うわーどうしようかな、一回くらい見たいけど、それよりも優先度の高い重要なことがいくらもあるしなあ。耳掃除とか爪切りとか。 RT @milgami29先生、今夜の深夜映画はあのハリウッド版ドラゴンボールですよ\(^o^)/ww
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(以下引用)
竹熊健太郎(京都)@kentaro666
私が今の新人漫画賞の賞金が高額している事に批判的なのは、経験上「本物の才能」は金に釣られない事を知っているからだ。彼・彼女らの望みは自分の才能に対する「納得のいく評価」なのであって、金ではない。賞金を釣り上げても、それで集まるのは「お金が欲しい人」だけだ。
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11月7日竹熊健太郎(京都)@kentaro666
編集者の口から「いい新人がいない」という言葉を聞くが、才能が来るのを「待っている」から気がつかないのだ。彼らは「才能が漫画から逃げている」事に気がついてない。 #電脳マヴォ 作家の8割はアマチュアだが、多くは投稿もしないし同人誌すら作ってない。誰も知らない場所に才能は眠っている。
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11月7日竹熊健太郎(京都)@kentaro666
私が美術大学という場所で多くの学生を見て痛感した事は「才能は存在する」という事であり、「才能の9割は水子になって消えて行く」という恐ろしい事実である。
1、絵を描く能力は才能ではなく努力の結果である。
2、絵を描く能力を身につけるには模写をすることである。
ここまでは良く言われることだが、その理由説明までやっているのは初めて見た。
なぜ、模写をすれば絵が描けるようになるのか、というと
3、3000枚も模写をすればイメージ力という「自力」が身に付く。
4、それによってどんな複雑なポーズでも書けるようになる。
というわけである。
これを当たり前だ、とか平凡だ、とか言う人間は、「絵の技能とは、実はイメージ力だ」、という決定的な部分が分かっていない。
肉便器先生の教えは、まさにその「なぜ人は絵をかけるのか」、という本質を説明した、おそらくほとんど最初の言葉なのである。
この言葉はある程度までは多分あらゆる技術にも通用するし、なぜ修練が有効なのか、という事を説明している。たいていの人は、何かを修練すればそれだけで技術が身に付くと思っているが、それは「他人の持つ技術が自分に転移される」という部分への意識が無い。そういう修練では、あまり有効なものにはならないだろう。
自分が今やっている修練は、自分に欠如している「この部分」を学んで「自力」にするためのものだ、という意識が高い人ほど、その修練も早く、高度に身に付くのではないだろうか。
特に、漫画や絵画では、「イメージ力」が「自力」なのである、という指摘は素晴らしい。自分の中に具体的なイメージが無いのに、それを絵画化できるはずはない。そのイメージ力を修練で身につけるメカニズムと、その方法を明快に説明した肉便器先生は最高に素晴らしい。名前はひどいけど。
(以下佐藤秀峰のブログ、あるいはウェブ日記より引用)
さて、今回の映画のエピソードの原作該当部分は、原作の最後のエピソードでもある飛行機事故を扱ったものとなっています。
当時、作品を連載していたヤングサンデーは編集長が交替し、元少年サンデーの編集長がその座に納まると、雑誌の編集方針が少年誌的な健全路線に切り替わり、それまで雑誌を支えてきた人気作や青年誌らしいダークな雰囲気の作品が次々と打ち切りになり、代わりに良くも悪くも毒のない作品ばかりが連載開始になるという時期でした。
僕はヤングサンデーの前衛的で尖った部分が好きだったので、編集部への不信が少しずつ募っていました。
度胸星を打ち切りにするとか「アホか!」と。
その後は結果を見るまでもなく、次々と優秀な作家を他社に引き抜かれ、ヤングサンデーは空洞化し休刊となってしまいました。
ヤングサンデーの人気作だけを引き継ぎ、良い所取りをしたはずのスピリッツも順調に発行部数を下げ、小学館随一の赤字雑誌のようです。
…って、蛇足でしたね。
「海猿」連載時の作品制作環境について言うと、そんな編集方針を反映してか、雑誌掲載時に台詞は勝手に替えられるし、人が死ぬシーンは描いてはいけないだとか、いろいろありました。
物語は展開上、夜間、飛行機が海上に着水することになっていたのですが、ある時、打ち合わせの席で担当編集者に「暗い海上に飛行機を誘導するために、近くの漁港から漁船が集結して海上を光で照らし出すシーンを描け」と言われました。
僕は「リアリティ的に考えて、何千、何万トンという鉄のかたまりが空から落ちてくる真下で漁船が待機するという状況は、二次災害を引き起こす可能性があるのであり得ないし、海上保安庁が避難命令を出している海域に漁船が立ち入ること自体、迷惑でしかない」ということを蕩々と説明したのですが、「いや、その危険を返り見ず、”それでも!!”と漁師たちが集結するシーンが読者の感動を呼ぶのだ」とゴリ押しされまして、「いや、今の説明を聞いたら分かるでしょ…?現実的に無理なんですってば。着水地点なんてちょっとの操作で何十メートルかずれてしまうんですから…」と言い返しました。
