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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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このピッチャーが、前から時々顔を出している無名キャラだということで、近いうちに主要キャラに昇格するのではないか、と、わたモテスレでコメントされている。実際、無駄に可愛い。加藤さんと並ぶ吊り目キャラというのも珍しい。髪型も凝っている。
しかし、そのまま謎の美少女として終わるのも面白いのではないか。あるいは、1話か2話くらい、異常接近するだけで終わるのも、現実性があって面白い。その種の偶然的接近は世のなかにはよくあることだ。私は某芸能人(男)と、居酒屋の男性トイレで隣り合って小用を足したことがあるwww この子も将来は芸能界に入りそうである。加藤さんは芸能界入りよりも、学生時代にバイトでクラブ勤めをして、上流階級の男や外国人富豪に見初められて玉の輿に乗るような感じ。
わたモテのラストは、高校卒業した時点で、そういう風に、彼女たちの10年後(あるいは5年後)を(現実でももこっちの妄想としてでもいい。)描いて終わる、という手もある。そうすれば、わたモテの最初(高校入学前に高校生活を妄想するもこっち)と上手く釣り合いが取れる。





no title


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山本貴嗣のブログから転載。
関谷ひさしの「ストップ! 兄ちゃん」は子供のころ一番好きな漫画だったが、他の作品はあまり読む機会が無かった。下の記事によると死ぬまで漫画を描いていたらしく、しかもかなり優れた作品のようだ。一度読んでみたいものである。
なお、「ストップ! 兄ちゃん」は、ある意味ではあだち充作品の父か祖父的存在だったと思う。つまり、スポーツと日常生活と男女関係とユーモア、である。男女関係は淡いもので、主人公とヒロインは喧嘩友達の幼馴染で、これは永遠の青春漫画の王道だろう。これを初めて漫画で描いたのが「ストップ! 兄ちゃん」だと思う。




『侍っ子』
『侍っ子』関谷ひさし・著
『侍っ子』  関谷ひさし・著/双葉社・刊

 関谷ひさしという漫画家さんがいらっしゃいます。
 いや、いらっしゃいました。
 私どもの業界の大先輩でした。私も子供のころ、いっぱいいっぱい楽しませていただきました。
 これは、その関谷先生の遺作です。

 最初1890円という値段に、漫画本としては「えっ?」とか思っちゃいましたが、買って納得。
 それだけのことはある本でした♪

 かわいい!楽しい!おもしろい!
 おまけに、巻末にデッサンや習作を含むイラストがカラーで7ページにわたって収録されています。
 連載マンガのカラーから、裸婦デッサン、動物、ブルース・リーとかの有名人の似顔絵、童話のためのイラスト、自動車。とにかくみんなうまいー!ほんとなんでも描ける方だったんだなあと。

 カバーの折り返しに経歴があります。

<1928年(昭和3年)1月14日、福岡県北九州市に生まれる。門司商業5年のとき甲種予科練習生に合格し、松山練習航空隊に入隊。終戦後、新九州新聞社に入社。勤務のかたわら絵物語、4コマ作品を描く。1957(昭和32)年9月に上京。翌年「冒険王」に連載した『ジャジャ馬くん』が大ヒット、一躍人気作家となる。その後、小学館漫画賞を受賞した『ストップ!兄ちゃん』、『ファイト先生』をはじめ、『KO小僧』、『イナズマ野郎』、『少年NO.1』、『リリーフさっちゃん』、『ばんざい探偵長』など、数々のヒット作を生み出す。2008年2月25日、永眠>

 私の両親より歳上の方で、正直今の若い方はほとんどご存じないと思います。
 でも、ご覧ください、このカヴァー。
 無論「世代」のギャップというのはぬぐえないでしょうが、これが死を目前の80歳のおじいさんの描いた絵でしょうか。

