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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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スレタイを見て、「そう言えば、そうだなあ」と思ったが、コメント27を見て、また「そう言えばそうだなあ」と思ったのが我ながら面白い。二重の錯覚であると同時に、そこには合理的原因があるかと思う。
今の若い人の中には、在日朝鮮人が、日韓(朝)併合後、朝鮮半島が日本に植民地化され、当時の朝鮮人の中から日本本土へ労働者として来た人たちや、太平洋戦争当時、強制的に労働者や兵士として徴用された人たちの子孫であることを知らない者も多いのではないか。私の子供のころは、在日朝鮮人差別の問題がしばしば話題になったものである。(当時は「在日朝鮮人」としか言わなかった。韓国人というのは、第二次大戦後に生まれた名称だからだ。つまり、在日朝鮮人はあくまで日本の朝鮮統治の名残りなのである。)
在日朝鮮人は戦後しばらくはまともな職業に就くことができず、スポーツ界や芸能界のような「実力主義」世界(スポーツも芸能もある意味、体ひとつの商売である。)か、パチンコ店や焼き肉店のような「朝鮮人実業家独占業種」でしか成功できなかった。時代が進むと、在日朝鮮人の中から政治家になる者も多くなってきたが、あくまで日本人名(通名)を使ってである。
で、本題だが、アニメや漫画が「韓国人キャラ」をあまり出さないのは、日本人に多い「韓国人嫌悪」のためだが、その嫌悪は実は「自分たち日本人(の先祖)が韓国人にひどいことをしてきた」という自責の念と表裏一体であるわけだ。自責の念=自己嫌悪であり、そして自責の念は「こいつら(韓国人)は、俺に自己嫌悪の感情を起こさせる不愉快な連中だ」と、他責に変わるのである。
コメント27で言うように、ある種の漫画が在日朝鮮人を暴力団キャラや不良キャラに使うのは現実にもその種の在日朝鮮人が多いことと、「悪役として」読者や視聴者の憎悪の対象にしやすいからだろう。
話が長くなったので、中国人キャラの問題はまたいずれ書く(かもしれない)。

(以下引用)


【謎】中国人キャラは多のに、韓国人キャラがほとんどいない理由
2024.09.05 |カテゴリ:漫アゲ 議論 | コメント (390)
1: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 13:53:26.477 ID:Nytb.F1vC
no title


なんでや



3: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 13:53:55.077 ID:RpSOXyZAs
キム・カッファン

4: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 13:53:56.285 ID:MoB8S0kQj
必要性が無いため

6: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 13:54:44.765 ID:ub9mAinfA
ブラジル人はいるけどアルゼンチン人がいないって言ってるようなもんやろ

7: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 13:55:47.487 ID:Nr39.U7pC
ジャッジアイズのキムさん

9: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 13:56:53.600 ID:B5mP.jDA3
まず名前がダサくなるのキャラとして致命的なんよな

10: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 13:57:01.952 ID:XjdA2WZaK
日本や中国みたいな明確なキャラ付けが出来てない

14: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 13:58:25.678 ID:NBfySdQ/Z
式神の城の韓国人好き

15: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 13:58:35.437 ID:MVPdVOxAt
シージのトッケビ

16: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 13:58:54.527 ID:sjBLyhqJa
最近はちょくちょくおるやろ

18: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 13:59:15.191 ID:/3us3t6Il
owにも人気キャラおったやろ鉄拳にもなんかいた気がするけど思い出せんわ

22: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 14:02:21.399 ID:NUlVeAxGE
ジュリ

24: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 14:02:38.658 ID:0vdOwEbA/
PSYCHOPASSのチェグソン

27: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 14:03:45.417 ID:Y6nEptZMR
ヤクザ漫画や不良漫画にめっちゃおるやん
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第三十九章 イマジン



 



 作者の願望充足的な、能天気そのもののこの物語に、前章のような場面が出てきたことに違和感を感じておられる方もおありだろうが、中世というのはそういう時代だったのである。最近の学者(御用学者ではないかと私は疑っているが)の中には、それに異論を唱える者もいるようだが、生産力の低い時代には、上位の階級が、下の人間の生産した物を奪い取って生活していたというのは、確固とした事実である。そして、その事は不正極まりない出来事であり、いつまでもそれを忘れるべきではない。なぜなら、権力の不正は、常に形を変えて繰り返され、これからも繰り返され続けるからである。プロローグに書いた内容からも想像できるように、作者の心には、幼児的な願望や動物的欲望ばかりではなく、権力の不正に対する怒りが常にあるのであり、それは多分、この物語を書いた一つの原動力でもあるのだ。その事とこの物語の内容が部分的に矛盾するように見えるかもしれない。しかし、確かに主人公は権力を得るが、それはその方が話が面白いからにすぎないのである。権力自体は正義でも悪でもなく、その正しい使用と不正な使用があるだけだ。



民衆の歴史は苦役と悲惨そのものであり、人類の大半が安楽な暮らしができるようになったのは、やっと前世紀後半くらいからのことにすぎない。それは、基本的には科学の発達と、それによる生産力の向上のためであり、政治や宗教のためではない。政治や宗教がちゃんとしていたら、人類はとっくにユートピアを実現していただろう。真の偉人は、生産力の向上に尽くした無数の無名の科学者や技術者であり、ナポレオンやアレクサンダーやシーザーではないのである。もちろん、政治の変革が民衆の生活向上を促したというのも正しいのであり、それはただ一つ、「民主主義」という思想によってである。つまり、科学や技術の発達は、生産力を向上させ、民主主義は、その正しい配分を促した。したがって、現在の人間は、ルソーをこそ自分たちの恩人と思わなければならないのだ。マルクスの誤りは、パイの配分にのみ目を引かれ、パイの総量を増やすことに目が行かなかったことにある。



政治の歴史や現代政治を冷静に眺めれば分かるように、政治は常に、政治によって利益を得ている一部の人間たち(「政治によって生きる人間」だ)、つまり、国王、貴族、政治家、官僚、ブルジョワジー(現代なら、企業経営者や重役)やその一族の利益に奉仕する事を第一義としており、一般民衆はそのおこぼれに与っているにすぎない。したがって、民衆にとって正しい政治のあり方は民主主義しかない、ということも分かるだろう。一部の保守思想家のように民主主義を批判し、愚弄する人々は、自分をエリートや貴族的人間だと勘違いしているか、食卓の傍の犬のように、権力におもねって食べ残しの骨を得ようとしている汚らしい連中であるが、その言説に迷わされる庶民も多い。民衆自身が民主主義を否定することほど、滑稽なことがあるだろうか。



ただし、どのような政治的手続きが民主主義かは大きな問題であって、選挙によって為政者を選び、それに自分たちを支配させる「代議制」は、選ばれた人間が公約を守らず、勝手に自分たちの判断で政治を決定していくならば、それは少しも国民の意思を反映していないわけで、真の民主主義からは遠いものである。「代議制」はどうしても、代議士の利益のための政治にしかならないのだから、真の民主主義は、すべての議題を民衆の投票で決定する直接民主制しかない。現在の代議制は、そこに至る過渡的段階と考えるべきだろう。直接民主制が実現するためには、もちろん、民衆の政治的判断力が高度に発達しなければならないわけで、現在の日本のように国民が政治的に無知な状況ではそれは不可能な話だが、国民に真の批判精神が根付けば、いつかは可能になるだろう。



ついでに言っておけば、日本の教育は、為政者(あるいは、政治的寄生虫ども)に都合がいいように、政治に無知な国民を作るのに大いに役立っているのであり、十二年から十六年もあの無意味な知識の詰め込み教育(特に、あの無味乾燥な「政治社会」や「日本史」!)を受けたら、現実への批判精神など、消えてしまうのは確実である。おそらく、日本の若者の中で、新聞を読む習慣のある人間は、一割か二割くらいのものだろう。まして、政治欄を読む人間など、一割もおるまい。まったく見事な公教育の成果である。



また。宗教は、確かにその存在によって人々に幻想的な慰安を与え、この世の苦しみを忘れさせるものではあるが、それによって現実への不満を忘れさせ、改革への意欲を失わせるものであり、マルクスの言うように、一種の阿片であることは確かだ。それに、歴史上、戦争に反対した宗教家がほとんどいないことからも分かるように、これも第一義的には為政者に奉仕するためのものか、あるいは宗教家たちの生計手段でしかない。スタンダールのジュリアン・ソレルが、「赤」か「黒」か、つまり、軍服を選ぼうか僧服をえらぼうかと迷ったのは、それがこの世での立身出世の手段だったからであった。



 では、政治や宗教に代わる物が何かあるか、と言われれば、それは無い。と言うより、必要ないと言っておこう。ジョン・レノンの「イマジン」ではないが、遠い未来には宗教も国もなくなり、人間の自然な倫理(これは、おそらく、過度の欲望は幸福には結びつかないということが全人類の共通の理解となることから生まれる倫理である)が法律よりも上位に来て、人々が完全に自律的に行動して誤らない世界が来るだろう。これは確かに夢想だが、人類のすべての偉業は、たとえばライト兄弟の飛行機のように、最初はみな御伽話の類としか思われなかったのである。多くの人間が同じ夢を見るようになれば、この夢想も、やがて予見であったとされる日が来るかもしれない。



