に詰まったときの独自の解決法を構築。この解決法についてアシモフ氏は「(作業に詰まったとき)私は白紙の紙を見つめるようなことはしない。アイデアが空っぽの頭を抱えて何日も悩むようなこともしない。その代わりに、書くことから離れて他の仕事をやってみる。他の仕事に疲れを感じ始めたら、もう一度詰まっていた作業に戻ってみる。こうすると前は書けなかったことが簡単に書けたりするものだ」と話しています。
◆3:抵抗に注意
起業家や作家、アーティストなどクリエイティブな仕事に従事する人は、アイデアを世に送り出すことに恐れを抱いているとのこと。世界中に自分のアイデアを見せることで、大きな批判を浴びるのが怖いという人がいるのは当然です。アシモフ氏は他人からの批判を「抵抗」と例えていて、「普通の作家は書きつつも、不安に襲われることに縛られています。だから、文章を短くしたり、変えようとしたりしながらさまざまな自己表現方法を試行します。しかし、私が知っている限り、この抵抗を恐れて行う削除や修正に満足することは決してありません」と解説。つまり、自分の書いたことが否定される恐怖に襲われても、それに屈してはいけないいうことです。
◆4:基準を低くする
アシモフ氏は完璧主義に対して反対の立場を貫いており、「始めから完璧なものを作ろうとするのは大きな間違いだ」と説いています。毎回最高なものを書こうとする必要はなく、自分の創造性を信じて書くことが大事。失敗し、もがき苦しむのを経験してこそ、後の成功につながります。
◆5:もっと多くの本を書く
アシモフ氏は、完璧主義に対抗する手段として、多くの本を書きまくることが必要と主張しています。失敗について悩む暇がないほどに書くことで、例え失敗しても精神的なダメージをそこまで負わなくなるそうです。
(以下引用)
また、アシモフ氏は書くだけでなく多くの本を読み、その経験について「むさぼるように読んだ雑多な読書は、指導の欠如の結果として私に消えないしるしを残した。このおかげで私の興味は20の異なる方向へ喚起され、そこから得たものは頭に残っている。私は、神話や聖書、シェイクスピア、歴史、化学などについての本を書いてきた」と言及。本を書き続けるには、多くのジャンルの本を読み、そこからかき立てられた自分の興味心に従い、自分自身への投資(学習)をやめないということです。
◆2:作業に詰まっても戦わない
多くの本を書いたアシモフ氏でさえも、アイデアが思い浮かばず詰まってしまうことがあり、「SF作品を書いているときは、書くことが嫌になり言葉が思い浮かばないことがある」と話しています。
By English106
しかし、経験を積むことで作業に詰まったときの独自の解決法を構築。この解決法についてアシモフ氏は「(作業に詰まったとき)私は白紙の紙を見つめるようなことはしない。アイデアが空っぽの頭を抱えて何日も悩むようなこともしない。その代わりに、書くことから離れて他の仕事をやってみる。他の仕事に疲れを感じ始めたら、もう一度詰まっていた作業に戻ってみる。こうすると前は書けなかったことが簡単に書けたりするものだ」と話しています。
◆3:抵抗に注意
起業家や作家、アーティストなどクリエイティブな仕事に従事する人は、アイデアを世に送り出すことに恐れを抱いているとのこと。世界中に自分のアイデアを見せることで、大きな批判を浴びるのが怖いという人がいるのは当然です。アシモフ氏は他人からの批判を「抵抗」と例えていて、「普通の作家は書きつつも、不安に襲われることに縛られています。だから、文章を短くしたり、変えようとしたりしながらさまざまな自己表現方法を試行します。しかし、私が知っている限り、この抵抗を恐れて行う削除や修正に満足することは決してありません」と解説。つまり、自分の書いたことが否定される恐怖に襲われても、それに屈してはいけないいうことです。
◆4:基準を低くする
アシモフ氏は完璧主義に対して反対の立場を貫いており、「始めから完璧なものを作ろうとするのは大きな間違いだ」と説いています。毎回最高なものを書こうとする必要はなく、自分の創造性を信じて書くことが大事。失敗し、もがき苦しむのを経験してこそ、後の成功につながります。