そうすると今度は「これは漫画だ!リアリティなど関係ない!それ以外描かせない!!」と居直られてしまい、「それって自分の意見じゃないですよね?これだけ論理的に説明してあり得ないということが分かったのに折れないって、編集長のアイデアでしょ?上から命令されて言わされてませんか?」と聞き返しても、「自分の考えだ」と曲げず、「じゃあ、今の話聞いたらわかるでしょ?自分の頭で考えて無理ですよね?」「それでも~~!!」「だから…」「それでもぉぉぉ〜〜〜!!!!」と無意味な押し問答を何時間もしたことがあります。
結局、僕はそのようなアイデアは採用せず、海上に漁船は集結させませんでしたが、出来上がった原稿を見て、当の編集者が「すごい迫力ですね~、ここに漁船を並べるのは無理ですね~…」とつぶやいたので、呆気にとられて「いや、だから最初から言ってたじゃないですか…」と言った所、「あれは編集長のアイデアなんで」とあっさりとネタばらし(?)責任転嫁(?)をするではありませんか。
「じゃあ、編集長と最初から話させてくださいよ、あなたと話しても無駄じゃないですか」とさすがに言ったのですが、「自分がネームにOKを出さなければ、佐藤さんの原稿は雑誌に載らないんですよ。それじゃ困るでしょ?」と「何それ脅迫?」みたいなことがありまして、しかも、「あの打ち合わせでの議論があったからこそ、この迫力のあるシーンが生まれたのだ」と自分のおかげ的なことまで言い出します。
僕は「だから全部無駄なんですよ…。無駄な議論に付き合わされてるだけなんですってば…」と怒鳴りたいのを我慢して無理に押し殺した声で言い返しましたよ。
無理に押し殺すから呼吸も変になって、プルプルしちゃったなぁ…。
すると「佐藤さん、あなたは作品のことを考えてるんですか?作品に向き合えないならあなたと話しても無駄ですね」と返してきます。
「それはこっちが言いたい台詞だよ!」と拳を握りしめながら、「そっちこそ編集長にかわいがられたいだけで、作品のために仕事してないじゃないでですか…」とさらにプルプルして吐き捨てるのですが、相手は言い返す言葉がなくなると、今度はなんと睨みつけてきます。
「睨まないでくださいよ…」と言うと、急にガラが悪くなって「お前何歳だよ?年上に人間に向かってなんだ、その態度」とべらんめえ調で話にならないので、「もう帰ります」とファミレスの席を立つと、「帰りたいなら帰れよ。その代わり二度とウチの雑誌に載せないからな」とかなんとか。
小学生かよ、と。
かと思えば、物語中で飛行機が海上着水して機体が真っ二つに裂けている画を描いているのに、「乗客を一人も死なせず、全員を救出する展開を描いてください」と言ってきたりもしました。
当然、無理ですし、全員生還する話を描くのであれば機体は絶対に真っ二つにしてはいけません。
冒頭の映画のポスターを見ても分かるように、あの状態で一人も犠牲になっていないという状況は荒唐無稽にも程があるってものです。
「無理です」「それでも!!」「いや、無理ですってば…」「それでもぉぉぉ〜〜〜!!!」とまたコントのようなやり取りに突入です。
それが何度も何度も続くので、編集方針もなんだかおかしいし「やってられっか!」ということで連載終了を申し出たのですが、「海猿」は健全路線に軌道修正して引き延ばすのが編集部の方針であったらしく、申し出は当然のごとく無視されまして、仕方がないのでストライキを決行した所、その編集者が仕事場のマンションの前で見張っているようになり、一日に何十回も電話をかけてきたり、「一生どこでも漫画を描けないようになりますよ」と留守電にメッセージを残されたり、家から外に出ることもできないような状況が何日も続き、まぁ、それはその編集者の暴走であったりもしたのですが、すっかり漫画を描くことに嫌気がさしてしまいました。
という訳で、「漫画家なんてクソだ!こんなのクリエイティブでも何でもねぇ!出版社の奴隷だ!豚のほうがよっぽど純粋だぜ!ゴキブリのほうが人生に真実な気がするぜ!もう漫画家なんてやめてやる!だけどその前に雑誌に載せられないようなどす黒い物を叩き付けてやる!載せれるもんなら載せてみやがれ!!漫画家をなめんなよ!!殺せよ!!オラァ!!」と破壊衝動を叩き付けたのが、今回の映画のエピソード部分です。
えーと…、「という感じで描いてたので、映画にもそれを反映させてください」と僕が映画のプロデューサーさんにお願いしても困りますよね。
僕は映画の成功を眺めながら、こっそり周囲に自慢するくらいが身の丈にあっている気がします。
このブログは、特に漫画についての見解が面白く、時々見に行く一つである。なぜ毎日行かないかというと、更新があんまり頻繁ではないからである。そこが残念だ。しかし、過去ログがけっこう多いから、しばらくはそれでも読んで楽しむことにする。これがネットのいいところだ。
下記記事に書かれた「食パン少女」が「猿マン」が最初に提示したネタなのかどうかは、これからまだ検証されるべきであるが、それを実際に検証しようとした田幸さんの姿勢は素晴らしい。もちろん、「猿マン」の偉大さについては言うまでもない。
(以下引用)
■[漫画] 出会いの秘密