 



第四十章 物語論



 



 さて、物語もお終いに近くなってきたので、このあたりで物語そのものについての筆者の考えをまとめておこう。これは、この物語がなぜ、あちこちに政治や倫理や人間性についてのお喋りがはさまるのかということについての言い訳でもある。



小説や物語を書く面白さは、基本的には、書くに従って、新しい世界が形成されていくことである。しかし、その世界は無から生じるものではなく、作者の世界観や社会認識の反映であり、フリードたちのこの物語も、自分の力一つで、つまり腕力で世の中を生きていく男たちの物語を書いてみたいという漠然とした考えで書き出したものだが、その中に社会批判めいたものが含まれてしまうのは、それはやはり作者がどうしても現実社会に対して無関心ではいられない人間だからである。それに、後で述べるように、物語の書き方には決まりは無く、小説は、作者の思想を述べる場でもあるからだ。



しかし、思想とか世界観と言っても実は大した物ではない。作者の興味の対象となるものが自ずと作品中に出てくるのであり、この作品なら、たとえば武器や女性などである。作者の中には幼児的な願望や好みがあり、それが剣やピストルなどの武器への偏愛である。筆者は、金物屋へ行くとナイフ売り場につい立ち止まってしまう人間である。いや、包丁でも金槌でもバールでも、武器になるものならなんでも好きだ。これは男の原始的本能だろう。だからといってそういう物を無闇に振り回したりはしないが。



 本当なら、現実の人生で出会う厭な人間どもを剣で斬り、ピストルで撃ってみたいのだが、それをすると刑務所行きであるから、現実の生活ではストレスが溜まる。そこで、剣で斬ることの快感を、たとえ紙の上、空想の上だけでも味わいたいから、こうした物語を書くのであり、その事自体は幼稚だとも恥ずかしい事だとも筆者は思わない。「千一夜物語」などに見られるような、こうした願望充足こそが物語の原点だろう。興味のあり方が違うと言えばそれまでだが、その点、純文学の作品など、書く事に何の意味があるのやら、さっぱりわからない。多くの純文学の作品は、上手くてケチのつけようは無いとは思うが、読んでいてちっとも楽しくも面白くもないのだから、書いている本人も本当は楽しくはないだろう。物語は、書いている本人が楽しいというのが一番の書く目的ではないのだろうか。そして、書く楽しさは、内容が願望充足的であるということと、書くに連れて世界が作られていく事による、というのは先に書いた通りだ。そのためには、綿密な構想に従って書いてはいけないのではないか。フイールディングの「トム・ジョウンズ」は、私のもっとも好きな作品の一つだが、作者のフイールディングは、あの作品を綿密な構想のもとに書いていったとは思わない。大体の筋だけ決めて、後は出たとこ任せで書いていったのだろうと思っている。その方が楽しいに決まっているのだから。



 もっとも、ポオのように、物語は後ろから書くべきだと主張する者もいる。つまり、全体の構想を綿密に立ててからでないと、書くべきではない、ということだ。彼の見事な作品は確かにそうした考えの結果だろうが、そのために作品に一種の息苦しさがあるのも否定できないのではないだろうか。一部のファルスや「黄金虫」だけは、開放感があるが、それはポオ自身が、「前から」書いていったからだと思われる。ポオに限らず、多くの推理小説にはこの種の息苦しさがあり、筆者などには、読む気を起こさせないのである。筆者がこの物語を書いたもう一つの動機は、そうした世上の「完璧な」小説やら文学やらへの批判もある。筆者自身はスターンの「トリストラム・シャンデー」は読み通してはいないが、その物語思想には大いに共鳴する。小説は、そのように気楽で楽しいものであるべきだと思っている。



 さて、脇道が二章も続いて、フリードたちの物語の方が、いつのまにやらどこかへ行ってしまった。もともと、筋など考えてもいない物語ではあるが、これではエッセイなのか物語なのか分からない。まあ、そのどっちでもあると思って貰いたい。もともと小説の書き方には決まりなどない、作者が思うように書けばいいのだ、とフイールディングも宣言しているのである。物語にすら規範を求める、お堅い人間の目からは、このような物語は、小説とも言えない下らぬ作品としか見られないだろうが、小説は、作者とのお喋りである、というのが、筆者の基本的な考えである。そして、それならば、小説においては、細部に面白さがあれば十分であって、ストーリーというものは、実はそう思われているほど大きな意味は持たないのではないか、と考えてもいるのである。いや、そうではない、キャラクターの造形、背景描写、心理描写、堅牢なストーリー展開、といったものがなければ小説ではない、という人間がいても勿論いいが、いや、それがおそらく小説読みの大半だろうが、そうではない人間もいるはずだ。作者の私自身が読みたいのも、夏目漱石の「猫」や、フイールディングの「トム・ジョウンズ」のような小説である。あの、気楽な、自由な、作者とお喋りする雰囲気こそ、小説を読む楽しさであると筆者には思われる。だから、そういう作品を筆者も書きたいのである。それに、ストーリーは、読めばそれで終わりだが、作者の思想は、もしも読者がそれに共鳴するならば、読者の心に長く続く影響を残す。それも小説の大きな意義ではないだろうか。



 物語も終盤近くなって、このような駄弁もどうかとは思うが、これが多分最後の駄弁なので、お許し願いたい。



 

 

風の中の鳥 (37)(38) 2016/08/07 (Sun)




第三十七章 冬の夜



 冬が来た。雪の降り積もった山はひっそりと静かだったが、フリードとミルドレッドの山の家には大きな石造りの暖炉があり、秋の間に蓄えた豊富な薪と食糧で、長い冬も安楽に過ごせそうであった。

 さすがのジグムントも、人恋しさのためにフリードの家に来て過ごす事が多くなり、今では彼の家に泊まる事の方が多かった。

 周りが雪に閉ざされた冬の間は、する事もほとんど無い。フリードは、木を削って弓矢を作ったり、家の内部の様々な調度を作ったりする事で日々を過ごしていた。そして、ミルドレッドは、やがて生まれる子の肌着を縫い、着物を作る。

 単調だが、退屈ではない。人間の暮らしとは、もともとそういうものだ。

 昼の間はまだ、屋根の雪下ろしなどのために外に出ることもあるが、夜には炉辺で話をしたり、居眠りなどをしたりするだけだ。

ジグムントは、暖炉の前で手足をあぶりながら、フリードたちと別れてからの話をした。

 フリードから、エルマニアの郡の一つの領主となるように言われて、それを断ったジグムントは、一人でふらりと旅に出た。いや、一人ではなく、従者を一人連れていた。例の、人参小僧ティモシーである。

 最初は、物珍しさから、未知のエルマニア国のあちこちを旅して回ったが、やがて故郷が懐かしくなり、彼はフランシアに戻った。

 そこで聞いた話は、思いがけないものだった。

 あの、皇太子妃のマリアが王妃になったという話である。国王のマルタンが死んで皇太子が即位したわけではない。息子の嫁に欲情した国王マルタンが、マリアを奪って自分の物にしたのである。例によって人にノーと言えない性格のマリアは、それに素直に従ったのだろうが、皇太子は、いい面の皮である。前の王妃は、離婚こそされないものの、遠くの離宮にほとんど幽閉状態にある、ということで、まったく美貌というものは罪作りなものである。

 国王の義父となったアキムは、大変な権力者となり、今では財務大臣となってフランシアの国家財政のすべてを管理していた。

 ジグムントと久し振りに再会したアキムは、大喜びをして、彼にフランシア宮廷の廷臣となる事を勧めたが、彼はそれを断った。陰謀だらけで、油断も隙もならない宮廷で生きることなど真っ平だったからだ。

 彼は里心のついたティモシーをパーリャに残し、一人で再び放浪の旅に出た。その間、様々な冒険もあったが、やがて体の衰えを感じ、人生最後の日々をひっそりと暮らそうと、この住み慣れた山小屋に戻ってきた、というのがジグムントの話であった。

「そうそう、そう言えば、アキムには妾がいたぞ。今では、正妻のサラよりよほど威張っておった」

 ジグムントの言葉に、フリードは答えた。

「まあ、大臣ともなれば珍しい事ではないでしょうな」

「それが、あのシモーヌじゃ」

「シモーヌ?」

「ほれ、わしとお前が最初にアキムの家に行った時、美人の女中がいたじゃろう。あの女中のシモーヌじゃよ」

「ああ、思い出しました」

 フリードの心に、あの、つんと澄ました、きれいな顔をしたシモーヌの顔が思い浮かんだ。実は、彼女を見た時、フリードの心には、彼女の体を得たいという欲望が生じていたのだが、家の主人への遠慮と、田舎者の気後れのために何も出来なかったのであった。今の自分なら、さっさと手に入れていたものを。

