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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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第26章 見張り

だが、レイチェル号と遭ってから二日、三日と経っても、白鯨は姿を見せなかった。
エイハブはもはや自分の寝室で寝るのをやめ、甲板上で一日のすべてを過ごした。おそらく、立ったまままどろむ以外には、寝てすらいなかっただろう。彼はこのまま白鯨を見逃してしまうことを、それほど恐れていたのである。
彼の傍には、ずっとフェデラーが、その薄気味悪い姿を見せていた。彼もまた、白鯨へのエイハブの執念を我がものとしたかのように、寝ることもなくエイハブの影のように動いていたのであった。
エイハブは、とうとう見張り台の上に自ら立つことにした。彼はそのために独特な仕掛けを作らせた。メインマストの上の滑車から下ろした縄に大きな籠を結びつけ、それに乗ってマストの上に上がるのである。こうして、彼は昼の間中自ら見張りに立って、憎い白鯨を決して見逃すまいとしたのであった。


第27章 追跡・第一日

その夜、エイハブは、いつものように昇降口に寄りかかって僅かな休息を取っていたが、突然、ある匂いを嗅ぎ付けて、がばっと身を起こした。
「鯨の匂いがするぞ!」
たちまち、全員が叩き起こされ、三つのマストにはそれぞれ見張り番が上がった。メインマストには、もちろんエイハブ自身が上がったのである。
三人は、ほとんど同時に声を上げた。
「潮噴きだ、潮噴いとる、モゥビィ・ディックじゃあ! ついに出たぞ!」
はるか彼方の海に、今しも昇り始めた朝日に照らされながら、高々と潮を噴き上げているのが、かのモゥビィ・ディックであった。
甲板上の我々も、この名高い鯨を一目見ようと、我先にと舷側に集まった。
「スターバック、君は船に残れ。本船を守るんじゃ」
エイハブは、スターバックに命令した。スターバックは意表を突かれたような顔になった。
「しかし、船長……」
「これは命令じゃ。わしが貴奴めにやられたら、君が指揮を執って皆を無事に故郷に帰してやるんじゃぞ」
思いがけないエイハブの配慮に、スターバックは言葉を詰まらせた。
「短艇を下ろせ!」
すぐさま三つの短艇が下ろされ、エイハブの舟を先頭に、白鯨の追跡が始まった。しかし、スターバックの乗組員たる私は、この追跡の有様を、空しく本船の上から眺めているばかりであった。
従って、これから書くことは、後で本船に戻ってきた水夫たちの口から僅かに聞き取った事に、本船上から目撃した情景を加え、さらに幾分の想像を交えて書いたものと思って欲しい。
エイハブの舟は、猛然と白鯨を追っていったが、白鯨は追跡者の存在も知らぬげに悠然と泳いでいた。そして、頭をゆるやかに高く海面上に持ち上げたかと思うと、たちまち水中にその巨体を没したのであった。
三隻の舟は、白鯨が身を沈めた後の大きな渦の周りに集まり、白鯨が再び姿を現すのを待った。だが、ああ、何ということだろう! 白鯨が再び姿を現した時、それはまさしくエイハブの舟の真下だったのである。まるで、この舟こそが自分を狙う当の相手だと知っていたかのようではないか。
エイハブは、自らの舟の真下に、小さな白い点が現れ、それが急速に沸きのぼってくるのを見た。それが白鯨であることを知った時には、いかに豪胆なエイハブといえども、心臓を氷の手で掴まれたような気持ちであったに違いない。
エイハブは、舵を大きくひねって舟を旋回させ、この恐るべき敵の顎から逃れようと試みた。しかも、その手には、あの銛を握り、宿敵と刺し違えんと構えたのであった。
しかし、モゥビィ・ディックは、この舟の動きを知っていたかのように、機敏に方向を変え、舟を追いながら大きく口を開いた。
今や、海上に現れた白鯨の大顎は、エイハブの舟を両側から挟むように咥えていた。エイハブには、モゥビィ・ディックの真珠色の口蓋まで見えていただろう。
白鯨は、まるでわざとのように、二、三度口をもぐもぐと動かして、咀嚼した。小舟の舷側はみしみしと撓み、やがて二つに折れた。エイハブらは海に投げ出され、あるいは自ら飛び込んで、鯨の顎から逃れた。
白鯨は、短艇をへし折った事で満足したかのように、悠々と泳ぎ去った。
スタッブの舟に救助されたエイハブは、本船に戻るやいなや、白鯨の追跡を命じた。他の短艇も収容され、すぐさま船は白鯨の後を追ったが、もはや日はほとんど暮れ、白鯨の逃げた方向へと船を向かわせることで満足するしかなかったのである。