 マンガは気力体力が必要な仕事で、歳を取ると、疲れたからこんなもんでいいや、とか、オレは名人なんだからこれくらい流して描いてもいいんだもんね、みたいな、なんだか生気の抜けた適当な絵になっていく作家も少なくありませんが、
 関谷先生は違います。
 線の一本一本、一コマ一コマに愛と情熱を注ぎ、キャラクターも作品世界も、いやマンガそのものが大好きだあああという気持ちが伝わってくるような感じなのです。
 80歳を前にして、それってものすごいことですよ。
 つまりこれは、かつての売れっ子大家が、「昔はよかった」な思い出的過去の作品集を作った本ではなく、現在進行形で創作し続けている現役作家が、ほやほやの新作を描き上げた本なのです。


 巻末に寄稿された、いしかわじゅん、畑中純、夢枕獏、三先生がたのコメントから一部抜粋しますと

 「関谷ひさしの、世間的な全盛期は、ぼくの少年時代だろう」
 「当時はまだリアルという言葉は漫画になく、それらしいものが描けていればよかった。スポーツを描けばそれらしいユニフォームを着てそれらしいプレイをしていればよかった。メカを描けば、それに見えていればいいという程度だった」
 「関谷ひさしは違った」
 「’60年代の東京の物語なのに、凄い車がそのへんを走っている。オースチン・ヒーレーやら、トライアンフTR4やら、ジャガーEタイプやら、ベンツの古いロードスターやらが美しいデフォルメできちんと描かれている。おまけに、パトカーはちゃんと観音開きのクラウンだ。その上、造形が凄くカッコイイ。
 こういうことに神経を使うセンスというものが、残念ながら当時の漫画と漫画家には、あまりなかったし、読者の側にも評価するセンスがなかったのだ。ああもったいない。関谷ひさしは、それをカッコイイと思い、誰に気づかれなくとも手を抜くことなく描いていたのだ」
                           (いしかわじゅん)(以下引用部分敬称略)

 それって、早すぎた鳥山明?とか、ふと思ってしまった私(山本)です。
 鳥山先生の場合、それまでのマンガが「いいかげん」に描いていた「口の中」(笑)はじめ、自動車から靴など細かなコスチュームのすみずみまで神経を行き届かせたパイオニアの一人・・というか、それを世間も「すごい」と思って受け止めた、作家と読者の双方が幸せだったお一人だと思うのですが、
 それ以前に、同じようなことを人知れず、関谷先生はなさっていたということでしょうか。

 蛇足になりますが、不肖山本も、幼いころ、見よう見まねでカーアクションの落描きなどしていました。
 小学校低学年の子供のものとしては、いささか凝ったものでしたが(波打ち際を二台の車が波しぶきを上げながら疾走しつつ、乗った男たちが銃で撃ち合うという・・・)(笑)
 今回同書の巻末を見て、その参考にしていた車の元絵は、どうも関谷先生の描かれたものだったんじゃないかと(笑)。
 無論ぜーんぜん似ても似つかないへたっぴな子供のラクガキでした!ただ、うまいものを見分ける目だけはありましたから、子供心にこれはすごい!って直感的にわかってたんじゃないかと思うのでした。
 それはさておき
 いしかわ先生のコメントの続きですが

 「長いキャリアの漫画家はいる。しかし、だんだん絵は枯れていって、最晩年にはほとんど描けなくなる。そういうものなのだ」
 「それなのに、関谷ひさしの絵は、いつまで経っても現役の絵なのだ。
 これは、ありえない。とんでもないことなのだ」
 「描線に、力がある。細部にまで神経の行き届いた美しい絵だ。主役のキャラは可愛く、お笑い担当は面白い。女の子は可憐で、悪役は憎々しい。さすがに4段のコマ割りは今時ちょっと古臭く、構図も昔の漫画の構図のままだが、絵柄の魅力がそれを補って余りある」
                                 (いしかわじゅん)

 同感です。
 ついでに私の感想を加えますとと、せりふが生きててテンポがいい!
 ぽんぽんと気持ちよく、言葉のキャッチボールが繰り広げられ、それが読むのに勢いをくれます。

