ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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不思議なことというか、あまり誰も指摘しないことだが、「嫁・姑問題」は、かなり日本限定の問題ではないか、という気がする。
欧米の場合は、子供は最初から別個人という感覚が強いのか、息子がどういう女と結婚しようが我関せず、という感じがする。そもそも、息子夫婦が両親と同居する例が少ないから軋轢が生まれにくいのだろう。つまり、「嫁・姑問題」は日本の住宅事情問題ではないか。インドや韓国や中国などには日本と似たものがあるかもしれない。「血縁者集団の中にエイリアンが入ってくる軋轢」である。
下の記事は、記事中の引用部分の書き手が脚本家のわりにはその部分には面白さはない。相互の異常な憎悪感がたちこめている。まあ、嫁がおせちを作る、と聞いて「エスニック?」と皮肉を言う義母の頭の鋭どさと言うか回転の速さは凄いな、と思う。「お見事!」と言いたいほどだが、嫁にはそれどころではないだろう。
まあ、こういう記事が増えると、ますます日本の非婚化は進むと思う。もはや日本の若者は恋愛にも結婚にも二の足を踏む人が多いのではないか。単なる経済低迷と貧困化のためだけでもなさそうだ。子供たちも、自分を育ててくれた親への感謝どころか、「こんな世界になぜ生んだ」と恨まれそうであるww それで結婚する気が起きるはずもない。
(以下「紙屋研究所」から引用)記事中の引用部分は囲み記事だが枠が消えたので青字にする。
2024-12-26
今井雅子「涙のエスニックおせち」
新聞記事
脚本家・今井雅子が「しんぶん赤旗」でエッセイを連載している。
今日付の今井のエッセイは「涙のエスニックおせち」。「十年あまり前の大晦日、夫の実家で鍋を囲んでいた」という状況を描いている。
冒頭に、義母と自分の会話を描く。
義母と自分の関係がドライであることを、会話から伝える。
義母はねちねちと嫌味ったらしい感じではなく、サクッと皮肉を言ったり、矛盾を突いたりする、そういうサバサバさがある。他方で、今井の方も、それに過剰に突っかかるというほどはないが、負けじと言い返すタイプである。
おせちを作らないといけないので帰る、と今井は宣言する。義母は皮肉とも驚きともつかぬ調子でおせちなんか作るの? と聞き、今井は作りますよと意地を張る。しかし本当はおせちなど作らないのである。
そこに義母が一言。
「エスニック?」
次の瞬間、涙がダバーッとあふれた。アニメ脚本のト書きで「滝涙(たきなみだ)」という表現がある。キャラクターの目から滝のように涙が流れる様子を指す。アニメならではの大げさな表現だと思っていたが、リアル滝涙に我ながら驚いた。
もし、「本当に作れるの?」と挑発されたら、「おせちくらい作れますよ!」とムキになって言い返したはずだ。ところが、不意打ちの「エスニック」に緊張が緩み、隙ができた。そこに涙が流れ込んだ。予定調和を崩して会話にメリハリを生む「ずらし」の手法。これを義母は無意識にやってのけだ。「あなたがおせちを作るとしたら、さぞ風変わりでしょうね」というスパイスも利かせ、お見事である。
あの日のわたしには「エスニックおせちって、お義母さん面白すぎます」と笑い飛ばす余裕はなかったが、今は講演や脚本講座でネタにしている。
脚本の技法としての「ずらし」として興味深いとともに、日常の会話やコミュニケーションの一つの手法としての「ずらし」にも思いが及んだ。会話の緊張を緩ませて隙をつくる上で、こういう手法があるのかと。(ただヘタにやると、相手をいっそう激怒させそうではある。)
義母にキレてかかるのでもなく、涙を滂沱と流したあたりも、今井が本当にテンパっていたのだということが伝わり「姑vs嫁」ではなく、やさしく同情や共感を誘う文章に変わる。文章としてだけでなく、実際にその場に居合わせたら、「大変そうだな…」という思いを、側に居て思ったに違いない。
そして時間が経ってみれば「あの日のわたしには『エスニックおせちって、お義母さん面白すぎます』と笑い飛ばす余裕はなかった」という総括もできる。対立で頭がいっぱいの今にはあまりそういうことを考えられないだろうが、やはり寝かせておけばそういう感情を持てるんだろうかと、ふと裁判をたたかっている身として思いがよぎる。
とまあそんなことをあれこれ思いいたさせるエッセイであった。
欧米の場合は、子供は最初から別個人という感覚が強いのか、息子がどういう女と結婚しようが我関せず、という感じがする。そもそも、息子夫婦が両親と同居する例が少ないから軋轢が生まれにくいのだろう。つまり、「嫁・姑問題」は日本の住宅事情問題ではないか。インドや韓国や中国などには日本と似たものがあるかもしれない。「血縁者集団の中にエイリアンが入ってくる軋轢」である。
下の記事は、記事中の引用部分の書き手が脚本家のわりにはその部分には面白さはない。相互の異常な憎悪感がたちこめている。まあ、嫁がおせちを作る、と聞いて「エスニック?」と皮肉を言う義母の頭の鋭どさと言うか回転の速さは凄いな、と思う。「お見事!」と言いたいほどだが、嫁にはそれどころではないだろう。
まあ、こういう記事が増えると、ますます日本の非婚化は進むと思う。もはや日本の若者は恋愛にも結婚にも二の足を踏む人が多いのではないか。単なる経済低迷と貧困化のためだけでもなさそうだ。子供たちも、自分を育ててくれた親への感謝どころか、「こんな世界になぜ生んだ」と恨まれそうであるww それで結婚する気が起きるはずもない。
(以下「紙屋研究所」から引用)記事中の引用部分は囲み記事だが枠が消えたので青字にする。
2024-12-26
今井雅子「涙のエスニックおせち」
新聞記事
脚本家・今井雅子が「しんぶん赤旗」でエッセイを連載している。
今日付の今井のエッセイは「涙のエスニックおせち」。「十年あまり前の大晦日、夫の実家で鍋を囲んでいた」という状況を描いている。
冒頭に、義母と自分の会話を描く。
義母と自分の関係がドライであることを、会話から伝える。
義母はねちねちと嫌味ったらしい感じではなく、サクッと皮肉を言ったり、矛盾を突いたりする、そういうサバサバさがある。他方で、今井の方も、それに過剰に突っかかるというほどはないが、負けじと言い返すタイプである。
おせちを作らないといけないので帰る、と今井は宣言する。義母は皮肉とも驚きともつかぬ調子でおせちなんか作るの? と聞き、今井は作りますよと意地を張る。しかし本当はおせちなど作らないのである。
そこに義母が一言。
「エスニック?」
次の瞬間、涙がダバーッとあふれた。アニメ脚本のト書きで「滝涙(たきなみだ)」という表現がある。キャラクターの目から滝のように涙が流れる様子を指す。アニメならではの大げさな表現だと思っていたが、リアル滝涙に我ながら驚いた。
