浦和
浦和サポの愚行が話題になっているので、2013年の9月に「サッカー批評」のために書いた原稿をアップしておきます。
浦和サポの愚行について8月24日の午後、清水エスパレスと浦和レッズのゲームが行われたエコパスタジアムの駐車場で、浦和レッズのサポーター4名が警備員に暴行をはたらいた容疑で逮捕された。報道によれば、容疑者4名は、直接の容疑(警備員の胸ぐらをつかんだり、体を押したりしたとされている)を否認しているのだそうだが、犯行に先立って、逮捕された4名を含む浦和サポの一部が、清水エスパルスの選手を乗せたバスに爆竹や発煙筒を投げたことは、既に事実として認定されている。つくづく、バカな事件だ。個人的には、スタジアムに暴力を持ち込むファンは、電車の中で痴漢行為をはたらく人間と同等だと思っている。そういう連中には、できれば、二度とサッカーにかかわってほしくない。もっとも、「ほんの小競り合いじゃないか」と、軽く見る向きもあるはずだ。実際、評論家の中にも「日本の観客はおとなしすぎる」みたいなことを言う人は存在する。「ヨーロッパの観客からしたらこんなのは挨拶代わりじだよ(笑)」といった調子だ。でもって、そういう論客は、「暴力に傾斜しかねないほどの熱気をはらんだ観客の応援圧力が真のサッカー文化をはぐくんでいるのだ」ぐらいな説教をカマして、わが国の品行方正なサッカーファンを叱りつけていたりするわけだ。私はそうは思わない。サポーターが荒くれるぐらいのことで、日本のサッカーのレベルが向上するなんてことはあり得ない。サッカーはそんなに単純なスポーツではない。また、どこの国のリーグであれ、サポーターの暴徒化がチームを強化する筋合いもない。あたりまえの話だ。それでも、発煙筒が飛び交うイタリアあたりの観客席の風景を「カッコいい」と思っているサポーターは、たぶん、そんなに少なくない。だからこそ私は、今回のようなサポによる暴力事件を、軽視すべきではないと考えている次第だ。8月27日のスポニチによれば、《Jリーグの大東和美チェアマンは26日、浦和からの事実関係の報告を待って、裁定委員会で処分を検討する考えを示した。》のだそうで、展開次第では、制裁金や勝ち点の剥奪も考えられるということになっている。個人的には、思い切った処分を期待している。というのも、この数年、スタジアムに足を運ぶ度に、サポ席周辺のトゲトゲしさがエスカレートしている感じを抱いているからだ。そろそろ、リーグとして、サポーターのマナーに対して、明確なメッセージを伝えるべき時期に来ていると思う。というわけで、今回は、ヨーロッパ風のやさぐれた観戦マナーに憧れる一部のサポーターがもたらすかもしれない害悪について書くことにする。ドーハの悲劇から日韓ワールドカップ開催に至る数年の間、インターネット上のサッカーコンテンツは、掲示板を中心にまわっていた。おぼえている人もいるはずだ。西暦2000年をはさんだその当時は、まだミクシィもツイッターもフェイスブックも生まれていなかった。それゆえ、インターネット世界の潮流は、個人ベースのホームページと、管理人が手動でページを更新するタイプの掲示板に多くの部分を負っていた。私も、1997年から2002年頃までは、日々の習慣として、いくつかのサッカー掲示板を巡回し、その時々のネット世論の動向を眺め、時には自分で思うところを書き込んでは、同じ場所に集うサッカーファンとの間で意見を交換したりしていた。私の記憶では、2004年ぐらいまでは、多少の紛糾はあったものの、掲示板は順調に機能していた。つまり、参加者がそれなりのマナーを守って、短い言葉をやりとりしつつ、交流を楽しみ、インターネットサッカー文化の隆盛を信じていたのである。ところが、それらの大小さまざまのサポ掲示板は、ある時期を境に、バタバタと閉鎖する流れになった。閉鎖の直接の原因は、掲示板を主宰する管理人が、「荒らし」と呼ばれる素行のよろしくない客の所業に耐えられなくなったからだ。荒らしの中には、同じ文言を大量に書き込む自動スクリプト(コンピュータのプログラム)で掲示板を機能不全に追い込む知能犯もいた。と、そうしたウィルスまがいのロボットに対処するスキルを持たない管理人は、掲示板をもちこたえることができなくなる。でなくても、常連筆者の怒りや管理人の周章を面白がる悪意ある扇動者は、何度追い出しても、次から次へと新しい認証ハンドルを手に入れて、何度でも罵詈雑言を浴びせてくる。結果、荒らし耐性を備えた「2ちゃんねる」の内部に、自主運営の掲示板が残ったほかは、わが国のサッカー掲示板文化は、たった2年ほどの間に、ほぼ死滅するに至ったのである。