ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
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前に「詩情と笑い」という一文で「ナルニア国ものがたり」をつまらないと批判したが、その理由を作者が詩人でありユーモアが欠如しているから、とした。その部分を後で自己引用するが、その前に、少し考えが深化した気がするので、それを先に書く。それは「一神教には反戦思想は無い」というものだ。
これは当たり前の話で、一神教というのは、その神を信じている者は善、信じない者は悪であるという思想であり、つまり、その神を信じない相手がどういう国や民族であろうと、それは悪なのであり、戦争して国土を奪ってもいいし、その国民を皆殺しにしても奴隷にしてもいい、となる。つまり「帝国主義は一神教文化圏の必然」なのである。では、一神教どうしの国と国はどうなるか。それはまず根底に善と悪の戦いという「戦争完全肯定思想」があって、さらに「相手側はこちらを攻撃しようとしているから(とにかく相手は悪だから)、戦争するしかない」というプロパガンダでいい。これも世界史で常態的に見られる戦争理由だ。ちなみに、バチカンが戦争中止に動いた例は無い、と思う。まあ、形だけの仲裁行動はあるだろう。
これが「ナルニア国ものがたり」と何の関係があるかというと、この話の中で「戦争の理由」がまったく書かれていないからである。単に「氷の魔女」は悪であり、それがこちらを襲ってくるから戦うべきだ、というだけだ。なぜ氷の魔女が悪かというと、生き物をどんどん氷に変えるから、という話で、なぜ氷の魔女がそうするかの説明はない。まあ、氷の魔女だから、世界全体が氷漬けのほうがいいのだろう。
何だか、欧米諸国がある国を攻撃する時に似ている。つまり、存在そのものが悪だから退治する、という無茶苦茶ぶりである。その理由に「独裁国家だから」というのがあり、それは国内問題で外国の口出しすることではないだろう、という反論は、「いや、その国民のためという『人道的理由』なのだから、その政府を倒すのは当然だ」となる。
まあ、「ナルニア国ものがたり」とも「一神教」とも話がずれたが、そのまま載せておく。
どうせ思考の途中の思考素材の一部である。宗教論はいずれまた考察する。
ここでは、日本の童話のような人道主義や「万人愛」は一神教世界の児童文学には見られない、としておく。動物を擬人化しても、それは「主人公たち(白人)の側」だから善とされるにすぎない。敵側の動物は悪なのである。つまり、最初から善の側(白人側)と悪の側(非白人側)が区別されているわけだ。有色人種も「白人の味方」である場合に善とされるのである。
なお、宗教が信じられなくなっても、その宗教の影響下で書かれた児童文学がその国民の成長途上で精神的に影響を与え、深層心理になるのである。つまり、その国の「物語」文化が国民性や民族性になり、また新たな文化の土台となり永久化する。
(以下自己引用)
「ナルニア国ものがたり」という、有名な児童文学があって、名前だけは昔から知っていたが、なぜか読む気になれなくて、この年(何歳かは特に秘す)になって初めて読んでみた。
私は児童文学は好きで、名作と呼ばれているものは、何歳の人間が読んでも面白いはずだ、という考えだが、これが、まるで面白くないのである。子供向けの本だから当然だ、とはならない。優れた児童文学や童話は大人が読んでも面白いのである。
「ナルニア国ものがたり」がなぜ面白くないかというと、私の考えでは、作者自身が面白くない人間で、つまり「ユーモア感覚」がないからだろう、と思う。作者はC.S.ルイスという、詩人としては有名な人らしい。
(中略)
なお、「ナルニア国ものがたり」第一巻だけは我慢して最後まで読んだが、第二巻は最初で放棄した。第一巻の「衣装箪笥の奥が異世界に通じる」というギミックは面白いと思ったが、第二巻では、特に明白な理由もなく、いきなり異世界に行くという雑さである。そう言えば、第一巻でも、話をかなり端折っており、ライオンが子供たちを王や女王に任命したから王や女王になりました、で話はほとんど尽きている。その前に少し、氷の魔女とやらとの戦争があるが、それも簡単に終わり、描写らしい描写はほとんどない。こんな調子で全7巻の「ナルニア国クロニクル」を書かれても、すべてが単なる「説明」で終わることは予測できるのである。