◆5:もっと多くの本を書く
アシモフ氏は、完璧主義に対抗する手段として、多くの本を書きまくることが必要と主張しています。失敗について悩む暇がないほどに書くことで、例え失敗しても精神的なダメージをそこまで負わなくなるそうです。
下に引用する文章を、まず虚心坦懐に読んで、正直にどう思ったか、自己確認したうえで、その後に書く私の感想を読んでみるべし。まあ、そちらは読まなくてもいいが、とにかく、どういう感想を持ったかだ。
(以下引用)
事実は小説よりも奇なりと言うけれど、実際にはどっちもどっちだ。どっちもどっちだが、作家が「奇」を衒う小説をつくるのはそれほど難しくない。状況の設定やプロットの配分によって、その気になればどんな「奇」も扱える。
ただ小説は読んでもらうものだから、読み手を誘導しつづけられないかぎり、破綻する。「奇」の反対は「偶」である。人の世は「奇」の連続ではなくて「偶」にたゆたっている。この「偶」を文章にするのは、やや技がいる。「偶」は「遇」でもあったから、だらだらは書けない。とりわけ登場人物の「偶」を描写しつづけるには技がいる。
(以上引用)
引用文は松岡正剛の「千夜千冊」の記事の冒頭の一節だが、その文章の非論理性に呆れるのは私だけだろうか。いや、私は未読の本を概要だけでも知りたい時に、「千夜千冊」サイトを利用したことはあるし、便益を得たこともある。だが、この文章はあまりにひどい。
まず、当人は作家(小説家)ではなく、何か小説を書いた人だとは聞いたこともないのに、なぜ
1:作家が「奇」を衒う小説をつくるのはそれほど難しくない。
と断言できるのか。滅茶苦茶を書いて「小説」になることはありえないのである。それは小説ではなく、文章の落書きだろう。下手な小説でも、一応小説として読めるのを書くのは頭と根気が要るのである。
2:「奇」の反対は「偶」である。人の世は「奇」の連続ではなくて「偶」にたゆたっている。
頭がおかしいのではないか。「奇」の反対が「偶」であるのは数学、いや算数の話であり、人の世が「偶」にたゆたっているはずもない。人の世の話なら「奇」の反対は「平凡」「日常茶飯事」だろう。
3:「偶」は「遇」でもあったから、だらだらは書けない。
「偶は遇でもある」は駄洒落以下である。そしてなぜ「遇」であるならだらだらとは書けないのか。
4:登場人物の「偶」を描写しつづけるには技がいる。
登場人物の「偶」とは何か。意味不明である。
なお、この引用した文章はフローベールの「ボヴァリー夫人」を解説・評論した記事の冒頭である。このふたつの段落が、どのように「ボヴァリー夫人」と結びつくのか、と興味を持った人がいるなら、この部分は「成功した」と言えるだろうが、それより先に、解説者(松岡正剛)の頭を疑う私のような人間は、単なるひねくれ者か?
なお、松岡氏は最近亡くなったばかりだが、死んだ人間だからといって批判してはいけないということもないだろう。
なお、小林秀雄の文章の非論理性を言う人が最近増えている(例の林先生など。)かと思うし、私も昔はそう思っていたが、あれは「非論理的」であるというより、「詩人的直観」で問題のポイント(結論)を断定的に言って、説明をしないだけである。当たり前の話で、詩人的直観は論理とは別物だから説明は不可能だ。
上記に引用した松岡の文章は詩人的直観ではなく、「単なるその場の思い付きの垂れ流し」である。つまり、私の文章のようなもので、「商品」にできるものではない。
(以下引用)
事実は小説よりも奇なりと言うけれど、実際にはどっちもどっちだ。どっちもどっちだが、作家が「奇」を衒う小説をつくるのはそれほど難しくない。状況の設定やプロットの配分によって、その気になればどんな「奇」も扱える。
ただ小説は読んでもらうものだから、読み手を誘導しつづけられないかぎり、破綻する。「奇」の反対は「偶」である。人の世は「奇」の連続ではなくて「偶」にたゆたっている。この「偶」を文章にするのは、やや技がいる。「偶」は「遇」でもあったから、だらだらは書けない。とりわけ登場人物の「偶」を描写しつづけるには技がいる。
(以上引用)