第28章 追跡・第二日


翌日、白鯨を再び発見するまでのエイハブの焦燥は、いかばかりのものだっただろう。もしかして、このまま白鯨を見失い、この一年の労苦が無駄になるとしたら?
しかし、神への、あるいは悪魔への祈りが通じたのか、白鯨はやがて我々の前に再びその純白の姿を現した。

今や、エイハブの執念を我が物としているピークォド号の乗組員たちは皆、歓声を上げた。
一マイルの彼方に姿を現した白鯨は、まるでその姿を我々にもっとよく見せてやろうとでもいうかのように、雄大な跳躍をしてみせた。あの巨体が、完全に海上十フィート以上の高さに離れ、その全身が見えたのである。
「よしよし、わしをからかっておるな。だが、貴様の悪ふざけもこれまでだ。今日こそは、貴様がこの世とおさらばする日だぞ」
忌々しげに、エイハブは呟いた。
エイハブの命令で、予備の短艇も含め、三つの短艇が下ろされた。
だが、ピークォド号の姿を認めた白鯨は、何と、自分からその三つの短艇に向かって進んできたのである。
三つの短艇からは、銛と槍が雨あられと投げられた。そして、その中の数本は、確かに白鯨の体に刺さった。しかし、モゥビィ・ディックは、何の痛痒も感じないかのように、自らに刺さった銛のロープを引っ張って、逆に三つの短艇を引きずり回したのである。
エイハブは、三つの小舟が衝突する危険を感じ、もつれにもつれたロープを咄嗟にナイフで切って難を逃れた。だが、残る二つの舟は、白鯨の巧みな動きによって、ぶつけ合わされたのであった。
スタッブもフラスクも、舟を木っ端みじんにされて、海に落ちた。
海に潜り込んだ白鯨は、海面に上昇しながら、残るエイハブの舟を突き上げ、これも転覆させた。
かくして、二度目の戦いも人間の完全な敗北に終わり、本船は海に漂う水夫たちを救助した。
本船に救い上げられたエイハブは、船の乗員全員を呼び集め、いない者がないかどうか確かめた。
「フェデラーがいません」
スターバックの言葉に、エイハブはうろたえた表情になった。
「何を? 馬鹿な、そんなはずはない。よく探してみろ!」
エイハブの命令で、船じゅうが捜索されたが、やはりフェデラーの姿は見当たらなかった。
「ねえ、船長。あんたの舟の索に絡まっちまって、奴が吹っ飛んでいくのを、俺、見たような気がするんですがね」
スタッブの言葉に、老人は黙り込んだ。
「奴が死んだだと? そうか、わしの地獄行きの水先案内をしようというのだな? よかろう、だが、少し待ってろ、お前に会う前に、わしは白鯨を倒さねばならんからな……」
エイハブの言葉に、スターバックが青ざめた顔で進み出た。
「船長、もうこんな事はやめましょう。これは神意に背いているのです。二日追って、二度とも舟を粉々に打ち砕かれた。あなたは、これ以上何を望むのです? この船の全員を破滅させるまで、この復讐劇をやめないのですか?」
「スターバックよ、他の事なら何でも君の言うことを聞こう。だが、白鯨に関する限り、わしに何を言っても無駄だ。このわしの心はな、あいつに痛めつけられれば痛めつけられるほど、憎しみで燃え上がるのだ。もしも、わしをやめさせようと思うなら、わしを殺すしかない。……だが、あと一日、あと一日わしに貸してくれ。あいつも決して無傷ではない。もう一太刀くれれば、あいつを倒せる、わしにはそう思えるのだ」
スターバックは口をつぐんだ。
その夜、水夫たちはほとんで徹夜で予備短艇の艤装をし、道具を整えた。
そして、エイハブは白鯨の姿を見つけんものと、昇降口に立って、夜明けの光が射すのを待っていた。