 そうしたフリードの心を見透かしたように、ミルドレッドが口を挟んだ。

「あんた、そのシモーヌって子に惚れていたんでしょう」

 妻の勘の良さに、フリードはびくっとした。こいつ、魔女ではないだろうな。

「ま、まさか」

「ふん、どうだか。男なんて、みんな同じよ。少しきれいな子を見るとすぐに鼻の下を伸ばすんだから」

「はっはっはっ。まあ、許してやれ。あの頃はこいつも純情で、あの美人の女中に手は出さなかったのじゃから。もっとも、あの女は澄ました顔に似ず、好き者で、わしとは寝ておるのじゃよ。だから、アキムの前で、妾になったあの女と顔を合わせるのは、何とも面映いものじゃったわい」 

 フリードはあきれて、この、手の早い老人の顔を見つめた。

長い冬の夜はしんしんと更けていく。

 暖炉の灰の中で焼き栗のはぜる音がする。

 窓の外では時折ごうっと強い風の音がするが、室内は火に照らされ、平和で暖かだ。

こうして、時間はゆっくりと過ぎていくのであった。



第三十八章 春と死体



 やがて春になった。

 雪解け水が、割れた雪の間を流れ、黒い湿った土があちこちに姿を現し、草や木の緑の芽生えが伸び始めた。

 太陽の光も輝きを増し、風に春の匂いが漂いだしている。つまり、草木と土の匂いである。太陽の匂いさえもするようだ。

 ミルドレッドのお腹はずいぶんと大きくなっていたが、出産にはまだ間がありそうである。

 フリードは、ミルドレッドが欲しがっている台所の品物を手に入れるために、山を下りて近くの村へ行ってみることにした。

 ある村の近くまで来た時、フリードは異様な気配を感じた。この季節の村は、春の農耕の準備で活気に溢れているはずだのに、村の近辺がひっそりと静まり返っているのである。

 村に入ったフリードは、そこである物を目撃して、思わず顔をそむけた。

 道端の、露出した黒土の間に転がっているのは、腐乱した人間の死体であった。

 よく見ると、あちこちに人間の白骨が転がっている。しかし、そのほとんどは、手足や頭部がばらばらになった物である。肉がついて腐乱したものは、最初に見た一体だけだ。

 フリードは、事情を理解した。つまり、この村は、飢饉のために同じ村の人間同士が食い合ったのである。

 フリードは幾つかの家に入って、どこにも食糧がひとかけらも無い事を確認し、自分の想像が誤っていない事を確信した。家の中にも、白骨死体があちこちにあった。その多くは子供や幼児の白骨である。まず子供や幼児が食われ、最後に大人たちが食い合ったのだろう。

 フリードは、小さな子供の白骨を見下ろして眉根を曇らせた。

 この子供たちは、何のためにこの世に生まれてきたのだろうか。この世に生まれることに何の意味があったというのだろうか。彼らがこんな目に遭わねばならないどんな理由があるというのか。神は、こういうことをお許しになるのだろうか。

 フリードはもともとあまり信心深い人間でもなかったが、この当時の人間の常として、神の存在自体は疑った事はなかった。

 しかし、目の前の光景は、もしも神がこの世界を作ったのなら、その神は人間の理解する善や悪とは無縁の、非人格的な存在でしかないだろうと思わせるものだった。

 このような事をフリードは概念的に思考したわけではなく、ただ漠然と考えただけであったが、神への疑いの気持ちが生じたことは確かであった。また、神の宣伝者である、僧侶たちへの疑いも彼の中に生じた。確かに、僧侶たちの中には善人も多く、人々への施しをすることもある。しかし、彼らに十分の一税を納めるために人々が苦しんでいる事を考えれば、雀の涙ほどの施しなど、何の意味も持たないだろう。彼らは貴族と同じ特権階級であり、この世の寄生者である。

 彼自身、国王として人々を苦しめていたのではないかと考えると、フリードは目の前の子供の白骨が、自分のせいであるような気持ちになった。

 この世は、神が作った世界かもしれない。それは確かめようのないことだ。しかし、この世はこのような悪と悲惨に満ちている。それを変えられるのは、神ではなく、人間である自分たちだけだ。神はこの世のことに関与しないのだ。

 フリードは、重苦しい気持ちを抱いて山の家に戻って行った。






いや、女性で81キロはかなりのデブだろうwww
気の毒で泣けた人もいるようだ。

(以下引用)あえて、記事本文は載せない。

「81キロはすごい」NHK女性キャスターのガチ始球式が反響「フォームが豪快」「なんか泣けた」




 



第三十五章 街道



 



 フリードは、次の日、引き連れてきた軍隊を部下の一人に預け、自分はミルドレッドとともに馬でライオネルの屋敷を離れた。



 軍隊と一緒でさえなければ、現国王ケスタの追跡をかわすのは難しいことではない。フリードはまず、南東のローラン国の方に向かった。国境を越えれば、ケスタの追っ手に捕まることはないだろう。



 フリードの心は軽かった。まるで、これまでの国王としての生活が、籠の中の鳥の生活ででもあったかのようである。あの、無為の日々の安楽と退屈は、もはや彼方にある。



 フリードは、傍らで馬を走らせるミルドレッドを見やって微笑んだ。ミルドレッドも笑顔を返す。



 青空の下を、そして星空の下を二人は走った。



 爽やかな風の吹く夏である。



「これで、元通り。まったくの素寒貧から出直しだ」



 フリードが言うと、ミルドレッドは答えた。



「それは違うよ、フリード。あんたが旅に出たときには一人だった。今は私がいる。それがあんたの財産さ」



「そうだな。素晴らしい財産だ。俺はそういう財産をずっと忘れていた。馬鹿だったよ」



 宿屋など滅多に出会うこともないから、夜には野宿をする。寝る前には、もちろん心行くまで交合する。男と女の体が一つになる時の、この安らぎは、快感以上に貴重に思われる。近くで野獣がうろついていようが、剣の達人の二人には、怖くもなんともない。



 これこそ、自分の求めていた生活だったのだ、と今ではフリードは考えていた。



 だが、ローラン国を放浪して二月ほど過ぎた頃、ミルドレッドは体の変調を来し始めた。



妊娠である。



 彼女の腹に子供が出来た事を知ったフリードは、馬を走らせる事をやめ、歩ませるだけにするようにした。



 どこかに定住して、彼女に無事に子供を産ませようと考えた時、フリードが思い出したのは、ジグムントの山小屋であった。



 ちょうど、今いる所からその山小屋までは、そう遠くはない。彼はそこに向かうことにした。



 道々、強盗や追い剥ぎに何度か出会ったが、相手が何人いようが、フリードとミルドレッドの敵ではない。なるべく、ミルドレッドに負担をかけないように、フリードは、ほとんど一人で戦ったが、危なくなるとミルドレッドが手助けしたのはもちろんである。



 そうした追い剥ぎや盗賊から逆に奪い取った金や武器が二人の旅の資金になった。なにしろ、街道や野山で出遭う人間の二人に一人は盗賊であるという時代である。獲物の山賊盗賊には事欠かない。彼らが歩いた道の後は、山賊盗賊がきれいに掃除されてしまったわけであった。



 やがて、二人は山に入り、フリードがジグムントと出会ったあの山小屋に辿り着いた。



 



第三十六章 山小屋



 



 フリードたちが山小屋に着いた時は、夕方になっていた。なだらかではあるが、木が鬱蒼と茂り、馬に乗っては歩きにくい山道を徒歩で歩いてきて、フリードとミルドレッドはかなり疲れていた。



 山の谷間の、谷川に面した岸辺に山小屋が見えた時、フリードは不思議な感覚を感じた。まるで、四年前に戻ったみたいである。



 小屋には、明かりがついていたのであった。



 もしかしたら、この四年間の事はすべて夢で、今の自分は、役人を殺してムルドの村から逃げてきたばかりではないだろうか、とフリードはふと思ったが、後ろを振り返ると、そこにはちゃんとミルドレッドと二頭の馬がいた。



「誰かいるらしい」



「ジグムントかしら」



「まさか!」



 フリードは小屋の戸を叩いた。



「どなたじゃな」



 中からしわがれた老人臭い声が聞こえた。



 フリードとミルドレッドは、顔を見合わせた。まさか、本当にジグムントではないだろうか。



「旅の者です。一晩泊めていただきたいのですが」



「旅の者だと? 盗賊ではないだろうな。ならば、ここには何も取る物はないぞ」



 フリードは、中の人間がジグムントである事を確信した。



「ジグムント! 僕です。フリードです。ミルドレッドもここにいます」



「フリードじゃと? まさか……」



 戸が開いた。



 中から顔を出したのは、紛れも無くジグムントだった。しかし、この三年の間に髪はすっかり真っ白になり、体も一回り小さくなったようである。



「おやおや、これは本当にフリードじゃわい。それに、ミルドレッド、相変わらず美しいのう。さあ、中に入るがよい」



 ジグムントは二人を室内に招き入れた。



「一体、どういう風の吹き回しじゃ。エルマニア国の国王や、領主様が、こんな山小屋を訪れるとは」



 ジグムントは懐かしそうに二人を見ながら言った。



 フリードは、自分がエルマニア国を追われた事、ライオネルが死んだ事を話した。



「では、お前さんは振り出しに戻ったわけじゃな。いやはや、世の中というものは面白いものじゃ。いや、面白いと言っては、ミルドレッドには済まないな。何しろ、亭主が死んだばかりじゃからな。しかし、どうやら、お前さんたち、只の仲じゃないな」