もし、「本当に作れるの?」と挑発されたら、「おせちくらい作れますよ!」とムキになって言い返したはずだ。ところが、不意打ちの「エスニック」に緊張が緩み、隙ができた。そこに涙が流れ込んだ。予定調和を崩して会話にメリハリを生む「ずらし」の手法。これを義母は無意識にやってのけだ。「あなたがおせちを作るとしたら、さぞ風変わりでしょうね」というスパイスも利かせ、お見事である。
あの日のわたしには「エスニックおせちって、お義母さん面白すぎます」と笑い飛ばす余裕はなかったが、今は講演や脚本講座でネタにしている。
脚本の技法としての「ずらし」として興味深いとともに、日常の会話やコミュニケーションの一つの手法としての「ずらし」にも思いが及んだ。会話の緊張を緩ませて隙をつくる上で、こういう手法があるのかと。(ただヘタにやると、相手をいっそう激怒させそうではある。)
義母にキレてかかるのでもなく、涙を滂沱と流したあたりも、今井が本当にテンパっていたのだということが伝わり「姑vs嫁」ではなく、やさしく同情や共感を誘う文章に変わる。文章としてだけでなく、実際にその場に居合わせたら、「大変そうだな…」という思いを、側に居て思ったに違いない。
そして時間が経ってみれば「あの日のわたしには『エスニックおせちって、お義母さん面白すぎます』と笑い飛ばす余裕はなかった」という総括もできる。対立で頭がいっぱいの今にはあまりそういうことを考えられないだろうが、やはり寝かせておけばそういう感情を持てるんだろうかと、ふと裁判をたたかっている身として思いがよぎる。
とまあそんなことをあれこれ思いいたさせるエッセイであった。
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世界で日本だけCDが売れている(かどうかは私は知らないが)ことについての外国人のコメントの一部である。私も、サブスクは毎月借金を払う生活になると思っている。
ただし、CDよりもレコードのほうが私は好きである。CDでカットされた「人間には聞こえない領域」の音が存在することで、音に深みがあったと思うからである。もちろん、針の擦過音は無いほうがいいとは思う。
なお、古くなった物は、思いがけない利用法が出てくるものである。
(以下引用)
■ 日本人には未来が見えてるんだよ。
やがては全てがサブスク方式になって、
昔の曲を聴くために毎月20ドル払わされる事になる。
それを見越してるんだろう。 +9 アメリカ
■ 俺はストリーミングでもCDでも聴く。
とりあえず今でもCDを買い続けてる。 +26
■ 日本は1990年代から動きたくないようだ。
今でも現金主義だし。 +2 香港在住
「日本では高額紙幣が偽札扱いされない」 外国人が語る母国では不可能な日本での体験談
■ CDは最高だぞ。
ブルーレイ、PS、Xbox、任天堂のゲームは今でも買う。
ハードなら捨てるか売るかするまで、
永遠に自分の物なわけだし。 +21 シンガポール
■ おそらく日本人は他のどの国民よりも、
所有権の大切さを理解してるんだよ。 +24 オーストラリア
ただし、CDよりもレコードのほうが私は好きである。CDでカットされた「人間には聞こえない領域」の音が存在することで、音に深みがあったと思うからである。もちろん、針の擦過音は無いほうがいいとは思う。
なお、古くなった物は、思いがけない利用法が出てくるものである。
(以下引用)
■ 日本人には未来が見えてるんだよ。
やがては全てがサブスク方式になって、
昔の曲を聴くために毎月20ドル払わされる事になる。
それを見越してるんだろう。 +9 アメリカ
■ 俺はストリーミングでもCDでも聴く。
とりあえず今でもCDを買い続けてる。 +26
■ 日本は1990年代から動きたくないようだ。
今でも現金主義だし。 +2 香港在住
「日本では高額紙幣が偽札扱いされない」 外国人が語る母国では不可能な日本での体験談
■ CDは最高だぞ。
ブルーレイ、PS、Xbox、任天堂のゲームは今でも買う。
ハードなら捨てるか売るかするまで、
永遠に自分の物なわけだし。 +21 シンガポール
■ おそらく日本人は他のどの国民よりも、
所有権の大切さを理解してるんだよ。 +24 オーストラリア
第三十章 大殺戮
最初にグリセリード船を発見した漁師からの報告を受けて、アスカルファン軍は、主力軍をバルミアの東、五十キロメートルほど離れた海岸に差し向けた。
しかし、彼らがその海岸に到着した後届いた第二の報告は、そことは全く違うバルミアの西三十キロの地点へグリセリード海軍が出現した事を告げていた。
「くそっ、今から軍を返しては間に合わん」
総大将のジルベルト公爵は大声を上げた。
「西側には私が向かいましょう」
ロックモンド卿の言葉に、ジルベルト公爵はうなずいた。
ロックモンドが五百の騎兵を引き連れて西に向かってかなりたった後、第三の報告が、三十隻の船団がバルミア正面に現れた事を告げた。
「バルミアだと? あそこにはもはや国王の近衛兵と親衛隊千人しかいないぞ」
ジルベルト公爵は頭を抱えた。
最初に東側海岸に現れたグリセリードの船団三十隻は、海岸に近づこうともせず、のんびりと沖に停泊している。この船団が囮であることは、もはや明らかだった。
船が近づくのをじりじりとしながら待っていたジルベルト公爵は、しびれを切らし、海岸には千名の兵士だけを残し、残り四千名を率いてバルミア救援に向かった。しかし、騎兵はともかく、歩兵隊がバルミアまで行き着くには、どんなに急いでも一日半はかかるだろう。
二番目に船の接近が報告された西側海岸では、すでにグリセリード軍の上陸が始まっていた。ロックモンドの軍は、三十五隻の船から上陸したおよそ七万人のグリセリード軍がバルミアに向かって進軍するのに途中で出会って、戦闘が始まった。
同じ頃、バルミアの人々は、沖に現れたグリセリードの大船団を見て恐慌に陥っていた。
マルスはケインの店からありったけの矢を取ると、港を見下ろす崖にグレイを走らせた。
そのすぐ後にマチルダとジョーイも馬で続く。
「畜生! 投石器があれば、ここからあの船を皆やっつけてやれるのになあ」
港に近づく船団を見下ろしてジョーイが叫んだ。
マルスは、ジョーイとマチルダに命じて、火矢をどんどん作らせた。
通常では絶対に矢の届かない遠距離に船はいるが、崖の上からならいつもの一倍半から二倍の距離を飛ばす事ができる。
マルスは、油を染み込ませた布を巻きつけた火矢を大空高く射た。
矢は空高く舞い上がった後、船団の先頭にいる船の上に落ちた。
やがてその船から火の手が上がる。
「やったぜ!」
ジョーイが躍り上がって叫んだ。
マルスは次々に矢を射る。矢は驚異的な正確さで船の上に落ちていく。やがて三十隻の船のおよそ半数から火が上がりだした。
しかし、火が付きながらも先頭の船はバルミアの岸に近づいていく。
やがて、完全に燃え出した船を見捨てて、グリセリードの兵たちは海に飛び込み出した。
その頃には港に到着していた国王の親衛隊が、オズモンドの指揮下に、海から泳ぎ渡ろうとするグリセリードの兵たちに矢を射掛けた。