第29章(前半) 最後の戦い

フェデラーを失ったエイハブの短艇に、最後尾の漕ぎ手として指名されたのは、私だった。他の四人のマレー人漕ぎ手の黄色い顔は、私には何とも薄気味悪く感じられたが、それにもまして恐ろしいのは、エイハブ船長だった。彼は、白鯨が死ぬか、自分が死ぬまで追跡をやめないだろう。そして、前の二日の追跡の結果は、死ぬ運命にあるのはエイハブの方である事を明らかに知らせている。エイハブの死とは、その乗組員全員の死、すなわち私自身の死である。私が、本船に残った人々をいかに羨ましく思ったか、想像できるだろう。
だが、運命の奇妙さは、この話の結末をそれほど単純なものにはしなかった。
翌日、ピークォド号が再び白鯨を見つけたのは、日が高く昇るころだった。エイハブの怒鳴り声で三つの使用可能な短艇が下ろされ、私たちは白鯨に最後の決戦を挑んだ。
ああ、あの青い空を私は永遠に忘れないだろう。波を切って走るボートの前方に待ち構えているのは、白鯨ではなく、死そのものである。そもそも、我々の生とは、死に向かって後ろ向きでひたすらボートを漕いでいくようなものではないか? 誰が死の顔を真正面から見ただろうか。それができるのは、エイハブのような異常な人間だけである。
彼には、ナンタケットに残した若い妻があり、子供たちがいた。それらの優しい腕を振り切って彼を恐ろしい死に立ち向かわせるものは何か。ピークォド号の乗組員全員を死の危険に曝させる事を敢えてさせるのは何のためか。私には、分からない。
私は、ボートの後方に飛んでいく波の飛沫を見ながら、必死でオールを動かした。
モゥビィ・ディックは、このしつこい追跡者の姿を認めて、こちらに向かってきた。一度海面下に体を沈めた彼が再び姿を現した時、他の二隻の舟が彼の前にあった。
私は、体から滝のように海水を振りこぼしながらせりあがるモゥビィ・ディックの偉容に、恐怖と同時に美しさを感じていた。それは、雪に包まれた白い山脈であり、古代の王の作った白い巨石の壁であった。
彼は、スタッブとフラスクの舟のちょうど中間に現れ、その恐ろしい尾を二つの小舟に叩きつけた。二隻のボートは、その一部を壊されたが、幸いに転覆は免れた。
モゥビィ・ディックが向きを変えた時、私の舟の乗組員たちから恐怖の声が上がった。
彼の横腹には無数の槍や銛が刺さっていたが、その中でも一際新しいそれは、昨日の死闘の際にエイハブが投げたものである。その銛には、ロープが付いていたが、そのロープによって白鯨の体に幾重にも縛り付けられていたのは、フェデラーの半ば千切れかかった体であった。
彼は、膨れ上がった目でエイハブを見ていた。そして、波で上下するその腕は、まるでエイハブを招いているかのようであった。
エイハブは手にした銛を落とした。
「そうか、貴様、また現れおったな。あくまでわしとの約束を守って地獄への供をしようというのか。よしよし、待っておれ、わしももうすぐお前の所へ行こう」
彼は、落ちた銛を拾い上げ、漕ぎ手たちに怒鳴った。
「白鯨めはどこへ行った?」
他の二隻の舟は、破損したためそれ以上鯨を追うことができず、本船に戻っていた。今や白鯨に立ち向かうのは、このエイハブの舟だけであった。

