今朝、連続テレビ小説の主人公がスタジオ内のゴミ箱から拾った原画の束をもとに習作していたカットのモデルになったとおぼしきシーンのセル画。日本初の長篇カラーアニメ映画「白蛇伝」(1958)より。宮崎駿氏が高三の時に観て、このヒロインに心打たれたことが、同氏の原点の一つになったとされる。
まあ、要するに、細田守監督の幼稚さ爆発、という感じで、この幼稚さは「狼こどもの雨と雪」とか「サマーウォーズ」にも感じられたことだが、細田監督の厄介なのは、自分のその人間としての幼さに気づいていないか、気づいていてもむしろそれに自己満足しているところだろう。
要するに、中学生か高校生が、世の中の老若男女に向かって、人生論を偉そうに説教するわけである。それがここ数作の細田アニメである。
困るのは、アニメ作家としての映像センスなどは優秀だから、描いた内容の幼稚さがそれに隠れてしまうことであるが、彼にとって(本当なら)幸いなことに「狼こども」の場合は、彼の「女性認識」「社会認識」の甘さが鋭敏な女性たちから厳しく批判されたわけだ。だが、彼はその批判からまったく何も学ばなかったようである。まあ、幼児に何を言っても無駄であり、「未来のミライ」の主人公「くうクン」みたいなものだ。
この映画の感想は、アニメ社会しか知らないオタクから人生や男女関係や親子関係を教えられてもなあ、ということである。
私がこのアニメを見ている間中不安だったのは、主人公一家が住む家の作りで、少し動くごとに段差や階段があり、とてもじゃないが、幼児を放置できない作りである。その家の中でくうクンは勝手にいろんな行動をするのだが、その間、父親はパソコンの前で仕事に没入している。くうクンがいつ階段や少し高い棚状のところから転落して大怪我をするか、と、まともな神経の人間なら思うところだが、父親はまったくくうクンの行動に注意を向けない。下手をしたら、妹を憎んでいるくうクンが、妹(赤ん坊)の顔に、玩具の新幹線を叩きつける可能性も十分あるのだが、実際、その行動をした時も、顔に当たる寸前で母親が止めるのだが、その後もくうクンの行動を監視したり、赤ん坊と隔離したりする様子はまったく無い。
要するに、子供を産み育てる資格のまったく無い、「子供夫婦」なのであり、私の勘では、細田監督夫妻の自画像に近いのではないか、と思う。そして、自分たちがそういうDQN夫婦であるという自覚が彼らにはまったく無く、「子供を育てることで私たちも成長している」などと暢気に構えて、むしろ誇り顔であるわけだ。普通なら、この家の子供は3歳になる前にふたりとも死んでいる。
なお、くうクンの年齢は、3歳くらいだと思うが、後で自転車に補助輪無しで乗ることにチャレンジする場面を見ると、もう少し上の年齢かもしれない。しかし、ふだんの動作は、歩き始めたばかりの幼児である。とても自転車に乗れる年齢には見えない。そして、親や周囲の人間が言う抽象的な言葉を、何の説明も無しに即座に理解したりする。つまり、細田監督には幼児というものへの理解がゼロであるわけだ。
妹(ミライ)がなぜ未来からやってきたのか、なぜやってくることができたのかの理由も不明で、最初に登場した時点では、自分が赤ん坊の時にお雛様を早く片付けないと自分の婚期が遅れて好きな人と結婚できないかもしれないから、というアホな理由で、このあたりは「時を駆ける少女」の主人公がプリンを食うために何度もタイムリープをする、というのに似ている。だが、あれとは違って、なぜ時間移動ができるのか、という理由の説明は、この作品には無い。
まあ、要するに、穴だらけのいい加減な設定を、映像のたたみかけで誤魔化している作品であり、親子三代だか四代だかの「家族史」を飛び飛びに見せて、一見壮大なタイムリープ物に見せかけた愚作だと思うのだが、愚作になったその一番の理由は、「世間にも人生にも女にも子供にも無知な、オタクアニメ作家が、人生や家族を哲学として語ろうとした」その無謀さにある、というのが私の結論である。
ついでに言っておくが、私自身非常に幼稚な人間であることは、このブログの記事を少し読んでいる人には自明だろうし、このブログのタイトルである「アンファニズム」とは、フランス語の「アンファン(子供)」に英語の「~ism(主義)」を付けて作った、「子供主義」という意味の造語である。自分の幼稚さを恥じずに、正直な感想を書いていこうという意志の表明だが、しかし、その幼稚さは、「他人に説教できる」ものではないと自分で認めている。そこが細田監督の最近の行き方を危ぶむ理由だ。彼が偉大な古典などから人生を学べば、もっと凄いクリエイターになれるのに、というのが残念なのである。