 夢枕獏先生は、『東天の獅子』の打ち合わせで双葉社に出向かれたとき、この原稿をご覧になったそうです。

 「『でも、関谷さんて、まだご存命だったんですか』
 『今年(2008年・山本/注)の春、80歳で亡くなられました。この新作は、亡くなる直前まで、10年間、毎日少しずつ描きためていたものです。完成させて亡くなられました』」
 「『凄いですね、前よりうまくなってるんじゃありませんか』
 『本当にマンガを描くのが好きだったんですね』
 本になる予定のないマンガを、10年、こつこつと描く。描き続ける。死ぬぎりぎりまで描いて、死ぬ直前にそれが完成した。
 ぼくも書き手として、死ぬ時はかくありたいと思う」
                          (夢枕獏)

 私(山本)も同感です;
 畑中純先生のコメントでは、関谷先生は、この『侍っ子』の刊行を見ずに亡くなられたそうです。

「仕事机の横のテレビの前のソファを背にして、一服つけて、さあ仕事だ、といった体勢だった、と息子さんが言っておられた。タバコをくわえた所で、永遠の眠りについたそうだ」
                           (畑中純)

 ああ、これぞ大往生!
 マンガ家あこがれの人生かも;
 
 関谷先生、最後までいっぱいいっぱい楽しませてくださり、本当にありがとうございました。
 先生を手本と励ましに、自分も及ばすながら、生ある限り勤めたいと思います。
 彼岸でお会いできることあらば、またじかにお礼を申し上げたいものです。
 合掌・・・・・


追記
 巻末の遺稿デッサンの中に、この『侍っ子』の次の作品のラフスケッチがあります。
 現代を舞台の探偵モノ。
 「ペン入れを始めたところで中断している。全体の構成は不明である」
 ああ、残念。見たかったなあ・・・;
コメント
この記事へのコメント
関谷ひさし先生、お亡くなりになっていたのですね。
まことに残念ではありますが、ウチの親父より一つ年上ともなれば、いたしかたなし。
・・・合掌。

紹介されていた『ストップ!兄ちゃん』は。毎回夢中で読んでいたものでした。

そう、今思い出してもとてもテンポの良い台詞回しとお話だった記憶があります。

ヨーロッパ的には、死の直前まで自分の仕事に打ち込む人間が偉いとされていて、日本的には、ある年齢に達すると悠々自適で余生を楽しむのが良いとされてきましたが、ある意味、関谷先生はその両方を獲得されていたような気がします。
2009/03/17(火) 10:29:05 | URL | ぬうぼマン #x9c5GV3o[ 編集]
>本になる予定のないマンガを、10年、
>こつこつと描く。描き続ける。
>死ぬぎりぎりまで描いて、死ぬ直前に
>それが完成した。

10年といっても、若いころではなくて、スタートが70ですからね。70から書き始めようという心境、また70からの十年というのがどういうものなのか、私のごときには想像もできないものばかりです。
やはり部分的には悠々自適のところもおありだったのかもしれませんし、しかしそれだけではない部分、静かでかつ強烈な生命力というものを感じずにはいられません。
2009/03/17(火) 22:23:48 | URL | カルマヨギ #-[ 編集]




バロン吉元はボーイッシュな美少女キャラを描くのが案外うまいから、逆に女のような美少年も当然上手い。そして、1972年なら、おそらく「ストップひばりくん!」も既に出ていたと思うし、「女に見まほしき美少年」というのは明治以前から小説や歌舞伎などの定番だっただろう。たとえば「白波五人男」の弁天小僧などはそれだ。





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弥生美術館
1972年に描かれた「どん亀野郎」の原画
砲術長の橘薫はこんなかわいくて男だったの!?ていう漫画キャラの先駆けではないでしょうか。
しかも射撃、砲撃の腕は抜群で合気道で大男も投げ飛ばすって誰でも好きになるでしょ。







「もこっちを見守る会」という、わたモテの海外ファンサイトからの翻訳中心のサイトから転載。
これを見ると、「パンチラ」愛好は日本独特のものらしい。海外のオタクでもべつにパンチラには興味は無さそうだ、というのが面白い。

(以下引用)




Anonymous 01/04/19(Fri)12:05:19 No.18287240
パンツが日本人を魅了してやまない理由はいったいどうしてだ?



Anonymous 01/04/19(Fri)12:06:23 No.182872452
>>182872408
過去にパンツが大好きな変態のキャラがいて漫画のお約束になったとか?



