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- 女性に関しては、若いころから長い間少女漫画界で活動していた弓月光の方が、同じく少女漫画も描いていたとはいえ少女漫画での活動時期は短かった(そして基本的にロマンチストの)ちばてつやより熟知しているだろう。女性はたいてい目の前と未来しか見ない。過去などに囚われるのは男である。だから、年を取っても女性は若い。年を取った男は(自分の現状を過去と比較するから)不平不満だらけになる。
北崎 拓@ますらお 波弦、屋島編連載中! @takukitazaki
- ホワイトの点一つから名作のこうした洞察が後年できるってのもアナログならではですねぇ…。 ここは「女ってスゴイ」って少し寂しい気分になったシーンなのでよく覚えています…(*´д`*)【RT】
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- 北崎 拓@ますらお 波弦、屋島編連載中!さんがリツイート
- 紀子とジョーのデートで「これでおしまい」と決めたんだから泣くのはおかしいわな。女性の方が男性よりこういうことでは諦めがいい。https://twitter.com/sonosin2/status/991874494141677568 …
- 1件の返信 75件のリツイート 120 いいね
「場末の。」から転載。
「遺恨勃発! 頑張れ千葉ロッテ!!」というあおりがあったのは気づかなかった。
ちなみに、「場末の」氏によれば、このシーンのBGMは「仁義なき戦い」のテーマだそうであるwww
「原幕の狂犬」の呼び名は「場末の」氏の命名か、わたモテスレの定番かは知らない。
唐突な千葉ロッテへの応援が笑いを誘う
ひと言で言えば、学食のネズミーランド化ですな。主要メンバーがほとんど学食に集まってどったんばったん大騒ぎ。
いやあ、面白い。小宮山、弟まで来て、小宮山が吉田さんに切れるという展開。次回が大変だ。
「場末の。」から転載。
記事全体もいつも通りの素晴らしい内容だが、回全体の構成を論じているのが珍しいし、その分析も非常に的確だと思うので、称賛するために転載した。文芸(あるいは漫画)評論はかくあるべし、というものだ。評者自身がユーモアセンスに溢れていて、文章が面白いのも称賛に値するが、作品への愛情の深さにいつも感動する。
もこっちワールドへの「異物」としての平沢雫の登場(この「雫」は、「耳を澄ませば」の月島雫を連想させる。特に少女漫画を知らなくても、誰でも知っているジブリ映画の「少女漫画的主人公」である。)で、話の今後の展開が豊かなものになりそうである。果たして、「悪役」うっちー、ゆり、ネモ、ヤンキーの攻撃に「主人公」平沢雫のメンタルは耐えられるか! wwww
(以下引用)
……それにしても今回の話は様々な要素が詰め込まれていましたね。
まず、この話の出だしから「少女漫画」という今回のテーマを提示し、少女漫画での「お約束」をもこっちに否定させつつも、少女漫画のお約束の流れを組み込む構成が見事でした。
最初にその「少女漫画」を出してきたことにより、読み手である読者も「ああ、これは少女漫画をパロってるんだな」と分かりやすくなりますから。本当に導入がうまい。しかもその導入も突拍子もないものではなく、昼ごはんを食べる相手が居なくて困っている南さんから繋がっていますから、無駄なページが一枚もありません。
オチを担当してくれたうっちーはまさに少女漫画に出てくるライバルキャラのテンプレ台詞を言ってくれましたし、同級生の女の子に敵の多い平沢さんはまさに少女漫画の主人公であり、そして数少ない理解者(もこっち……厳密には理解者ではありませんが)が一人だけ居るという構成もよく見かけます。その他にも主人公(平沢さん)が先輩をキラキラビジョンで見てしまうというのもありがちです。
また、キャラクターの掛け合いが今回も楽しくてしょうがありませんでした。ギャグ漫画、そして百合好きの読者にとっても非常に秀逸な回であり、これぞわたモテ!だと思わされましたね!
草
ヒェッ
草
やっぱうっちー面白えわ
ヒエッ……
草
こんなんよく気付くなあ
こわい
よく気づいたなこんなんw
白木葉子の愛の告白はちばの創作部分だったというのは初めて知った。
ちばと梶原という、まるで個性の違う、むしろ対立的な性格の創作家がタッグを組むことで、高度な人間ドラマが達成されるという、「弁証法的名作」が「あしたのジョー」だったのだろう。
(以下引用)
ことによると、矢吹丈は、なりゆきまかせに拳闘の世界の外へ脱落していったほうが、パンチドランカーにもならず安逸な人生を送られたかもしれません。
しかし、白木葉子という「悪魔」はそれを許さなかったわけです。
たえず死地に呼び戻し、精神と肉体の極限にまでたっする死闘をさせたのが白木葉子です。
白木葉子自身、丈が投げつけた「悪魔」という面罵をかみしめて、こういいます。
「悪魔……! 悪魔…… そうかもしれない ひょっとすると わたしは矢吹丈を生きながら地獄へひきずりこむ悪魔――」(文庫版8巻p.180)
矢吹丈の野性、獣性の美しさをみたいがゆえに、矢吹丈の精神と肉体を消尽しつくそうとする冷血ブルジョア令嬢――これが白木葉子の役回りです。
しかし、矢吹丈が「悪魔」と葉子をののしりつつも、「女神」だとそのヤヌス的性格を言い表わすのは、丈自身が拳闘によって自分の生命が最高度に燃焼することを知っているからです。