- 「遅刻する“食パン少女”」は少女マンガに実在するか(エキサイトニュース、1998/12/22)
主人公の女の子が、食パンをくわえて『ちこく、ちこく~!』と言いながら走り、角で転校生と衝突する、というのが少女マンガの典型的な出会いのシーンだとよく言われるが、本当にそういう漫画があるのか、と調べたが見つからなかった……という検証報告。
「典型的な出会いのシーンだとよく言われる」というが、誰が言っているかというと、今から20年近く前に、相原コージ・竹熊健太郎が『サルでも描けるまんが教室』で喝破したのである。『サルでも描けるまんが教室』は、「実際にはないけれど、言われてみれば確かにありがち」とみんなが思えるようなエッセンスを抽出し、提示し続けたところが偉大であり、先見の明があったのである。
女の子が食パンを咥えて走るなんて、いかにもありそうじゃないか。そう『サルでも描けるまんが教室』が述べたら、以来20年近く、それが少女マンガの出会いシーンだと信じられ続けたのである。今回酔狂な人が調べてみたら、そういうシーンは実在しなかったことがわかって、ますます『サルでも描けるまんが教室』の偉大さが証明されたのである、と言いたいが、この調査はかなりいい加減なもののようで、本当は何も結論は出せない。
調査をするなら(サルまん以前の)昭和期の作品を調べなければ意味がない。調査子の田幸和歌子はそのあたりを全く考慮していない。いくつか名前の出ているものについては平成時代の作品のようだから、サルまん以降である。サルまんの提案をそのまま真似るのはいくらなんでも避けた、ということかも知れない。それならそれで、別な意味でサルまんの偉大さを示すものでもあるのだが。
内容は安井算哲(渋川春海)という和算の実在人物を描いた話だが、要するに、江戸時代の数学オタクの話である。この数学オタクのキャラが可愛い。他のキャラクターもそれぞれに楽しいキャラ、面白いキャラがいて、話自体には別にドラマチックなところは無いのだが、その世界に遊ぶのを楽しむ漫画と言えるだろう。まあ、「よつばと!」や「とめはね!」のようなものだ。こういうのを「空気感を楽しむ漫画」とも言う。(蛇足だが、「よつばと!」と「とめはね!」の「!」は用法が違う。前者の「!」はよつばという女の子が出会うこの世界の様々な「驚き」のことである、だから英語タイトルは「Yotsuba and !」なのである。後者はもちろん、文の強意のための「!」だ。ついでに漫画に無知な人のために言うと、後者は「トメさん」という古風な名前の女性が「私はねえ!」と力んで言っているのではなく、書道の「止め」と「撥ね」である。すなわち漫画の歴史の中でも数少ない…多分2例しかない…書道漫画だが、こちらも面白いので、お勧めする。)
「天地明察」の原作は言うまでもなく冲方丁(「うぶかたとう」と読むようだが、こんなの初見で読める人間はいないだろう。最初から、売れるのを拒否しているような筆名だ。本名なら凄い。)で、作画が槇えびしという、こちらも覚えにくい名前の漫画家だ。
で、この前第二巻が出たので買ったのだが、やはり面白い。
しかし、一つ納得がいかないのは、作中の和算の設問である。まあ、中学数学レベルの図形問題なのだが、要するに「答えを出すことが不可能な問題」なのである。これを作中では「病問」と言っている。で、まあ私は以前に中学入試や高校入試の算数・数学を教えていたもので、これが「解答不能」であることは即座に分かった。関孝和ほどの天才でなくとも、大円(日円という名称だ)の直径(半径)がこれでは一つに決まらないというのは、完成形の問題を一目見れば分かる。問題なのは、関孝和がこの問題を「これまで見た中で一番好きだな」と言ったというところだ。中学生に問題を作らせてできた失敗作のようなこの問題のどこを関孝和は面白いと思ったのか。作中の娘の言葉じゃないが、その意図を「本人に聞」きたくなるような発言だ。
もちろん、これはドラマ展開のために作った問題だろうから、本物の和算の高等な問題のレベルではないのは当然だし、実は「病問」と見えないような病問を作るのは案外難しいのだろうと推測できる。そもそも、作中の問題を本当に解いてみようというモノ好きも「2ちゃんねる」住人以外にはあまりいないだろうとは思うのだが。
それにしても、漫画ならまだ分かるが、こういう小説をどんな映画にしたのだろう。まさか、和算の問題を画面に広げて観客に10分ほども考えさせたとか?
なんと、それを300話に至るまで隠していたとは!
疑う人は、199話かどこかで、彼女が0.001秒の天使として出現した時の髪留を見るがよい。はっきりとした十字架である。(このブログの数回前に転載した画像があるはずだ)
あちこちでこの怒涛の最終シリーズへの感動が語られている。
まるで「まどか☆マギカ」のようだ。
まだ最後の最後は分からないが、ここまで来て、過去をふりかえると、すべてが違った風景として見えてくる、というのも「まどか☆マギカ」を思わせる。
だが、とりあえず、素晴らしい感想を紹介しよう。ほかにも素晴らしい感想はあるが、まずはこれ。
(以下引用)
「さよなら絶望先生」ゾクゾクゾク!衝撃展開すぎる件
・「さよなら絶望先生」イヤッホオオオウ!衝撃展開すぎる件
「さよなら絶望先生」泣いても笑っても後2話である。
今週のタイトル、300話「私達の知ってる可符香ちゃんは天使みたいないい子でした」。ついに風浦可符香の深層に迫るのである。