Anonymous 01/04/19(Fri)12:07:02 No.182872471
>>182872408
間接キスみたいな独自の文化じゃないかな



Anonymous 01/04/19(Fri)15:18:45 No.182877663
>>182872408
日本の学校じゃ女子の制服はほとんどスカートだから、風が吹いてる時や階段を登っている時に「パンチラ」を見る機会も多くなる



となれば日本人の多くがパンツに対してフェティシズムを感じるようになっても不思議じゃない





漫画は本来デフォルメの世界であり、精密で写実的な絵が見たければファインアートの絵を見ればいいだけだ。まあ、絵の世界でも実はデフォルメがあってこそ写真とは違う存在意義がある。
で、漫画を見慣れた人は、漫画のデフォルメ性は熟知しているが、問題はそのデフォルメ(あるいは漫画家の個性的タッチ)に魅力があるか無いかである。
山本貴嗣の絵のタッチには私はまったく魅力を感じないが、創作者としての姿勢や思想には感心することが多いので、彼のツィートはよく見ている。その絵になぜ私が魅力を感じないのか、と言えば、鑑賞者の主観だとしか言えないが、彼の作品が職業漫画家としてあまり多くのファンを持っていないことは、絵(漫画)の魅力というものには主観性だけではなく、何か客観的なものもあるような気がする。
たとえば手塚治虫のシンプルな絵柄の漫画が、なぜあれほど広汎なファンを持ったか、あるいは彼の師匠のはるき悦巳の「じゃりン子チエ」がなぜあれほどの人気を得たのか、というと、或る種の「作家的教養の深さ」があったからではないか、と思う。絵柄の魅力も実は漫画家的教養(つまり、魅力のある絵や漫画を膨大に見てきたこと)から生まれる(あるいは魅力のある絵柄というものの本質を多くの事例から演繹して身に付けた)のではないか、というのが私の仮説である。たとえば、頭身が小さく、形態が丸に近いほど幼児的で可愛くなる、というのは手塚治虫がその著書の中で書いていることで、これは永遠の真理だろう。
はっきり言って、確かなデッサンに基づいた「凄い技術」の漫画より、丸の中に点を二つ、線をひとつ入れただけの絵文字(顔文字)の方が、私には、たとえば山本氏の漫画より、見ていて楽しくなる、つまり絵柄として魅力を感じるのである。
その一方で、きれいきれいで作画していても、たとえば若い男がみんなジャニーズタレントかホストのような顔である最近のアニメの絵柄にはまったく魅力を感じない。そもそも顔の区別がつかない。「ガンダム00」だったと思うが、地上から戦争を無くすために戦争をする何とかビーイングという組織を描いたガンダムアニメも、テーマは面白いが、若者たち(特にガンダムマイスター)の顔がどれも似た顔で、うんざりする。(主要キャラたちの行動の幼児性やヒステリックさもガンダム物の伝統でうんざりするが、それは別の話。)

下のツィートは、「プロの技術の凄さ」を語っていて、「素人はプロに偉そうな批判をするな」という内心が滲み出ているが、素人に伝わらない(魅力を感じさせないような)技術に何の意味があるのだろうか。

  1. 山本貴嗣‏ @atsuji_yamamoto 13時間13時間前
  1. 制度→精度 変換ミスをおわびします
  2. 0件の返信 7件のリツイート 12 いいね
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  1. 無論、あくまで原則論であって、プロよりも目の肥えたアマチュアもいる。
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  1. 続き)今はわかる。プロの目というのはアマチュアとは別のところを見てる。有名だとか世間的にどうとかいうことにはだまされない。だからアマチュアがプロに向かってヘタに「●●先生は」と比較しない方がいい。世間には知られていない触れられたくない弱点を暴くことになるかもしれないから。
  2. 2件の返信 61件のリツイート 133 いいね
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  1. 続き)を見せられて「君もこういう作品を見てデッサンを学ぶといい」とか言われて閉口されたらしい。ある時、有名な劇画家の作品を見て「このコマとこのコマの牛は何か写真資料を見て描いたんやろな。こっちのコマは形になっとらんもんな」と言われた。まだ20才くらいの私にはわからなかった(続く
  2. 1件の返信 65件のリツイート 122 いいね
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  1. 素人のかなりな人が絵のうまさは写実的な絵を描けることだと思ってる(無論そうでない人もいる)。『じゃりン子チエ』のはるき先生はああいうラフな絵柄の方だったけど実はすっごいリアルな絵も描ける方で0.×mm単位の制度の建築模型とかも作れる方だった。持ち込み時代に編集からヘタクソな劇画(続く
  2. 8件の返信 222件のリツイート 463 いいね
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私は紙屋高雪氏の知性を非常に高く評価している人間なので、紙屋氏の下の記事を読んで、いささか安心した。「ワンピース」がつまらない、と第一話の途中で判断し、それ以降まったく読まなかったのは大正解であったようだからだ。人生の貴重な時間を無駄にしないでよかったwww


