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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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漫画家小島アジ子氏の名言である。まさに、言いえて妙。
常に「この結論(決定)は、それが正解という意味ではなく、単に当座の解決である」という意識を持つべきだろう。

(以下引用)

考え続けて問い続けることに意味があり、結論を出してしまえばそれがどういう結論であれ、その問題に対する思考停止であり、思考停止は、差別や人権問題の解決に対しての敗北である
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これは女性の投稿だと思うが、女性における「会話の意義」というのをよく示していると思う。
男はどうしても論理が主体になりがちで、「どうでもいい会話」が苦手であるが、実は「どうでもいい会話」というのは男の側の習慣的思考による機械的判断であって、その「無駄口」こそが生活のストレス解消になり、或る種の救いなのが、女性の会話の本義だろう。
ただし、男でも論理的会話が嫌いな層(それが不得手な者)もいるし、女性も「意味の無い会話が嫌い」という人(ある種の効率主義者)もいるとは思う。ここでは、おおまかな傾向の意味だ。

なお、私は母親とも父親とも会話をした経験がほとんど無い。特に母親とは必要以外の会話をした記憶が無い。そこに私の性格の偏りの原因があるかとは思うが、その偏りはむしろ自分の長所だと思っている。(両親はふたりとも60歳前後で死んだ。まあ、生んで育ててもらったことには感謝しかない。早死に、少なくとも子供の負担となる前に死ぬことは子供への親の最後の大きなプレゼントかもしれない。)

(以下引用)

■母親との会話とか

中学生か、高校生あたりから、キッチンにいる母親の近くで、他愛もない話をいつも聞いてもらっていた

授業でのちょっとした疑問とか、世の中のことについてとか

明確な答えがあるタイプのトピックではほとんどなく、会話も自分が話せたら、聞いてくれてありがとう的なニュアンスを伝えて終わっていた気がする

今思うと、あの聞いてもらえるってのはありがたいことよなぁと思う

仮に父親や兄とその手の話をすると、結論や、こうしたらいいんじゃないかって話につながりがちで、そうじゃねぇんだわとなる

まぁ、こういう会話をしたいって前置きがあれば付き合ってくれるかもしれないが

今は親となり、子供からよく色々話してくれたりする(ゲームの話ばかりだが)

正直話をちゃんと聞けてるかは不安だが、その度に母親のことを思い出してみたりする

たまには実家に帰るとするか
異世界(転生)アニメをたくさん見ているうちに、ひとつの「法則」に気づいたので書いておく。
そのきっかけは「外科医エリーゼ」というアニメだが、見るのが無いので仕方なく見ていたアニメで、出来は中の下か下の上くらいの作品である。
そもそも基本コンセプトが最低というか、馬鹿そのもので、ヒロインが前世で王妃になって悪政の一因となったのを後悔して、次の生では外科医になって多くの生命を助ける仕事をしていた、まではいいが、また前々生に戻り、貴族令嬢として再び王妃になれるはずだのに、「外科医」になる、というアホらしさである。外科医として救える命が数十名としたら、王妃として王を善政に向けることで救える命が何十万何百万であることは言うまでもない。
で、「外科医」として数名の生命を救うことで、人々の尊敬を得て、なぜか複数名の高位の男性の好意を向けられるのだが、作者の描きたかった部分がそこ、つまり「多くの男性から愛される」というハーレクインロマンスであるのは明白だろう。外科医など、その手段、話を作る手段でしかない。
男の夢想がハーレムであるのに対し、女性の夢想は「多くの男性に愛されながら、その中でベストの男性と結ばれる」というハーレクイン思想であるのは間違いないと思う。これは男性が「放出するセックス」であるのに対し、女性が「受けるセックス」である生物的原理によると考えられる。つまり、「最良の種」を受けるのが女性の生物的願望(理想)であるわけだ。極論すれば、女性がレイプを嫌がる本質もそこ、つまり「劣等な男性の精子を注ぎ込まれる」ことにあるのではないか? 女性が「ハーレムの一員」であることをさほど嫌がらないように見えるも同じ理由だろう。