船の中には、火事で動転して操縦を誤り、衝突する物もある。それらの船から兵士がどんどん海に飛び込み、岸に泳いでいくが、アスカルファン軍の矢が頭上から降り注ぐ中で、一人また一人と海に沈んでいった。しかし、六万人の兵の半分以上はそれでも岸まで泳ぎ着き、あちこちで戦闘が始まった。
マルスは崖の上からその様子を見て取って、グレイに飛び乗った。
「マチルダとジョーイはローラン家に行っておいてくれ。ジョーイ、ケインの店に行って、ケイン一家と店の者たちをローラン家に避難させるんだ。そして、クアトロと一緒に女たちを守ってくれ、頼む」
馬上から叫んだマルスにジョーイも大声で答える。
「分かった。大丈夫、安心しな。女たちは俺たちがしっかり守ってるから」
マルスはグレイの横腹を蹴ってバルミアの海岸へと崖を駆け下りた。
町の人間の多くは、戦いを避けて、近くの裏山に逃げている。戦闘はまだ港のあたりだけである。
マルスはオズモンドの率いる親衛隊の中に馬で飛び込んでいった。
「おお、マルスか! よく来た」
オズモンドが嬉しげな声を上げた。
「マルスだ、軍神マルス様が現れたぞ! もう大丈夫だ!」
兵の中から次々に声が上がる。前の戦いでマルスの名は鳴り響いていたからである。
マルスは弓兵隊の中に入り、恐るべき速度と正確さで弓を射始めた。アスカルファン軍の前面にいた敵兵は、マルスの矢で次々と倒れていく。僅か数十分の間で、マルスの矢に倒れた敵兵は百人に上っていた。
マルスは弓を引く機械のように、目に入る敵兵をただ倒していった。心の中は真っ白であり、ほとんど何も考えていない……。
気が付くと、夕日があたりを赤く染め、バルミアの港と海岸は、マルスの矢で倒れたグリセリード軍兵士の死体が累々と並んでいるだけだった。
まったく信じ難いことだが、マルスはこの戦いで、一人で二万人に近い敵兵を矢で倒したのであった。
記事タイトルは「甲斐加入で絶望の巨人捕手陣」みたいなものだったが、まさにその通りだろう。特に若手は、今後、上がベテラン捕手たちでつかえているため、一軍出場はほとんど不可能になる。阿部監督が、「甲斐がさえない成績でも意地で使い続ける」可能性も高い。
広岡も言うように、リーグか変われば、甲斐の経験や知識もさほど役立たない可能性もある。
まあ、もともとアンチジャイアンツの私としては非常に面白い。下手をしたら来年のシーズン中にも内紛が起こる可能性は高いだろう。そしてシーズン終了と同時に他球団移籍を求める捕手が続出する可能性も高い。
野球選手は個人事業主であるため、球団にはそれを止める権利は本来は無い。ここは、法的問題として明確にするべきだろう。つまり、FAだけでなく、他球団と確約(密約)したうえで、自主退団、そして即座に他球団と契約、でもいいはずだ。もともと「フリーエージェント(FA)」とはその意味だったのではないか。選手の労働問題として、そして人権問題として考えるべき話である。
死んだばかりのナベツネの言葉をアレンジするなら、「たかが会社ごときが」勤労者の人生を束縛する権利がどこまであるか、ということだ。今の地獄のような日本の雇用者状況は、すべてそこに原因がある、とも言えるだろう。つまり「会社絶対主義社会」である。社会主義を逆転した「会社主義」と言ってもいいww
(以下引用)
甲斐拓也(C)共同通信社
甲斐拓也(C)共同通信社
© 日刊ゲンダイDIGITAL
「本当に光栄なこと。気持ちを新たに、もう一度野球選手として、ここからスタートするといった気持ちでいます」
ソフトバンクから巨人へFA移籍した甲斐拓也(32)が26日、都内のホテルで入団会見に臨んだ。5年15億円の大型契約で、阿部慎之助監督(45)が現役時代に背負った背番号10も託された。
巨人移籍かソフトバンク残留かで悩んだという。入団の決め手について「阿部監督です。それが間違いなく決め手、決断の一つかなと。司令塔になってもらいたいと。10番を受け継いでほしいと。ものすごくうれしい言葉でもあった」と説明。阿部監督は「今年最後のビッグニュース。とても興奮している。日本を代表するキャッチャー。競争して切磋琢磨してチーム力が上がる。すごくいい刺激になる」とチーム内競争の活性化に期待したが、さる球界関係者がこう言った。
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「阿部監督のゾッコンぶりを見ると、引退後の『終身雇用』まで約束しているともっぱらです。ただ、32歳の今季の盗塁阻止率は.284と年々、肩の力が落ちている捕手に、5年という長すぎる契約は適正なのかと疑問視する声もある。『聞いてないよ』と言いたいのは、巨人の捕手陣でしょう。全試合出場を望んでいるとされる甲斐を補強したということは、既存の捕手陣の出場機会は、大幅に減少することになる。ベテラン小林のプロテクト漏れがウワサされる一方、今季国内FA権を取得した大城も、権利を行使せずに残留を決めた後に甲斐が加入。来ると知っていれば、FA移籍してたんじゃない? とささやかれていますが、このオフ、年俸1億6000万円の複数年契約を結んだ以上は身動きが取れません」
一番ガッカリしているのは、今季の正捕手ではないか。
「12球団トップの盗塁阻止率.475を誇った28歳の岸田は、2番手に降格することで出番は大きく減るでしょうし、山瀬や喜多といった若手捕手は、少なくても来季の出番はほぼ皆無でしょう。そんな状況では巨人の捕手陣からトレード志願が相次いでも不思議ではない。フロントは最もそれを危惧しています」(同)
捕手の活性化どころか、衰退する危険があるというわけだ。
◇ ◇ ◇
甲斐拓也の加入によって、その他のことでも「マイナスに働きかねない」という声もある。いったいどういうことか。元バッテリーコーチで評論家の秦真司氏が悲観した「問題点」とはいったい何か。いま、巨人で何が起きているのか。
●関連記事【もっと読む】…では、それらについて詳しく報じている。
広岡も言うように、リーグか変われば、甲斐の経験や知識もさほど役立たない可能性もある。
まあ、もともとアンチジャイアンツの私としては非常に面白い。下手をしたら来年のシーズン中にも内紛が起こる可能性は高いだろう。そしてシーズン終了と同時に他球団移籍を求める捕手が続出する可能性も高い。
野球選手は個人事業主であるため、球団にはそれを止める権利は本来は無い。ここは、法的問題として明確にするべきだろう。つまり、FAだけでなく、他球団と確約(密約)したうえで、自主退団、そして即座に他球団と契約、でもいいはずだ。もともと「フリーエージェント(FA)」とはその意味だったのではないか。選手の労働問題として、そして人権問題として考えるべき話である。
死んだばかりのナベツネの言葉をアレンジするなら、「たかが会社ごときが」勤労者の人生を束縛する権利がどこまであるか、ということだ。今の地獄のような日本の雇用者状況は、すべてそこに原因がある、とも言えるだろう。つまり「会社絶対主義社会」である。社会主義を逆転した「会社主義」と言ってもいいww
(以下引用)
甲斐拓也(C)共同通信社
甲斐拓也(C)共同通信社
