いや、私はこういう「機械人形との恋」というのがなぜか好きなのであるが、それは「神秘の世界エルハザード」の後遺症かもしれない。
個別評価で言えば
コンセプト 5点
カメラワーク 4点
ビジュアル 4点
脚本 4点
総合 4.25点
か。さらに言えば、学校唱歌(題名は忘れた「月無きみ空に~」で始まる星空の歌)を歌無しで使った哀切さが効果的だった。
(以下引用)
今回より始まった私流刑囚がその時々で見た映画を紹介するコーナー、「流刑囚の映画千夜一夜物語」第一回は『planetarian~星の人~』(’16日)。
このコーナーではまず最初に映画を「コンセプト」「カメラワーク」「ビジュアル」「脚本」の4つの観点から5点満点で評価し総合評価を下したいと考える。
というわけで本作の5段階評価は…
コンセプト…1.5点
カメラワーク…1点
ビジュアル…1点
脚本…1点
総合評価…1.1点
この作品はフォロワーの方の推薦で鑑賞することになった(おそらくそうでなければ見ることもなかっただろう)のだが、想像していたよりもつまらなかったのがある意味意外であった。
一言で言えば「普通の深夜アニメ」であり、「この作品でしか見れない何か」を見出すことは残念ながら出来なかった。
まずは「ビジュアル」の問題である。「映画のビジュアル」の例でわかりやすいのはクリストファー・ノーラン監督の『インセプション』における「直角に折れ曲がった都市」であろう。このイメージを予告編や序盤で提示することによって観客は「これがどんなビジュアルを伴った映画なのか」を直観的に理解することが可能となる。また同じく「映画におけるビジュアル提示」を強く意識していると思われる作家が新海誠だ。新海誠の映画はその具体的内容を知らずとも予告のワンショット、その画面の色調を見ただけでそれが「新海誠の作品」であると理解することが可能だ。
翻って本作の場合諸々のデザインから画面の色調に至るまですべてが「よくある深夜アニメのそれ」でしかなく初見で「これ」というインパクトを与えることができない。「凡百の深夜アニメであること」を作り手たちが提示したかったわけではあるまい。
次に「コンセプト」の問題だ。所謂「ポストアポカリプス」と呼ばれる舞台設定は特に珍しくはない。人間の文明は”時ととも”に滅亡崩壊していく可能性があるのだが、それに対極する概念として本作では「星空」がある。「核の冬」によって「星空」をみることができなくなった本作の人類は「プラネタリウム」という「偽の空」によって擬似的により不変(時間による影響が知覚されにくい)な世界の存在に触れることが可能となる。
しかしここで問題となるのはその描写だ。前述の通り本作はそのビジュアル的な弱さのせいでこの「プラネタリウム」という「主要モチーフ」に説得力を持った描写をするこができていない。
百歩譲って「星空」を説得力ある形で描写することができないのだとするならば「その周辺」に説得力を持たせる必要がある。例として本多猪四郎監督の 『空の大怪獣ラドン』や『三大怪獣 地球最大の決戦』を見てみよう。
まず『ラドン』ではラドンの出現以前に「炭鉱での連続殺人事件」が描かれる。この「殺人事件」にはラドンという「主要モチーフ」は関与していない。この事件の真犯人はメガヌロンという巨大なヤゴ、つまりは「周辺モチーフ」であり、このヤゴを捕食する存在として初めて主要モチーフたるラドンの存在が浮き彫りになる。次に『三大怪獣』。この作品においてもまず描かれるのは「流星」であり「王女の暗殺計画と失踪」である。こうした一見関係ない「周辺のモチーフ」をちりばめそれぞれの線を辿っていったその先に本作の主要モチーフたる「金星の文明を破壊した怪獣キングギドラ」が待っているのだ。
さて、本作『planetarian』においてはこうした「周辺のモチーフ」の描き込みが圧倒的に欠如している。「核戦争後の過酷な生活」はあくまでも記号的なそれと描かれるに留まり、それが観客の五感を刺激し納得させる描写にまで昇華されていないのだ。これによって本作は「主要モチーフ」たるプラネタリウムの存在に説得力を与えることができなくなってしまった。また(これも「ビジュアル」の項との関連であるが)プラネタリウム以外に関してもキャラクターやメカのデザインなどどれも(良く言っても)平凡で「この作品ならでは」の何かを訴えかけることができていない。
また脚本も問題である。そもそもこの作品は所謂「泣きゲー」と呼ばれる美少女ゲームの映画化であり「観客を泣かせる」ということに主眼が置かれている。個人的な好みはさて置きそのコンセプト自体はまあ良いとして、果たしてこの作品で泣くことができるのであろうかという疑問がある。確かに様々な映画サイトのレビューを見るに「泣けました」的な感想は多いのであるが個人的にはこれが信じられなかった。
これも「ビジュアル」や「コンセプト」で語ったことの繰り返しになるのだが本作に登場するロボットの言動(の描写)などはほとんどがテンプレ、クリシェでしかない。主人公に贈り物をする、転んでも泣き言を言わず主人公について来るといった誰でも思いつきそうな言動で「健気さ」をアピールしているだけだ。そこにはなんの捻りもオリジナリティもなく作り手のあざとさだけが伝わってくる。
また展開に関しても急すぎるのではないかと思わされる。作中の時系列がコロコロ変わるのだがその繋ぎ方も上手さ(必然性)があるわけではないように感じた。
長々と記述したが本作は一言で言えば「失敗作未満」だろう。まず「描きたい何か」がありそのアプローチに失敗したとすればそれは「失敗作」となる。しかし本作はまず「何を描きたいのか?」がはっきりとは分からないのだ。「描写」どころか「コンセプト」すらろくに設定できず、しかし観客の「泣く」という反応を期待するのはあまりにもご都合主義が過ぎるのではないだろうか。