引用文は松岡正剛の「千夜千冊」の記事の冒頭の一節だが、その文章の非論理性に呆れるのは私だけだろうか。いや、私は未読の本を概要だけでも知りたい時に、「千夜千冊」サイトを利用したことはあるし、便益を得たこともある。だが、この文章はあまりにひどい。
まず、当人は作家(小説家)ではなく、何か小説を書いた人だとは聞いたこともないのに、なぜ
1:作家が「奇」を衒う小説をつくるのはそれほど難しくない。
と断言できるのか。滅茶苦茶を書いて「小説」になることはありえないのである。それは小説ではなく、文章の落書きだろう。下手な小説でも、一応小説として読めるのを書くのは頭と根気が要るのである。
2:「奇」の反対は「偶」である。人の世は「奇」の連続ではなくて「偶」にたゆたっている。
頭がおかしいのではないか。「奇」の反対が「偶」であるのは数学、いや算数の話であり、人の世が「偶」にたゆたっているはずもない。人の世の話なら「奇」の反対は「平凡」「日常茶飯事」だろう。
3:「偶」は「遇」でもあったから、だらだらは書けない。
「偶は遇でもある」は駄洒落以下である。そしてなぜ「遇」であるならだらだらとは書けないのか。
4:登場人物の「偶」を描写しつづけるには技がいる。
登場人物の「偶」とは何か。意味不明である。
なお、この引用した文章はフローベールの「ボヴァリー夫人」を解説・評論した記事の冒頭である。このふたつの段落が、どのように「ボヴァリー夫人」と結びつくのか、と興味を持った人がいるなら、この部分は「成功した」と言えるだろうが、それより先に、解説者(松岡正剛)の頭を疑う私のような人間は、単なるひねくれ者か?
なお、松岡氏は最近亡くなったばかりだが、死んだ人間だからといって批判してはいけないということもないだろう。
なお、小林秀雄の文章の非論理性を言う人が最近増えている(例の林先生など。)かと思うし、私も昔はそう思っていたが、あれは「非論理的」であるというより、「詩人的直観」で問題のポイント(結論)を断定的に言って、説明をしないだけである。当たり前の話で、詩人的直観は論理とは別物だから説明は不可能だ。
上記に引用した松岡の文章は詩人的直観ではなく、「単なるその場の思い付きの垂れ流し」である。つまり、私の文章のようなもので、「商品」にできるものではない。
たとえば「指輪物語」って「感動する」ような内容か? あの長大な作品を「最後まで読めた」自分の偉大さに感動しているのではないか? www
あと、「話題の本だから読んだ」という、ふだん読書をしない人が挙げたと思われる本が多いようだ。漫画まで入っている。まあ、「本」であるが、趣旨が違うだろう。
ただし、中には名作も多いから、お勧め本としての意義はある。
なお、三浦綾子では「氷点」より「塩苅峠」をお勧めする。短くて読みやすい。「みずうみ」はブラッドベリだろうが、萩尾望都の漫画も名作である。ただし、一般の女性が感動するかどうかは保証しない。ある意味、究極のロリコン文学だからだ。ただし、エロはまったく無い。純愛であり、自ら作った偶像へのあこがれ(と憑依、呪い)である。どちらかと言えば「ピグマリオン」神話に近いか。
目次
みんなから寄せられた感動した本一覧
蒼穹の昴
虐殺器官
壬生義士伝
リセット
空飛ぶタイヤ
コーヒーが冷めないうちに
チルドレン
わたしの知る花
ライオンのおやつ
探査機はやぶささん
命の後で咲いた花
フリークス
塩苅峠
君の膵臓をたべたい
プロジェクト・ヘイル・メアリー
指輪物語
青の炎
時間は存在しない
シャンタラム
どこよりも遠い場所にいる君へ
夜と霧
オレンジガール
イノセント・デイズ
砂漠
ぼくのメジャースプーン
漁港の肉子ちゃん
疾走
亡国のイージス
ガラスの塔の殺人
秘密
ノルウェイの森
望み
ザリガニの鳴くところ
博士の愛した数式
よだかの星
流浪の月
二十四の瞳
青空のむこう
シンデレラ迷宮
みずうみ
精霊の守り人
蝉しぐれ
旅猫リポート
夏の滴
星の王子さま
孤宿の人
レ・ミゼラブル
中原の虹
キネマの神様
汝、星の如く
西の魔女が死んだ
わたしの美しい庭
タイタンの妖女
冷静と情熱のあいだ
トリツカレ男
ぼくの地球を守って
52ヘルツのクジラたち
ウォーターシップダウンのうさぎたち
氷点
ツナグ
小指物語
手紙
容疑者Xの献身
オルガニスト