(以下引用)

2010-06-28 なぜ『ONE PIECE』はつまらないのか?

尾田栄一郎『ONE PIECE』Add Starcoleusikanosukeokatigum4irdetfhkuketudanxyomotarosumida


 『ONE PIECE』は言うまでもなく最も売れているマンガである。まわりに「何のマンガが好き?」と聞いてもたいていのやつは『ONE PIECE』と答える。


 そもそもぼくは『ONE PIECE』と相性がよくない。人気マンガというので数年前に読み始めたのだが、途中で挫折した。はっきり言って全然面白くないからである。「それでもまあ人気マンガだから」と今回再度がんばったのだが、27巻でくじけた。



少年マンガの感性についていけなくなっただけか

ONE PIECE 22 (ジャンプ・コミックス)


 少年マンガだからお前の感性がついてけなくなったのだろう、とお前ら言うつもりだろう。まあ半分くらいはそうなんだろうよ。でもなあ、『NARUTO』や『銀魂』はそれなりに楽しく読めるんだよ。『バクマン。』や『いぬまるだしっ』はかなり愉快に読める。なのに、『ONE PIECE』は……ちっとも面白くならないのである。ぼくにとって。


 「50巻くらいまで読まんと真価はわからんよ」という言い分もあろう。まあそうかもしれん。しかし、50巻まで読まないと真価がわからんってどんな少年マンガだよ。少なくともどんな人気マンガだよ、と思うね。


 さて、その『ONE PIECE』の「面白くなさ」について書きたい。


 とはいえ、それは山ほどある。


 いま強く思っている一点についてだけ書きたい。



「あきらめたらそこで試合終了ですよ…?」というテーゼ

 幼児期から小学生、そうだなあ中学生くらいまで、自分が何かの勝負に敗北に追いこまれそうになるシチュエーションがあって(たいていはスポーツ)、そのとき、ぼくを長く支配したのは「その状況を脱するには(勝つ、もしくは逆境を跳ね返すという)強い信念を抱き続ける」ということだった。


 これは『スラムダンク』の安西先生の有名な言葉「あきらめたらそこで試合終了ですよ…?」に通ずるテーゼでもある。


 しかし、この命題が成立するためには、実はいくつもの前提や条件が必要なはずであった。あたり前の話だが、スポーツにおいては一定の技量がどうしても前提になる。そういう技量をつね日ごろ持っていたものだけが「あきらめたらそこで試合終了」かどうかという選択肢を持つことができるのである。


 いまは選挙の時期だからw、選挙の例でいうと、「議席を獲得できる票を得られるかどうか」は選挙に動員できる資源を何らかの形で持っている陣営にのみ問われることだ。動員できるカネもヒトもないような陣営には初めから「あきらめたらそこで選挙終了ですよ」という問いは存在しない。


 試合や選挙が始まる前、もっと長いスパンをとって、実力を養い、経験を蓄えていくということをやったらどうか。もちろん、それならアリだ。だが、その努力がある種の科学性に裏づけられていなければ、努力の大半はムダになる。たしかに「あきらめずに」意思が持続する者は、膨大な試行錯誤の中からついに実力を高める方策を選びとることができるかもしれない。


 しかし、では、そのような意思の持続が一体何によってもたらされるのか、少なくとも小さい子どもにはまったくわからない。あきらめない気持ち、強い信念などというものはどんなふうに獲得できるというのだろうか。偶然しかないではないか。