風浦可符香
…オーケー、いったん情報を整理しよう。
・風浦可符香はP.N(ペンネーム)である。
・超ポジティブ少女である
・卒業写真では可符香だけ写っていなかった
・あびるの眼帯が取れたらクラスメイトが可符香に見えた
・鏡には慈愛溢れる表情
・以降は本編から姿を消した
・死んで成仏してない証(羽根)をまとう
・クラナドは風子が可符香に見える(駄目絶対音感)
情報整理おしまい。
むむむむ、なかなか意味深ですね。
一体何者なんですか可符香ちゃんは。
さあ、可符香の正体を知ろうではないか。
以下、ネタバレ全開ですので知りたくない人はディスプレイの変わりに来世でも見てて下さい。
風浦可符香とは何者だったのか?

風浦可符香とは?
「風浦可符香という人物は存在しません」
/' ! ━━┓┃┃
-‐'―ニ二二二二ニ>ヽ、 ┃ ━━━━
ァ /,,ィ=-;;,,, , ,,_ ト-、 ) ┃ ┃┃┃
' Y ー==j 〈,,二,゙ ! ) 。 ┛
ゝ. {、 - ,. ヾ "^ } } ゚ 。
) ,. ‘-,,' ≦ 三
ゞ, ∧ヾ ゝ'゚ ≦ 三 ゚。 ゚
'=-/ ヽ゚ 。≧ 三 ==-
/ |ヽ \-ァ, ≧=- 。
! \ イレ,、 >三 。゚ ・ ゚
| >≦`Vヾ ヾ ≧
〉 ,く 。゚ /。・イハ 、、 `ミ 。 ゚ 。 ・
ちょ、ちょっと待って下さい!
風浦可符香なんて存在しないって…!?
確かに
「幻想…共同幻想の一種じゃないんですか」
「閉ざされたコミュニティーで起こりうる、集団催眠のようなもの…」
「伝承や宗教を信じ込むことで脳が見せてしまう天使や妖精や河童といったような幻影。そう、天使のような」
天使といえば絶望先生は確かに見た。
可符香が目の前に存在するのに絶望先生にしか見えなかった天使がいた。「0.001秒の悪魔」(199話)である。

