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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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内田樹の韓国語版「武道的思考」序文の一部だが、武道修行と哲学的探究を同一視して論じるのは欺瞞的ではないか、という気がする。武道における「居着く」というのは、あくまで武道の場においての話であり、精神的に「今の自分のままであり続ける」こと(自我への執着)とはまったく別の話だろう。
内田樹の論説にはこういう「一見もっともらしいが、よく考えると欺瞞的」ということが多い気がする。彼は自分で言っているが、お役所に提出する報告書や請願書を書くのが得意だというのは、そういうところなのではないか。つまり、表面をうまく粉飾するから忙しい役人はその書類を承認するわけだ。
下の文章はレヴィナス(あるいは哲学的問題)にも武道にも不案内な人はうっかり「承認」するだろう。もちろん、レヴィナスを知らなくても(私も読んだことはない)、「問題の建て方」がおかしいのではないか、と気づく人もいるだろうが、多くの人はあまり文章をきちんと読まないのである。まして、武道における「居着く」を知らない人は世間の大多数だろう。

(以下引用)

 レヴィナスはこう問いました。人が生きる目的は「真の自分」に出会うことだというのはほんとうだろうか? むしろ人は「自分が自分以外のものになれないこと」「自分が自分自身に釘付けにされていること」に苦しんでいるのではないか?

 レヴィナスの本をはじめて読んだ時(僕が30歳を少し過ぎた頃でした)に、「アイデンティティーの探求とは違う旅」というこの哲学的アイディアに僕は強く心を惹かれました。僕はその時にすでに多田宏先生に就いて合気道の修行を始めて数年経っていましたので「メンターに導かれて、修行する」ということがどういうことかは感覚的にはわかっていました。
 修行というのは、師の背中を追いながら、無限消失点としての目的(武道の場合なら「天下無敵」)をめざしてひたすら道を歩むことです。自我への執着を武道では「居着き」と言います。道を進もうとする人にとって、一か所に止まりたいという思いは修行の妨げになるだけです。
 レヴィナス哲学もまた「自我への執着」は「他者」との出会いを妨げると論じていました。
 レヴィナスの他者についての哲学と、多田先生の教えは僕には「同じこと」を言っているように感じられました。
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