ブレイブ・ストーリー
天帝妖狐
魍魎の匣
シーラという子
空色勾玉
はてしない物語
闇の守り人
ドナウの旅人
アルジャーノンに花束を
幻庵
姑獲鳥の夏
ああ無情
幻魔大戦
沈黙
あと、「話題の本だから読んだ」という、ふだん読書をしない人が挙げたと思われる本が多いようだ。漫画まで入っている。まあ、「本」であるが、趣旨が違うだろう。
ただし、中には名作も多いから、お勧め本としての意義はある。
なお、三浦綾子では「氷点」より「塩苅峠」をお勧めする。短くて読みやすい。「みずうみ」はブラッドベリだろうが、萩尾望都の漫画も名作である。ただし、一般の女性が感動するかどうかは保証しない。ある意味、究極のロリコン文学だからだ。ただし、エロはまったく無い。純愛であり、自ら作った偶像へのあこがれ(と憑依、呪い)である。どちらかと言えば「ピグマリオン」神話に近いか。
目次
みんなから寄せられた感動した本一覧
蒼穹の昴
虐殺器官
壬生義士伝
リセット
空飛ぶタイヤ
コーヒーが冷めないうちに
チルドレン
わたしの知る花
ライオンのおやつ
探査機はやぶささん
命の後で咲いた花
フリークス
塩苅峠
君の膵臓をたべたい
プロジェクト・ヘイル・メアリー
指輪物語
青の炎
時間は存在しない
シャンタラム
どこよりも遠い場所にいる君へ
夜と霧
オレンジガール
イノセント・デイズ
砂漠
ぼくのメジャースプーン
漁港の肉子ちゃん
疾走
亡国のイージス
ガラスの塔の殺人
秘密
ノルウェイの森
望み
ザリガニの鳴くところ
博士の愛した数式
よだかの星
流浪の月
二十四の瞳
青空のむこう
シンデレラ迷宮
みずうみ
精霊の守り人
蝉しぐれ
旅猫リポート
夏の滴
星の王子さま
孤宿の人
レ・ミゼラブル
中原の虹
キネマの神様
汝、星の如く
西の魔女が死んだ
わたしの美しい庭
タイタンの妖女
冷静と情熱のあいだ
トリツカレ男
ぼくの地球を守って
52ヘルツのクジラたち
ウォーターシップダウンのうさぎたち
氷点
ツナグ
小指物語
手紙
容疑者Xの献身
オルガニスト
ブレイブ・ストーリー
天帝妖狐
魍魎の匣
シーラという子
空色勾玉
はてしない物語
闇の守り人
ドナウの旅人
アルジャーノンに花束を
幻庵
姑獲鳥の夏
ああ無情
幻魔大戦
沈黙
森博嗣のエッセイの一部で、天久何とかとやらは推理の参考にしたほうがいい。なお、森博嗣は以前は「ミステリ」と書いていたが、方針が変わったのだろうか。
(以下引用)
【ミステリィに向かない科学技術】
点滴には関係ないが、「刑事コロンボ」で、サブリミナル効果(わからない人は検索)を利用した殺人の話があった。かつては、これが信じられていたのだ。でも、サブリミナル効果というものは存在しないことが、既に科学的に証明されている。ミステリィのネタは、時代とともに枯渇していく。
最初に思い浮かぶのはDNA鑑定、その次は携帯電話、さらには防犯カメラなどの増加。これらが実現・普及したことで、数多くのミステリィのトリックが不可能になってしまった。
そもそも、躰の一部でさえ、他人とすり替えることはもうできない。かつては、指紋だけが個人を特定する手がかりだったから、入念にそれを拭き取ったり、手袋をして犯行に臨んだりしたものだが、今では髪の毛一本落とせないから、犯人は大変である。どんなに洗っても、血液の反応が出たり、グラスに口をつけただけで、個人が同定できる。しかも、それが決め手となるほど重要な証拠となる。
一方で、かつては供述が重視されたのに比べ、今では自供はほぼ証拠として扱われない。探偵による謎解きで追い詰められ逃走を図っても、それだけで犯人だとは確定できない。今でも、このような結末のミステリィが多い気がするけれど、そんなに簡単に事件は解決しない。
ニュースを聞いていると、「警察が動機を調べています」と語られているが、動機を調べることにどんな意味があるのか、僕には理解できない。もっと気になるのは、「何らかのトラブルがあったものと見て調べています」という文句。人が殺されているのだから、トラブルがあったことは自明であり、わざわざいうほどのことか、と思う。それとも、動機もなく、トラブルもないのに、趣味で殺人を行う加害者の可能性を示唆しているのだろうか?
