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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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この「アンファニズム」のようなお遊び暇つぶしブログに「文学論」を書くのは書く場所が違うだろう、と言われそうだが、小説や文学(「学問」か?)に興味がある人向けに書く。

早朝(未明)の闇の中で散歩をしながら考えたのだが、「ハードボイルド小説は男のハーレクインロマンスだ」というセリフを最初に言ったのは誰だろうか。私は恩田陸の作品の中でこのセリフを二度見た記憶があるので、たぶん恩田陸だと思う。もちろん、このセリフはハードボイルド小説も男もけなしているのである。あんな安っぽい小説を好む連中は馬鹿だ、というわけだ。と同時に、これはハーレクインロマンスをもけなしているのだが、今でもこの類の女性向き三文小説は出版され続けているのだろうか。
で、問題は「需要があるから出版される」のは確かなのに、なぜそれをけなすのかだが、それは恩田陸に「私が書く小説は高級品であり、ハードボイルド小説やハーレクインロマンスは誰でも書ける低級品だ」という意識があるからであるのは確かだろう。
さて、問題は、たとえば100円ショップで買える品は無価値で、銀座の店で買う品は価値が高いと言えるのかどうかだ。
私が100円ショップで買った指無し手袋は非常に丈夫で使い勝手が良く、数年も愛用している。つまり、利用価値から言えば、銀座の服装品(服飾品?)店で買う手袋の数倍の価値があると私は思っている。
まあ、小説(文学)と手袋を同一には論じられないのは当然だが、では、「価値の高い文学」と「価値の低い文学」の価値を決めるのは誰か、だ。たとえば、三島由紀夫は太宰治の小説が大嫌いだったが、はたして太宰の作品価値は三島より劣るだろうか。私は、その逆だと思っている。三島は文芸評論家としての才能は髙かったし、優れた短編小説もいくつか書いている。しかし、作品全体としての価値は、太宰にはるかに及ばない、というのが私の評価だ。
恩田陸に話を戻せば、私は彼女の作品は面白いと思っていて、古書店ではかなりたくさん買っている。しかし、新刊で高いカネを出して買おうとは思わないのである。それが私にとっての彼女の作品価値だ。
もちろん、ハードボイルド作品の9割くらいは、ただでも貰う気はしない。私にとっては読む時間のほうがはるかに貴重だからだ。
しかし、それによってハードボイルド小説というジャンル全体を否定するのはおかしいだろう、というのが私の考えである。

本当は、そこから男と女についての哲学的考察、特に男女におけるセックスの意味の違いというものまで考察したのだが、それはまた別の機会に書くことにする。

ちなみに、私は(もちろん、全部読んではいないが)恩田陸の全小説は、柳田国男の「遠野物語」「山の人生」の中のふたつの短いエピソードとその文章にはるかに及ばないと思っている。それが「文学的価値」である。少し奇抜な言い方をすれば、ここに「ハードボイルド」の真髄がある、とも言えるような気がしないでもない。つまり、単なる現実を超えた、「象徴として天空に屹立したリアル」である。
もちろん、小説論の例として「遠野物語」「山の人生」を出すのは不適切だが、残念ながら私はハードボイルド小説の中に「ハードボイルド」の好例を思いつけないのである。ノンフィクション作品のほうがはるかにハードボイルドだろうが、また、私はそういうのが好みでもないのである。娯楽性を加味するなら、所詮は「男のハーレクインロマンス」になるしかないわけだ。つまり、私は恩田陸の発言を半分認めてはいるのである。ただ、その種のジャンルを「けなす」のはおかしいだろう、という話だ。
ハードボイルド小説が売れなくなったところで恩田陸の小説がいっそう売れるわけでもないだろうし。


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