 二人は顔を赤らめた。



「実は……」



 フリードは、ライオネルからミルドレッドを託された事を話した。



「何とまあ、亭主直々の譲渡とはな。もともとお主たちが好き合っていたのは誰もが皆分かっていた事じゃから、ライオネルもお主に女房を譲ったんじゃろう。……しかし、あのミルドレッドが母になるとはな。いいじゃろう。ここでゆっくり過ごすがいい。しかし、わしの目の前で乳繰り合われるのはかなわんから、まぐわいたいときは、そのへんの野原に隠れてやってくれ」



 フリードは、ジグムントに感謝の言葉を述べた。



 翌日から、フリードはジグムントの小屋の側に、新しい山小屋を作る作業を始めた。なにしろ、ジグムントの小屋は三人で暮らすには狭かったからである。



 近くの林の木を切り倒し、枝を払って木材を作る。ジグムントやミルドレッドの手はわずらわせず、ほとんどフリードはそれらの作業を一人でやった。もともと狩人のフリードには、山小屋作りは慣れた作業である。



 こうして体を動かして物を作っていると、フリードの体の中には不思議な喜びが沸き起こってきた。それは、一つには、この作業が、やがて生まれる自分たちの子供のための作業でもあったからだろう。



 木を切り倒すのにはジグムントの斧を借りたが、枝を払ったり、木の表面を削ったりするのには、剣を使う。あの、アキムに貰った高価な剣である。人を殺す為に作られた名剣も、自分がこのような平和な利用のされ方をする日が来るとは夢にも思わなかっただろう。



 ミルドレッドは、嬉々として主婦の仕事をやっていた。放っておくといつまでも同じ物を着ている不潔な男たちの衣類を強引に脱がせ、川で洗濯する。破れた衣服は糸で繕う。



 ジグムントには、まるで只働きの使用人が二人もできたようなものである。孤独を慰める話し相手もでき、彼はまったく幸福な老人となった。



 秋になると、三人は冬籠りの支度を始めた。



 木の実や草の実で、食用になり、保存の利く物を集め、フリードは得意の弓で、冬眠前の肥え太った動物たちを射る。狩った獲物は、皮を剥ぎ、肉は燻製にして地下の貯蔵室に格納する。



 そして、秋が終わる頃、フリードとミルドレッドの家が完成した。



 木造二階建て、5LDKという豪華な家である。ただし、そのうち二部屋は馬小屋と鳥小屋だったが、いずれにしても、一生働いても安っぽいマンション一つ買えない現代日本のサラリーマンから見れば、羨ましい話である。なにしろ、いつでも好きな場所に、好きな家を勝手に建てていいのだから。そう考えると、現代は昔より進歩しているのか、退歩しているのかよく分からない。



 ミルドレッドは、もちろん、完成した自分の家に大喜びである。二人が新居に移った後、ジグムントも新しい家に同居するように勧められたが、この頑固な老人は意固地に古い小さな自分の山小屋に住み続けたのであった。 




私は監督としての岡田は嫌いではない。野球観がしっかりしているからだ。つまり、for the teamが最優先だということである。個人成績は個人のものでしかない。チームにどう貢献できたかが、チームにとっての選手価値である。
王貞治の偉いのは、何度敬遠されても平然としていたことだ。無理にホームランを狙ってフォームを崩す愚かさを知っていたこともあるが、四球で塁に出るのもチーム貢献だ、ということである。
下の記事の佐藤や中野はチーム貢献意識が低いのではないか。それは野球脳が無いとも言える。
ちなみに、昔の大選手にもfor the team意識ゼロの選手はごろごろいた。東映時代の張本など、その代表だったが、巨人に入ってがらりと変わったのである。それが巨人の最大の美点だった。(私はアンチジャイアンツだったが、巨人の美点は認めていた。)

(以下引用)

2024年09月26日


岡田監督「すごいことが起きている。言うたら選手かわいそうやから言わんけど」



スクリーンショット 2024-02-27 21.38.37
2: 風吹けば名無し 2024/09/26(木) 09:36:51.94 ID:9Ezmuabw0

厳しい状況に立たされても、指揮官はミラクルVは諦めていない。チームを引き締めるように振り返ったのは23日・巨人戦だ。「完璧に失敗したよ。進塁打のサイン出したらよかったと思ったよ」。0-0の六回、無死二塁から佐藤輝は浅い中飛に倒れてしまい、チャンスを広げることができなかった。

 「ここまできたら分かると思ったけどなあ。分からんかったなあ。あれで終わりよ。打ち方じゃないやん、状況判断やんか」

 同じアウトでも、フライではなくゴロで走者を進めてほしかった場面。今後、佐藤輝に同じケースが訪れると「バント出すよ。バント要員行かす」。“代打バント”の勝負手を繰り出すとまで言い切り、1点に対するこだわりを強調した。

346: 風吹けば名無し 2024/09/26(木) 11:54:56.48 ID:xCACGm1w0
>>2
ひでー結果論、さすがどんカス

負けてから振り返るなら誰だって出来るわ
好調だった佐藤の打撃に自分が期待しただけだろ

3: 風吹けば名無し 2024/09/26(木) 09:37:29.74 ID:9Ezmuabw0
-状況に応じたバッティングを。

 「自分1人やねんもん、バッターボックス。自分がやらなしゃあないんやから。どういう姿勢を見せるかやけどな」

 (自ら続けて)

 「DeNAの牧なんかノーアウト二塁なったら自分でセカンドゴロ打ちにいっとるよ。何回も見たよ。ベンチでみんなから握手求められてる。あれサインじゃないと思うよ」

 -安打よりも二ゴロの方が価値がある場合も。

 「自分の打ち損ないに悔しがっているようではあかんいうことやんか。昔やったら大変やろ。『ベンチ帰ってくんな』言われるよな。『向こうのベンチいけ』って。こんな大事な時期にあんなバッティングしとったら」

 -次の試合から意識して変えられる。

 「本人や言うてるやんか。積み重ねやで。初回、近本の二塁打で今年中野のレフトフライ何本あった?勘定してみ。あれ全部進塁打のサインよ。だからバントさせてん。いつもいつも自分のスイングがでけへんわけやから。相手は崩しにきてるわけやから。崩れた時に状況判断に応じた打球方向とかバッティングができるかどうか」

4: 風吹けば名無し 2024/09/26(木) 09:38:01.54 ID:9Ezmuabw0
 -選手も分かってる。

 「もうずっと積み重ねやからな。そんなんいちいち言えへんよ。プロやねんから、分かるやろ。それができへんかったら負けるいうことよ。点が入らんいうことよ」

 -佐藤輝は打ちたい打ちたいになっているか。

 「打たれへんて言うてるの、何割打ってるの。向こうも抑えようとしてるんやから。教育やなあ、バッティング技術じゃないよ、野球観ていうかな、野球知ってる知らんとかな。勝つためのバッティングとかな、点入るためのバッティングとか、打席で自分が考えてやるしかないからのお」

 -日本シリーズも経験して、そういう打撃も知っているはずだが。

 「打たれへんやんか。日本シリーズ、ホームランでも打ったか?取り上げてんのは、盗塁だけやんか」

 (自ら続けて)

 「一瞬でがらっと変わるわけやから。チャンスの後にな、ピンチはあるとか、そういう言葉もどっから出たんか知らんけど、そういうことやで。野球いうものは」

12: 風吹けば名無し 2024/09/26(木) 09:46:39.41 ID:9Ezmuabw0
「すごいことが起きている。言うたら選手かわいそうやから言わんけど」

 阪神の岡田彰布監督(66)が昨17日の巨人戦で敗れた試合後、こうつぶやいたという報道が球界で波紋を広げている。

 岡田監督といえば、今季はリーグ4位(18日現在)と成績が振るわないこともあって、選手やコーチも名指しで厳しく批判。17日は不振が続く近本、中野の1、2番コンビをスタメンから外す荒療治も行ったが、3-4で接戦を落とした。試合後は「チグハグ」という言葉を繰り返し、「(選手が走塁の)サイン出しても見てない。ひどすぎる」とボヤくことしきりだった。

 そんな中、いつもは歯に衣着せず具体名を挙げてコメントする指揮官が、「言うたらかわいそう」とあえて名前を伏せ、「すごいことが起きている」と意味深な発言をしただけに、「何らかの事件があったのでは」(球界関係者)、と勘ぐる向きが少なくないのだ。

これ中野やったんやな
「超訳コネクト」から転載。
見事な評論である。



● 「名無しの男の原型」
  評価:★★★★★★★★★☆

 黒澤作品の中では、日本で最も大きな商業的成功を収めたのが「用心棒」だ。批評家や映画ファンの中には、この作品はそれほど深みのあるものではなく、娯楽要素の強いアクション映画だったから商業的に成功したのだと語る者もいる。しかし、この一年足らずのうちに三回この映画を観た私としては、こうした意見には賛成しかねる。娯楽要素があって楽しめる映画であるということは確かだ。だが、黒澤明と菊島隆三が書いたこの映画の脚本には見かけより深い内容が表現されているのだ。

