白木葉子の愛の告白はちばの創作部分だったというのは初めて知った。
ちばと梶原という、まるで個性の違う、むしろ対立的な性格の創作家がタッグを組むことで、高度な人間ドラマが達成されるという、「弁証法的名作」が「あしたのジョー」だったのだろう。
(以下引用)
ことによると、矢吹丈は、なりゆきまかせに拳闘の世界の外へ脱落していったほうが、パンチドランカーにもならず安逸な人生を送られたかもしれません。
しかし、白木葉子という「悪魔」はそれを許さなかったわけです。
たえず死地に呼び戻し、精神と肉体の極限にまでたっする死闘をさせたのが白木葉子です。
白木葉子自身、丈が投げつけた「悪魔」という面罵をかみしめて、こういいます。
「悪魔……! 悪魔…… そうかもしれない ひょっとすると わたしは矢吹丈を生きながら地獄へひきずりこむ悪魔――」(文庫版8巻p.180)
矢吹丈の野性、獣性の美しさをみたいがゆえに、矢吹丈の精神と肉体を消尽しつくそうとする冷血ブルジョア令嬢――これが白木葉子の役回りです。
しかし、矢吹丈が「悪魔」と葉子をののしりつつも、「女神」だとそのヤヌス的性格を言い表わすのは、丈自身が拳闘によって自分の生命が最高度に燃焼することを知っているからです。
「そこいらのれんじゅうみたいに ブスブスとくすぶりながら 不完全燃焼しているんじゃない ほんのしゅんかんにせよ まぶしいほど まっかに燃えあがるんだ そして あとにはまっ白な灰だけがのこる… 燃えかすなんかのこりやしない…… まっ白な灰だけだ そんな充実感は拳闘をやるまえはなかったよ」(文庫版8巻p.382)
運命の辻々で丈が白木葉子の用意した死闘を演じることは、丈にとって命を粗末にすることではなく、生命と人生を最大限に輝かせるために必要なことだったという、梶原流の野蛮な演歌――しかし人をひきつけずにはおかない演歌――なのです。まさに白木葉子が「悪魔」であり「女神」であるゆえんはここにあります。
しかし、これこそ「梶原的物語」であり、ここではまだ白木葉子は実に機能的な役目しか果さぬキャラクターにすぎません。いわば矢吹丈の獣性をひきだす、一種の冷血機械です。
白木葉子が生きた人間としての圧倒的な存在感を獲得するのは、ぼくは最後の最後、ラストにきて、矢吹丈に愛の告白をしたその瞬間ではないかと思います。
パンチドランカーであることが明白になった丈に、ホセ戦に立つのをやめるよう、二人だけの控室で葉子は懇願します。
「たのむから…… リングへあがるのだけはやめて 一生のおねがい……!!」
涙を流す葉子。そんな表情の葉子を初めて見たためにとまどう丈。
「すきなのよ 矢吹くん あなたが!!」
(文庫版12巻p.121)
「まっ白な灰」になるまでたたかわせることが「女神」であり「悪魔」としての白木嬢の役割のはずですが、葉子はここでその機能的役割をかなぐりすてて愛の告白をおこないます。この矛盾にみちた、しかし必然的な白木葉子の告白によって、彼女は「梶原的物語」の機能的役割をうちやぶり、躍動する人間形象へと飛翔するのです。
このシーンによって、白木葉子を心の恋人にしてしまった読者は少なくないはずです。
斎藤貴男はこのシーンについて次のように書いています。
「実は、このシーンも(梶原の)原作にはない。葉子がジョーに抱いていたに違いない愛情を、なんとか形にしてやりたいちばの創作だった」(p.214~215)
すなわち、この白木葉子の飛翔は、ちばという描き手を得てはじめて可能だったわけです。
ちばという人間主義的な精神がなければ、白木葉子はここまで大きな存在感をかちえなかったというのが、ぼくの思うことなのです。
白木葉子は物語全体の中で、矢吹の試合を観戦中、あまりの凄惨さに目をそむけその場を逃げ出そうとしますが、思いとどまりその試合を見続ける、という葛藤を三度まで演じます。たとえパンチドランカーになろうが廃人になろうが、「まっ白な灰」になるまで人生を燃焼させてやるという冷血機械としての役目を演じ切ることが、白木葉子の役割ですし、このシーンがなくて多少の葛藤を描いただけでも白木嬢の、物語上の役割は果たせたかもしれません(梶原思想の尖兵ともいえる)。
しかし、土壇場に来て、これまで白木葉子が見せたことのないほどの取り乱しぶり、涙の懇願をするわけで、これは梶原的物語にたいする、ちばの巨大な反乱なのです。いっさいをかき乱す破調ともいうべきシーンです。
この「反乱」によって、物語は、梶原的な必然の物語だけでなく、ちば的な生きた人間の物語へと変われました。
ただし、「反乱」といっても、けっきょくは丈の最後の対戦はおこなわれてしまうわけで、この「反乱」は「鎮圧」され、最終的には梶原的物語が全体を制するのですが。
白木葉子が、野獣にもどっていく丈をみて、
「バイオリンにストラディバリウスという名器があるけれど――
ただ 名器というだけで だれがひいてもすばらしい音色を出せるわけじゃない
名バイオリニストにめぐりあえて はじめて
その名器のもつ本来の音色を奏でることができるんだわ……」
(文庫版8巻p.146)
とつぶやくシーンがあり、それが矢吹丈にとってカーロス・リベラという強敵だったのだというわけなのですが、この言葉は梶原とちばの関係そのものを言い表わした言葉のような気がします。