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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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今や、内川をしのぐのではないか、と思われるヒットメーカー、長谷川勇也(ソフトバンク)についてのウィキペディア記事の一部である。特に、入団1、2年目は、まさに疫病神に取り付かれていたかのような不運ぶりで、2年目など、「チームにとっての疫病神」になっていたのが、ここまでの選手になったのは、今、恵まれない運命にある若手選手たちを元気づけるのではないか。2年目の様子など、あまりに不運すぎて、笑いたくなるほどである。
なお、大学時代は18本塁打を打っており、長距離打者としての素質も持ちながら、ホームランに拘らないことで、才能を開花させたのではないか、と私は推測している。
左手小指が曲がらない、というハンデイを持っているあたりは、イチロー以前の代表的ヒットメーカー、張本勲を想起させる。
渾名が「モエ」だと言う(命名者、現オリックス監督の森脇)ところは、なぜそう命名されたのか、興味深い。(以上2点についての記述もウィキペディアにある。)



(以下引用)

プロ入り後[編集]

プロ1年目の2007年は春季キャンプで一時A組(一軍相当)に抜擢されるなど期待されていたものの、左大腿骨頚部を疲労骨折してシーズンの大半をリハビリに費やした。


2008年には、一軍に昇格して4月22日の対楽天戦でプロ初出場、初安打を記録した。相手先発投手が右投手である試合にはスタメンで起用されており、若手の中で成長が期待される選手の一人だったものの、外野守備では他の外野手と交錯してしまうなど連携の悪さが目立った。4月25日の対ロッテ戦では、3回に落下点で待ち構えていたセンターの多村仁にレフトから激突。打球をランニングホームランにしただけでなく、多村には右脚腓骨骨折の重傷を負わせた。同年7月5日、これも対ロッテ戦でセンターとして出場したが、5回裏にベニー・アグバヤニの右中間への打球を柴原洋お見合いして2点タイムリー三塁打を献上し、この際に慌てて打球を処理した柴原は腰痛を悪化させてしまった。7回裏には西岡剛の打球を追って、柴原に代わった中西健太と交錯し、ランニングホームランにしてしまう。この2度の連携ミスもあり、チームは5点差をひっくり返され逆転負けを喫した。8月17日に、試合前のバント練習の際に左手小指を骨折し離脱。それ以降一軍復帰はできなかった。


2009年は開幕スタメンを逃したものの、一時は4割を超える打率を維持。10試合連続安打やアマ・プロ通じて自身初のサヨナラ打を放ち、クリーンアップの一角を担える程の活躍を見せた。7月7日の対オリックス戦では2度のジャンピングキャッチを披露。オールスターゲームの選手間投票で外野手部門第3位に入り初出場を決めた。第1戦、8回1死二、三塁のピンチで東出輝裕の外野フライの際、三塁走者の内川聖一をホームで刺すプレーを見せた。初の規定打席到達でリーグ4位の打率.312、チームトップの159安打を放った。


しかし2010年は開幕から調子が上がらず、5月22日に二軍降格。二週間後に一軍に復帰したが、その後も調子が上がらなかった。


2011年も開幕センタースタメンで出場したものの打撃はパッとせず、福田秀平の成長もあってセンタースタメンを福田に奪われベンチを温める試合もあった。多村が死球で離脱したためライトに福田あるいは中村晃がスタメン出場するようになると再びセンタースタメンが増えたが、打撃はなかなか上向かなかった。しかし7月ごろから打撃も上向き始め、レギュラーシーズン終了時には規定打席にも到達し、リーグ8位の打率.29336とともにリーグ3位の出塁率.379の成績を残した。


クライマックスシリーズでは11打数6安打打率.545と結果を残して第3戦目には10回に涌井秀章から同点タイムリーを打ち、12回には牧田和久からサヨナラタイムリーを打ちチームのCS突破に貢献した[1]。また、マニュライフ生命 特別賞を受賞した。プレーオフ、CSでの1試合4安打は8人目で9度目。ソフトバンクの選手では初。ポストシーズンでは1959年の岡本伊三美以来52年ぶり2人目[2]2012年はビジターでの打率は打率.322を記録した[3]


2013年はキャンプで練習中に打球が頭に当たり骨折したがなんとか開幕に間に合わせる。開幕からチームが低迷する中で高打率を維持し、4月半ばからは不調の本多雄一に変わって1番打者として躍動。さらに、中村晃が頭角を現したことで5月半ばから5番に定着すると、内川聖一松田宣浩らと強力なクリーンナップを形成し、安打を量産。交流戦史上最高打率.418をマークし、交流戦MVPを獲得した[4]。その後も大きな不調に陥ることなく打線を牽引し、9月からは不調の内川聖一に変わって3番を任されるなど、シーズンを通して安定した活躍をみせた。最終的には200安打にあと2本届かなかったが、2010年川﨑宗則が記録した球団記録の190安打を上回る198安打を放ち、自身初のタイトルとなる首位打者と最多安打に輝いた。自身初のフルイニング出場を果たし、3本のサヨナラ打(5月3日西武戦、9月15日日本ハム戦、9月23日西武戦)と勝負強さも光った[5]。ベストナインを初受賞した[6]


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