© 日刊ゲンダイDIGITAL
「本当に光栄なこと。気持ちを新たに、もう一度野球選手として、ここからスタートするといった気持ちでいます」
ソフトバンクから巨人へFA移籍した甲斐拓也(32)が26日、都内のホテルで入団会見に臨んだ。5年15億円の大型契約で、阿部慎之助監督(45)が現役時代に背負った背番号10も託された。
巨人移籍かソフトバンク残留かで悩んだという。入団の決め手について「阿部監督です。それが間違いなく決め手、決断の一つかなと。司令塔になってもらいたいと。10番を受け継いでほしいと。ものすごくうれしい言葉でもあった」と説明。阿部監督は「今年最後のビッグニュース。とても興奮している。日本を代表するキャッチャー。競争して切磋琢磨してチーム力が上がる。すごくいい刺激になる」とチーム内競争の活性化に期待したが、さる球界関係者がこう言った。
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「阿部監督のゾッコンぶりを見ると、引退後の『終身雇用』まで約束しているともっぱらです。ただ、32歳の今季の盗塁阻止率は.284と年々、肩の力が落ちている捕手に、5年という長すぎる契約は適正なのかと疑問視する声もある。『聞いてないよ』と言いたいのは、巨人の捕手陣でしょう。全試合出場を望んでいるとされる甲斐を補強したということは、既存の捕手陣の出場機会は、大幅に減少することになる。ベテラン小林のプロテクト漏れがウワサされる一方、今季国内FA権を取得した大城も、権利を行使せずに残留を決めた後に甲斐が加入。来ると知っていれば、FA移籍してたんじゃない? とささやかれていますが、このオフ、年俸1億6000万円の複数年契約を結んだ以上は身動きが取れません」
一番ガッカリしているのは、今季の正捕手ではないか。
「12球団トップの盗塁阻止率.475を誇った28歳の岸田は、2番手に降格することで出番は大きく減るでしょうし、山瀬や喜多といった若手捕手は、少なくても来季の出番はほぼ皆無でしょう。そんな状況では巨人の捕手陣からトレード志願が相次いでも不思議ではない。フロントは最もそれを危惧しています」(同)
捕手の活性化どころか、衰退する危険があるというわけだ。
◇ ◇ ◇
甲斐拓也の加入によって、その他のことでも「マイナスに働きかねない」という声もある。いったいどういうことか。元バッテリーコーチで評論家の秦真司氏が悲観した「問題点」とはいったい何か。いま、巨人で何が起きているのか。
●関連記事【もっと読む】…では、それらについて詳しく報じている。
いまだにこの風潮は続いているらしく、最近はコミックの表紙に登場キャラの舌だし顔(実に醜い)を描く作者を何度か見ている。「演技としての」反抗ポーズ。実は従順な資本主義の奴隷。
(以下引用)
cho********さん
2016/9/9 11:49
3回答
ロックの人が舌を出すのはなぜですか?
音楽・4,841閲覧
3人が共感しています
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知恵コレ
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get********さん
2016/9/9 11:59
行儀がわるいから。
ロックは元々社会的反抗心が原動力になっているので、社会的に不快とされる行動をあえて取る人が多かったのです。「他人と違う俺、カッケー!」という若さも手伝い、
・中指を立てる
・ゲップをする(アメリカではおならより大罪)
・舌を出して挑発する・
・機材を破壊する
・ドラッグ吸引
などの行為がよく行われていました。
現在ではロック自体が当たり前のモノになったため、こういう行動をする人は少数派ですが…
(以下引用)
cho********さん
2016/9/9 11:49
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ロックの人が舌を出すのはなぜですか?
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get********さん
2016/9/9 11:59
行儀がわるいから。
ロックは元々社会的反抗心が原動力になっているので、社会的に不快とされる行動をあえて取る人が多かったのです。「他人と違う俺、カッケー!」という若さも手伝い、
・中指を立てる
・ゲップをする(アメリカではおならより大罪)
・舌を出して挑発する・
・機材を破壊する
・ドラッグ吸引
などの行為がよく行われていました。
現在ではロック自体が当たり前のモノになったため、こういう行動をする人は少数派ですが…
第二十九章 戦の第二幕
グリセリード海軍のおよそ半分を倒したマルスたちは、まだ海上に残るグリセリード船の掃蕩をアンドレ率いるレント海軍に任せ、マルスとジョーイ、クアトロの三人はひとまずアスカルファンに戻ることにした。
「なんとまあ、三百隻のグリセリード船の半分を沈めて、レント軍は一船も失わなかったとは」
マルスの報告を受けたオズモンドは、あきれたように言った。
「功績の半分くらいは、このジョーイのものだよ」
マルスは傍らのジョーイを誉めて言った。
「しかし、入り海に入ったグリセリード船が百隻くらいあるようだから、ボワロンに待機しているグリセリード軍がその船に乗って攻め寄せて来るのは時間の問題だ」
と続けたマルスの言葉を
「百隻じゃないぜ。九十から百の間だ。まあ、その中間くらいだな。俺、数えていたんだ。でも、石が当たっても沈まなかった船もあったからな」
と、ジョーイが訂正した。オズモンドがそれにうなずいて言う。
「少なくとも、これでグリセリード軍が南の海から攻めてくることははっきりした。この事を国王に報告しておこう」
「いや、南だけに戦力を集中するのはまずい。アルカードにもグリセリード軍はいるのだから、二つが呼応して攻めて来ることも考えられる」
「そうだな。じゃあ、そう言っとく」
オズモンドは早速王宮に報告に行った。
その後で、マルスはマチルダやトリスターナに会って、束の間の安らぎを得たのであった。
「ちえっ、マルスはいいなあ。なんでマルスの周りにはこんな美人ばかりいるんだ」
楽しげなマルスを見て、ジョーイは羨ましそうにマルスに言ったものである。
「しかし、南側海岸から攻めて来ると言っても、南の海岸線のどこから上陸するか分からんでは、迎え撃ちようがないではないか」
オズモンドの報告に、アスカルファン軍総大将のジルベルト公爵が言った。
それを考えるのがあんたの役目だろうが、とオズモンドは心の中で毒づいたが、表では穏やかに
「そうですね」
とだけ言った。
「とりあえず、海岸の要所に監視兵を置き、敵の上陸した地点に軍を差し向けてはどうでしょう」
ポラーノの新領主ロックモンドが言った。彼は総大将ジルベルトの弟で、兄の後ろ盾で宮中での発言力を増していた。
「その通りだ。それしかあるまい」