天使
可符香が目の前にいるのに、絶望先生にだけはもう一人の可符香が見えていた。絶望先生の深層心理に潜む0.001秒の天使である。ただのギャグでネタだったのか、何で可符香とまったく同じ姿だったのか。風浦可符香は天使…?
話を本編に戻そう。
刑事は可符香は共同幻想で天使って事でいいじゃないですかという回答に「ふざけるな」と一括。当たり前である。「何の共通の伝承も宗教もない所で何故クラス全員が同じ人物を、同じ幻を見ていたと言えるのか」と読者と同じ疑問を投げかける。
絶命先生は人間の記憶は脳だけでなくあらゆる臓器、血液にまで記憶があるとか不可解な事を。そして新井智恵先生は「記憶転移」というものを説明する。臓器移植に伴いドナーの記憶の一部が受容者に移る事があるんだとか。以前あびるが角膜移植を受けた左目は、前の持ち主をひいた車のナンバーがフラッシュバックすると述べていました。
絶望少女は全員何らかの移植を受けた受容者。

2-への生徒は受容者
「2ーへだった生徒達は一つ共通点があります」
「彼女達は全員が何らかの移植を受けた受容者であり」
「たった一人のドナーから提供を受けているという点です」
ある者(小節あびる)は角膜を、あるもの(何で木津千里だけ「もの」と平仮名?)は心臓を、ある者(小森霧)は肺をドナーから提供されたなんだって。まあこの辺りはあびるの角膜移植である程度は予想できました。
命を引き継いだ絶望少女達にとっては、ドナー提供者は母のような存在なのです。なるほど、あびるが鏡で見た可符香の眼差しはこれか!
そして可符香の実体も判明。
最初に絶命先生の元に訪れた風浦可符香は常月まとい、別の日に訪れた風浦可符香は木津千里…。どういう事かといえば、受容者たちが代わる代わる交代で風浦可符香を演じていた、もとい出現していたのである。

可符香の正体
「受容者達は他の受容者の中に出現した彼女を風浦可符香と認識していた。一人の人間が複数の人格を有する多重人格とは逆に、一人の人格が複数の人間の中に存在していたんです」
な、なんだってー!
風浦可符香は正確には存在しないけど、1人の少女が絶望少女達に臓器移植した事によって、記憶の共有など一種の共同幻想が起こり受容者の中に風浦可符香が出現し、他の受容者は彼女を風浦可符香と認識する。1人の人格が複数の人間の中に存在している。
しかし凄い。今読み返すと色々と気付かされる。
めるめるが初登場した時(7話)の可符香は上記の絶命先生の説明の通り、確かに腕に包帯を巻いていました。

7話の可符香
つまり、7話「アンテナ立ちぬ、いざ生きめやも」の時はあびるが可符香だったという。凄い…ビックリ仰天です。2-への絶望少女が1人登場しない時に、その娘が可符香をやっているというのである。
これは…出番が少なく毎週のように加賀愛が登場しなくて絶望していた俺の目からウロコである。つまり、加賀愛が可符香をやっていた可能性もあり、実は登場していたんじゃないかと思うわけである。
そして、核心に迫る。
風浦可符香というものは共有人格である、と。

可符香の正体
共有人格者
PN(パーソナリティー)シェアリング
これが可符香の「P.N」である。
ゾクゾクしました。鳥肌立てながら読んでました。
しかし、改めてアニメのOP見るとビビッとくるね。
原作にポロロッカしたのか、最初からそういう構想でアニメのOP作っていたのか知りませんが。1期OP「人として軸がぶれている(AA)」では、カオスな動画だなぁという印象しかなかったんですけど、最後に可符香が妊娠してるんですよね。

可符香妊娠
これは母のようという意味があったのかは分からないんですけど、この時の歌詞が可符香の台詞で「アタシがいるよ気付いて」なんですよね。なんて意味深なんですか!
2期(俗・)OP「空想ルンバ(AA)」は臓器臓器臓器臓器臓器…というグロテスクな作画が途中で挟まっていました。なんだこの気味の悪いのは、全然ルンバじゃないよ!と、思ったものです。