そもそも、多くのアニメファンにとっては、現実の不快さを忘れるためにアニメはあるわけで、そこに現実の汚さをこれでもかこれでもかと入れてそれが評価されていたというのが、日本における「文学性」の評価とよく似ている。汚いものを直視し、リアルに描けば、優れた文学だ、と評価され、高度なフィクション性は逆に「絵空事だ」として評価されないのである。
「あの花」などは視聴者にも好感を持たれたではないか、という意見もあるだろうが、あれは岡田マリ的な「リアル」の部分が仲間内での争いという最小限度に抑えられ、幽霊という非リアルによってファンタジー性、ロマン性が保証されていた作品だったからだろう。もっとも、登場人物の一人の綽名が「アナル」というのは原作にもそうなっていたのかどうかは知らないwww まあ、それが或る意味では偶然ながら岡田マリ印になっていたとも言える。人間の汚さを描くなら、糞便排出孔であるアナル(肛門)ほど、そのサインにふさわしい物はない。しかし、アニメで人間の肛門を見たい視聴者はどれだけいるのか。
1 世界観や設定は意味をなさない
2 謎や伏線はひっぱるだけだから気にするな
3 腐女子妄想キモホモ
4 独りよがり恋愛を引っ張る上に話やキャラはスッカラカンだ
5 構成や伏線処理を期待してはならない
6 その癖、あざといエ○やネットの媚びだけは一人前
7 シーンの繋がりは期待しても無駄だ
8 キャラの行動や心理やセリフを理解しようとするな
9 原作アニメでメインをはった時はその作品を諦めろ
10 時間の無駄を覚悟しろ
この新作も、なんでメインキャラたちの体がこんなに長いのか。昔の少女漫画かよ。10頭身くらいありそうだ。脚本は吉田玲子らしいが、「ガルパン」的なユーモアが期待できる内容でもなさそうだ。死んだ恋人が、主人公である娘を近くで見守る、というのはよくあるパターンかどうかは知らないが、「ゴースト(ニューヨークの幻)」などと同じで、新味は無い話だ。
湯浅政明はフランスのアニメ映画祭で賞を取ったことで過大評価されている気がするが、まあ、一作しか見ていないので、それは言い過ぎかもしれない。
監督が本当に作りたくて作った作品なのか、知りたいものである。(ただし、依頼されて作ったものでも見事な作品に仕上げる職人監督もたくさんいる。)単に、「こういう内容のアニメは女受けして大ヒットするんじゃね」と考えた連中がプロデュースしただけのような気がする。
アニメと恋愛というのは、実は相性は良くない、という気がする。「君の名は」以外の成功例はほとんど無いのではないか。もともとアニメは子供のものであり、大人がアニメを見るようになったのは最近の話だ。しかも、まだそれほど市民権は得ていない。大人でアニメを見るのはオタクくらいのものである。つまり、こうした恋愛ものがヒットするだけの市場はまだ存在していないと思う。
【悲報】新作アニメ映画「きみと、波にのれたら」無事爆死してしまう・・・・
なお、現在の私は、そういうサディズムの持ち主ではない。弱者の苦痛には同情すべきだ、というモラルが長い年月の間に(半分は自省によって)心に植え込まれたのだろう。
ちなみに、宮崎駿は大学時代にこの『白蛇伝』を見て感銘を受け、アニメの世界に入る決意をしたと言われている。
(追記)宮崎駿がこのアニメを見たのは大学生ではなく高三の時らしい。
ところで本場中国TVアニメ版の白蛇伝「水漫金山」、誰か日本で放送してくtれませんかと言って7年目。
金山寺が水で溢れる=水漫金山
【国产动画】水漫金山片头儿 https://youtu.be/Aztc2bCRcYE @YouTubeさんから
King of the hillという原題らしい。絵がひどいが、内容は素晴らしいアニメである。批判精神があり、ブラックジョークが好きな人なら見ることを勧める。同類のものに「FはファミリーのF」があり、そちらも面白い。もうひとつあり、そちらもタイトルを忘れたが、素晴らしい風刺アニメであった。天才的な赤ん坊と天才的な犬の出るアニメである。海外のアニメは、そういう、大人向けの風刺アニメの出来がいい。ただし、そういうアニメは概して絵がひどい。まあ、その絵のひどさが内容に合っているのだが。要するに、谷岡ヤスジ風味である。