ジルベルトが大げさにうなずいて言う。
子供でもそれくらいは考えるよ、とオズモンドは思ったが、こちらはただうなずくだけである。
オズモンドから宮中の軍議の決定を聞いたマルスは呆然となった。
「そんな馬鹿な。それでは敵にむざむざと上陸を許してしまうじゃないか!」
「しかし、敵がどこから来るか分からん以上、仕方が無いだろう」
「敵の数は十万以上かも知れないんだぞ、それだけの敵兵に上陸されて、アスカルファンに勝ち目があると思うか?」
「……」
「くそっ。アンドレがアスカルファンの総大将なら、こんな馬鹿な策は取らないだろうに」
「レント海軍に、入り海の中でグリセリードの船をやっつけて貰うことはできないのか?」
「駄目だ。入り海の入り口は、沈んだグリセリードの船のために通れなくなっている」
マルスとオズモンドは考え込んだ。
「よしっ」
マルスは立ち上がった。
「どうするんだ?」
「バルミアの漁師たちに頼んで、入り海に漁船を出す。敵船を見つけて報告した者には一万リムの賞金を出すことにする。オズモンドは、その報告が来たら、すぐに宮中へ報告し、軍を上陸地点に差し向けてくれ」
「よし、分かった」
マルスは漁師たちに頼んで、広くアスカルファンの海岸近い海全体に漁船を散開させた。この仕事に加わるだけでも五百リム、敵船を発見して報告したら一万リムという言葉に、漁師たちは勇み立った。
「金など貰わなくたって、俺はやるぜ。アスカルファンのためだ」
などという者も中にはいる。
しかし、事態はマルスたちの予想を越えていた。
グリセリード軍の船は、一箇所にではなく、三つに分散してアスカルファンに向かっていたのであった。
「戦力の分散は危険だというのが兵法の常道だが、こちらが分散すれば、相手も分散せざるを得ない。仮に、その中の一つが敵に見逃されたら、そこを突破口にできるわけだ」
エスカミーリオはジャンゴに言って、にやりと笑った。
「はてな匿名ダイアリー」の「水星の魔女本当にいやだった」というスレッドの一部で、元記事はかなり長文で飛ばし読みしただけだが、この部分はO河内一楼という脚本家の本質を、かなり突いているように思えるので転載する。
要するに、シニカル(引用文中の「欠陥の描写ばかりで美点の描写が下手」に注意。これはネット民に多い一部の「自称リアリスト(実はサディスト?)」には受ける。)で無責任で上への迎合が抜群にうまい人物だからアニメ界で重用されているのだろう。実際は雑だが表面的には整合性がある脚本を書く(発注された要素を組み立てて「作る」、と言うべきか)のが上手い、「電通的」世渡り上手というイメージだ。
(以下引用)
人格的欠陥や社会問題を扱う手つき
欠陥を愛そうというコンセプトは感じられるが、欠陥の描写ばかりで美点の描写が下手だからシャディクなどを「普通に」嫌いになる。
スレッタは嫌いではないが、「どんぶり飯をたんと食え」のような祖父母→孫感情の矛先というか、食い意地の張った哺乳類の幼体に向ける好感であり、人物としては「頭が悪い」としか言いようがないので、あの状態で学校を建てて理事長なり校長なりをやるのかと思うと意味が分からないと思う。
ガンダムシリーズ初の女性主人公で頭が悪い主人公だったので別の文脈が乗り不快。女性主人公二作目で頭が悪かったらこういう不快さはなかった(男性主人公の愛すべきバカキャラはいる)。ガンダムシリーズ初の女性主人公で異性愛フラグを折ったうえでの同性婚成立をやったのも面倒くさかった。異性愛フラグを立てたうえで折っておかないと悪意にまみれたレズのチン堕ち勢が押し寄せてきて尊いスレミオを破壊されるだろうから予め封じておきたかったのかもしれないが、まず百合ガンダムなどなぜ女性主人公の二作目以降でやってくれなかったのか。それにSF的な説明なしで全員バイセクシャルであるという設定のつもりなら、おかしい。そんなものには誰もついていかない。同性愛嫌悪者どころか、腐女子や百合豚ですらついていけない異常な人間観だろう。同性愛者、両性愛者、異性愛者、無性愛者がいる、その多様性を描けていない。ファンダムまでもが、同性愛以外を叩く百合豚と腐女子、異性愛以外を叩く男女カプ厨という多様性の真逆の地獄になっている。こんな糞以下のファンダムは滅びるべきである。
さらに同性愛以外のテーマも盛り込みすぎて、一個一個の社会問題の扱いが雑、尺が足りていないから全部が浅くてつまみ食い。「いろいろありますが、難しいですね」という大上段に構えた、優等生的な冷淡さがそこにあった。最も連想するのは、サンフランシスコの社会的弱者を守るための万引きの無罪化だ。当事者性が全くないエリートが頭の中で弱者保護を考えた結果、万引きの無罪化を行い、ホームレスよりはさすがにマシな立場にあった個人規模の小売店が万引き被害により経営が成り立たなくなり廃業を余儀なくされていく、その種の持続不可能な弱者保護、お世話係をよそに押し付けたうえでのマイノリティ保護。結果、攻撃的・搾取的な人間が蔓延してコントロールを失い、この事態を引き起こした自罰を行うだけになる流れだ。社会問題の取り扱い方に、現実味がないのだ。ニカやミオリネのお花畑が憎悪を生んだ、あの雰囲気が通底している。
要するに、シニカル(引用文中の「欠陥の描写ばかりで美点の描写が下手」に注意。これはネット民に多い一部の「自称リアリスト(実はサディスト?)」には受ける。)で無責任で上への迎合が抜群にうまい人物だからアニメ界で重用されているのだろう。実際は雑だが表面的には整合性がある脚本を書く(発注された要素を組み立てて「作る」、と言うべきか)のが上手い、「電通的」世渡り上手というイメージだ。
(以下引用)
人格的欠陥や社会問題を扱う手つき
欠陥を愛そうというコンセプトは感じられるが、欠陥の描写ばかりで美点の描写が下手だからシャディクなどを「普通に」嫌いになる。
スレッタは嫌いではないが、「どんぶり飯をたんと食え」のような祖父母→孫感情の矛先というか、食い意地の張った哺乳類の幼体に向ける好感であり、人物としては「頭が悪い」としか言いようがないので、あの状態で学校を建てて理事長なり校長なりをやるのかと思うと意味が分からないと思う。
ガンダムシリーズ初の女性主人公で頭が悪い主人公だったので別の文脈が乗り不快。女性主人公二作目で頭が悪かったらこういう不快さはなかった(男性主人公の愛すべきバカキャラはいる)。ガンダムシリーズ初の女性主人公で異性愛フラグを折ったうえでの同性婚成立をやったのも面倒くさかった。異性愛フラグを立てたうえで折っておかないと悪意にまみれたレズのチン堕ち勢が押し寄せてきて尊いスレミオを破壊されるだろうから予め封じておきたかったのかもしれないが、まず百合ガンダムなどなぜ女性主人公の二作目以降でやってくれなかったのか。それにSF的な説明なしで全員バイセクシャルであるという設定のつもりなら、おかしい。そんなものには誰もついていかない。同性愛嫌悪者どころか、腐女子や百合豚ですらついていけない異常な人間観だろう。同性愛者、両性愛者、異性愛者、無性愛者がいる、その多様性を描けていない。ファンダムまでもが、同性愛以外を叩く百合豚と腐女子、異性愛以外を叩く男女カプ厨という多様性の真逆の地獄になっている。こんな糞以下のファンダムは滅びるべきである。
