それを「フィクション不感症」と言っておく。あまりに多くのフィクションに接した結果、その中で何が起こっても意外性を感じないわけだ。それは、「ギャグが理解できない」ことにつながるのだが、なぜかというとギャグというのは「不自然な事態」をネタにするからである。不自然を不自然と感じないのは、精神的欠陥であり、ある意味、精神的疾患だとも言える。これは間違いではないと思う。気取った言い方をすれば、昔よくインテリが愛用したヴァレリーの「(あらゆる)書は読まれたり。肉(体)は悲し」も同じことだろう。
ちなみに、この文章の中で私は「ロマキラ」作中人物の名前を書いていない。アニメなどを見ると、その次の瞬間には細部を忘れているから書けないのである。これは認知症ではなく、「フィクション不感症」だと私は断定する。過去に記憶した知識がジャングルのようになっていて、新しい知識を覚える余地が無くなるのであって、「忘却する」のではない。もちろん、新しい知識のために古い知識が消去されることを忘却と言ってもいい。「日常に使わない記憶や知識は脳の奥に埋もれ。消えたに等しくなる」ということだ。
この状態が悪化すると、読書すら困難になる。なぜなら、小説を読むことは「前に出た事柄の記憶の上に、その先の出来事が理解される」システムであるからだ。実際、特に推理小説などだと、私は人名や出来事をどんどん忘却するので、しばしば前の部分を確認しながら読まないと理解できない始末である。
これを敷衍すると、有名作家の創作活動が人生の前半にほぼ限定される理由も分かる。おそらく、創作中に自分が前に書いた部分を忘れるので、創作が難儀になり、やる気を失うからだろう。
バルザックが死に際に「ビアンション(彼の「人間喜劇」シリーズの登場人物で名医)を呼べ」と言ったのは、それだけ彼が自分の創作世界に没頭していたからであり、彼には現実生活より自分の作り出したフィクション内世界のほうがリアルだったのである。
で、この「ビアンション」という名前が自分の記憶から出て来たこと自体が、今の私には驚異である。
(以下引用)
■anond:20241116115204言及先エントリを閉じる
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漫画の両思い以降のイチャラブフェーズって同人誌みたいでストーリーとしてはつまらんと思ってしまうが、交際って実際二次創作みたいな間延びした感じなのだろうか
「漫画の中で恋愛成就以降の話はつまらないが、同様に現実の男女交際もつまらないのだろうか?」
なかなか異様な疑問を投げかけてるのだが、もっと異様なのは反応してる奴の過半が
「恋愛成就以降もつまらなくない漫画」についてひたすら語ってるということ
ガチ文盲牧場ののどかなワンシーン
「ルッキズム」問題への小さな感想
メモ 2024年11月16日
先に、この言葉を赤字にして引用する。
ルッキズムに苦しむ人というのは、たいてい、
その人自身が「みかけ」で人を判断し、値踏みしているのです。
だから、「差別主義者」なわけですよ、その人自身もね。
これは、「暴言王」孔徳秋水氏の言葉で、言われてみれば「成る程」だが、氏が「当人が解脱すればよい」と言うほど、問題はそう簡単ではない。第一、解脱など聖人の話であり、凡人にできることではない。そして、いかに当人が気にしないつもりでいても、世間や世界がその人をルッキズムで判断することに、そしてその結果不利益を与えることに変わりはない。
まあ、秋水氏の言葉は「一見有難そうなお念仏」でしかないだろう。
突然、話が変わるが、「ハンター×ハンター」と言う漫画があって、アニメにもなっている。この作者の冨樫は、珍しい「反ルッキズム作家」ではないか、と私は思っている。と言うのは、彼が描く漫画には美人美少女が無数に出るが、その大半は単なるモブで、その美人美少女の半分くらいは悪女で、残り半分は「偽装した男(女)」なのである。つまり、人間の外貌など、いくらでも変えられるし、その内面の価値は判断できない、という思想がここにはあるわけだ。
私が「H×H」の登場人物で好きなのがビスケとパームだが、前者はマッチョなオカマの偽装した姿でありその絵画的意味でのキャラが好きなだけだが、後者は恋愛脳の半サイコパスである。しかし、その一途さは、ある意味女性の本質的な美質を表してもいる。サイコパスだのに「性格が美しい」というのはおかしいだろうが、つまり「可愛い」性格なのである。やたらと包丁を振り回す危険な女性だが、それも恋愛脳のためだ。その「恋愛がすべてに優先する」というのを、私は女性性と言っているわけだ。
まあ、父親が梨園の御曹司というわけではないだろう。