一般論で言えば、つまり、劣等男性の愛妻であるより、優良男性の相手のひとりであるほうがマシ、というわけだ。
女性に相手にされるには、自分の優秀性を証明する(多くの女にモテることもその証明である。)しかないわけで、男は必死に社会的地位上昇に努力するか、女に相手にされることを最初からあきらめるしかなさそうだwww
小島アジコさんによる「銃・病原菌・鉄」のさわりの要旨である。
まあ、これだけ知っていれば、同書を読む必要もないのではないか? www

もっと詳しく言えば、欧州は家畜飼育が早い段階から始まったため、家畜由来の伝染病への耐性が身に付き、それが他人種を侵略する際に非常に有利だったということである。(私流に付け加えれば、タンパク質摂取量が圧倒的に優れていたので、体力的にも体格的にも有利になったわけで、これも家畜飼育文明の恩恵だろう。)

(以下引用)



今までの話で、わかってもらえたと思いますが、『ヨーロッパの人間が文明を発達させ、また他の地域を侵略できたのは、生まれ持った環境によるところがとても大きい』ということです。農耕に向いている土地に、たまたま農耕向きの作物が増えていて、また水平に行き来できる距離も大きかったから技術やほかの地域の農作物を利用できるチャンスも多かった。
なので、その分、社会や技術を発生、改良させるチャンスに恵まれ、結果、アメリカやその他の地域を侵略できた、ということです。


昔々の話だが、戦後しばらくは漫画もアニメもまだ成長途上で、テレビの子供向け番組には「人形劇」というのがあった。わりと最近でもロシアの「チェブラーシカ」などは一種の人形劇と言ってもいいだろう。昔の日本の人形劇はそれより原始的なもので、「指人形」や、あるいは糸や針金で操る人形による人形劇が大真面目に放映されていたのである。
その中の大傑作に「ひょっこりひょうたん島」というのがあったのを記憶している年代のご老人も多いだろう。脚本がなにせ、あの井上ひさしである。他の脚本家もいたと思うが、とにかくあの有名な主題歌の作詞も井上ひさしである。高畑勲が或るアニメ(今題名を思い出したが、「思ひ出ぽろぽろ」である。)の中で使ったことでも有名かもしれない。
その中の凄いフレーズが、(おそらく高畑勲が使った理由も、このフレーズにあると思うが)

泣くのはいやだ、笑っちゃお」というフレーズである。

このどこが凄いのか。

あなたは、泣きたい時に、笑えるか?

泣くというのは、泣く原因があって泣くのである。
ところが、その時に、何の笑う原因もないのに笑うというのは、凄い飛躍なのである。いわば、これも昔の言葉だが、実存主義的な「投企」と言ってもいい。人生が不条理だからこそ、その中に我が身を投げ込むわけだ。つまり、理由などなくても、自分が望む行動をすればいい、ということだ。ある意味「合理性や理性的計算」への反逆である。

そして、おそらく現代の心理学はこの事実を既に言っていると思うが、「人は泣くからいっそう悲しくなり、笑うから愉快になる」のである。さらに言えば、泣くのもひとつの快感でありカタルシスだから、人は泣くのである。だが、そこで頑張って「泣くのはいやだ、笑っちゃおう」というのは豪傑的な生き方、英雄的な生き方だとも言える。それによって、人生が前向きになる。

これが「泣くのはいやだ、笑っちゃおう」という簡明なひとつのフレーズが示すことである。

もしかしたら、あの日本の戦後の異常な発展と高度成長の原因として、人々の心の中に無意識的にこのフレーズがあったのかもしれない。
そして今は……。







今年亡くなったばかりの松岡正剛のブログ記事の一節で、プルーストの小説の有名なエピソードのような話である。まあ、フロイドなら「当たり前だ」と言うところだろう。我々の意識は無意識のほんの上皮でしかないのである。
別の言い方をすれば、「無意識の思考があるからこそ意識の連続性がある」わけだ。そうでなければ、我々は朝目覚めるたびに別人になっている。我々は自分の記憶の倉庫自体を見ることはできないのである。その倉庫が無意識だ。それは寝ている間も活動している。