さらに同性愛以外のテーマも盛り込みすぎて、一個一個の社会問題の扱いが雑、尺が足りていないから全部が浅くてつまみ食い。「いろいろありますが、難しいですね」という大上段に構えた、優等生的な冷淡さがそこにあった。最も連想するのは、サンフランシスコの社会的弱者を守るための万引きの無罪化だ。当事者性が全くないエリートが頭の中で弱者保護を考えた結果、万引きの無罪化を行い、ホームレスよりはさすがにマシな立場にあった個人規模の小売店が万引き被害により経営が成り立たなくなり廃業を余儀なくされていく、その種の持続不可能な弱者保護、お世話係をよそに押し付けたうえでのマイノリティ保護。結果、攻撃的・搾取的な人間が蔓延してコントロールを失い、この事態を引き起こした自罰を行うだけになる流れだ。社会問題の取り扱い方に、現実味がないのだ。ニカやミオリネのお花畑が憎悪を生んだ、あの雰囲気が通底している。
第二十八章 口論
ボワロンの北西海岸にたどり着いたグリセリード船は、九十五隻だった。
「八百隻の大船団が、僅か九十五隻だと?」
デロスは激怒したが、エスカミーリオはまったく動じなかった。
「デロス殿の方こそ、十五万の大軍を、半分に減らしてしまったではありませんか。しかも、別に敵がいるわけでもない陸上を通ってですよ」
「敵がいたからこそ、こうなったんだ」
「では、敵に対する備えが出来てなかったということで、どちらにしても誉められませんな。責められるべきはむしろそちらでしょう。こっちは、初めての海上軍、多少の戦力の損耗は計算の上です」
「七百五隻の損害が、多少の損害か」
「まあ、いつまでも水掛け論をしていてもしょうがないでしょう。今後の戦略を話し合いましょう」
「戦略も何も無い。この戦は中止だ。僅か九十五隻の船で、どのようにして兵を運ぼうと言うのだ。上陸すると同時に敵にやられてしまうわ」
「敵が恐ろしいのですか。勇猛を以て鳴るデロス殿とも思われない」
周囲の諸将は、二人の口論をはらはらしながら聞いている。
「馬鹿を言え。戦は兵力の勝負だ。こちらに十二万の兵力があっても、一度に二万人しか運べないのでは、二万の兵しかいないのと同じなのだ。お主のような、経験の浅い将ほど奇策に頼ったり、味方の勢力を過信して失敗するものなのだ」
将官の一人が立ち上がって言った。
「デロス殿、我らグリセリード軍の勇猛さなら、一人がアスカルファン兵五人十人に相当しましょう」
「勇猛さだと? その勇猛さという奴をわしの目の前に出してみろ。魂など、目に見えるか! どんなに勇猛な兵だろうが、腰抜けの敵の放った一本の矢の前に死ぬ、それが戦だ」
「しかし、今さら戦を中止して帰ったら、シルヴィアナ様からどんなお叱りがあるか」
もう一人の将が、困惑したように言った。
「仕方あるまい。責任はわしが取る」
「では、どうあっても、アスカルファンには向かわないと?」
エスカミーリオがデロスを問い詰めた。
「ああ、そうだ」
デロスはそっぽを向いた。
「そうですか。では仕方がない」
エスカミーリオは腰の剣を抜き、一刀でデロスを斬った。
「あっ!」と一同は声を上げた。
マルシアスは駆け寄ってエスカミーリオを斬ろうとしたが、その前にエスカミーリオの副官ジャンゴが剣を抜いて立ちふさがった。
「騒ぐな! これを見ろ」
エスカミーリオは懐から一通の書状を出して、それをぱらりと開いた。
「宰相ロドリーゴ様の命令書だ。誰であれ、この戦の遂行を邪魔する者は切り捨てて良いという内容だ。シルヴィアナ様の署名もある。デロスは臆病風に吹かれて戦を中止しようとしたので、俺が切り捨てた。これからは俺が戦の総指揮を執る」
エスカミーリオは諸将を睨み回した。その気迫に押されて、周りの者は何も言えない。
「デロス様こそが、この全軍の総指揮者だったはずだ。お前のやった事は、反逆罪に当たる!」
マルシアスが叫んだ。
「これ以上戦の邪魔をするなら、お前もデロスと同じ目に遭うぞ」
「何を言う。デロス様が死んだ後は、私が全軍の指揮を任されている」
「たわ言だ。デロスこそが国家への反逆をしようとしたのだ。反逆者の命令など、何の効力がある。それに、大将軍とはいえ、シルヴィアナ様の了解もなく勝手な任命はできぬはずだ」
「戦時中は、大将軍に任命権があるはずだ」
「その軍議に俺は加わっていない。それこそ、俺を追い出すためのデロスの策謀だ。裏切り者デロスの命令はもはや無効だ」
二人の間の言い争いは、結局軍の中心的な将官全員の軍議に掛けられたが、このまま戦を続行するべきだという意見が大半を占め、デロスの後の総大将はエスカミーリオに決まった。それは、アスカルファンの軍は弱兵であるという先入観のためと、戦で戦功を上げて褒賞を得たいという思いが各将に強かったからである。
デロスの死を聞いたヴァルミラは、すぐさまエスカミーリオを殺しに行こうとしたが、その前にエスカミーリオの手の者によって逮捕された。
「臆病者のデロスは、これだけの人数では戦えんと言ったが、十一万五千の兵に、船の二万人を加えて、十四万五千。これだけの兵があればアスカルファン侵攻には十分だ。それに、我々がアスカルファンに入れば、すぐにアルカードに駐留している一万の軍勢が北から攻め寄せることになっておる。わずか七万余のアスカルファン軍と、五万程度のレント軍相手に、これ以上何が必要だと言うのだ」
エスカミーリオの言葉に、諸将は、その通りだ、とうなずいた。
「まして、レント軍は海の向こうにいるのですから、奴らが救援に来る前には戦は終わっているでしょう」
将校の一人がエスカミーリオに迎合するように言った。
将官の中でマルシアスだけは、デロスの死以来、沈黙を守り続けていた。エスカミーリオは、その存在を目障りに感じていたが、当面は見逃しておこうと考えていた。
私は、この法則は絶対的に正しいと思っている。ただし、誰にとって屑か、という問題がそこにはある。ある人にとっての名作が他の人には屑であるのは普通にある話だ。
さらに言えば、この言葉は言った本人に跳ね返る。
つまり、「スタージョンの作品の90%は屑だ」ということになる。だが、それもまた、あらゆる作家に言えることだろう。単に、賢い作家は、その90%を公開しないだけであり、図々しい作家だと公開する。そして、その屑によって名声を得ることもよくあることだ。なぜなら、世間の90%の人間は(鑑賞能力において)屑だ、という可能性もある、いや、たぶんそうだからだ。
(以下引用)
スタージョンの法則
ダーク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
スタージョンの法則(スタージョンのほうそく、英語:Sturgeon's law)は、SF作家シオドア・スタージョンの言葉から導きだされた格言である。
「常に絶対的にそうであるものは、存在しない」("Nothing is always absolutely so.")
