ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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下に引用する文章を、まず虚心坦懐に読んで、正直にどう思ったか、自己確認したうえで、その後に書く私の感想を読んでみるべし。まあ、そちらは読まなくてもいいが、とにかく、どういう感想を持ったかだ。
(以下引用)
事実は小説よりも奇なりと言うけれど、実際にはどっちもどっちだ。どっちもどっちだが、作家が「奇」を衒う小説をつくるのはそれほど難しくない。状況の設定やプロットの配分によって、その気になればどんな「奇」も扱える。
ただ小説は読んでもらうものだから、読み手を誘導しつづけられないかぎり、破綻する。「奇」の反対は「偶」である。人の世は「奇」の連続ではなくて「偶」にたゆたっている。この「偶」を文章にするのは、やや技がいる。「偶」は「遇」でもあったから、だらだらは書けない。とりわけ登場人物の「偶」を描写しつづけるには技がいる。
(以上引用)
引用文は松岡正剛の「千夜千冊」の記事の冒頭の一節だが、その文章の非論理性に呆れるのは私だけだろうか。いや、私は未読の本を概要だけでも知りたい時に、「千夜千冊」サイトを利用したことはあるし、便益を得たこともある。だが、この文章はあまりにひどい。
まず、当人は作家(小説家)ではなく、何か小説を書いた人だとは聞いたこともないのに、なぜ
1:作家が「奇」を衒う小説をつくるのはそれほど難しくない。
と断言できるのか。滅茶苦茶を書いて「小説」になることはありえないのである。それは小説ではなく、文章の落書きだろう。下手な小説でも、一応小説として読めるのを書くのは頭と根気が要るのである。
2:「奇」の反対は「偶」である。人の世は「奇」の連続ではなくて「偶」にたゆたっている。
頭がおかしいのではないか。「奇」の反対が「偶」であるのは数学、いや算数の話であり、人の世が「偶」にたゆたっているはずもない。人の世の話なら「奇」の反対は「平凡」「日常茶飯事」だろう。
3:「偶」は「遇」でもあったから、だらだらは書けない。
「偶は遇でもある」は駄洒落以下である。そしてなぜ「遇」であるならだらだらとは書けないのか。
4:登場人物の「偶」を描写しつづけるには技がいる。
登場人物の「偶」とは何か。意味不明である。
なお、この引用した文章はフローベールの「ボヴァリー夫人」を解説・評論した記事の冒頭である。このふたつの段落が、どのように「ボヴァリー夫人」と結びつくのか、と興味を持った人がいるなら、この部分は「成功した」と言えるだろうが、それより先に、解説者(松岡正剛)の頭を疑う私のような人間は、単なるひねくれ者か?
なお、松岡氏は最近亡くなったばかりだが、死んだ人間だからといって批判してはいけないということもないだろう。
なお、小林秀雄の文章の非論理性を言う人が最近増えている(例の林先生など。)かと思うし、私も昔はそう思っていたが、あれは「非論理的」であるというより、「詩人的直観」で問題のポイント(結論)を断定的に言って、説明をしないだけである。当たり前の話で、詩人的直観は論理とは別物だから説明は不可能だ。
上記に引用した松岡の文章は詩人的直観ではなく、「単なるその場の思い付きの垂れ流し」である。つまり、私の文章のようなもので、「商品」にできるものではない。
(以下引用)
事実は小説よりも奇なりと言うけれど、実際にはどっちもどっちだ。どっちもどっちだが、作家が「奇」を衒う小説をつくるのはそれほど難しくない。状況の設定やプロットの配分によって、その気になればどんな「奇」も扱える。
ただ小説は読んでもらうものだから、読み手を誘導しつづけられないかぎり、破綻する。「奇」の反対は「偶」である。人の世は「奇」の連続ではなくて「偶」にたゆたっている。この「偶」を文章にするのは、やや技がいる。「偶」は「遇」でもあったから、だらだらは書けない。とりわけ登場人物の「偶」を描写しつづけるには技がいる。
(以上引用)
引用文は松岡正剛の「千夜千冊」の記事の冒頭の一節だが、その文章の非論理性に呆れるのは私だけだろうか。いや、私は未読の本を概要だけでも知りたい時に、「千夜千冊」サイトを利用したことはあるし、便益を得たこともある。だが、この文章はあまりにひどい。
まず、当人は作家(小説家)ではなく、何か小説を書いた人だとは聞いたこともないのに、なぜ
1:作家が「奇」を衒う小説をつくるのはそれほど難しくない。
と断言できるのか。滅茶苦茶を書いて「小説」になることはありえないのである。それは小説ではなく、文章の落書きだろう。下手な小説でも、一応小説として読めるのを書くのは頭と根気が要るのである。
2:「奇」の反対は「偶」である。人の世は「奇」の連続ではなくて「偶」にたゆたっている。
頭がおかしいのではないか。「奇」の反対が「偶」であるのは数学、いや算数の話であり、人の世が「偶」にたゆたっているはずもない。人の世の話なら「奇」の反対は「平凡」「日常茶飯事」だろう。
3:「偶」は「遇」でもあったから、だらだらは書けない。
「偶は遇でもある」は駄洒落以下である。そしてなぜ「遇」であるならだらだらとは書けないのか。
4:登場人物の「偶」を描写しつづけるには技がいる。
登場人物の「偶」とは何か。意味不明である。
なお、この引用した文章はフローベールの「ボヴァリー夫人」を解説・評論した記事の冒頭である。このふたつの段落が、どのように「ボヴァリー夫人」と結びつくのか、と興味を持った人がいるなら、この部分は「成功した」と言えるだろうが、それより先に、解説者(松岡正剛)の頭を疑う私のような人間は、単なるひねくれ者か?
なお、松岡氏は最近亡くなったばかりだが、死んだ人間だからといって批判してはいけないということもないだろう。
なお、小林秀雄の文章の非論理性を言う人が最近増えている(例の林先生など。)かと思うし、私も昔はそう思っていたが、あれは「非論理的」であるというより、「詩人的直観」で問題のポイント(結論)を断定的に言って、説明をしないだけである。当たり前の話で、詩人的直観は論理とは別物だから説明は不可能だ。
上記に引用した松岡の文章は詩人的直観ではなく、「単なるその場の思い付きの垂れ流し」である。つまり、私の文章のようなもので、「商品」にできるものではない。
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