「強い信念」は「叫び」という表現を求める

 「強い信念」ということを、足りなかった小さな頃のアタマでぼくは考えてみた(もちろん今でも足りないというツッコミは甘受しよう)。


 強く念じるとは、フンと腹に力をいれて念じることであった。


 歯を食いしばる、ということであった。


 あきらめない、とは体のどこかの筋肉をこわばらせて、力をこめることであった。ソフトボールだのサッカーだのをしていたぼくにとって、試合に負けそうになる、逆境に立たされたときに「あきらめずに、ふんばり、強い信念をもって反転攻勢に出る」ということは畢竟そのようなことであった。


 もちろんそれはスポーツにおいて、不必要な体の硬直をもたらし、客観的には試合に逆効果をもたらすはずのものであったのだろうが。


 体の硬直だけでは足りない。


 揺るがぬ意思、強固な信念は、わかりやすい外形を欲する。


 それには大声を出すのが一番だ。


 「ファイトー!」などと言ってみる。部活動で応援してくれる仲間たちも一様にそのように大声を出してくれたから、それが「あきらめない、強い気持ち」を保つ上で巷間でよく用いられてきた方法には違いなかったのだろう。


 だけど、ダメなものはだめだ。


 中学で軟式庭球をしていたぼくは、中学最後の試合、1回戦でテもなく捻られた。前衛であるぼくが「穴」であることを見透かされて集中的に抜かれて、実にあっさり終わった。何のプレイもさせてもらえなかった味方の後衛が哀れ極まった。


 そんなとき、どんなに「強い信念」をもとうが、いわんや「大声」を出そうが勝てなかった。


 そしていま、『ONE PIECE』である。



ルフィにおける「信念」と「叫び」

 『ONE PIECE』は「ワンピース」というひとつながりになった伝説の巨大な財宝を求める海賊の物語であるが、主人公たちの海賊グループはまったく本物の海賊らしくはなく、略奪行為はほとんど行なわない。


 訪れる島々でより強く、凶悪な海賊や「敵」と武闘をおこなうのである。


 主人公のルフィは、しばしば強大な敵に出会い、苦境に陥る。いつも死の渕寸前まで追いやられるのであるが、そのときルフィはしぶとい。目を見開いて決してあきらめようとしない。そして、必ず大声を出す。


 ルフィの(というか作者尾田栄一郎の)グラフィックに特徴的なのは、見開かれた目と食いしばるための大きな口、そして踏ん張るための安定した足(foot)である。


 それはまさに、幼少期から中学時代まで、ぼくが考えていたような「強い信念」を維持し、「大声をあげて踏ん張る」ために格好の備えを持っているかのように思える。


 今手元に『ONE PIECE』22巻がある。


 最も強い7人の海賊「七武海」の一人、クロコダイルにのされてしまったルフィはそれでも再起し、クロコダイルに戦いを挑む。


「お前が…? おれに勝つ気なのか…!!?」


「ああ」


「確かによく見抜いたもんだ 死に際のあの状況でな…」


「……」


「……だがそんな事じゃあ埋め尽くせねェ格の差がおれとお前にはある!!


 それが“七武海”のレベルだ…!!!」


「……お前が七武海だから何だ…!! だったらおれは


 “八武海”だ!!!」


20100628182052


 「“八武海”だ!!!」と叫ぶルフィのグラフィックを見てほしい(右図。尾田栄一郎ONE PIECE』22、集英社、p.93)。まさに目を見開き、口を大きく開け、自らの恃むところを強く叫んでいる。


 「“八武海”だ!!!」という叫び、そして、クロコダイルに再び敗れる201話までの間にルフィがそう叫ぶ根拠らしいものはあまりない。目の前の敵に決して負けない、という決意だけがそこにある。そしてその決意は「“八武海”だ!!!」という大声によって形にされているだけだ。


 ここにあるものは、まさにぼくが幼少期から中学まで苦しめられてきた空虚精神論。それしかない。勝負において、これほど無内容なものがあるだろうか。いや何の役にも立たぬばかりか、それを信じることによって現実に裏切られるという有害な形を果たす、「信念」と「叫び」、あるいは「あきらめない気持ち」を少年たちに吹聴する危険な思想がここにあるではないか。