(以下引用)

ポアンカレは書いている、「突如として啓示を受けることはある。しかしそれは無意識下で思索的研究がずっと継続していたことを示しているのだ」。
「悪役令嬢転生おじさん」は私も今期一番好きなアニメで、毎回楽しんで見ている。

善と悪の力関係で言えば悪のほうが強いのは明白だから、若い人は悪に憧れ、その種の(「悪の魅力」や「悪の勝利」を描いた)小説やアニメを好むだろうが、悪というのは本来残酷であり悲劇を生むものなのだから、悪を魅力的に描いた作品を娯楽とする自体、「悪への不感症」を育てる反社会的行為であり、若さゆえの愚行とも言える。悪に肯定的であること自体、既に悪の一歩手前なのである。だから愚行と言うのだ。

「深淵を見る者は深淵に見つめ返される」のだが、深淵は深遠でも何でもない。悪(沼)に近づく者はその泥に足を取られ、深淵の中に沈む。

一生、人を殺し続ける人生は楽しいか? 法網から逃げ続ける逃走の人生は楽しいか? お前は逃げ切る能力や運が自分にはあると思うのか? 悪を肯定し応援する自分は賢いとかカッコイイと思うのか?

(以下引用)

悪役令嬢転生おじさん、作者が実際にアラフィフ&児童漫画出身の人で、「歳をとって悪意を描くのがしんどい」「この歳になると、この世にはちゃんとしたおじさんが普通に存在することを知っている」という理由で、優しく良識ある光の悪役令嬢モノだった話


悪役令嬢転生おじさん
悪役令嬢
上山道郎
転生
異世界転生
マンガ
ファンタジー



宙兎 渦(ちゅうと うず)☔️
@uzu_tyu
インターネットで生きてる|雑談・ネタ・イラスト・音楽(邦69/ボカロetc)・TRPG・ゲーム・AI等|BL/GL/男女CP有|連投多|手ブロ→tegaki.pipa.jp/122559

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宙兎 渦(ちゅうと うず)☔️
@uzu_tyu
悪役令嬢転生おじさん、作者が実際にアラフィフ&児童漫画出身の人で、「歳をとって悪意を描くのがしんどい」「この歳になると、この世にはちゃんとしたおじさんが普通に存在することを知っている」という理由で、優しく良識ある話になってて、ハッピーエンドにするとも公言されてる
光の悪役令嬢モノ

2025-01-18 13:45:22
悪役令嬢転生おじさん(1) (ヤングキングコミックス)

上山道郎

目次
「悪役令嬢転生おじさん」の上山道郎先生
みんなの反応
わかる
ハッピーエンドがいい
優しい話がいい
加齢と共に露悪的な作品を受け付けなくなる
子育て解像度の高いおじさん
「リゼロ」「チ。」との比較
上山道郎先生のマンガ
機獣新世紀ZOIDS
怪奇警察サイポリス
アニメについて
読みたくなる
「悪役令嬢転生おじさん」の上山道郎先生
リンク Wikipedia
上山道郎
上山 道郎(うえやま みちろう、1970年5月14日 - )は、日本の漫画家。埼玉県出身。男性。同じく漫画家の上山徹郎は実弟である。代表作に『機獣新世紀ZOIDS』『ツマヌダ格闘街』など。 デビュー前は主に樫本学ヴのアシスタントをしていた。1990年に『怪奇警察PSY-POLICE』で第27回小学館新人コミック大賞児童部門(第20回藤子不二雄賞)の佳作を受賞し、同作が同年12月発売の『月刊コロコロコミック スーパー新年増刊』(小学館)に掲載されデビュー。その後『別冊コロコロコミック』(小学館)1991年8
「だいなし狐の日常」というブログから転載。実に頭脳明晰な人である。なお、「ロマンチックイロニー」は漱石の「三四郎」の中で言及されているが、おそらく日本で理解している人はほとんどいないと思われる。(イロニーは「アイロニー」と同じ。)

(以下引用)

ロマンティック・アイロニーとは何か

ロマンティック・アイロニー(ロマン主義的アイロニー)とは何か?