さて、量子とは、私の持っている辞書ではこう説明されている。
連続的でなく、ある単位量の整数倍に限られる値で表される、物理量の最小単位。1900年にプランクが量子仮説を提唱し、量子論の端緒となった。
つまり、量子論は仮説でしかないのである。それについて、私が先ほど寝床で拾い読みしていた「奇妙な論理」(原題は「科学の名の下に」:「in the name of science」)という文庫本の中にこういう記述がある。
量子力学では、古典物理学の根底にある厳密な因果関係はもはや成立せず、すべてが確率・統計的に解釈される。ある事象を観測するとき、これこれの結果がこれこれの確率で起こりそうだと予言することしかできない。だから量子力学者は、競馬の予想屋にいくらか似ている。アインシュタインはこのような事情を量子力学の「不完全さ」だと考え、「神は世界を使ってさいころばくちをしない」といって、最後まで納得しなかった。
これが、有名な「神はさいころを振らない」という言葉の所以だが、多くの人は、この言葉が「量子力学」について言われたことを知らないと思う。少なくとも私は知らなかった。
そして私は量子論は少なくとも現段階では信じるに値しないと思っている。発見されていないのだから信じようがない。まあ、存在しないとは言わないが、それを基にした言説は意味がないだろうと思っている。特に「量子コンピューター」など愚の骨頂だろう。存在しないものを土台にして、合理的な「計算」ができるか。単に統計的推定なら「量子」とは無関係だろう。
ついでに言えば、私はアインシュタインの相対性理論もただの仮説にすぎないと思っている。
ところで、「バームクーヘンエンド」って何だ? 気になる。
(以下引用)
ここで話は全く変わるのですが、私は女児歴30年以上の大ベテランでありながら「セーラームーン」を全く通っていません。
最近ネットで「美少女戦士セーラームーン『月野うさぎは人生の同志』」という見出しを見て「なんて激シブな劇場版タイトルなんだ、俺もセーラームーンの事を『月野同志!』と呼べるならセーラームーンを履修しておけば良かった」と激しく後悔しました。
その後、そういうタイトルではなく、声優さんがインタビューで答えたコメントの引用ということが判明したのですが、それにしても強い文字列なので、ぜひ次のタイトル候補にしてもらいたいです。
私の記憶では「推しに重い設定をつけたり生と死の境を彷徨わせたり、果てはバームクーヘンエンドを食らわせてしまう創作オタ」に向けて発せられた言葉だった気がします。
推しや推しカプのことが好きなはずなのに、気づいたら推しカプに死体を埋めさせ、何だったら推しを埋めてしまう。何故好きな相手にこんなことをしてしまうのか、と悩む創作オタに対し、セーラーメリバが「だきしめてキスをするだけが愛してる証拠じゃないわ、せっかく平和なギャグ時空に生まれた推しにバトロワパロ(アラフォーオタが即死)をさせて、カップリング相手に撃ち殺させる愛のかたちもあるの」と、言ったような幻覚をいま見ました。
実際、推しに対する愛情表現というのは人それぞれであり、エグすぎるR-18G二次創作を描く人に「そのキャラが嫌いだからそんなヒドいことをするのか」と聞いたところ「嫌いな相手の内臓なんか描きたいわけないだろう」という言葉が返って来たそうです。
あなたも「好きでも嫌いでもないキャラに重い設定を見いだし生死の境を彷徨わせろ」と言われても「桃に入れられて川に流された」とか、どこかで聞いたような設定しか思いつかないと思います。
先ほど、「まったくもってホタテ貝」という言葉がどのようにして生まれたか、心理分析をするつもりで、かなり考えて、
まったく→ほっとく
→ほったて→掘っ立て小屋→ホタテ貝
という、無意識の連想の結果だろうという結論になったが、一応確認すると
「まったくもって」ではなく「ますますもって」が原語のようだ。
つまり、私は山本直樹と同じ覚え間違いをしたのだが、そこには「ますます」より「まったく」のほうが音韻的に「ホタテ貝」につながるという無意識の計算があったのではないか。
まあ、ナンセンスとしては、「つながらないからナンセンスになる」わけだが、こういう絶妙な造語には、何となく心理分析をしたくなるのである。で、分析の常として「理に落ちる」という失敗になりがちなわけだ。私には分析が趣味なのだから、広い意味では「失敗も成功のうち」。
なお、この言葉は天才的な造語として当時のSF作家たちの流行語となったらしいが、その際に「まったくもって」に変形したのではないか、という推測もできる。その理由は「ますますもって」よりも「まったくもって」のほうが、促音(っ)の押韻になるからだ。リズムが良くなる。