「用心棒」について、何よりもまず先に理解しておかなければならないのは、この作品がダーク・コメディであるということだ。黒澤はそれまでも陰気で気の滅入りそうな場面だからこそ生まれるユーモアを表現しようとしてきた。そして、その黒澤の願いが叶えられたのが「用心棒」なのだ。三十郎という主人公の侍が黒澤の代理人を務めていて、黒澤がやりたいことを三十郎が映画の中で実行してくれる。三十郎が現実に存在していそうな登場人物に見えないのは、そのせいなのだろうと私は解釈している。

 三十郎のように謎めいていて無骨で、放浪中にほとんど自分と関わりのなかったことに巻き込まれていくという主人公は、映画の世界ではおなじみの存在だ。このキャラクターの原型は、黒澤が愛してやまないアメリカ西部劇の中にあったのだが、確立させたのは黒澤だ。そのため、「用心棒」以降、この三十郎に深く影響されて作られた登場人物はたくさんいる。たとえばクリント・イーストウッドが演じた「名無しの男」、あるいは「マッドマックス」にもこうしたキャラクターが登場する。
 
 ストーリーに関しては、映画が作られた当時の日本の状況を意識して作られている。主人公の三十郎がたどり着いた町はひと気がなく、薄気味悪い雰囲気だ。この町は対立する二つの集団に支配されていた。それぞれの集団の中心にいたのは商人だ。商人たちは用心棒としてならず者たちを集め、ならず者たちは金のために商人を必要としていた。こうした図式は、経済がたくましく成長していた頃の日本社会を映し出している。企業家と政治家は日本に富をもたらす一方で、裏ではヤクザの助けを得ていたのだから。
 
 黒澤は映画製作当時の「今」の状況に光を当てるために、あえて過去の世界を舞台にしたのだ。そして、今の世界に向けて語りたい哲学を表現させるために三十郎を使った、私はそう考えている。ある意味で、黒澤流に歴史を書き換えたのが、この「用心棒」なのだろう。日本の実際の歴史では、侍階級は存在感を失っていき、商人たちが台頭するようになった。しかし、黒澤の空想する歴史では三十郎を使うことで侍を墓地から呼び戻し、ならず者たちを一掃させ、町をきれいにさせるのだ。
 
 この作品は撮影術も素晴らしい。望遠レンズを使ったシーンがかなり多く、格好いいショットが随所に散りばめられている。画面構成の見事さ、役者たちの配置の仕方に関しては黒澤に並ぶ者はいないと言っても良いくらいだ。ワイドアングルで撮影されたシーンについても黒澤と撮影の宮川一夫に畏敬の念を抱かずにはいられない。街角を捉えた屋外のシーンなどは実に見事だ。三十郎がならず者たちと対峙するシーンでは、機械で作られた風が非常に効果的に雰囲気を盛り上げてくれる。
 
 アクションシーンの撮影に関しては、黒澤はかなりシンプルな手法を採る。多くの映画で見られるように、短いカットを次々に切り替えていくような手法は採らない。彼は対角線上に2台のカメラを置いて撮影し、あとは編集やカメラワークよりも役者たちの動きの方を全面的に信頼するというスタイルだ。
 
 それから、なんといっても、スクリーンの大半を占める三船敏郎の存在感の大きさは見事だ。彼からにじみ出る重厚さ、そして力強さ。チャーミングで、頭の回転も早く、柔和でもありながら、必要に応じて凄まじく攻撃的にもなるという三十郎の役柄に矛盾を感じさせることなく演じきれているのだ。三船は男性的かつ強烈な個性を、この作品に残してくれた。彼がならず者たちの行動を操る姿、そして直接対決する姿は実に痛快だった。仲代達矢も三船の一番の敵役として心に残る演技を見せてくれた。目を輝かせながら、力の象徴ともいうべきピストルを誇示する彼の振る舞いも、三船同様、強い個性を感じさせてくれた。
 
「用心棒」は、黒澤が生んだ他の傑作「羅生門」や「赤ひげ」ほど複雑な作品ではないかもしれない。だが、「用心棒」には伝えるべきメッセージが込められているし、この作品について語られるべきこともまだ残されている。

 黒澤の卓越した映画作りの能力が、映画というものを新たなレベルにまで引き上げてくれたのだ。必見の作品だ。彼が生み出した最高傑作の一つであることは間違いない。強くおすすめしたい。




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● 「人間は人間にとって狼である」
  評価:★★★★★★★★★☆

「人間は人間にとって狼である」という有名なラテン語のフレーズが、黒澤明の21番目の監督作品である「用心棒」を説明するのに相応しい。

「用心棒」は純粋かつ完璧な侍映画だ。侍映画に必要な要素は、外見上も内面に流れる思想もすべてが揃っている。侍映画の歴史は1930年代~1940年代まで遡れるが、この力強いジャンルが本当に確立されたのは1950年代前半で、ちょうど日本の映画が最初にヨーロッパで公開され始めた頃と同じ時期だ。それから現在に至るまでずっと生き続けているジャンルだが、「用心棒」は、疑問の余地なく全ての侍映画の中で5本の指に入る傑作だ。この優れた作品に登場する架空のキャラクターたちは皮肉まじりのユーモア、そして永遠の課題とも言うべき、人間の弱さを表現している。
 
 ところで、侍映画というジャンルは西部劇との共通点も多い。アメリカの伝承から生まれたのが西部劇なら、日本の伝承から生まれたのが侍の物語だ。西部劇について黒澤はこう語ったことがある。

「良い西部劇は誰もが好きです。誰もが弱いので、好ましい登場人物と偉大なヒーローを観たくなるからですね。西部劇は繰り返し繰り返し何度も作られてきました。そして、その過程の中で確かな文法ともいうべきものが確立されていったのです。僕もその中から何かを学べたと思いますね。」

 西部劇も侍映画も、共にそれぞれの国の歴史の中で重要な時代を舞台にしている。そして武器をとって戦うヒーローたちに焦点を当てている。そうしたヒーローたちは、時に社会の末端にいる者だったりすることもある。彼らが秩序を取り戻したところで、それが新たなより良い社会を作ることにはつながらないと知りつつも、武器をとって戦うのだ。「用心棒」の中でも、まさにこの通りの物語が展開される。

 黒澤には、遠い昔の時代を舞台にして自らの物語を作る癖があった。これは封建的な制度を嫌う自らの思想がプロデューサーや映画会社重役たちを怒らせないようにするためだ。現代と直接結び付けられることなく、彼は大きなスクリーンで自由に自分の思想を表現することができた。だからこそ、彼は侍映画を熱心に研究したのだ。

「用心棒」のストーリーは、今となっては古典的と思える。ただし、それはこのストーリーが後に多数の作品に借用されてきたからでもある。例えば「荒野の用心棒」(1964)、「ラストマン・スタンディング」(1996)などだ。用心棒という日本語はボディガード、またはヒットマンを意味する言葉で、まさにこの映画の主人公のことを指す言葉でもある。ストーリーは以下の通りだ。

 三船敏郎が演じる名もなき侍がある町にやってきた。そこにはやくざ者たちの組織が二つあり、日々、抗争を繰り広げている。侍はその片方に雇われることになった。だが、雇われているふりをしながら、侍は彼らを欺いていたのだ。侍の本当の狙いは二つの組織を共倒れさせることだった。騙されていることに気づいたやくざ者は侍を痛めつけ、監禁する。どうにか逃げ出した侍は身を隠しながら体の回復を待っていた。その間に抗争は激しさを増し、とうとう一方の組織が壊滅に追い込まれた。数日後、回復を遂げた侍は再び町に現れ、残るやくざ者達をすべて切り伏せる。そして彼は平和になった町を後に去っていく…。

 主人公が訪れたのは善と悪が対立する町ではない。悪と悪の対立であり、主人公の侍はどちらに付こうとも、悪しか選択肢はないという状況だ。これは映画を観ている我々にとって、馴染み深い状況でもある。我々としては争いをやめさせたいのだが、力がなくて、それを実現させることはできない。だが、「用心棒」のヒーローは我々と違う。彼には悪と悪の間に立ち、争いを終わらせる力がある。黒澤にとってこの種の社会的行為は、彼の他の作品を観ても、非常に重要なテーマであるはずだ。だが、彼はあえて大げさに騒ぎ立てたりはしない。侍の行動の裏には、実は隠れた道徳観があったなどという描写も一切行わない。
 
「用心棒」が我々に見せてくれるのは「人間は人間にとって狼である」ということであり、人間の本来の姿は動物であるということだ。だからこそ、道徳的に正しい解決方法を探ろうということ自体、極めて馬鹿げたことなのだという現実を示している。さらにそこから生まれるユーモアをも感じさせてくれる。「用心棒」からのメッセージの一つは、完璧に正しい倫理観を通じて世の中を見つめることなどできない、ということだ。幸福と利益を価値の基準にするという考え方と同様、正しい倫理を基準にするという考え方も黒澤の世界の中では崩れ去ってしまう。