そんなこともあって、ミステリィ小説は書きにくくなった。昔の話にするか、科学捜査ができない状況(たとえば、嵐の孤島など)を無理に設定するしかない。海外のドラマでも、近代化が遅れているリゾート地を舞台にしたシリーズが幾つかある。この種の物語のクリエイタの多くが困っているのは確からしい。
(以下引用)
【ミステリィに向かない科学技術】
点滴には関係ないが、「刑事コロンボ」で、サブリミナル効果(わからない人は検索)を利用した殺人の話があった。かつては、これが信じられていたのだ。でも、サブリミナル効果というものは存在しないことが、既に科学的に証明されている。ミステリィのネタは、時代とともに枯渇していく。
最初に思い浮かぶのはDNA鑑定、その次は携帯電話、さらには防犯カメラなどの増加。これらが実現・普及したことで、数多くのミステリィのトリックが不可能になってしまった。
そもそも、躰の一部でさえ、他人とすり替えることはもうできない。かつては、指紋だけが個人を特定する手がかりだったから、入念にそれを拭き取ったり、手袋をして犯行に臨んだりしたものだが、今では髪の毛一本落とせないから、犯人は大変である。どんなに洗っても、血液の反応が出たり、グラスに口をつけただけで、個人が同定できる。しかも、それが決め手となるほど重要な証拠となる。
一方で、かつては供述が重視されたのに比べ、今では自供はほぼ証拠として扱われない。探偵による謎解きで追い詰められ逃走を図っても、それだけで犯人だとは確定できない。今でも、このような結末のミステリィが多い気がするけれど、そんなに簡単に事件は解決しない。
ニュースを聞いていると、「警察が動機を調べています」と語られているが、動機を調べることにどんな意味があるのか、僕には理解できない。もっと気になるのは、「何らかのトラブルがあったものと見て調べています」という文句。人が殺されているのだから、トラブルがあったことは自明であり、わざわざいうほどのことか、と思う。それとも、動機もなく、トラブルもないのに、趣味で殺人を行う加害者の可能性を示唆しているのだろうか?
そんなこともあって、ミステリィ小説は書きにくくなった。昔の話にするか、科学捜査ができない状況(たとえば、嵐の孤島など)を無理に設定するしかない。海外のドラマでも、近代化が遅れているリゾート地を舞台にしたシリーズが幾つかある。この種の物語のクリエイタの多くが困っているのは確からしい。
私の別ブログから転載。
(以下自己引用)
「症例A」という,ダメダメタイトルの傑作 2023/08/04 (Fri)
多島斗志之の「症例A」を読了したが、凄い傑作である。ただ、さほど話題にもならなかったのは、題名のせいと、作者の知名度の低さのためだろう。これが若手の作家なら、その年の話題ナンバーワンになっていたと思う。
それよりも、題名が問題だ。まず、書店で買いたくなるタイトルではない。まるで魅力の無い題名である。もちろん、作者は報道記事における「少年A」「少女A」と同じく、病名を伏せながら、その病名が問題だ、ということを暗示したのだとは思う。しかし、一般人にとって魅力のある題名かというと、まったく魅力がない。もっと安直に「七つの顔の少女」とでもしたら良かったのではないか。ただし、真のヒロインは少女ではなく三十代の女性だが、それだと「売れない」ので、そこは誤魔化すわけだ。
なお、全体の話より、作中に出て来るエピソードで、敗戦時の日本で、美術館職員たちが進駐軍による美術品没収を怖れて、美術品の贋作を大量に作る話があるが、これなど、2時間くらいの娯楽映画に最適の話である。いわゆる「コンゲーム」(ゲーム的詐欺)物だ。有名どころでは「スティング」などがそれである。話の最後は、贋作作成集団の頭が、秘密の場所に保存した美術品を過誤による火災で焼失した、と言いながら、実はそれを独り占めして海外に売り、巨額のカネを得るという、これもまさにコンゲーム的オチである。
(以下自己引用)
「症例A」という,ダメダメタイトルの傑作 2023/08/04 (Fri)