インターネットで検索しても十分な情報が出てこないから、キツネが簡単に紹介しよう。



そもそもロマン主義というのは、啓蒙主義、古典主義への対抗言論(カウンタースピーチ)だった。これら(啓蒙主義、古典主義)が依拠するのは近代西洋の合理性。すなわち、科学的理性の力によって、人間も、社会も進化していくという、ある意味、盲目的な信仰だよ。近代合理主義の特徴は、世界は計算可能であり、それゆえに操作可能、設計可能であると信じることだった。



これに対してロマン主義が主張したのは、人間というのは狭苦しい理性の殻に囚われるだけの存在ではない、そこには想像力の翼があり、自由な意思の躍動があり、感情の沃野がある。つまり、理性によって説明し尽くされることのない〈感性〉こそが人間の本質、人間性の正体だということだ。近代合理主義への批判は二つの世界大戦の過程で先鋭化した(ダダイズム、シュールレアリスム、不条理劇)けれど、その先駆けとなったのがロマン主義なんだね。



さて、肝心のロマンティック・アイロニー。その主唱者はドイツ・ロマン派最大の理論家、フリードリヒ・シュレーゲルだ。彼は、近代合理主義の閉塞感、計量可能な〈有限性〉のイメージに囲い込まれた近代人の思考を解き放つためには、この壁を破壊するための武器、つまりは方法論が必要だと考えた。彼の脳裏に一人の髭面が浮かび上がる。



ソクラテス……!



そう、近代合理主義の地盤を固める最大の信仰は「この世界には正解がある。理性は正解に辿り着く」というものだ。これに対して「正解なんか、わからなくね?(アポリア)」という痛烈な皮肉(アイロニー)を突きつけた最古の英雄がソクラテスなんだね。



「ソクラテスのアイロニーは全てが戯れであり、同時に全てが真面目である。全てが無邪気で、全てが深遠。それはあらゆる自由のうちで最も自由なものである。なぜなら、それによって我々は自分自身を超えることができるからである」(byシュレーゲル)



普通、アイロニーというのは、表の意味と裏の意味の食い違いによって、話し手が聞き手を試すようなもののことをいう。



「そんな面白いことを言うなんて、きみは頭がいいんだね」(=そんな奇矯なことを言うなんて、きみは変人なんだね)



でも、ソクラテスのアイロニーは違う。そこには表も裏もない。なにせソクラテスだって答えを知らないのだから。彼は当時の最高の知識人たちを相手に、知識、道徳、宗教、国家のあり方を問い続けた。結果として明らかになったのは、誰も彼も、ソクラテスもソフィストたちもきみもぼくも確かなことは何にも知らないということだ。



だからこそ問いは続く。有限の正解ではない、無限の自己否定、それは必然的に次なる一歩を踏み出させる。新たな自己実現、新たな創造を実践するための、阻まれることのない無限の可能性。



これを、シュレーゲルは「自己破壊と自己創造の絶え間ない交替」、すなわちアイロニーであると説明した。無限を切り拓くものとしてのアイロニー。精神の飛翔能力。まぁ、これが本当にソクラテスの目指したものだったかはわからないよね。だから、後の人々は、このイメージをロマン主義者たちのイカロスの翼、〈ロマンティック・アイロニー〉と呼んでいるんだ。



ーーー



と、以上、YouTubeのショート動画の台本にしたくて駆け足で論じたけど、以下ではもう少し丁寧に、シュレーゲルの議論を解説するよ。



◆自己破壊

ロマン主義者たちに、無限への憧れがあったことは、上に見た通り。これは、「永遠の発展性をどのように達成するか」という問題に置き換えられる。

そして、永遠の発展性とは、〈上昇過程が際限なく続いていく〉ということだ。そんなこと、どうやったら可能なのだろうか?