 主人公の侍、三十郎は常に悪いことをしようとするわけではない。それは彼の美徳と言えるかもしれない。だが、それだけのことだ。彼は表面上良いことに見えても、実際は利己的な動機に基づく行動をとってしまうことだってある。一方の悪がもう片方の悪に勝つよう、彼が手助けする場面もあるが、それは連帯感からでもないし、道徳観とも無関係だ。そして自分の役目を果たし終えれば、彼は歩いて行ってしまい、全てを忘れ去るだけなのだ。彼の行動はギリシア悲劇に出てくる神に似ている。地上に舞い降り、務めを果たし、また去ってしまう。あるシーンでは、三十郎は高い火の見やぐらの上に登り、これから争いを始めようとするやくざ者達を楽しそうに見下ろしたりもする。彼にとって人間の営みは、単なる壮大なコメディなのだ。


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 こうした物語が、閉ざされ、単純化された世界の中で展開していくのだ。欲望はむき出しにされ、情け容赦無く、完璧に利己的かつ非倫理的な世界だ。やくざ者たちの残酷な姿は彼らの親分が息子を諭す時の「少しは人を殺してみせなきゃ、子分にもにらみが利かねえぞ。」という言葉に、最も明確に表れている。まさに動物の世界だ。

「用心棒」には、黒澤の自己風刺に近いのではないかと思えるシーンも時折ある。例えば、銃を持つ登場人物、卯之助は黒澤のニヒリスティックな世界観をよく表しているのではないだろうか。無邪気で好奇心旺盛な卯之助は、向こう見ずな行動をとる。腐敗した世界は、その教訓を彼の体に叩き込む。結果として、彼は自らの墓穴を掘る事になってしまうのだ。「用心棒」は純然たるジャンル映画だが、こうした個人的な視点や主観も強く盛り込まれた作品だ。

 そして、実は人間が守るべき道徳についても語っている。もちろん、これまで書いてきたように、主人公は道徳的な人間ではない。「町をきれいにする」という彼の行動の裏に隠れた立派な動機があったりするわけではない。むしろ彼はシニカルで哀愁を漂わせ、道徳心などは明らかに欠けている。ただ、そんな主人公の姿を動物的な世界の中で強烈に見せつけられるからこそ、ここに欠落した道徳心、そして人とはいかに生きるべきかというテーマが観客の心に強く浮かび上がらざるを得ない。そして、それでも三十郎のような存在を必要とする我々の弱さと矛盾にも気づかずにはいられないのだ。
 
「用心棒」は人間の本質、そして道徳心と倫理的なジレンマを描いた壮大な作品である。

(翻訳終わり)
別スレッドのコメントにあったが、最新話で、うどんの上の削り鰹節がうねうね動く描写があって、アニメ史上最大の鰹節の(主役級)扱いだ、みたいなことが書かれていたが、それはつまり、このアニメの「描写のカロリー」が物凄く高いということの象徴だ。大食いヒロインだけがカロリー過剰なのではない。
まあ、監督以下、制作陣の見事な仕事である。
ちなみに私が一番好きなマケインは小鞠知花だが、彼女がエンディングを務める数回での水彩画タッチが何ともいい。水彩画の良さというのは、こういうところにある。まるで、それそのものが青春の抒情である。

*知花は沖縄では姓として使われ「ちばな」と読む。


(以下引用)



 小学館ガガガ文庫(小学館)のライトノベルが原作のテレビアニメ「負けヒロインが多すぎる!」。7月にTOKYO MX、BS11ほかでスタートし、放送時間にSNSで関連ワードがトレンド入りするなど大きな盛り上がりを見せ、「今期の最注目アニメ」「覇権アニメ」などとの呼び声も高い。監督を務めるのは、北村翔太郎さんで、今作が初監督作品となった。北村さんに制作の裏側を聞いた。

 ◇キャラクターへの共感を重視

 同作は、雨森たきびさん作、いみぎむるさんイラストのライトノベル。第15回小学館ライトノベル大賞でガガガ賞に選ばれたことも話題になった。食いしん坊な幼なじみ系ヒロインの八奈見杏菜、元気いっぱいのスポーツ系ヒロインの焼塩檸檬、人見知りの小動物系ヒロインの小鞠知花といった負けヒロイン(マケイン)によるドタバタ青春ストーリーが描かれている。アニメはA-1 Picturesが制作する。


 北村監督は2018~19年放送のテレビアニメ「ゾイドワイルド」で演出デビューし、「カードファイト!!ヴァンガード」「かぐや様は告らせたい-ウルトラロマンティック-」「かぐや様は告らせたい-ファーストキッスは終わらない-」などに参加してきた。

 北村監督は「負けヒロインが多すぎる!」の原作をどのように読んだのだろうか?

 「僕が読んできた2000年代のライトノベルのようなマインドを感じました。ただ、懐かしいだけではなく、普通は描かれない負けヒロイン、モブに焦点を当てた切り口が新しい。ですので、アニメでも新しい切り口で、王道のラブコメを表現しようとしました。一方で、ラブコメであることを意識しすぎないようにもしました。一番重視しているのは、キャラクターが立って、それぞれのキャラクターに共感してもらうことです。それを実現するにはどうするのか?を考え、段々と今の画(え)作りになっていきました」

 同作の舞台は愛知県豊橋市で、街の風景が丁寧に描かれている。風景は“共感”を表現するための大きな要素になっているという。

 「ちょっと懐かしいと感じる景色、色……など見た人の夏の記憶につながるようにしようとしました。舞台の豊橋市をロケハンする中で、きっとこの場所は誰かが青春を過ごした場所なんだろうな……と考えていました。自分は豊橋にゆかりはないのですが、ちょっと懐かしいと感じたんです。僕も地方出身なので、場所は違っても、共感できるところがあり、それをアニメとして伝えられたら、より説得力が増すと考えました」

 背景がリアルではあるが、キャラクターとマッチしていて、違和感がない。

 「リアリティーラインをどこに持っていくのかが難しいところでした。コメディータッチの作品ですが、コメディーに寄せすぎると、肝心のドラマが軽くなってしまう。ドラマに寄せすぎると、コメディーが浮いてしまう。バランスが難しいんです。そこで、リアルな背景のタッチに合わせたキャラクターのデザイン、色にしようと決めました。背景はリアルタッチで、少し懐かしく、少し華やかにする。キャラクターは、アニメならではのデフォルメ感があります。リアルな背景の中で、キャラクターが立つように、色や線の処理を何度もテストしながら、今の形になっています」


 ポップでコミカルな作品にしては、影が多いのも特徴だ。キャラクターの影の付け方にもこだわった。影の付け方を何パターンも用意し、シーンによって使い分けた。

 「とても大変なので通常のアニメではまずやらないことですが、キャラクターの影付けの設定を何パターンも用意して、絵コンテの段階で影付けのパターンを指定して、シーンに合わせて明るくしたり、暗くしたりしています。暗いシーンだからといって、ただ暗くしてしまうと、キャラクターが見えにくくなる。キャラクターの線量、デフォルメのバランスによって、暗くできる範囲が変わってきます。リアル寄りな画のキャラクターのアニメはもっと暗くできますが、ポップなデザインになればなるほど、暗くできない。原作イラストの印象を変えない程度に、リアリティーラインを上げ、コントロールしています。また、レンズも強く意識しています。カメラのレンズと人間の目では見え方が違います。写実に寄せるわけではないのですが、写実をベースに人間の目に近い見え方を目指しています」

 影を駆使することで、キャラクターの存在感を丁寧に表現しようとした。細かい演出ではあるが、効果的で、キャラクターの感情が映像からダイレクトに伝わってくる。北村監督は「共感性につながる表現ですし、大変だけどこだわったところです。正直、流行らせたいという思いもちょっとあります(笑い)」と話す。

 ◇アニメのテンプレから少し外れているかもしれない

 “色”も細部までコントロールした。例えば、第1話のラスト、学校の屋上で八奈見がちくわを頬張る名場面は、青みを強くしているという。

 「キャラクターの色、特に人間の肌は赤みがあるのですが、第1話のラストシーンは、かなり青くしています。屋上は空に囲まれています。八奈見と温水が夏に飲み込まれ、背景に染められているような見せ方にしようとしました。各シーンにテーマがあって、例えば、非常階段は日陰者のたまり場をイメージして、周りの生徒たちの明るさに対して、暗くしています。各シーンの色の表現を積み重ねることで、青春のリアリティー、ありそうでない理想の学園コメディー感を出そうとしています。こんな高校生活を送りたかった……と感じるような映像にしようとしました」


 テンポのよさも魅力だ。倍速で映画やアニメを見る人もいる昨今だが、「負けヒロインが多すぎる!」は情報量が多く、倍速で見ることが難しいはずだ。

 「最初はもう少し遅いテンポを想定していました。青春感を出すために、キャラクターの心情を積み上げていこうとすると、どうしてもテンポが遅くなる。今の視聴者の受け止め方を考え、シリアスとコメディーのバランスを見直した結果、速くしました。原作の1巻分をアニメでは4話で制作していますが、原作は文量が多く、一つ一つをひもといていくと内容も濃いんです。速いテンポで全力疾走していく中でも、キャラクターの気持ちを積み上げるようにしています」

