文中の小兵衛、大治郎は「剣客商売」の人物。
江戸幕府の衰退の最大原因は、税収をほとんど百姓からの年貢だけに頼ったことだろう。つまり、都市住民から「住民税」と「法人税(営業税)」を取り立てれば幕府財政があれほど傾くことは無かったのではないか? もちろん、そうならなかったのは商人が幕府要人と結託していたからである。つまり、白アリが官僚の中にたくさんいたからだ。
おや? これは現代でもまったく同じ構造か?
(以下引用)
◆江戸御府内の町民税
百姓が高い年貢を納めるに対し、小兵衛のように都市部の住民の税は驚くほど安かった。所得税、贈与税や相続税に該当する税はなかった。
百姓を除けば、現代に比べてはるかに税負担は軽かった。町民達の収入を把握するのが百姓などと比べて困難というのも理由だろう。
○公役(くやく)
幕府のために働く人足を出させるという公役(くやく)を課していた。後に銀納化された。二十坪を一小間という課税単位とし、地域によって格差をつけた。江戸の中心部(日本橋、神田など)は五小間、中の所(浅草近辺、両国、芝など)は七小間、郊外(本所、深川など)は十小間の割合で銀三十匁を納める。土地がある地域のランクと広さで税額が決まる。
作中の大治郎の家の土地の正確な広さはわからないが、道場は十五坪、住居は六畳の三畳の二間と台所がある設定のため二十坪以上はあるだろう。小太郎が生まれると増築したのでもう一間ある。大治郎の道場兼住居の土地を多めに見積もって約二小間だろうか。
浅草近辺は七小間で銀三十匁の割合で納めるため、大治郎が納めるのは銀九匁(この時代の相場は一両=銀65匁=銭6貫文)ほどと驚くほど安い。現代のように税金の支払いで苦労することはないだろう。
町名主が年に三回集めに来る。借家人である店子の分は家賃に含まれ家主が納めた。
○国役
職人を幕府のために使役する。時代経るに連れて銀納になり、棟梁がまとめて支払った。
○町入用
現在の地方税に相当する。江戸時代の江戸御府内は町名主や家主など町民の役人である町(ちょう)役人が主体となり、自治を行っていた。詳しくは江戸の自治参照。
町入用から名主や地主、家主ら町役人や町内に雇われている自身番、木戸番や町火消の人件費、事務費、町内の道路工事や雑用など自治にかかる費用を賄っていた。町入用は町名主に納める。
◆百姓への税
領主が自由に税率を決めた。高い税負担では百姓が逃げてしまい知行亡所という耕作者がいなくなることもある。
四代将軍家綱の頃までは城下町や街道整備、治水工事など大掛かりな土木事業が行われ、税率は七割だった。新田開発が盛んな江戸時代初期までは耕作地に比べ耕作する者が少なく、引き手数多だった。天領は人件費が藩よりはるかに安いため藩よりも税率は低い。
江戸時代の平均で四割程度と言われているが、八公二民という高税を課した藩もあった。ただ、帳簿上から導き出される税率であり、帳簿のデータが古く実際の村高の増加分が反映されず、帳簿に未記載で税が課せられていない隠田があるため実際の税率はさらに低いと考えられている。
検地は実際の村高が記載され、隠田が摘発されるなど増税を前提に行わるため百姓の反対が大きい。定期的に行うには費用や技術的に困難な面倒な作業で、百年ぐらい検地を行わないことあった。ここで紹介するのは幕府のもので藩は各藩によって異なる。
○年貢
村高に応じて村単位で年貢が課せられ村内で負担を割り振った。幕府の税率の目安は四公六民(税率四割)だった。役人が田圃を見て年貢量決める「検見法」が行われていた。代官所は人手不足で、代官所の役人である手代は家を継げなかった百姓の次男三男など現地採用の者が多く、馴れ合いが生じた。視察に来た役人へ賄賂を贈り、年貢量を減らさせるなど不正が多く、綱吉の代には年貢率が三割以下に低下していた。
享保七年(1722)の税制改革で十年平均の収穫量を基準に年貢量を決める「定免法」に切替え年貢率は三割七分まで上った。年貢率は向上したが税を減らすために賄賂を贈る必要もなく、税負担は負担は減ったと考えられている。幕府としては収入が不安定な検見法より年貢収入がわかりやすくなる。
なお、同制度は加賀藩が慶安四年(1651)より実施し、他の大名や旗本領では行われていた。凶作や災害時には「破免検見法」を実施し、役人が現地を見て通常の年よりも年貢負担を軽くした。
畑への課税は、畑の面積の三分の一で収穫可能な米の年貢相当の代金を農作物を売却した銀から徴収する「三分一銀法」だったが同時に米で納めさせるようにした。十八世紀後半には金納制も実施された地域もあり農村にも貨幣経済が拡大していた。
○小物成
米以外の桑や茶などの農作物や漁業や狩猟で得た収入に対する税。村単位で課税される。金銭で納めた。
○夫役
領主が行う公共工事などに人足として労働力を提供するか、金銭を納めた。
○国役金
朝鮮通信使の来日や将軍の日光社参拝、大規模な土木工事などの費用を賄うための税。日光社参拝なら関八州、東海で大規模な工事を行うなら東海地域の天領と旗本領の農民と内容ごとに対象地域が決められ、その都度課税した。
○高掛金
浅草御米蔵前入用(米蔵の運営費)や御伝馬宿入用(五街道の整備や本宿、宿駅の維持経営費)、六尺給米(江戸城の台所賄いの人件費)の三種類。村高に応じて課税される。御伝馬宿入用費と六尺給米は御三卿領地にも課税される。
浅草御米蔵前入用は百石で金一分(税率0.25%)、御伝馬宿入用は百石で米六升(税率0.06%)、六尺給米は百石で米二升(0.02%)の割合で税を納めた。
○村入用費
自治会費。現在の地方税に相当する。江戸時代は現在よりも住民自治が進み幕府や藩ではなく村が役所のような役割を果たしていた。人件費や事務費、出張費、祭礼費用、自治体内の公共事業(道普請や水利事業など村が行えることは村が行った)などで帳簿化し透明性を高めた。
◆商人への税
幕府は農民へ年貢を課したが、商人に百姓並の税負担を課すという考え方はなく、現在の法人税や所得税に相当する税は存在しなかった。