「無限なるものの意識は構成されなければならない。ーー反対物を破壊することによって」

「無限なるものという意識は存在する。ただ有限なるものという幻想が破壊されれば、それはあらわれる」



シュレーゲルが最初に手掛かりとするのは、無限性へのアクセスで、それは有限性を破壊すれば得られるという。ずいぶん楽観的な気もするけれど、そもそも有限性という観念自体が幻想なのだというのがシュレーゲルの見立てだ。有限性こそ人間の条件だと考える近代理性とは拠って立つところが違うよね。自分自身の中にある、有限性という思い込みを破壊しさえすれば、人間の真実の相である〈無限なるものの意識〉を構成できる。この営為をシュレーゲルは〈自己破壊〉と呼んでいて、永遠の発展性への出発点とする。



◆自己創造

この無限なるものの意識が、次に取り組む課題は何だろうか?

そう、創造だね。創造についてシュレーゲルは、機智とか想像力とかを重視する傾向にあるようだ。



「機智とは無条件に社交的な精神である。あるいは断片的独創性である。束縛された精神の爆発である」

「機智に富んだ着想とは、さまざまな精神的素材の分解現象である。想像力はあらかじめあらゆる種類の生によって飽和していなければならない」

「自分の属している圏の外側にも、自分の感覚では捉えられない延長が存在しているということを理解していない者は、自分の属している圏においても取るに足らない存在である」



シュレーゲルは、遠いものへの想像力と、細部への眼差しを求めている。人間にとって創造とは、何もないところから何かを生み出すことではない。既にある何ものかを鋭敏な知覚し、理解し、分析し、交感し、感激する、そういった自己変容こそが創造性の正体だ。そのため彼はこれを〈自己創造〉と呼ぶんだね。これが、発展への推進力となる。



◆無限交替

こうして生じる〈自己破壊と自己創造〉は、単なる車の両輪ではない。これらは相互に喰い合い、絶え間なく交替してゆく無限否定のシステムだ。何故なら、自己創造なき自己破壊は空虚だし、自己破壊なき自己創造は欺瞞だから。



「冷静に表現すべき思想は既に全く過去のものでなくてはならない。もはやそれに没入していてはならない。芸術家が創作し、感激している限り、彼は伝達のためには不自由な状態にいるということになる」

「一つの体系を持つことも、いかなる体系も持たないことも、精神にとっては等しく致命的である。したがっておそらくはこの二つを結合するよう決心しなくてはならないだろう」



ここに、無限否定の実践としての、無限の生成、〈永遠の発展性〉の基礎が与えられる。これがロマンティック・アイロニーの構造だよ。



◆自己限定

さて、〈自己破壊と自己創造の無限交替〉によって得られる果実について、シュレーゲルが語ることにもう少し耳を傾けてみよう。



「個々の芸術や学問、人間などを正しく理解するための感覚とは、分割された精神である。それはすなわち自己限定、したがって自己創造と自己破壊の結果である」

「この自己限定こそは、人間にとって最初に最後のもの、不可欠にして最高のものである。我々が自己を限定しないときには常に、世界が我々を限定し、我々を奴隷にしてしまうのだから。我々が無限の力、自己創造と自己破壊を我が物としている場所においてのみ、自己を限定できるのだから」



本来、無限とは世界の属性であって、ちっぽけな人間はその世界に規定されるばかりの存在に過ぎない。しかし、ロマンティック・アイロニーの無限は世界の無限と拮抗し、人間に、自分自身で自らのあり方を決めることを可能とさせる。シュレーゲルはこれを〈自己限定〉と呼び、最高の価値を認めている。現代風にいえば、自己実現であり、自己決定であり、人格的自律ということになるだろう。



◆無限の帰結

それにしたって、面白いと思わないかい?