 テンポは速いが、風景をしっかり見せるシーンもある。バランスがよく、アニメの世界に引きずり込まれるような感覚もある。

 「緩急なんですよね。速いものを速いと思われてしまうと失敗だと思っています。見た後、言葉にならない感覚が残るような映像を狙っていました。もう一度、見たくなるように、過度な説明もしていません。もちろん不親切にならない程度には説明していますが、普通のアニメだったら入れているような、場所が移動しました、時間が変わりましたという段取りを極力省き、印象的なシーンを一発で見せています。第1話を見ていただくと分かると思うのですが、新しいキャラクターがどんどん出てくるけど、誰も自己紹介しないんです。アニメのテンプレから少し外れているかもしれませんが、それでも伝わるような描写を考えていました」

 説明過多ではないが、情報量が多い。ただ、自然と頭に入ってくるような感覚もある。一度見ても理解できるが、見返すと新たな発見もある。いわゆる“考察がはかどる”アニメにもなっていることが、SNSでの盛り上がりにつながっているのかもしれない。北村監督をはじめとしたスタッフの細部へのこだわりによるところも大きいのだろう。

 「業界の人には、すごく大変そう……と言われますね。芝居感もコメディーのためのコメディー、いわゆるラブコメアニメらしいコミカルな表現は、なるべくやらないようにしています。基本的ににぎやかで楽しい明るいコメディーですが、ふと立ち止まった時、振られてしまった女の子たちの話なので、大事なところでそこをネタにしないようにしています。負けヒロインが振られたことをギャグにしてしまうと、ただのギャグアニメになってしまうので、その部分ではコミカルな表現をなるべくしないようにする。そうすると、作画の難易度もカロリーも跳ね上がるんですけどね(笑い)。音や音楽の入れ方で表現しようとしているところもあります。例えばセミの鳴き声は、ギャグとして使っています。セミが飛び立つ音が鳴る、セミの鳴き声はピタッと止まるなど、リアルなのですが、コメディーっぽい使い方をしています。画的にも音的にも難易度が高くなるのですが」

 笑えるが、切なさもある。甘酸っぱく、これぞ青春!と感じるようなアニメになっている。第8話からは、季節は秋に移り、小鞠を中心としたストーリーが展開されている。

 「第8話から秋になってキャラクターたちが衣替えをします。また、背景の影が微妙に変わっています。撮影のフィルターも変えて、空の色も夏の青とは違う青を表現していて、秋空らしくなっているシーンもあります。小鞠ちゃんの話ということもあり、ドタバタするよりも、しっとり見せようとしました」

 「負けヒロインが多すぎる!」は、何度見ても新たな発見があるアニメだ。第7話までと第8話以降を見比べると、気付くこともあるはず。今後の展開からも目が離せない。

風の中の鳥 (33)(34) 2016/08/04 (Thu)





第三十三章 ライオネルの遺した物



 ビンデン郡に入ったフリードは、領主の館を訪ねた。ライオネルとミルドレッドの住んでいる館である。二千人の軍隊を見たビンデン郡の兵士たちは慌てふためいたが、国王の巡幸であると思って、フリードを恭しく迎えた。ここには、まだケスタの謀反の噂は届いていないらしい。

 久し振りに見る赤毛のミルドレッドは、以前と変わらず逞しく美しかったが、ライオネルの方は病床に臥せっているということであった。

「病気の具合はどうだ?」

 尋ねるフリードに、ミルドレッドは首を横に振った。

「いけないのか?」

「医者の話では、あと数日の命だとか」

「わしが会っていいものだろうか」

「是非、会ってやってください。きっと喜ぶでしょう」

 フリードは寝室に入って、寝台に寝ているライオネルを見た。

 室内は暗かったが、窓から入る光に照らし出されたライオネルの寝姿は、どことなく神々しい雰囲気がある。

 彼は目を開けて、フリードを見た。そして、にっこり微笑んだ。

「国王陛下! わざわざ見舞いに来てくださったのですか?」

 フリードは心に恥ずかしく思った。

「いや、済まぬ。お前が病気だということさえ知らなかったのだ。こんなことなら、もっと早く来るのであった。いい医者に見せたものを」

「いやいや、最後にお目にかかれてよかったです。あなたと出会ったおかげで、楽しい日々を送ることができました。もう、思い残すことはありません。ただ一つ、ミルドレッドとの間に子供ができなかった事を除いては。あいつも子供は欲しがっていたのですが。……そうだ!」

 ライオネルは、何かを思いついたように、目を輝かせた。

「陛下、恐れ多い事ですが、どうかミルドレッドとの間に子供を作っていただけないでしょうか」

「な、何を馬鹿な事を!」

「陛下がお厭でなければ、私が死んだ後、ミルドレッドの事を頼みたいのです。どうせ、私が死ねば、心細い女の身、誰か他の男の物となって、この領地も財産もすべて失ってしまうでしょう。どうか、陛下があいつを引き受けてください」

 フリードは、彼の言葉が、実は以前からミルドレッドに気があった自分の事を見抜いてのことだと分かった。

「お前がそう言うのなら、引き受けよう。もしも男が生まれたらライオネルと名づけよう」

 フリードの言葉に、ライオネルは、頷いて、目を閉じた。

「どうか、ミルドレッドを呼んでください。この話をしておきましょう」

 寝室から出たフリードは、ミルドレッドに、中に入るように告げた。

 しばらくして部屋から出てきたミルドレッドは、何ともいいようのない泣き笑いのような顔をしていた。

「何て馬鹿な、何て優しい男だろう! 自分が今にも死のうとしている時に、他人の事しか考えていないなんて」

 フリードは、彼女にどういう顔を向ければいいのか分からなかった。

「私があんたに惚れていた事を、あの人はずっと知っていたんだよ。でも、本当に馬鹿だよねえ」

 ミルドレッドは、涙のにじんだ顔をまっすぐにフリードに向けた。

「で、あんた、……陛下なんて言わないよ。女にとっては男はみんなただの男だからね……あんたは私の事をどう思ってるのさ。ライオネルの言う通りにしてもいいのかい?」

「ああ、そうしたい。ずっとあんたが好きだったんだ」

「ならば、もっと早く言えばよかったのに!」

 ミルドレッドは、顔をフリードの胸に埋めた。

 その顔を持ち上げて、フリードは彼女に接吻した。その接吻は、甘く、官能的であり、彼女の唇や舌は思ったより小さく可憐で、柔らかであった。



第三十四章 死者のベッドも楽し



 その晩、ライオネルは静かに息を引き取った。

 翌日、葬儀の後で、フリードは、ミルドレッドに、今の自分は国王の座を追われた身であることを打ち明けた。

「で、あんたはどうしたいのさ。ケスタの軍と戦って国王の座に返り咲きたいのかい。それとも、何かやりたい事でもあるのかい」

 ミルドレッドにそう言われて、フリードは考え込んだ。果たして、自分は国王の座に戻りたいのだろうか。

「もしも、国王の座に返り咲きたいのなら、昔の仲間に連絡すれば、一緒に立ち上がってくれると思うよ。でも、本当にそうしたいのかい?」

「いや、そうでもない」

 フリードは煮え切らない答えをした。

「ケスタが私を追討する軍を出している以上、それに追いつかれたら戦わざるを得ないが、あまり戦いたくはない。無駄な犠牲を出したくないのだ。それに、国王の座にも大して未練はない」

 ミルドレッドは微笑んで頷いた。

「そうさ。国王なんて、国王になりたい奴がやればいいんだ。あんたや私のような人間は、宮廷の中に収まっているより、自由に生きているほうが、よっぽど楽しいはずさ。ライオネルには悪いけど、私はこの領地も財産も捨ててもいいんだ。さあ、あんたと私の新しい生活を祝って、ひとつやろうじゃないか」

「何をだ?」

「決まってるよ」

 ミルドレッドは、フリードに接吻し、彼の股間の物をぎゅっと握って言った。

「もう私の物は濡れっぱなしだよ」

 昨日までライオネルが寝ていた寝台に、二人は縺れて倒れこみ、素っ裸になった。

 裸になったミルドレッドの体は思ったより細身で締まっており、美しかった。

フリードはそのミルドレッドと心行くまで交わり、この数日の心労を忘れたのであった。



「阿修羅」から転載。
維新の正体を見事に描いている、ある意味必読の文章である。

(以下引用)画像は転載できなかった。中一女子を強姦するトンデモ代議士はどんな顔か興味がある人は元記事参照。まあ、中年男とカラオケ店に行く時点でアホな女の子だとは思うが、子供なのであるからどうしようもない。親もそんな注意をする必要があるとは考えてすらいなかったのではないか。

(以下引用)





総選挙間近!? あらためて振り返る維新の会の正体【適菜収】
https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/3135530/
2024.09.12 適菜 収 だから何度も言ったのに 第71回 写真:アフロ、産経ビジュアル BEST TiMES