多島斗志之の「症例A」を読了したが、凄い傑作である。ただ、さほど話題にもならなかったのは、題名のせいと、作者の知名度の低さのためだろう。これが若手の作家なら、その年の話題ナンバーワンになっていたと思う。
それよりも、題名が問題だ。まず、書店で買いたくなるタイトルではない。まるで魅力の無い題名である。もちろん、作者は報道記事における「少年A」「少女A」と同じく、病名を伏せながら、その病名が問題だ、ということを暗示したのだとは思う。しかし、一般人にとって魅力のある題名かというと、まったく魅力がない。もっと安直に「七つの顔の少女」とでもしたら良かったのではないか。ただし、真のヒロインは少女ではなく三十代の女性だが、それだと「売れない」ので、そこは誤魔化すわけだ。
なお、全体の話より、作中に出て来るエピソードで、敗戦時の日本で、美術館職員たちが進駐軍による美術品没収を怖れて、美術品の贋作を大量に作る話があるが、これなど、2時間くらいの娯楽映画に最適の話である。いわゆる「コンゲーム」(ゲーム的詐欺)物だ。有名どころでは「スティング」などがそれである。話の最後は、贋作作成集団の頭が、秘密の場所に保存した美術品を過誤による火災で焼失した、と言いながら、実はそれを独り占めして海外に売り、巨額のカネを得るという、これもまさにコンゲーム的オチである。
この「アンファニズム」のようなお遊び暇つぶしブログに「文学論」を書くのは書く場所が違うだろう、と言われそうだが、小説や文学(「学問」か?)に興味がある人向けに書く。
早朝(未明)の闇の中で散歩をしながら考えたのだが、「ハードボイルド小説は男のハーレクインロマンスだ」というセリフを最初に言ったのは誰だろうか。私は恩田陸の作品の中でこのセリフを二度見た記憶があるので、たぶん恩田陸だと思う。もちろん、このセリフはハードボイルド小説も男もけなしているのである。あんな安っぽい小説を好む連中は馬鹿だ、というわけだ。と同時に、これはハーレクインロマンスをもけなしているのだが、今でもこの類の女性向き三文小説は出版され続けているのだろうか。
で、問題は「需要があるから出版される」のは確かなのに、なぜそれをけなすのかだが、それは恩田陸に「私が書く小説は高級品であり、ハードボイルド小説やハーレクインロマンスは誰でも書ける低級品だ」という意識があるからであるのは確かだろう。
さて、問題は、たとえば100円ショップで買える品は無価値で、銀座の店で買う品は価値が高いと言えるのかどうかだ。
私が100円ショップで買った指無し手袋は非常に丈夫で使い勝手が良く、数年も愛用している。つまり、利用価値から言えば、銀座の服装品(服飾品?)店で買う手袋の数倍の価値があると私は思っている。
まあ、小説(文学)と手袋を同一には論じられないのは当然だが、では、「価値の高い文学」と「価値の低い文学」の価値を決めるのは誰か、だ。たとえば、三島由紀夫は太宰治の小説が大嫌いだったが、はたして太宰の作品価値は三島より劣るだろうか。私は、その逆だと思っている。三島は文芸評論家としての才能は髙かったし、優れた短編小説もいくつか書いている。しかし、作品全体としての価値は、太宰にはるかに及ばない、というのが私の評価だ。
恩田陸に話を戻せば、私は彼女の作品は面白いと思っていて、古書店ではかなりたくさん買っている。しかし、新刊で高いカネを出して買おうとは思わないのである。それが私にとっての彼女の作品価値だ。
もちろん、ハードボイルド作品の9割くらいは、ただでも貰う気はしない。私にとっては読む時間のほうがはるかに貴重だからだ。
しかし、それによってハードボイルド小説というジャンル全体を否定するのはおかしいだろう、というのが私の考えである。
本当は、そこから男と女についての哲学的考察、特に男女におけるセックスの意味の違いというものまで考察したのだが、それはまた別の機会に書くことにする。
ちなみに、私は(もちろん、全部読んではいないが)恩田陸の全小説は、柳田国男の「遠野物語」「山の人生」の中のふたつの短いエピソードとその文章にはるかに及ばないと思っている。それが「文学的価値」である。少し奇抜な言い方をすれば、ここに「ハードボイルド」の真髄がある、とも言えるような気がしないでもない。つまり、単なる現実を超えた、「象徴として天空に屹立したリアル」である。