ロマンティック・アイロニー、無限への憧れから出発して、永遠の発展、無限の上昇の果てに到達するところは、自己の〈限定〉なんだ。これこそアイロニーというものではないか。



無限の帰結が有限である。このパラドクスがアイロニーの本質であるということに、もちろんシュレーゲル自身が気づいていた。



「アイロニーはパラドクスの形式である。良きものにして偉大なものは全てパラドクスである」



◆永遠の帰結

パラドクスといえば、もう一つある。



無限の否定、無限の自己破壊と自己創造だなんていうけれど、そんな生き方は本当に人間に可能なのだろうか?



シュレーゲルがロマンティック・アイロニーを論じたのは、『リュツェーウム断片』『アテネーウム断片』その他いくつかのエッセイとノートを著したごく僅かな期間に限られる。その後はぱったり口を閉ざす。実は彼、ロマンティック・アイロニーの理論を確立するや否やこれを放棄して、カトリックに転向したんだ。



ソクラテスが自ら毒杯をあおったように、シュレーゲルもまたロマン主義者としての自分を屠った。その意味については評価が分かれるだろうけれど、アイロニストがアイロニカルに生きようとすればアイロニーに対するアイロニーを生きざるを得ない、つまりはアイロニーというのは何らかの形で必ず〈終わり〉を迎えなければならない。永遠の発展性の帰結が必然的な終局なのだとしたら、なるほどこれもまたパラドクスであり、一際冴えたアイロニーだ。





近代合理主義というのは、前近代の宗教的な盲目を啓くことに自らの価値を認めていた。天上に救いを求めるのではなく、自然の摂理、物理法則、すなわち地球の重力に縛られることに重きを置いていた。これに反発して、「なんとしてでも地に足をつけたくない! 意地でも空中浮遊したい」というのがロマン主義の本性だったともいえるかもしれない。だからこそ無限上昇の夢を追いかけたんだね。

とはいえ、冷静にみると、シュレーゲルが提示する無限のプロセスは、必ずしも上昇とか発展とかを保証しない。それは無限に右往左往しているだけかもしれないし、無限に玄関を開け閉めしているだけかもしれない。



でもね、「こうだったらいいな」の強烈な自己実現として、アイロニーを見つけ、アイロニーを生き、アイロニーとともに潰えたのだとしたら、それはやっぱり、ロマンティックだよね。イカロスの翼は太陽の熱に溶けてゆく。



◇参考文献

フリードリヒ・シュレーゲル『ロマン派文学論』(冨山房)

引用記事筆者の熊代(シロクマ)氏は精神科医で、医者らしく「ドーパミン」という言葉を多用しているが、昔私が読んだ或る文章ではこれを「やる気スイッチ」と呼んでいた。私もそのほうが「ドーパミン」なる得体の知れないものより親愛感がある。
そして、その文章(書いたのは「パプリカ」などのアニメ監督だが)では、「やる気スイッチ」は「(作業を)やっているうちに入る」という、某脳科学者の説を正しいとしていたし、私もそれは正しいと思う。
家や部屋の掃除などが代表的な事例で、やる前はまったくうんざりしてやる気も無いのだが、始めると、その作業自体が我々に「スイッチ」を入れるのである。それで、次から次へと掃除の範囲を広げたりする。読書も同じで、硬い本は読み始めるのに抵抗があるが、読み始めると興味を惹かれる部分が出てきて思考も活性化する。おそらく勉強も同じだろうが、こちらは私には「勉強が面白かった」という経験は無い。それは「勉強をすること」への心理的抵抗があまりに大きかったのだろう。仕事も同様で、始めるとルーティンワークをしているうちに一日が終わるだけだった。まあ、それは私が取り組んでいた勉強や仕事の内容が最初から私の興味の外だったからだろう。
下に書かれていることは「好きな仕事」なのにやる気が出ない場合の話ではないか。

(以下引用)

ドーパミンが出ない状況になってからが本番だ
だから、なにもかもドーパミン頼みでは詰んでしまう可能性がある。

控えめに言っても、ドーパミンの加護と寵愛がある時しか書けない・活動できない・プラクティスできないのでは、創作も仕事も勉強も続けられないし、結局モノにならないと思う。

ドーパミンを味方につけるための方策が大事なのはもちろん。だけど、ドーパミンが味方してくれない時にも書く・活動する・プラクティスすることも同じぐらい大事だ。

たとえば私自身も、うまくいっている時期もあればうまくいかない時期もある。どうしてもドーパミンが出ない、やる気も集中力も完璧とは言えない時期もある。そういう時にひねり出したアウトプットは、たいてい、色艶が足りないと感じられる。

だ け ど や る ん だ よ !