スタージョンはまた、これより有名な格言も残している。それは正確な名称としては「スタージョンの黙示(すっぱ抜き)」として知られているものであるが、現在では「スタージョンの法則」といった場合、実際にはこちらを指すことがほとんどである。例えば、オックスフォード英語辞典でもそのようになっている。
「どんなものも、その90%はカス(crud)である」[1]
起源
スタージョンの法則は1972年の編集者デイヴィッド・G・ハートウェル(英語版)との対談で初めて言及された(この対談はThe New York Review of Science Fiction #7 and #8, March and April 1989として出版されている)。それには「スタージョンの法則は元来、"Nothing is always absolutely so." のことであった。もう一つの方は「スタージョンの黙示」として知られている」とある。
「スタージョンの黙示」の初出は『Venture Science Fiction』誌(1958年3月号)である。そこでスタージョンは、以下のように述べた。
私はスタージョンの黙示を繰り返す。これは、私が20年というもの、SFを人々の攻撃からひぃひぃ言って守ってきた経験から絞り出されたものである。奴ら(訳注:SFを攻撃する人々)はこの分野における最低の作例を引っ張り出しては叩き、SFの90%はカスだと結論付けた。
またこの話には別のバージョンがある。
そこではスタージョンは、現代文学に関するパネルディスカッションに参加した。
そこに参加していた英文学の教授は、通俗SFから選んだどぎつい文をいくつか読んだ後、次のように言った。
「SFの9割はガラクタ(crap)だ。」
スタージョンはこう切り返した。
「どんなものでも9割はガラクタ(crap)だ。」
系
「スタージョンの黙示」は時として以下のように拡張される。
黙示: 全てのものの90%はカスである。
系1: 遺憾ながらSFの中に膨大な量のゴミがあることは事実といえる。だが、そこら中にゴミがあることは自然であるという他ない。
系2: 最良のSFはあらゆる領域における最良の小説に比肩する。
異なる表現
「スタージョンの黙示」を表現する場合、しばしばカス(crud)の代わりにガラクタ(crap)やクソ(shit)という用語が用いられる。パーセンテージについても揺れがあり、「94%」という文献もあった。またごく稀にではあるが、もっと楽観的な第2の文節が加えられることもある。それは、「……だが、残りの10%はそのために死んでもいい位である」。
解釈
「スタージョンの黙示」の意味は、本人によって詳細に明示されている。
「最低の作例を引っ張り出しては叩く」という悪意の攻撃に対して、自分から直接反撃しているのだ。90%のSF作品をゴミカス扱いするのと同じ基準を用いれば、映画、文学、消費財などその他あらゆるものの90%も同様にゴミである。言葉を変えれば、「SFの90%がカスだ」という主張ないし事実のもつ情報量はゼロである。なぜならば、SFは他の芸術/技術の産物と同様の質的傾向を示しているに過ぎないからである[2]。
また、「スタージョンの法則(黙示)」はパレートの法則の一例と見られる場合もある[3]。
創作一般に関して
他方で、「一定の名作を生むジャンルには、常に多量の駄作がある」という風に言い換えることもできる。例えばゲーム業界であれば、名作ゲームの影には常に大量の駄作ゲームがあるということになる。
多量の駄作の存在は、それらを受け入れる市場の存在を前提にするが、それが存在しないジャンルは名作を生み出せない。そのような駄作は、駆け出しの制作者の修練の場でもあるからである。それを失ったジャンルは、後継者を失って先細りになりがちである。
さらに言えば、この言葉は言った本人に跳ね返る。
つまり、「スタージョンの作品の90%は屑だ」ということになる。だが、それもまた、あらゆる作家に言えることだろう。単に、賢い作家は、その90%を公開しないだけであり、図々しい作家だと公開する。そして、その屑によって名声を得ることもよくあることだ。なぜなら、世間の90%の人間は(鑑賞能力において)屑だ、という可能性もある、いや、たぶんそうだからだ。
(以下引用)
スタージョンの法則
ダーク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
スタージョンの法則(スタージョンのほうそく、英語:Sturgeon's law)は、SF作家シオドア・スタージョンの言葉から導きだされた格言である。
「常に絶対的にそうであるものは、存在しない」("Nothing is always absolutely so.")
スタージョンはまた、これより有名な格言も残している。それは正確な名称としては「スタージョンの黙示(すっぱ抜き)」として知られているものであるが、現在では「スタージョンの法則」といった場合、実際にはこちらを指すことがほとんどである。例えば、オックスフォード英語辞典でもそのようになっている。
「どんなものも、その90%はカス(crud)である」[1]
起源
スタージョンの法則は1972年の編集者デイヴィッド・G・ハートウェル(英語版)との対談で初めて言及された(この対談はThe New York Review of Science Fiction #7 and #8, March and April 1989として出版されている)。それには「スタージョンの法則は元来、"Nothing is always absolutely so." のことであった。もう一つの方は「スタージョンの黙示」として知られている」とある。
「スタージョンの黙示」の初出は『Venture Science Fiction』誌(1958年3月号)である。そこでスタージョンは、以下のように述べた。
私はスタージョンの黙示を繰り返す。これは、私が20年というもの、SFを人々の攻撃からひぃひぃ言って守ってきた経験から絞り出されたものである。奴ら(訳注:SFを攻撃する人々)はこの分野における最低の作例を引っ張り出しては叩き、SFの90%はカスだと結論付けた。
またこの話には別のバージョンがある。
そこではスタージョンは、現代文学に関するパネルディスカッションに参加した。
そこに参加していた英文学の教授は、通俗SFから選んだどぎつい文をいくつか読んだ後、次のように言った。
「SFの9割はガラクタ(crap)だ。」
スタージョンはこう切り返した。
「どんなものでも9割はガラクタ(crap)だ。」
系
「スタージョンの黙示」は時として以下のように拡張される。
黙示: 全てのものの90%はカスである。
系1: 遺憾ながらSFの中に膨大な量のゴミがあることは事実といえる。だが、そこら中にゴミがあることは自然であるという他ない。
系2: 最良のSFはあらゆる領域における最良の小説に比肩する。
異なる表現
「スタージョンの黙示」を表現する場合、しばしばカス(crud)の代わりにガラクタ(crap)やクソ(shit)という用語が用いられる。パーセンテージについても揺れがあり、「94%」という文献もあった。またごく稀にではあるが、もっと楽観的な第2の文節が加えられることもある。それは、「……だが、残りの10%はそのために死んでもいい位である」。