第29章(後半) 承前


モゥビィ・ディックは、やがて海上に姿を現した。しかも、そのままじっと浮かんでいるだけである。その姿は、何かを待ち受けているかのように、不気味であった。
エイハブは、船の操縦をマレー人の一人に任せ、自ら舳先に立って銛を構えた。この最後の一投に運命のすべてを賭ける決意である。
やがて、モゥビィ・ディックの側面に回り込んだ舟から、渾身の力を籠めて、エイハブは銛を投じた。銛は、見事に白鯨の目の下に刺さり、白鯨は苦悶の様子で体を揺さぶった。そして、自分にこの苦痛を与えた敵にその体をぶつけ、破壊を試みた。
大きな波で舟は大きく傾き、乗組員のうち三人が海に投げ出された。
白鯨は走り出した。幸い転覆を免れた舟の中でエイハブは「ロープを切られるな!」と叫んだがその瞬間に、ロープは白鯨の巨大な推進力でぷつりと切れてしまった。
「漕げ、漕げ、まだ追いつけるぞ!」
エイハブは半分絶望しながら、気が狂ったように叫んだが、白鯨の進む方向にピークォド号があるのを見て、その意図を察知した。「船だ。あいつはピークォド号を壊そうとしておるのだ! 漕げ、漕げ、本船を救うのだ!」
エイハブの叫びは本船には届かなかっただろうが、ずっとこの闘争を見守っていた本船の連中は、白鯨の矛先が自分たちに向けられたのを知って驚愕したに違いない。
私は、マストに上っているクィークェグとタシュテゴの顔が驚きの色を浮かべるのが見えた。そして舷側にいるスターバックとスタッブの口が動いて何かわめいているのも見えた。もはや、私たちは、この悲劇を見守ることしかできなかったのだ。
白鯨、この神の化身かとも思われる生き物は、小賢しい人間の作り上げた建造物に、激しい勢いでぶつかっていった。ピークォド号は、その衝撃で大きく傾き、白鯨の頭部のぶつかった所には、巨大な穴が開いていた。
「おお、わしの命、わしのすべて、わしの船!」
エイハブはうめいた。
白鯨は、ゆっくり沈んでいくピークォド号の側で向きを変え、大きく回り込んでしばらく走った後静止したが、それは私たちのボートからほんの数十フィートの所だった。
彼はそこに静かに待っている。
「そうか、このわしに最後の機会を与えようというのか。獣らしからぬ騎士道精神だ。だが、それがお前の命取りだ。さあ、獣め、人間の力を思い知れ!」
エイハブは銛を投じた。
銛の突き立った白鯨は、一度体を持ち上げ潜水を始めたが、その刹那、いかなる偶然によるものか、ロープは舳先に立つエイハブの首に巻き付き、海底深く彼を連れ去った。
索を入れる容器からロープの最後の端の輪が飛び出て、これも波間に消えていったが、それを押さえようとする者はいなかった。この時には、次の瞬間に我々を待ち受けている運命が明らかだったからである。
ゆっくりと沈んでいくピークォド号は、今や完全に船体が海中に没し、ただマストの先だけが見えていた。そして、そのマストの周りには巨大な渦ができ、我々のボートを飲み込もうとしていた。
やがて、その渦は、渦の原因であるピークォド号も、その周辺の物もすべて飲み込み、深淵の中へと連れ去っていった。
渦が消えた後の海面には、白昼の光の中に、永遠の沈黙が訪れたのである。



第30章 海の孤児


こうしてすべては終わった。
渦の中に飲み込まれた私は、その渦の中心から現れた不思議な物体に必死で取りすがり、その浮力で海面に浮き上がることができた。それは、クィークェグが自分の死体を納めるために作らせた棺桶であった。こうして私は、死の象徴たる物体によって生の世界へと引き戻されたのである。
嘆きと絶望の中で、まる一昼夜、私はかつてのピップのように海を漂った。
そして、二日目に一隻の船が私を拾い上げた。それは近海をさまよっていたレイチェル号である。彼女は失われた自分の子の代わりに他家の孤児を拾ったのであった。





                   (完)