自分自身の活動を、気まぐれなドーパミンに委ねきってしまっては何もできない。ときにはドーパミンに逆らうように執筆・仕事・勉強をしなければならない場面だってある。

第一、〆切のたぐいは容赦なく迫ってくるのだから、ドーパミンが出ないから書かない・創らないなんて選択肢はないのである。また、そういう状況下でも手を動かし続けること、絶好調とは言えない状態でもあきらめないことが大切だと今はわかる。



アニメ『魔女の宅急便』にも、似たようなことを示唆するシーンがあった。

魔法のホウキで空を飛べなくなってしまったキキに、絵描きのウルスラは「そういう時はジタバタするしかないよ。描いて、描いて、描きまくる」とアドバイスする。さすが宮崎駿監督! ドーパミンの寵愛を受けていない時でも手を休めずジタバタすることの有意味性が伝わってくる。

あと、「タコ練」してみるのも割といい。ここでいう「タコ練」とは、学習効率度外視で、やけくそに練習してみることだ。じきに疲れてしまうのだけど、疲れたおかげで肩の力が抜け、意外なアウトプットが出てきたり、思ってもみなかったことに気付いたりする。



加えてウルスラは、それでも駄目だった時のアドバイスとして「描くのをやめる。散歩したり景色を見たり昼寝したり、何もしない。そのうち、急に描きたくなるんだよ」とも付け加えている。「タコ練」を続けていると疲れてくるし、じきに休みたくなるだろう。でも、リフレッシュした後なら再びドーパミンが戻ってくるかもしれない。



ここで宮崎駿監督は、ウルスラとキキをとおしてアウトプットのためのアドバイスを視聴者にくれている。

私は2013年頃にウルスラのアドバイスを再発見し、以来、彼女のいうとおりに過ごすようにしている。ドーパミンが出ているうちしか頑張れない・楽しくなくなったら手が動かせなくなってしまう限り、人はそれほど多くのことが為しえないし、だからこそドーパミンが出なくなっている時にこそ、あなたや私のクリエイティビティの真価が問われる、のだと思う。



ドーパミンの加護と寵愛を獲得するために工夫だけでなく、彼女がこちらを振り向いてくれない時期にも戦っていけるような工夫も必要だ。

この増田に対して、書き手がネカマだと推理するコメントもあるが、そうだとしても女性心理をよく分かっている気がする。いや、私はテレビが映らないからこのCMは見たことがないし、女性経験が少ないし、前世で女性であった記憶もないし、現世で女性であった経験ももちろんないが、何となく女性は「他者との共感性」が生存と生活の必須条件だという気がするのである。

(以下引用)

2025-02-18
■女だけど炎上したCMについての解説をする

結論から言うと、

「現実のまともな女(リアルな私達)はこんなムーブしないし、気持ち悪いぶりっこした女の表現が見てて不快。特に台詞と仕草があざとくて腹立つしキモい。背後に非モテのキモ男が透けて見えてそれがまた生理的にキモい」

というとにかくゴキブリを見たらそりゃ嫌悪感湧いて駆除したくなるでしょ、って言う案件。

※誤解がないように言うが、女である私自身は、男性アニメ向きな、男ウケの女の子の演出かもな、と少し思ったくらいで、食べ物美味しそう、作画綺麗だなーとしか思わなかった、と前置きしておく。