解釈
「スタージョンの黙示」の意味は、本人によって詳細に明示されている。
「最低の作例を引っ張り出しては叩く」という悪意の攻撃に対して、自分から直接反撃しているのだ。90%のSF作品をゴミカス扱いするのと同じ基準を用いれば、映画、文学、消費財などその他あらゆるものの90%も同様にゴミである。言葉を変えれば、「SFの90%がカスだ」という主張ないし事実のもつ情報量はゼロである。なぜならば、SFは他の芸術/技術の産物と同様の質的傾向を示しているに過ぎないからである[2]。
また、「スタージョンの法則(黙示)」はパレートの法則の一例と見られる場合もある[3]。
創作一般に関して
他方で、「一定の名作を生むジャンルには、常に多量の駄作がある」という風に言い換えることもできる。例えばゲーム業界であれば、名作ゲームの影には常に大量の駄作ゲームがあるということになる。
多量の駄作の存在は、それらを受け入れる市場の存在を前提にするが、それが存在しないジャンルは名作を生み出せない。そのような駄作は、駆け出しの制作者の修練の場でもあるからである。それを失ったジャンルは、後継者を失って先細りになりがちである。
新古書店でジュール・ヴェルヌの「八十日間世界一周」を買って、少し読んだのだが、子供の頃にも思ったことだが、「思ったほど面白くない」のは、再読しても変わらないようだ。
これは彼のすべての作品について言えることで、すべて読む前は、ものすごく期待させるのである。あらかじめ知っている、「作品の大筋」自体が、実にユニークな発想で、「きっと物凄く面白い作品だろう」と考えるから、読んでの印象がそれに追いつかない。
これは、キャラの問題だろうか、とも思ったが、たとえばH・G・ウェルズなど、キャラの魅力はないが、話は素晴らしく面白い。つまり、ヴェルヌは「話作り」が発想ほどのレベルではないわけだ。また、スチーブンソンの「宝島」など、発想はさほどでもないが、キャラ描写が見事で、また話の展開も意外性とスリルに満ちて面白い。
ヴェルヌという作家は、文壇で言われる「眼高手低」の作家だなあ、と思う。
もちろん、彼の作品を読んで面白いと思った子供はたくさんいるだろう。それはしかし、その種の作品を読んだ経験が少ないからではないか。ただし、その発想のすばらしさは、文芸史的に見ても横綱クラスだろう。
キャラ作りに関しては、「八十日間世界一周」は、主人公ふたりの個性といい、名前といい、ヴェルヌとしては頑張った部類だと思う。だが、その個性が笑いにもキャラの魅力にもならないのだ。これは作者の作家的段位の低さによると思う。なんでもない話を書いても、どのエピソードでも面白く、キャラが魅力的なジェーン・オースティンあたりと比べれば、それが明白になるだろう。
私の偏見かもしれないが、イギリスの作家は基本的にユーモアセンスが高く、フランスの作家は低い。それが小説全体の魅力の差の土台ではないか。大作家バルザックですら、ユーモアセンスの面ではイギリスの二流作家以下だと思う。ただし、合理的思考力ではフランスの作家のほうが上という感じもある。「八十日間世界一周」でも旅行の内容(出来事と時間)は緻密に組み立てられている、と解説にはある。
*比較的ユーモアセンスに欠けるアガサ・クリスティですら、ヘイスティングスの描写においては、彼の自己認識と客観的認識の落差をちゃんと描いて、読者をクスリと笑わせている。ただし、ポワロの外貌をこっけいにしている手法は、まあ、映画やドラマなら多少は面白い、という程度だ。クリスティは、かなり真面目な性格の人だったと推定できる。彼女が書いたコメディ的短編は、かなりひどいレベルである。ハリウッドの三流作品並みだ。ホラー小説は上手い。ミステリーとホラー小説は双子のようなもので、真面目な作者ほど上手いのではないか。幽霊の正体が枯れ尾花ではホラーにはならないのである。最初から枯れ尾花を枯れ尾花としか見ない作家にはホラー小説は向かないだろう。偉大なコナン・ドイルも、やはり真面目タイプだ。とすると、イギリス作家だからユーモアセンスがある、という論もダメダメ論か。ただ、フランスの笑いは他者への冷笑であり、イギリスの笑いは人間全体の本質に滑稽なものがある、というものかと思う。それがスイフトのような冷笑や嘲笑になることもあるが、概して温かいユーモアになる。
これは彼のすべての作品について言えることで、すべて読む前は、ものすごく期待させるのである。あらかじめ知っている、「作品の大筋」自体が、実にユニークな発想で、「きっと物凄く面白い作品だろう」と考えるから、読んでの印象がそれに追いつかない。
これは、キャラの問題だろうか、とも思ったが、たとえばH・G・ウェルズなど、キャラの魅力はないが、話は素晴らしく面白い。つまり、ヴェルヌは「話作り」が発想ほどのレベルではないわけだ。また、スチーブンソンの「宝島」など、発想はさほどでもないが、キャラ描写が見事で、また話の展開も意外性とスリルに満ちて面白い。
ヴェルヌという作家は、文壇で言われる「眼高手低」の作家だなあ、と思う。
もちろん、彼の作品を読んで面白いと思った子供はたくさんいるだろう。それはしかし、その種の作品を読んだ経験が少ないからではないか。ただし、その発想のすばらしさは、文芸史的に見ても横綱クラスだろう。
キャラ作りに関しては、「八十日間世界一周」は、主人公ふたりの個性といい、名前といい、ヴェルヌとしては頑張った部類だと思う。だが、その個性が笑いにもキャラの魅力にもならないのだ。これは作者の作家的段位の低さによると思う。なんでもない話を書いても、どのエピソードでも面白く、キャラが魅力的なジェーン・オースティンあたりと比べれば、それが明白になるだろう。
私の偏見かもしれないが、イギリスの作家は基本的にユーモアセンスが高く、フランスの作家は低い。それが小説全体の魅力の差の土台ではないか。大作家バルザックですら、ユーモアセンスの面ではイギリスの二流作家以下だと思う。ただし、合理的思考力ではフランスの作家のほうが上という感じもある。「八十日間世界一周」でも旅行の内容(出来事と時間)は緻密に組み立てられている、と解説にはある。
*比較的ユーモアセンスに欠けるアガサ・クリスティですら、ヘイスティングスの描写においては、彼の自己認識と客観的認識の落差をちゃんと描いて、読者をクスリと笑わせている。ただし、ポワロの外貌をこっけいにしている手法は、まあ、映画やドラマなら多少は面白い、という程度だ。クリスティは、かなり真面目な性格の人だったと推定できる。彼女が書いたコメディ的短編は、かなりひどいレベルである。ハリウッドの三流作品並みだ。ホラー小説は上手い。ミステリーとホラー小説は双子のようなもので、真面目な作者ほど上手いのではないか。幽霊の正体が枯れ尾花ではホラーにはならないのである。最初から枯れ尾花を枯れ尾花としか見ない作家にはホラー小説は向かないだろう。偉大なコナン・ドイルも、やはり真面目タイプだ。とすると、イギリス作家だからユーモアセンスがある、という論もダメダメ論か。ただ、フランスの笑いは他者への冷笑であり、イギリスの笑いは人間全体の本質に滑稽なものがある、というものかと思う。それがスイフトのような冷笑や嘲笑になることもあるが、概して温かいユーモアになる。