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第20章 水中の産婆術


夜の間中、鮫どもは鯨を食い散らかし、そのままにしておけば朝までには鯨は見る影もない姿になっていただろう。だから、水夫達は交代で鯨に群がる鮫どもを追い払う役目をしなければならなかった。主にその役目をしたのはクィークェグ、タシュテゴ、ダグーの三人であった。というのは、舷側から下ろされた足場に乗って、鮫どもに槍を振り回し、威嚇するという作業は並大抵の仕事ではなかったからである。考えてもみるがいい。わずか1メートル下には悪鬼のような鮫どもが口を開けて待っており、足を滑らせれば鯨の代わりに自分が即座に鮫の餌になろうという仕事だ。
しかも、この三人には、翌日には鯨の解体という大作業が待っていたのである。前日死ぬほど舟を漕いで、徹夜で鮫を追い払った後でやる鯨の解体は、これがまた一瞬の油断もできない危険な作業であることを考えれば、この三人の野蛮人ほど献身的に働く人間はこの世に滅多にいないと思われる。
さて、鯨の解体というのは、脂身のたっぷり付いた鯨の皮膚をはぎ取る作業である。舷側に吊り下げられた鯨の皮の一部にクレーンの鈎をひっかけ、皮に切れ目を入れながら巻き上げていく。すると、リンゴの皮むき同然、鯨からリボンのように細長いが分厚い皮がくるくる巻き取られていく寸法である。その間、皮に切れ目を入れる役目の者は、回転する鯨の上で、危なっかしいダンスをしているわけだ。下の海面には相変わらず貪欲な鮫の群れが騒いでいることを考えると、この仕事を任務とするスターバックとスタッブの立場は、あまり嬉しいものではないはずだが、捕鯨船には、自分の与えられた任務について疑問を持ったり文句を言ったりする者などいない。
鯨から巻き取られた皮は、毛布皮と呼ばれるが、脂肉室に運び込まれ、後に油を取られることになる。
皮膚のはぎ取られた鯨の残りは、海に流されるが、その前に鯨の頭部だけは切り離されて次の作業を待つ。それは、鯨の頭部にのみ存在する、貴重な油の汲みだしである。この作業は、不注意にすると、高価な油が海に流れ出してしまうので、皮はぎが終わった後で、ゆっくり行われる。
事件が起こったのは、この脳油の汲みだしの最中だった。
事件の哀れな犠牲者は、タシュテゴである。彼は大マストの下の桁に乗って、そこから縄を伝って、鯨の頭部に下りた。鯨の頭部に開けられた穴から竿に付けたバケツを下ろし、彼は貴重な油を汲み上げていく。ところが、いかなる悪魔のいたずらか、彼は突然足を滑らせて、鯨の頭の中に落ちてしまったのである。
すぐに行動を起こしたのはダグーであった。彼はその巨体に似合わぬ敏捷な動作でマストに飛びついてよじ登り、タシュテゴの落ちた穴の上にロープで伝い下りて、上から竿を突っ込んで哀れなインディアンを救出しようとした。だが、ああ、何ということだろう。まさにその瞬間に、鯨の頭を吊っていたロープが切れて、鯨の頭は轟音とともに海面に落ちたのであった。ピークォド号は、その反動で激しく揺れ、水夫たちは転倒した。
この騒ぎの中で、海に落ちた鯨の頭はゆっくりと沈んでいき、タシュテゴの運命もこれまでかと思われたが、この時、甲板から槍を手にした裸身の者が海に飛び込んだ。クィークェグであった。
船上の者は、静まり返った海面をじっと見つめた。一分、二分と過ぎるにつれ、みんなの顔に絶望の表情が浮かんできた。
「はっ、はっ!」
マストの上に登っていたダグーの声に、みんなははっと上を見た。彼は船からかなり離れた海の上を手で示している。そこには、今しも一本の腕が波間から現れたところであった。クィークェグの腕であった。
「よし、よし、二人じゃ!」
ダグーの声に、船上は歓声で溢れた。
やがて船上に引き上げられたクィークェグとタシュテゴは、みんなから手厚い看護を受けた。しばらくして元気を取り戻したクィークェグから話を聞いてみると、彼はゆっくりと海底に向かって沈んでいく鯨の頭の適当なところに鋭い槍で切れ目を入れ、そこから手を突っ込んで、中で気絶しているタシュテゴの辮髪を探り当て、それを引っ張り出したのであった。
あのような状況の中で、このような冷静さを持ち、的確に行動できる人間がこの世にいようとは、まさに信じがたいことであるが、それが目に一丁字も無い蛮人の行為であることを考えると、いったい文明は人間を進歩させたのか退歩させたのか、にわかには決め難いものがあると私はつくづく思ったものである。