(以下引用)
山本直樹『明日また電話するよ』
comics
明日また電話するよ
明日また電話するよ
作者: 山本直樹
出版社/メーカー: イースト・プレス
発売日: 2008/07/17
メディア: コミック
ほとんど既読だが、それは織り込み済み。
しかし作者がセレクトした短編集というだけあって、さすがに粒ぞろい。また、各作品に作者のコメントがつけられているのもよい。
巻末には「山本直樹の歴代ハマリモノ集成」という付録がある。世代がほぼ同じなので活字や漫画の傾向は似ているが、音楽の好みは全く異なる。
「まったくもってホタテガイ」というのは間違いで「ますますもって」が正しいはず、と思って調べたが、やはり正しくは「ますますもって帆たて貝」だった。
で、手元になかったので筒井康隆の「カメロイド文部省」が収録されている本を本屋で探したわけだが、『農協月へ行く』も『日本列島七曲がり』も置いてない。これじゃあいくら大御所でもラノベやケータイ小説でも書こうかという気にはなるわな。
そのアイデアとは
1:高価な品物(たとえば真珠)の盗難が、実はそれよりはるかに高価な別の品物の盗難を偽装するためのおとりであること。後者は、美術品の類など、素人にはその価値が分からないのがミソ。これは殺人にも応用可能かもしれない。つまり、Aという人物の遭遇した犯罪が、Bという人物の殺人を偽装するためのもの、など。
2:輸出入を利用した犯罪。『鏡の中の顔』では、フランスからアメリカに輸出した帽子に、フランスで盗んだ高価な宝石を飾りとしてつけ、アメリカ到着後に、その宝石を模造宝石と付け替える、みたいなもの。これは、服飾品、あるいは宝石の場合、税関では物品の細部まで丁寧に鑑定することは不可能、ということを利用したもの。上記1も、「Aと思っていたのがBだった」という、性質的には同じトリックである。
3つめは、……忘れたwww
「演技で一番大事なのは誠実さだ。誠意のあるふりができれば成功疑いなしだ」
最初の発言で、多くの人は、演技と誠実さがどう結びつくのか、首をひねるだろうが、たいていの人は「まあ、人間誰でも誠実さは大事だし、それは俳優でも同じなのだろうな」くらいに思ってそれを受け入れるだろう。しかし、次の言葉で、それは「誠意のあるふり」だということで、成る程演技論だ、と分かり、その皮肉に笑うわけである。ジョージ・バーンズは確かコメディアンだったと思う。
英語原文は次のとおり。
The most important thing in acting is honesty. If you can fake that ,you've got it made.
you've got it madeを「成功疑いなしだ」としたのは、この「名言集」の訳者の訳をそのまま借りたが、その訳でいいのか、少し疑わしい。
まあ、実人生でも「誠意のあるふり」ができれば、詐欺師になれるだろう。つまり、人生で成功すること疑いなしだ。
で、これから連想したのが、日本の映画やテレビドラマで脇役で使われることが多い、ある俳優である。確か「間宮兄弟」とかいう映画で、弟の方の役をした俳優だ。名前は覚えていない。
その俳優が、「2nd street」という中古品店(正確には未使用不人気商品安売り店)の写真看板で笑顔で突っ立っているが、その笑顔が、まさに「誠意がまったく無さそうな印象の笑顔」でそういう笑顔ができる人間も珍しいな、と私はその店の前を通るたびに感じるのである。ああいう笑顔ができるのも才能だろう。普通なら、作り笑いをしても、その人間の地が出るものではないだろうか。
何の悪気も罪悪感も無しに、人を殺したりしそうな笑顔であった。
店で売っている商品が価値があるのか無いのか曖昧であるのとぴったりな笑顔かもしれない。
要するに、wishは「~だったらいいなあ」と神に祈る気持ちというか、まず実現可能性が無さそうな事例に使うということだろう。I wish if I were a bird.みたいな仮定法と言えば分かりやすいか。下のコメントの例文でも仮定法過去になっているようだ。
hopeは、自分の希望を述べるだけで、その実現性は特に問題の焦点ではない、というイメージではないか。
タイラー|日本大好き
@English__Tyler
"wish" と "hope" を間違えると、恐ろしいことになるから本当に気をつけて
"I wish you passed the exam." だと「君の合格を願ってるよ(まあ無理だろうけど)」って、とんでもない嫌味になっちゃう... "I hope you pass the exam." だとちゃんと応援してる表現。試験がある友達には hope 使ってこう!