ルンバルンバルンバ
臓器臓器臓器のサブミナル効果。
もうどう考えても可符香の臓器にしか見えませんよ!
受容者である絶望少女達がOPでカオスな中にいるのに、可符香だけは入っておらず最後に寂しそうに立っていたのが印象的です。
そしてOVAシリーズ(獄・)2.5期
絶望少女達が可符香に変わる演出がありました。

絶望少女が可符香に
また「嘘」の顔文字の可符香、いつも首吊ってるのは絶望先生なのに逆に首吊り落下する可符香と助けようとする(?)絶望先生、絶望少女の残骸の上で踊り狂う可符香…と今見ると意味深すぎて唸る。
最高にカッコイイ、最凶にカオスだった3期(懺・)「林檎もぎれビーム!(AA)」では、可符香は地球の上に立ってたり宇宙空間を笑顔で漂っていた。何よりも落下する可符香とそれを助ける絶望先生が印象的でした。

空から落下する可符香を助ける
どういう意味だろうか。
まあ、アニメは別物であまりアニメを意識するなという気もするけど、落下する可符香を助ける絶望先生というのは何か引っ掛かりますよね。
話を本編に戻そう。
風浦可符香の本名は百閒様なら余裕で予想できたものである。
可符香の本名はドナーカードや図書カードで確認できます。

可符香の本名
赤木杏である。
今の可符香は実在しないかもしれない。
しかし、絶望少女達の過去回想では可符香にソックリな娘が同級生だったり、トラウマを植え付けていたりした。これも共同幻想なのかといえば、否である。だって名前呼ばれてるもん。

杏ちゃん
「あらー杏ちゃん、よかったねー」
オーケー!もう一度整理しよう。
・赤木杏は実在していた
・高校入学前に交通事故で他界したのだろう。
・絶望少女達にドナー提供をした
・風浦可符香として絶望少女が演じる
・まだ未練(羽根)があって成仏していない
赤木杏は確かにいた。いや、本当にいるんですよ!オヤシロ様が『い』るように、赤木杏も2-へに『い』るんだよ。けけけけけ。

赤木杏は実在する!
絶望少女達が代わる代わるでなる風浦可符香ではなく赤木杏としているのである。誰かが風浦可符香役をやってるんじゃありません。「風浦さん」とか「可符香ちゃん」と呼ばれるのでなく、赤木と呼ばれているのである。
絶望少女達が代わる代わりに風浦可符香になる。
「2-へ」に赤木杏がいる。可符香でなく赤木杏。なんという矛盾!
生きる事って最初からクイズ
あなたがこうして現世に存在する理由は
可符香でなく赤木杏がいる条件…

「今週の絶望先生は取材のためお休みです」
糸色望不在時である。
ある朝目覚めると風浦カフカは小節あびるになっていた
ある朝目覚めると風浦カフカは木津千里になっていた
ある朝目覚めると風浦カフカは(常月まといになっていた)
ある朝目覚めると風浦カフカは(小森霧になっていた)
ある朝目覚めると風浦カフカは

なっていた。
さよなら風浦カフカ
「出会ってはいけない二人が出会ってしまった」
「出会ってはいけない二つの魂が出会ってしまった」
依り代として首を鍛えている絶望先生
まだ羽根(未練)があって卒業(成仏)していない赤木杏
…もう何も言うまい。
赤木杏に幸あれ!次回最終回!
多分、すぐに画像が消されると思うが、こんなのを見つけた読者もすごい。
「どうな」「っちゃうんでしょうね」を言うときの可符香(字はこんなか? もう今なら「可腑化」としてもいいくらいだ。もちろん「腑」って内臓ね)の顔がすごい。「どうな」つまり「ドナー」ですよ?
しかし、最初から結末がああなることを隠して、よく今まで描いてきたものだ。やはり、これは天才の作品だ。
ついでに言うと、例の押尾事件のずっと前から、「絶望先生」の中では押尾学がいかに人格低劣な人間であるかがほのめかされていた。私は「絶望先生」解析サイトを読んで、押尾学という芸能人が存在することを知っていたので、あの押尾事件が起こって、本当に驚いたものである。
(以下引用)
当たり前に接してる先生が怖い
他にもありそう…
(以下引用)

まー見れば勉強にはなると思う。漫画の面白さを理解できる新しい世代とできない層の温度差とか、マーケティングというのがどんだけ独自性を破壊するのかとか。
(以下引用)
椎名高志
マガジン読んだ。『絶望先生』で鳥肌立った・・いやいい意味で。こういうことやれちゃう天才なのだと実感。