第21章 ピップ

鯨捕りの危険性については、以上に述べただけでは十分ではない。鯨に銛を打ち込んだ時、舟が猛烈な勢いで鯨に引っ張られる事は先に書いた通りであるが、その際に、矢のように空中を走るロープは、場合によっては舟の中の者を共に地獄に引きずっていく首くくりの縄に変わるのである。しかも、舟の中には鯨に打ち込むための鋭い刃を持った数本の槍と銛が備わっており、それらにロープが絡まりでもしたら、絞首台はいきなりギロチンに変わるであろう。
私はここで哀れなピップの事を諸君に語ろう。
ピークォド号の雑役夫の黒人少年ピップは、給仕の団子小僧とは好一対であった。どちらものろま、間抜けと船中の者みんなにののしられながらけなげに自分の勤めを果たしていたが、ピップはのろまなどではちっともなかった。むしろ機敏で陽気な少年だったのだが、船乗りとしては致命的な欠点を持っていた。それは、彼のどうしようもない臆病さであった。
その臆病さも、彼が雑役の仕事をしている間は目に付かなかったが、運悪くスタッブの最後尾漕手が手をくじいて、ピップがその代わりに舟に乗り込まされた時、彼は鯨捕りとしては死刑にも相当するヘマをしでかしたのであった。
その時、タシュテゴが鯨に銛を打ち込み、例によって舟は猛烈な勢いで走り出した。その衝撃に驚いたピップは、あわてて立ち上がり、轆轤から繰り出されるロープに巻き込まれ、海に落ちたのであった。おそらく一瞬のうちに、彼の体は鯨の引く力で締め付けられ、窒息死するだろう。
タシュテゴは、ナイフを抜いてロープの上にかざし、スタッブを振り返った。
「切るか?」
その時、タシュテゴの目は、ピップへの憎悪に輝いていたに違いない。せっかくの高価な獲物を、この間抜けの小僧一人のために失うのである。
「畜生め、切れ!」
スタッブは怒鳴った。
こうしてピップは救われ、鯨は失われた。
舟に引き上げられたピップが乗組員全員から罵倒されたのは言うまでもない。
「なあ、ピップ、お前が水浴びでもしたい気分になったというのなら、俺は止めはせん。だが、この次にお前が海に飛び込んだらだな、俺たちはお前を放っといて鯨捕りに精出すことにするからな。覚えとけよ。鯨一頭は、お前がアラバマで売れる値段の三十倍も値が高いんだ」
スタッブの言葉は冗談などではなかった。
二度目に舟に乗らされた時、またしても同じ状況で、ピップは海に飛び込んだのだった。そして、スタッブは言葉通り、彼を海に放っといて、鯨を追いかけた。実際、スタッブの行為は責められない。臆病は、鯨捕りの世界では、場合によっては殺人以上の悪徳なのである。もちろん、スタッブは、後でピップを拾う気でいた。
だが、長い時間の後にやっと本船に救助された時、この黒人小僧は気が狂っていた。それも当然だろう。無限に広がる海面には、舟一つ、島影一つ無く、見えるものは、ただ空と波だけである。自分を救助するであろう舟は、もしかしたら自分を見失ったままあらぬ方向へ行ってしまったかもしれない。こうした状況では、よほど強い精神を持った者でない限り、気がおかしくなって不思議ではない。
その日から、この気のふれた黒人少年は、愛用のタンバリンを手に、訳の分からぬ事を言っては船内をうろつくようになった。
おそらく、その姿を見るたびに、スタッブの心には穏やかならぬ思いが浮かんだものと思われるが、それは他の者には伺い知れぬことである。確かに、スタッブは、警告し、その警告を実行しただけである。悪いのは警告を守らなかったピップの方だ。だが、法律の咎めぬことも、良心はより重い裁きを与えることもある。この気のふれた黒人小僧は、もとからピークォド号のマスコット的存在だったが、今では我々の運命の象徴のような姿で、船内を歩き回っては人々を気味悪がらせるのであった。