もちろん、小説論の例として「遠野物語」「山の人生」を出すのは不適切だが、残念ながら私はハードボイルド小説の中に「ハードボイルド」の好例を思いつけないのである。ノンフィクション作品のほうがはるかにハードボイルドだろうが、また、私はそういうのが好みでもないのである。娯楽性を加味するなら、所詮は「男のハーレクインロマンス」になるしかないわけだ。つまり、私は恩田陸の発言を半分認めてはいるのである。ただ、その種のジャンルを「けなす」のはおかしいだろう、という話だ。
ハードボイルド小説が売れなくなったところで恩田陸の小説がいっそう売れるわけでもないだろうし。
早朝(未明)の闇の中で散歩をしながら考えたのだが、「ハードボイルド小説は男のハーレクインロマンスだ」というセリフを最初に言ったのは誰だろうか。私は恩田陸の作品の中でこのセリフを二度見た記憶があるので、たぶん恩田陸だと思う。もちろん、このセリフはハードボイルド小説も男もけなしているのである。あんな安っぽい小説を好む連中は馬鹿だ、というわけだ。と同時に、これはハーレクインロマンスをもけなしているのだが、今でもこの類の女性向き三文小説は出版され続けているのだろうか。
で、問題は「需要があるから出版される」のは確かなのに、なぜそれをけなすのかだが、それは恩田陸に「私が書く小説は高級品であり、ハードボイルド小説やハーレクインロマンスは誰でも書ける低級品だ」という意識があるからであるのは確かだろう。
さて、問題は、たとえば100円ショップで買える品は無価値で、銀座の店で買う品は価値が高いと言えるのかどうかだ。
私が100円ショップで買った指無し手袋は非常に丈夫で使い勝手が良く、数年も愛用している。つまり、利用価値から言えば、銀座の服装品(服飾品?)店で買う手袋の数倍の価値があると私は思っている。
まあ、小説(文学)と手袋を同一には論じられないのは当然だが、では、「価値の高い文学」と「価値の低い文学」の価値を決めるのは誰か、だ。たとえば、三島由紀夫は太宰治の小説が大嫌いだったが、はたして太宰の作品価値は三島より劣るだろうか。私は、その逆だと思っている。三島は文芸評論家としての才能は髙かったし、優れた短編小説もいくつか書いている。しかし、作品全体としての価値は、太宰にはるかに及ばない、というのが私の評価だ。
恩田陸に話を戻せば、私は彼女の作品は面白いと思っていて、古書店ではかなりたくさん買っている。しかし、新刊で高いカネを出して買おうとは思わないのである。それが私にとっての彼女の作品価値だ。
もちろん、ハードボイルド作品の9割くらいは、ただでも貰う気はしない。私にとっては読む時間のほうがはるかに貴重だからだ。
しかし、それによってハードボイルド小説というジャンル全体を否定するのはおかしいだろう、というのが私の考えである。
本当は、そこから男と女についての哲学的考察、特に男女におけるセックスの意味の違いというものまで考察したのだが、それはまた別の機会に書くことにする。
ちなみに、私は(もちろん、全部読んではいないが)恩田陸の全小説は、柳田国男の「遠野物語」「山の人生」の中のふたつの短いエピソードとその文章にはるかに及ばないと思っている。それが「文学的価値」である。少し奇抜な言い方をすれば、ここに「ハードボイルド」の真髄がある、とも言えるような気がしないでもない。つまり、単なる現実を超えた、「象徴として天空に屹立したリアル」である。
もちろん、小説論の例として「遠野物語」「山の人生」を出すのは不適切だが、残念ながら私はハードボイルド小説の中に「ハードボイルド」の好例を思いつけないのである。ノンフィクション作品のほうがはるかにハードボイルドだろうが、また、私はそういうのが好みでもないのである。娯楽性を加味するなら、所詮は「男のハーレクインロマンス」になるしかないわけだ。つまり、私は恩田陸の発言を半分認めてはいるのである。ただ、その種のジャンルを「けなす」のはおかしいだろう、という話だ。
