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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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山田風太郎の「忍法八犬伝」を読んで、その面白さ、フィクションとしての完璧性に驚いたのだが、それを読むまで私は風太郎の「忍法物」をエログロ小説としか思っていなかったのである。そして私はエロ小説が嫌い(マルキ・ド・サドの小説は哲学として面白いから読む)なのである。
だが、風太郎の小説は少しもエロではない。つまり、読者の性的興奮を高める目的の描写ではなく、「忍法として面白いから」書いているだけだ。むしろ、元医学生らしい医学的記述が多い。
そして何より、そのユーモア性の高さに驚いた。それも無理に作ったユーモアではなく、キャラそのものが生み出すユーモアである。
さらに言えば、「忍法八犬伝」は一種の「騎士道物語」である。八犬士は、八人とも高貴な「一種の聖女」に恋をし、その人の幸福を守るために死んでいくのである。「無法松の一生」と同じ精神であり、これを「騎士道精神」と言う。それに殉じて死ぬのは最も高貴な形のgallantryである。

なお、通常の「愛」と称するものは、たいていは「自分の満足」のために相手(特に相手の体、相手の屈服、奉仕)を求めるのであり、それは最低のエゴイズムである。「子宮恋愛」も「ペニス恋愛」も愛でも恋でもない、ただの動物的性欲だ。

参考までに「はてな匿名ダイアリー」から、たぶん女性の投稿を転載。

2025-05-05

行為しなくていい彼氏が欲しいという話

Xで見かけた「性行為しなくていい彼氏が欲しい」という一連の話題


 


前提として私個人としては正直なところ性行為があってもなくてもどちらでもいいのだが、性行為デートのゴールになっていないか?という問題提起?には考えさせられるものがあった


 


私はここのところずっと「彼氏」というものを重く受け止めすぎている ここのところではなく生まれてこのかた の間違いかもしれない


 


私は心のつながりを大事にしたい


例えば彼氏風俗に行きたいのであれば全然行ってもらって構わないし、ハードプレイがしたいとか私で満たせない欲求があるのならばプロに任せたほうがいいと思うタイプ


 


ただ現実はそう甘くはない


他の女と寝てもいいんだ?と拡大解釈する人、俺に対する愛の気持ちってその程度なんだねと言い出す人、外野なのに本当に好きな人が見つかったら風俗に行っていいなんて言えなくなるよと謎に助言してくる人、、、


 


結局世の中は体の繋がりを大事にしてるように思える


ヤれば愛があることになるのか?


ヤらない2人には愛はないのか?


そういう漠然としたモヤモヤがある


 


ハグキスだけしていたい、性行為がなくてもいい彼氏が欲しいっていうのは結局「体の繋がりより心の繋がりを大事にしたい」という話だと思う


 


でもそれは「逆に面倒なやり取りやデートなどを全部すっ飛ばして性行為だけしたい人」と何ら変わりないという意見もあった


 


 


心のつながりを大事にしたいと思うことはただの綺麗事なのだろうか

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