女って生き物は、基本異物を煙たがるんですよ。

おんなじ行動、格好、考え、価値観、好き嫌い。そういうものを雰囲気で擦り合わせて生きてる。

ネットのオタクコミュニティ見て欲しい、分かりやすいから。

限界集落が沢山あるよ、共通の話題と仲間との結束感に飢えてる。

そして時間を持て余した暇人の声がネットではでかくなる。

自分と異なる存在が、特にそれが不快に思う存在ならばもうね、存在自体が許せんのよ。

一人じゃ弱いから言えないけど、流れを見て私も実は、となる。その流れが作れたらあとはもう、勝手に増えてく。共感と不快と結束感の飢えと、生きてる感覚が沸き立ってきちゃう。

いやいや大袈裟な、って思うかもしれないけど、女にとっては生死に関わるくらいのイベントな訳。同じ気持ちを共有出来ればそれはもう、生を感じるし、安心感がすごいわけよ。

男がおっぱい大きい女の子が居た時につい無意識に胸を見てしまうくらい、無視できないわけ。

それが生存本能なんだよ、女の。

危険を察知しちゃったわけ。

お前に何か実害あったのかって思うじゃん?

客観的に見ればない。

でも、女の主観からはあるんだよ。

居心地のいい場所を守ることにとても敏感だから、そんなところに突然Gがでたら「なんでここに!?くつろいだ空間にGが出てくるなんて、許せない駆除しなきゃ…!」って命の危険信号がもう全力で出てくるわけよ。

これは頭がおかしいんじゃなくて、もうね、普段から少しでも危険なものへのアンテナが強いの、本能的に。だからはたからみたら被害妄想じゃん、って思われるような状態になりがち。

まともな人はSNSやネットが居場所じゃないので、そもそも炎上したことも知らないだろうし、してたとしてもどうでもいいってなる。

でもそこを拠点として、居場所としている人達はそうもいかない。少しでも居心地のいい巣を作ろうと命かけちゃうわけ。もうこれね、脳のバグ。

そんな中で、Gキモっ!って発言したら、

「Gキモいとか頭おかしい」

「どこがキモいの?鈴虫は許されるのに?」

「残念ながら蝶々にも触角あるんですよね」

「もう嫌ならG見るなよ、ほっとけ」

とか言われた感覚になっちゃうわけ。

今くつろいでた空間に現れたGに対して、うわキモ!って感想を呟いて、それに対して

「分かります〜Gキモいですよね」

「私もあの触角とか苦手です…」

「G?!うわ!ほんとだキモ!!」

「こういうの見せないでほしい」

「なんで料理メインなのにG見せるのか」

と共有しながら、じゃあ不快の元であるGを駆除した方がいいよね、ってなってみんなでより良い巣にしよう!ってしてる事を否定されてわけがわからなくなっちゃってるわけ。

まともなひとは色んな立場や価値観、考えがある事を知っているので割り切って考えるけど、

自分の居場所が限られてる人ほど守ろうとする本能がGを擁護して、G不快でキモいものって図式の自分の感情を否定してくる人をより敵認定して必死に守ろうと、反撃しようと、反発しようとしちゃうわけ。

って事を自覚できない女は大人でもたーくさんいるんだ。特にね、現実に居場所がなかったり、他責思考が癖になってたりする人はそうなりがち。

なので自分が不快に思ったものを伝えれば意見が通るって思ってる。

多分、成功体験積んでるタイプ。自分がいかに辛い思いをしたか、そう話すと同情されやすいし、さらに弱者マウント王決定戦に勝ち残ればもう最強のカードになるわけ。

だからせめてネットではと声が高くなるし、連鎖しやすいわけ。

そしてその村が苦手な女は死ぬか、女のいないコミュニティに行くか、村から抜けて自立して自分で生きてくか、あるいは上手く変わった人だけど害のない人ポジションに落ち着いてのらりくらり生きてくようになる

これ男には説明してもわけわからんと思うし、アホくさって思うかもしれないけど

女の本能と理性の問題だと思ってる

だから仕方ないというつもりはないけど、理解が広まればいいなとは思う

分かりやすくゴキブリに例えたのはごめん

カップ麺たべたくなってきた
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