King of the hillはおれの大好きなアニメなんだ
- 名無しさん 投稿日:2019/04/26(金) 11:46:12
テレ東にしてみたら、細にぃはあくまでも身内、視聴者は唯の金蔓
スポンサーの手前クレジットから外したけど、一般国民の抗議に屈
っして上級国民が失脚する訳が無いんだよなぁ
- 名無しさん 投稿日:2019/04/26(金) 12:02:26
寝言のリークで出てきたお偉いさんも出てきたし
これでも処分とは発表出来ない事を考えると
不用意に切ると細谷が周りの不祥事をばら撒くスピーカーと化すから手出し出来ない
ってのにも信憑性が出てきて怖いわ
コネさえあれば四六時中ツイッターやってるだけの自己顕示欲の塊でも権力者になれるって酷い話だ
それに、洋画パロディとは思わないが、脇役キャラの言動がB級西部劇風で視聴者の多くをホッタラカシという感はあった。今時、西部劇を見た経験のある人間は60歳以上だろう。ターゲット設定が間違っている。
そもそも飛行機が「町を守る」という設定に違和感がありすぎだ。国と国の戦争でもなさそうだのに飛行機同士が戦うということに無理があるし、飛行機同士の戦いなら、敗北は即座に死でないとおかしいわけで、女の子キャラを使ったアニメでそういう殺伐とした世界観は視聴者の拒否反応を生むだろう。
要するに、飛行機プラモを売るための企画に女の子たちを主人公とする「ガルパン路線」を無理に融合させたから大失敗したのである。なお、ガルパンは「学園もの」だったという指摘も大きい。スポーツとしての戦車道だから人は死なないという前提があるから見ている者は安心して穏やかな気持ちでアニメを楽しめたのである。
なお、CGキャラの登場人物たちにも違和感がありすぎである。特に下から煽ったカメラ視点で顎の形が不細工だ。
ガルパンの完全に逆言っとるやん
あっちはキャラ可愛くて会話も萌えアニメテンプレって感じやのに戦闘ド派手やから受けたんやろ
なんでガルパンはあんなにウケたんや
キャラデザ良くて話が王道かつ学園モノだからなんだかんだ成功要素は多い コトブキと真逆まである
目的がはっきりしとるのとしてないのやな
ガルパンは大会優勝
コトブキは羽衣丸の護衛と思いきや空に開く穴の取り合い
力の入れ具合と比べたら空回った感がめちゃくちゃ強いってだけで
「ガルパン売れたしこいつにミリ作らせれば間違いなしや!」って偉いやつがやらせたんちゃう
今になって『レクリエーターズ』を少しずつ観てるんだけど、面白い〜(^_^)
概要[編集]
1978年から放送されたサンライズ自社制作の第2弾『無敵鋼人ダイターン3』から同社のオリジナル作品に原作者・原案者として名前を列ねる。実在の特定の個人ではなく、基本的には主にサンライズの企画スタッフの共用ペンネームである[1][2]。ただし、1980年代前半までは、当時の取締役企画部長で1987年からは社長を務めた山浦栄二の事実上のペンネームでもあった(後述)。松尾芭蕉の『おくのほそ道』に使われた「矢立の初め」が名前の由来である。[要出典]
『出撃!マシンロボレスキュー』や『アイドルマスター XENOGLOSSIA』のようにバンダイナムコグループ内の別会社がキャラクターデザインに関する権利を所有する場合でも、企画やプリプロダクションを全てサンライズが取り仕切る場合はサンライズオリジナル作品=矢立肇原作という扱いになることがある。
ただし、全てのサンライズオリジナル作で矢立名義が用いられる訳ではない。例えばガンダムシリーズでは富野由悠季が矢立との連名での原作者となっているほか、『装甲騎兵ボトムズ』などでは高橋良輔が原作者である。 『DTエイトロン』や『コードギアス 反逆のルルーシュ』など、権利関係上矢立肇のクレジットがない作品や、『TIGER & BUNNY』や『アイカツ!』のように「原作 サンライズ」とクレジットされる作品もある。
2015年4月1日付でサンライズのキッズ・ファミリー向け部門が分社化しバンダイナムコピクチャーズが設立され、「原作 サンライズ」の名義も「原作 BN Pictures」に変更されたが、『バトルスピリッツ 烈火魂』については引き続き原作を矢立肇名義としている。