ハードボイルド小説が売れなくなったところで恩田陸の小説がいっそう売れるわけでもないだろうし。
小林秀雄が対談集の中で、太宰治のことを「あの人はバカじゃありません、ヒステリイです」と言っているが、至言だと思う。バカどころか太宰は異常に頭がいい人間だと思うが、自分の性格の中のヒステリー性を熟知していて、それを作品に正確に描いていると思う。そういうところは筒井康隆に似ているようだ。
三島由紀夫が太宰を嫌ったのは、そういう「道化」的なところだろう。太宰と三島はナルシストという点ではそっくりだが、三島は「他人に笑われること」が大嫌いだったと思う。それが彼の作品のユーモア性の欠如の原因でもある。他人を笑わせるには自分自身が道化にならないといけないのである。
三島は詩人として出発したはずで、そもそも詩情とユーモアは相反するものだ。筒井の作品で詩情を意図したと思われる作品(まったく笑いの無い作品)は、だいたい失敗している。つまり、読者にとっては面白くもないし、詩情も感じない。太宰の作品にも詩情は欠如している。
三島由紀夫が太宰を嫌ったのは、そういう「道化」的なところだろう。太宰と三島はナルシストという点ではそっくりだが、三島は「他人に笑われること」が大嫌いだったと思う。それが彼の作品のユーモア性の欠如の原因でもある。他人を笑わせるには自分自身が道化にならないといけないのである。
三島は詩人として出発したはずで、そもそも詩情とユーモアは相反するものだ。筒井の作品で詩情を意図したと思われる作品(まったく笑いの無い作品)は、だいたい失敗している。つまり、読者にとっては面白くもないし、詩情も感じない。太宰の作品にも詩情は欠如している。
松岡正剛の「千夜千冊」の記事の一部である。
ここに書かれた「クリスマスの思い出」は、山岸凉子が漫画化しており、名作や傑作の多い彼女の作品の中で私がもっとも愛する作品である。それは、萩尾望都によるレイ・ブラッドベリの「みずうみ」に匹敵する。
(以下引用)
ひとつ、付け加えておきたいことがある。それは「昼の文体」を支えたのはミス・スックという老女だったということだ。この老女はカポーティが親戚の家を転々としていたときに出会った年長の遠縁の女性で、おそらく少年カポーティの初期の「精神の印画紙」をつくりあげたようなのだ。短篇『感謝祭のお客』(新潮文庫『夜の樹』所収)や『クリスマスの思い出』(文藝春秋)には、その二人だけの印画紙づくりのエピソードが綴られている。
この話を知ったとき、すぐに大田垣蓮月と富岡鉄斎の、また高場乱と頭山満の心と技の蜜月を想い浮かべたものだったけれど、実際のミス・スックは女丈夫などではなくて、とても優しくて傷つきやすかったのだという。カポーティはアルコールと薬物中毒で後半生を苦しんでしまったが(五九歳で没した)、ミス・スックとの日々の輝きをずっと大事にした作家生涯でもあったはずである。
ここに書かれた「クリスマスの思い出」は、山岸凉子が漫画化しており、名作や傑作の多い彼女の作品の中で私がもっとも愛する作品である。それは、萩尾望都によるレイ・ブラッドベリの「みずうみ」に匹敵する。
(以下引用)
ひとつ、付け加えておきたいことがある。それは「昼の文体」を支えたのはミス・スックという老女だったということだ。この老女はカポーティが親戚の家を転々としていたときに出会った年長の遠縁の女性で、おそらく少年カポーティの初期の「精神の印画紙」をつくりあげたようなのだ。短篇『感謝祭のお客』(新潮文庫『夜の樹』所収)や『クリスマスの思い出』(文藝春秋)には、その二人だけの印画紙づくりのエピソードが綴られている。
この話を知ったとき、すぐに大田垣蓮月と富岡鉄斎の、また高場乱と頭山満の心と技の蜜月を想い浮かべたものだったけれど、実際のミス・スックは女丈夫などではなくて、とても優しくて傷つきやすかったのだという。カポーティはアルコールと薬物中毒で後半生を苦しんでしまったが(五九歳で没した)、ミス・スックとの日々の輝きをずっと大事にした作家生涯でもあったはずである。