それも、突然現れた、数にすればタカの知れた、跳ね上がりのバカたちの悪意のために、だ。この時に味わった喪失感を、私はいまでも時々思い出す。何年もの間毎日通っていたなじみの掲示板が、ある日突然閉鎖した時の寂しさは、ある意味、行きつけの蕎麦屋が閉店した時よりもキツい。蕎麦ならほかの蕎麦屋に行く手もあるが、掲示板を失った常連は、ほかに集まるべき場所を容易に見つけられないからだ。いまでも、たとえば、2ちゃんねるのサッカー掲示板を覗くことはあるのだが、あれは、往年のまったりとした掲示板とはまるで違う。日韓W杯前後の掲示板は、たとえて言うなら、行きつけのスナックのような場所だった。常連客の顔(といってもハンドルネームだけだが)は、互いに見知っていた。私のような、滅多に書き込みをしない客も、一日に一度はのれんをくぐって、店の様子を覗いていたわけで、ということはつまり、あの場所は、とにかく仲間が集まる根城だったわけで、「なあなあ」でだらしない部分はあったものの、常連にとっては居心地の良い空間だったのである。その、おそらく数百人から数千人の常連客をかかえた(書き込まずに読んでいただけの人間を勘定に入れれば、利用者の数は数万人に達していたかもしれない)掲示板を荒らしていたのは、せいぜいが数十人の不心得者だった。というよりも、最も致命的な被害をもたらしていた最強力な荒らしは、数人に過ぎなかったかもしれない。ところが、その、数人から数十人のちっぽけな連中の悪意は、数千人が集うサッカー愛の共同体を瓦解させることができたのである。それほどに、悪は強い。たった一匹のハエがとまっただけで、ケーキ一つがまるごと台無しになるみたいなもので、数万人の善男善女がサッカーを楽しんでいるスタジアムであっても、数十人のならず者が人種差別発言を叫ぶだけで、ゲームが没収されるケースは考えられる。かほどに、クズの影響力は大きい。だから、クズの動向に、われわれは、常に注意を払っていなければならない。現在、ツイッターでも似たようなことが起こりはじめている。ツイッターでの発言がきっかけでブログが炎上して、最終的に自殺してしまった県議会議員がいたが、こうした事例は、世界中で繰り返されている。ほんの一握りの人間の悪意が、数千人の娯楽を台無しにする仕様は、インターネットというシステムががかかえている病理のようなものなのかもしれない。「悪貨は良貨を駆逐する」と言ったのは、経済学者だったが、多数の人間がひとつの場所に集合すると、どこであれ、ほぼ同じことが起こる。すなわち、最も暴力的な人間が最も大きな権力を手に入れ、最も品の無い振る舞いが、最も巨大な影響力を発揮することになるのである。浦和レッズのサポーターが暴力事件を起こしたのと同じ頃、島根県のある図書館に収蔵してある「はだしのゲン」という漫画作品が「閉架処置」(誰もが見られる形で展示されないようになる、ということ)にされたというニュースが流れてきた。閉架処置そのものの是非は、当稿の主題とは無関係なので、ここでは問わない。大切なのは、ひとつの作品の公開法をめぐる決定が、事実上、たった一人の人間の苦情(閉架処置は特定の人物の執拗な抗議と働きかけにによって決定されたことが取材によって明らかになっている)によって、変更されてしまったという事実だ。われわれは、少数者の悪意が多数者を翻弄する世界の中で暮らしている。広告業界で働く知人によれば、評判の良かったCMが、たった一本の苦情電話で放送中止になった例が、彼自身がかかわった例だけでも、この5年ほどの間に3例ほどあるのだという。「苦情を想定して、アイディア段階でツブされる例だったら、それこそ何百件もあるぞ」かように、われわれの社会は、苦情や荒らしや暴力に対して、以前にもまして脆弱になっている。サッカー界も同様だ。ごく少数の愚かなサポーターが引き起こす不祥事の責任を適切に処理できる人間は、実は、どこにもいない、チームも、協会も、メディアも、コトが起こったら後ろも見ずに逃げるはずだ。であるからして、スタジアムで見かけたバカや、観客席で暴力を振り回して粋がっているバカは、なんとしても芽のうちに摘み取らねばならない。2002年頃、日韓共催の絡みで掲示板にレイシストがまぎれこんで来たのをはじめて見かけた時、私は、「こいつらは、特定の民族をケナしたいだけで、サッカーとは無縁な連中だからほうっておけば良い」と考えていた。が、気がついた時には、彼らの攻撃にさらされて、掲示板は、続々と潰れていた。同じことを繰り返してはならない。なので、リーグおよび協会には、ぜひ毅然とした対応を期待したい。