兵庫県知事・斎藤元彦問題で、追い詰められた維新の会。さらにはカラオケ店で中学1年の女子生徒に性的暴行を加えたとして、日本維新の会の元衆院議員、椎木保が逮捕された。セクハラ・パワハラは維新の一丁目一番地。その背後には菅義偉や竹中平蔵といった日本凋落の元凶がいる。新刊『自民党の大罪』(祥伝社新書)で平成元年以降、自民党が急速に腐っていった過程を描写した適菜氏の「だから何度も言ったのに」第71回。


斎藤元彦

■兵庫県知事斎藤元彦に見る維新スピリッツの原点

 兵庫県知事斎藤元彦に対し、日本維新の会が辞職要求を突きつけた。2021年の県知事選で斎藤を推薦した維新は、これまで静観を貫いてきたが、批判の高まりで方針転換を余儀なくされた。

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 維新が態度を翻した理由は、大阪府箕面市長選で維新が公認した現職首長が破れたからだろう。要するに、追い詰められただけ。

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 斎藤の立ち居振る舞いに維新スピリッツの原点を見た。私は、当時大阪府知事だった橋下徹が、自分に批判的な大阪市の労働組合に対し、「政治活動に公務員が首をつっこんでくるのはおかしい。負けたときは一族郎党どうなるか。われわれが勝ったときには覚悟しとけよ」と発言したのを思い出した。

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 選挙で負け続ける維新。ではこの先、消滅に向けて進んでいくのか。あまり甘く見ないほうがいい。大阪ではカジノを含む統合型リゾート施設(IR)の開業がほぼ確実となった。維新の黒幕のうちのひとりである菅義偉は、総裁選で小泉進次郎を担ぎ上げている。

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菅義偉と竹中平蔵

 維新のバックには政商の竹中平蔵もいる。新自由主義的な政策により日本を解体し、構造改革利権にむらがる連中のさらにその下請け、鉄砲玉が維新である。馬場伸幸は、自民と維新の関係について「第一自民党と第二自民党でいい」と言い放ったが、まさに維新は第二自民党である。自民がダメだから維新に投票するというのは愚の骨頂。

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 日本の貧困と格差を拡大させた政商の竹中は、2012年、維新の最高顧問格とされる衆院選の候補者選定委員長に就任。橋下はネット番組で「基本的には竹中さんの価値感、哲学と僕らの価値感、哲学はまったく一緒」と述べている。竹中はその後、総務相時代の部下である菅の政権で、成長戦略会議のメンバーに選ばれ、岸田政権でも「デジタル田園都市国家構想実現会議」のメンバーになっている。20年近く前の小泉政権から日本を食い物にしてきた男が、今もまだ国の中枢に居座り続けている。

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 絶望的に古い体質・日本の闇を引き継いでいるのが維新である。IR、カジノ、万博、「都構想」の裏にいるのもこうした連中だ。万博は大阪府・市の特別顧問をしていた堺屋太一と橋下が寿司屋で酒を飲んでいるときに、堺屋が言い出したという。要するに、酔っ払いの与太。それを進めるために松井と橋下が安倍に酒を飲ませて、「気持ち良く」させ、密室で決めた。

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 「大阪都構想」と称する大阪市解体を巡る住民投票の糸を引いていたのも菅。菅は「大都市問題に関する検討プロジェクトチーム」の座長を務め、東京都以外の大都市が特別区を設置できるようにする大都市地域特別区設置法の成立を推進していた。また、官邸は維新を応援するため、住民投票に反対していた大阪府連に嫌がらせを繰り返した。


橋下徹

■選挙直前になると組織的にデマを流すのが維新

 総選挙のときの参考になるように大事なことを言っておく。維新は選挙や住民投票直前になると、組織的に嘘、デマを社会に垂れ流す反社会集団であるということだ。

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 第1回目の住民投票直前に橋下が何を言っていたか思い出したほうがいい。「都構想の住民投票は1回しかやらない」「賛成多数にならなかった場合には都構想を断念する」「今回が大阪の問題を解決する最後のチャンスです」「衰退する大阪を変える最初で最後のチャンス」。維新の公式HP、街頭演説、タウンミーティング、在阪民放5局の大阪維新の会のCM……。ありとあらゆる場所で、橋下は「これが最後だ」と繰り返し、否決後3ヶ月もしないうちに、再び「都構想」をやると言い出した。

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 2020年の2度目の住民投票で否決されると、吉村洋文は3度目はないと明言したが、しばらくすると「大阪維新の会として都構想の看板を下げているわけではありません」と手のひらを返した。

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吉村洋文

 吉村も絵に描いたようなデマゴーグである。吉村は街頭演説などで、昔の大阪市は大赤字でそれを立て直したのが維新市政だったという趣旨の発言を繰り返してきたが、これも大嘘。大阪市のホームページには21年度一般会計決算について、《平成元年度以降三三年連続の黒字となりました》とある。2022年の参院選の政見放送で松井一郎は大阪の私立高校の入学金が無償である旨の発言をしたが、これも完全なデマだった。

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 衆院選の公示日を2日後に控えた2021年10月17日、馬場はNHK『日曜討論』に出演し、「私立高校も、大阪では完全に無償と」と維新が組織的に流しているデマを繰り返した。その後、会見で記者が嘘を指摘すると馬場はこう答えた。

「言いぶりというのはありますよね。選挙の時ですから。私がそれ国会で、公の場で質問したりとか、そういうことをしているということであれば大問題ですけれども、もちろんカッコ書きの中に所得制限はありますけれども完全に無償化してますと、該当者の皆さん方には完全に無償化していますという意味合いでね、言ってるんです」

 要するに、選挙の際には嘘をつくと言っているわけだ。

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馬場伸幸

 馬場は応援演説でもデマを流している。2017年の堺市長選では、「大阪市は既に水が余っています。大阪市は40%近くの水を廃棄しているんです。捨てているんですよ」「これを堺に引っ張ってきたら水道料金は下がるんです」と発言。給水量は水道局が日々調整しており、多いときには翌日に量を減らしてコントロールしているため、余った水を捨てることはありえない。大阪市水道局はこれを否定した。

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日本維新の会。左から馬場伸幸, 足立康史, 梅村みずほ(元)

■犯罪のデパート、不祥事の見本市、それが維新

 何度も同じ詐欺にひっかかるのはやめよう。選挙後に維新の事務所に警察が踏み込むのはもはや風物詩となっている。赤木正幸、田坂幾太、上西小百合、桜内文城、升田世喜男、足立康史、石関貴史……。ちょっと調べただけでも、連中の運動員、元秘書らが公選法違反容疑で逮捕、書類送検されてきた。

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 維新には犯罪者が多い。これは客観的事実である。不正受給、公然わいせつ、児童買春、児童ポルノ所持、飲酒ひき逃げ、パワハラ、ストーカー、署名偽造、療養費のだまし取り、殺人未遂、迷惑動画の撮影、年金未払い、女子中学生を恐喝、市駐車場私物化、人件費の二重計上、政党交付金で借金を返済、政治献金という形のキックバック、架空のビラの印刷代金を政務活動費に計上、IRに関し中国企業から現金を受領……。犯罪のデパート、不祥事の見本市、それが維新である。維新に関しては、政治家が犯罪に手を染めているのではなくて、犯罪者が政治に手を染めていると言ったほうが適切だろう。

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カラオケ店で中学1年の女子生徒に性的暴行を加えたとして、日本維新の会の元衆院議員、椎木保が逮捕

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 維新の最終目的は何か。維新の政治提言である「維新八策」(2023年版)には、「将来的な首相公選制・一院制の導入を視野に、積極的な議論と検討を開始します」とある。橋下はかつて大統領制の導入を唱えていた。それが何を意味するかは普通に考えればわかるだろう。皇室の解体である。

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 つい先日、吉村は「自民党が本気で変わる、新しくなると口だけじゃなく言うんだったら、首相公選制を公約にするくらいの人が自民党総裁になってもらいたい」とツイート。

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 馬場は、テレビ番組で司会者から「総理大臣になったら何をしたいか」と聞かれて「同じ日本という名前であっても中身が全く違う国になるぐらいの大改革を、私が総理になればぜひやらせていただきたい」と答えている。

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 維新が拡大したら「同じ日本という名前であっても中身が全く違う国になる」。維新を完全に駆除しない限り、日本に未来はない。

文:適菜収

適菜 収 てきな おさむ
1975年山梨県生まれ。作家。ニーチェの代表作『アンチクリスト』を現代語にした『キリスト教は邪教です!』、『ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体』、『ニーチェの警鐘 日本を蝕む「B層」の害毒』、『ミシマの警告 保守を偽装するB層の害毒』、『小林秀雄の警告 近代はなぜ暴走したのか?」(以上、講談社+α新書)、呉智英との共著『愚民文明の暴走』(講談社)、中野剛志との共著『思想の免疫力 賢者はいかにして危機を乗り越えたか』、『遅読術』、『安倍でもわかる政治思想入門』、『日本をダメにした新B層の研究』(KKベストセラーズ)、『ニッポンを蝕む全体主義』『安倍晋三の正体』(祥伝社新書)など著書50冊以上。「適菜収のメールマガジン」も好評。https://foomii.com/00171


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