まあ、その「壮大さ」の印象だけで感心する子供も多いだろうから、これが児童文学の古典扱いされているのだろう。
これは当たり前の話で、一神教というのは、その神を信じている者は善、信じない者は悪であるという思想であり、つまり、その神を信じない相手がどういう国や民族であろうと、それは悪なのであり、戦争して国土を奪ってもいいし、その国民を皆殺しにしても奴隷にしてもいい、となる。つまり「帝国主義は一神教文化圏の必然」なのである。では、一神教どうしの国と国はどうなるか。それはまず根底に善と悪の戦いという「戦争完全肯定思想」があって、さらに「相手側はこちらを攻撃しようとしているから(とにかく相手は悪だから)、戦争するしかない」というプロパガンダでいい。これも世界史で常態的に見られる戦争理由だ。ちなみに、バチカンが戦争中止に動いた例は無い、と思う。まあ、形だけの仲裁行動はあるだろう。
これが「ナルニア国ものがたり」と何の関係があるかというと、この話の中で「戦争の理由」がまったく書かれていないからである。単に「氷の魔女」は悪であり、それがこちらを襲ってくるから戦うべきだ、というだけだ。なぜ氷の魔女が悪かというと、生き物をどんどん氷に変えるから、という話で、なぜ氷の魔女がそうするかの説明はない。まあ、氷の魔女だから、世界全体が氷漬けのほうがいいのだろう。
何だか、欧米諸国がある国を攻撃する時に似ている。つまり、存在そのものが悪だから退治する、という無茶苦茶ぶりである。その理由に「独裁国家だから」というのがあり、それは国内問題で外国の口出しすることではないだろう、という反論は、「いや、その国民のためという『人道的理由』なのだから、その政府を倒すのは当然だ」となる。
まあ、「ナルニア国ものがたり」とも「一神教」とも話がずれたが、そのまま載せておく。
どうせ思考の途中の思考素材の一部である。宗教論はいずれまた考察する。
ここでは、日本の童話のような人道主義や「万人愛」は一神教世界の児童文学には見られない、としておく。動物を擬人化しても、それは「主人公たち(白人)の側」だから善とされるにすぎない。敵側の動物は悪なのである。つまり、最初から善の側(白人側)と悪の側(非白人側)が区別されているわけだ。有色人種も「白人の味方」である場合に善とされるのである。
なお、宗教が信じられなくなっても、その宗教の影響下で書かれた児童文学がその国民の成長途上で精神的に影響を与え、深層心理になるのである。つまり、その国の「物語」文化が国民性や民族性になり、また新たな文化の土台となり永久化する。
(以下自己引用)
「ナルニア国ものがたり」という、有名な児童文学があって、名前だけは昔から知っていたが、なぜか読む気になれなくて、この年(何歳かは特に秘す)になって初めて読んでみた。
私は児童文学は好きで、名作と呼ばれているものは、何歳の人間が読んでも面白いはずだ、という考えだが、これが、まるで面白くないのである。子供向けの本だから当然だ、とはならない。優れた児童文学や童話は大人が読んでも面白いのである。
「ナルニア国ものがたり」がなぜ面白くないかというと、私の考えでは、作者自身が面白くない人間で、つまり「ユーモア感覚」がないからだろう、と思う。作者はC.S.ルイスという、詩人としては有名な人らしい。
(中略)
なお、「ナルニア国ものがたり」第一巻だけは我慢して最後まで読んだが、第二巻は最初で放棄した。第一巻の「衣装箪笥の奥が異世界に通じる」というギミックは面白いと思ったが、第二巻では、特に明白な理由もなく、いきなり異世界に行くという雑さである。そう言えば、第一巻でも、話をかなり端折っており、ライオンが子供たちを王や女王に任命したから王や女王になりました、で話はほとんど尽きている。その前に少し、氷の魔女とやらとの戦争があるが、それも簡単に終わり、描写らしい描写はほとんどない。こんな調子で全7巻の「ナルニア国クロニクル」を書かれても、すべてが単なる「説明」で終わることは予測できるのである。
まあ、その「壮大さ」の印象だけで感心する子供も多いだろうから、これが児童文学の古典扱いされているのだろう。
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