「そこいらのれんじゅうみたいに ブスブスとくすぶりながら 不完全燃焼しているんじゃない ほんのしゅんかんにせよ まぶしいほど まっかに燃えあがるんだ そして あとにはまっ白な灰だけがのこる… 燃えかすなんかのこりやしない…… まっ白な灰だけだ そんな充実感は拳闘をやるまえはなかったよ」(文庫版8巻p.382)
運命の辻々で丈が白木葉子の用意した死闘を演じることは、丈にとって命を粗末にすることではなく、生命と人生を最大限に輝かせるために必要なことだったという、梶原流の野蛮な演歌――しかし人をひきつけずにはおかない演歌――なのです。まさに白木葉子が「悪魔」であり「女神」であるゆえんはここにあります。
しかし、これこそ「梶原的物語」であり、ここではまだ白木葉子は実に機能的な役目しか果さぬキャラクターにすぎません。いわば矢吹丈の獣性をひきだす、一種の冷血機械です。
白木葉子が生きた人間としての圧倒的な存在感を獲得するのは、ぼくは最後の最後、ラストにきて、矢吹丈に愛の告白をしたその瞬間ではないかと思います。
パンチドランカーであることが明白になった丈に、ホセ戦に立つのをやめるよう、二人だけの控室で葉子は懇願します。
「たのむから…… リングへあがるのだけはやめて 一生のおねがい……!!」
涙を流す葉子。そんな表情の葉子を初めて見たためにとまどう丈。
「すきなのよ 矢吹くん あなたが!!」
(文庫版12巻p.121)
「まっ白な灰」になるまでたたかわせることが「女神」であり「悪魔」としての白木嬢の役割のはずですが、葉子はここでその機能的役割をかなぐりすてて愛の告白をおこないます。この矛盾にみちた、しかし必然的な白木葉子の告白によって、彼女は「梶原的物語」の機能的役割をうちやぶり、躍動する人間形象へと飛翔するのです。
このシーンによって、白木葉子を心の恋人にしてしまった読者は少なくないはずです。
斎藤貴男はこのシーンについて次のように書いています。
「実は、このシーンも(梶原の)原作にはない。葉子がジョーに抱いていたに違いない愛情を、なんとか形にしてやりたいちばの創作だった」(p.214~215)
すなわち、この白木葉子の飛翔は、ちばという描き手を得てはじめて可能だったわけです。
ちばという人間主義的な精神がなければ、白木葉子はここまで大きな存在感をかちえなかったというのが、ぼくの思うことなのです。
白木葉子は物語全体の中で、矢吹の試合を観戦中、あまりの凄惨さに目をそむけその場を逃げ出そうとしますが、思いとどまりその試合を見続ける、という葛藤を三度まで演じます。たとえパンチドランカーになろうが廃人になろうが、「まっ白な灰」になるまで人生を燃焼させてやるという冷血機械としての役目を演じ切ることが、白木葉子の役割ですし、このシーンがなくて多少の葛藤を描いただけでも白木嬢の、物語上の役割は果たせたかもしれません(梶原思想の尖兵ともいえる)。
しかし、土壇場に来て、これまで白木葉子が見せたことのないほどの取り乱しぶり、涙の懇願をするわけで、これは梶原的物語にたいする、ちばの巨大な反乱なのです。いっさいをかき乱す破調ともいうべきシーンです。
この「反乱」によって、物語は、梶原的な必然の物語だけでなく、ちば的な生きた人間の物語へと変われました。
ただし、「反乱」といっても、けっきょくは丈の最後の対戦はおこなわれてしまうわけで、この「反乱」は「鎮圧」され、最終的には梶原的物語が全体を制するのですが。
白木葉子が、野獣にもどっていく丈をみて、
「バイオリンにストラディバリウスという名器があるけれど――
ただ 名器というだけで だれがひいてもすばらしい音色を出せるわけじゃない
名バイオリニストにめぐりあえて はじめて
その名器のもつ本来の音色を奏でることができるんだわ……」
(文庫版8巻p.146)
とつぶやくシーンがあり、それが矢吹丈にとってカーロス・リベラという強敵だったのだというわけなのですが、この言葉は梶原とちばの関係そのものを言い表わした言葉のような気がします。
平田弘史は一流の書家でもあるから、構想ノートは文字で、しかも筆ペンで書いているようだ。いや、「ペンが持てない」状態だとも記事には書いているのだから、どうなのだろうか。
(以下引用)
手元に置かれている構想ノートによると、すべてのページに朱でバツが描かれてあった。思いついても一晩経つとバツになるのである。先生の作り方は、常に作品の核心テーマから思考を外さない。少しでも外れていると感じたらバツになるのだ。
これは大変なものを見た、と思った。これは講談社のために描こうとしている作品だが、講談社はこれをもう7年も待っているのだという。しかし先生は今、ご病気でペンが持てない状態である。「ペンが持てんから、こうしてひたすらストーリーを練っておるのだ。」
一番無心なのは加藤さんで、一人で焦りまくっているのがもこっち。ゆりは「また黒木さんは」とあきれ顔、ネモが一番怖い顔をしている。サイコ顔www 笑顔で人を殺しそうな感じ。
まあ、加藤さんだけもこっちの中で高ランクであることを察して心穏やかでないことは分かる。
要するに、記憶する必要の無いことをなぜ覚える意味があるのか、という気持ちなのである。記憶力が悪いほうが毎日を新しい気分で生きられるし、一度読んだ推理小説に何度でも騙されてお得である。自分の誕生日くらいは忘れたくても忘れることが難しいが、他人の顔や誕生日などまったく覚えられない。フィクションの人物のほうがよほど記憶に残る。
もちろん、社会生活を送る上では記憶力は絶対的に必要だが、苦の種にもなる、と言いたいのである。太宰治や芥川龍之介として生まれるより、白痴として生まれたほうが主観的には幸福かもしれない。