「叫び」の必然を描く──河合克敏モンキーターン

モンキーターン 12 (少年サンデーコミックススペシャル)


 突如、ぼくは河合克敏モンキーターン』を引き合いに出す。


 波多野憲二という競艇選手が選手として生まれ、ライバルたちに勝ち上がっていくまでを描く河合の代表作の一つだが、主人公の波多野が福岡競艇で転覆し、左手を切断寸前までの大けがを負い、再起不能かと思われるエピソードがある。


 しかし、波多野は懸命のリハビリによって奇跡的、いやある意味で科学的に手の動きを回復させ、再び福岡競艇でリベンジに挑む。波多野はスタートしながら心中で自分に言い聞かせる。


舟券を買ってるお客さんには悪いが…


今回のこのレースだけは、オレは着順を取ることが目的じゃない!


オレの敵は他の艇じゃない!


福岡競艇場1マーク!


今はコイツがオレの敵なんだっ!


20100628182013


 1マークは、波多野が事故に遭ったポイントである。


 リハビリを重ねる努力もしてきた。復調のために様々な準備も整えてきた。技量的には万を持しての再出発であるが、波多野は強い緊張をもってこのレースに臨んでいるのだ。自分の選手生命を断つ寸前のところまで追いやり、恐怖と絶望のどん底に陥れた同じシチュエーションにまさに波多野は挑もうする。


 すべてを万全に準備したはずなのに、波多野の脳裏には、事故のときざっくりと開いてしまった左手の無惨な映像がよみがえり、一瞬波多野は恐怖に縮み上がる。歯が鳴る。そしてすぐ次の瞬間、波多野はその恐怖を押さえ込み、それと戦うために雄叫びをあげるのだ(右図、河合『モンキーターン』、小学館、2008年版、12巻、p.32)。


ちくしょおおおっ!


こわくねえぞっ!


おまえなんかっ!


 ここには、すべての人事を尽くした後になおもわき上がってくる恐怖が、実に的確に描かれている。そして、それに一瞬すべてをからめとられ、心を折りそうになる波多野が短いコマの中にはっきりととらえられている。


 その恐怖と格闘し、圧伏させんとする波多野において、「叫び」は絶対的に必要なものだ。強い意思を持ち、おらぶことがこれほど必然のなかで描かれたものはなかなかあるまい。


 ルフィが叫ぶ、その空虚さは、この波多野の叫びと比べてみるとあまりに鮮明だ。


 わかっている。


 ぼくはとってもいま野暮なことを書いていると。


 「人間はウルトラマンのように変身できないのに、突然力を得られるような幻想をあおりたててきたのが『ウルトラマン』シリーズだ」という批判がどれほどみっともないことかは重々承知だ。


 だけど、このルフィ的な信念と叫びに「騙された」少年時代を送ってきたぼくは、どうしてもこのルフィの勝負に臨む態度の「つまらなさ」「有害さ」に一言言っておきたいのである。


 一体みんなは、このマンガのどこを面白いと思っているのか。逆にそれを聞いてみたい。


死ぬほどどうでもいい話なんだが、今時、「バレエ仲間がライバルに意地悪する」という漫画が存在するのだろうか。そもそもバレエ漫画そのものが死滅状態で、山岸凉子の「テレプシコーラ」あたりが最後なのではないか。山岸作品でも「仲間による意地悪」というのはデビュー直後の「アラベスク」に少しあったか無かったか、くらいで、あったとしても、それも主要なエピソードではないと思う。それ以前になると、それこそ終戦後しばらくしてから出た少女漫画の一部にあったくらいだと思う。ところが、なぜか、「トゥシューズに押しピンを入れる」だけが独り歩きして、「バレエ=いじめ」のイメージが出来上がったのだろう。
まあ、ツィートをした人の言う「あるバレエダンサー」が実在しているかどうかも怪しいが、いたとして、その人が「バレエ漫画=いじめ」という既成のイメージで語っているのなら、おそらく60歳以上、いや、70歳以上の女性か、バレエ漫画のパロディを読んだことがあるだけだと思う。



さんがリツイート

あるバレエダンサーが以前「漫画のように意地悪したりされたりなんてことはない。そんな時間があったらみんな自分の練習をします。誰かを落としても自分が上がるだけの実力がなければ何にもならないから」と言っていたの思い出すな。




私は、連載当時は、手塚作品にしてはちょっとなー、という感じだった。と言うのは、腕が義手(しかも刃を内蔵)なのに、それで何かをつかんだりできる、という設定(だったと思う)があまりにナンセンスで、つまり、今で言えば「名探偵コナン」の、コナンが麻酔銃で毛利小五郎を眠らせる度に小五郎が都合よく椅子に腰かけるように気絶するアホらしさに近いものを感じたわけだ。まあ、変に合理性を重視する嫌な子供だったのだろう。
だが、手が刃になる、というのはネットフリックスアニメの「B the bigining」でも使われていたし、案外、大きな影響を与えた設定かもしれない。フィクションというのは奔放であっていいし、なまじ理屈っぽくする必要はない、ということだろう。
ちなみに、前にも書いたかもしれないが、実写版「どろろ」も案外よくできた映画で、妻夫木聡というのは、手塚絵にぴったりの顔だなあ、と思わせる。まあ、どろろ役を子供ではなく若い娘という設定にしたのはどうかなあ、と思うが、「どろろ」を下敷きにした翻案と見ればいいだけである。SFXも、だいたい良かったし、漫画の実写化、しかもファンタジーの実写化としては成功例の中に入ると思う。



さんがリツイート

『どろろ』は 数ある手塚作品の中でも「発表時の評価がひどかった」と 御本人が述懐されているのだが 当時からそれなりの人気はあったし 何よりアニメ化もされている 何度も映像化され トリビュート作品も多く 歿後三十年に制作されたアニメも高評価 むしろ 最高傑作に近い部類では?




浅利よしとおというのは、根っからのロリコンだなあ、と分かるイラストである。まあ、犯罪者的なロリコンではないが、可愛さというものとエロティシズムが不可分である嗜好の持ち主だということだ。アトムの絵を描いてこれほどエロっぽいのは稀だろう。ウランは言うまでもない。お茶の水博士がやっていることが、何やら怪しげな行為に見える。



  1. 浅利与一義遠‏ @hologon15 2月9日
  1. 鉄腕アトムと言えば、これ。  アトムの、これを推せないリメイクや二次創作は、いかんのである。
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  1. 以前も書いたけど、手塚治虫の模写って、ガキの頃は一切やった事無くて、描くようになったのは、ここ20年くらい。  ガキからすると、線が多かったり、少ないキャラは似ないとかで、苦手だったからかな。(大体、オバQとか描いてた)
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超常現象の謎を主人公のコンビが解決する、というのは米テレビドラマの「スーパーナチュラル」と同じだから、手塚プロは、パクられた、と裁判に訴えてもいいのではないかwww
まあ、「スーパーナチュラル」はほとんど見ていないので、想像しただけだが。
で、主人公が「写楽呆介」(字は不確か)と「和登さん」で、言うまでもなく「シャーロック・ホームズ」と「ワトソン」だ。ワトソンを可愛いボーイッシュな女の子にして「和登さん」というのは、キャラ作りとしてまさに神技だ。なお、呆介は、額の三つ目の目に絆創膏を貼ると知恵遅れの子供になる。そこが和登さんの母性愛をくすぐり、また額の目が現れると悪魔的に頭のいい「怪物」になる、というのがまたいい。きっとこちらは「力のある存在に弱い」という、女性の通有性を刺激するだろう。つまり、和登さんはメロメロ。今の時代のほうがウケる漫画かもしれない。「どろろ」が人気のようだし、今度は「三つ目が通る」のアニメ化希望。





命日だからじゃなく、偶然今日押し入れ整理中に謎の段ボール箱を掘り当てて、開けて見たら『三つ目がとおる』の切り抜きがごっそり。当時すでに連載と単行本でストーリーが全然違うのはファンの常識になってたので全て切り抜いていたんだね。完全版が出たからもう不要、とは言え処分はできないなー。





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