第22章 棺桶

私がピークォド号の運命について不吉な予感を抱いたのは、ピップの事だけのためではない。今や私の無二の親友となったクィークェグが、突然に熱病にかかり、生死の境をさまようことになったのは、船がシナ海を出て日本海近くにさしかかろうとした頃だった。
鯨の皮はいったん脂肉室に運び込まれた後、釜で煮られて油を取り、取った油は樽に詰められて船底に貯蔵されるわけだが、この獣肉のくさい臭いとむっとするような温気、湿気の籠る穴倉での労働は、さほど上品な人間でなくても御免蒙りたいと思うような仕事である。この栄えある仕事はなんと銛手の仕事の一つでもあるのだ。昨日は十字軍の騎士として雄々しく敵と戦った男が、翌日には畑で肥担ぎをするようなものではないか。
とにかく、この不潔な、悪疫の温床のような場所で連日働いているうちに、クィークェグは熱病にかかったのである。日を追って彼はやつれにやつれていった。
彼はほとんど物も言わず病苦に耐えていたが、ある日、傍にいた者に、船大工を呼んでくれと頼んだ。船大工とは、船中の何でも屋であり、ボートの修理からエイハブの義足の製作まで何でもやるが、彼がこの野蛮人に頼まれたのは、棺桶だった。つまり、死を覚悟したクィークェグは、あらかじめ自分の永遠の寝床を用意しておこうと考えたのである。で、実際にそれは寝床になったのだが、但し、それは彼が死んでからではなかった。
出来上がった棺桶を見たクィークェグは、自分をその中に寝かせてくれ、と周りの者に頼んだ。
「とてもいい。楽じゃ」
棺桶の中に横たわったクィークェグは満足そうに呟いて、自分の周りにビスケットの袋と真水の瓶を置かせ、彼の小さな守り神ヨジョを入れて、棺の蓋を閉じさせた。蓋は革の蝶番で棺にくっついていたが、蓋が閉じられると我々の前には無言の棺桶が横たわるだけであった。
やがて中から声がして、「出してくれ」とクィークェグは言った。
こうして死を迎える準備ができると、驚いたことにクィークェグの病状は逆に急速に快方に向かった。
後でクィークェグが説明したところによると、こうである。棺の中に横たわって、死のうと考えた時に、この世でやり残した事はないかどうか、彼は思いめぐらしてみた。そして、陸上で果たさねばならないちょっとした義務のあった事を思い出し、まだ死ぬわけにはいかぬ、と考え、死なないことにしたのだそうである。
聞いていた者たちは、不思議そうな顔で、いったい死ぬとか生きるとか、自分の勝手な気持ちや好みで出来るものかと聞いてみた。
「そうだ」とクィークェグは答えた。
彼の言葉では、鯨とか嵐とかいった人力を超えた大きな力で死ぬ以外は、病気くらいで人間は死ぬものではない、ということである。老衰で死ぬ連中も、「もうこれくらいでいいじゃろう」と思うから死ぬのであり、そう思わなければいつまでも生きているはずだ。……まあ、無知な野蛮人の事だから、眉唾物の話ではあるが、病気に及ぼす意思の力というものは、我々ひ弱な文明人が考えるより大きなものではあるらしい。
とにかく、こうしてクィークェグは死の淵から甦り、彼の棺桶は衣装その他の物入れになったが、後にそれは私が譲り受けることになるのである。もっとも、それは棺桶として使用するためではなかったが。



第23章 セント・エルモの火

舷側に吊られた短艇の一つはエイハブの舟であったが、その舳先からは、彼が白鯨のために特別にあつらえた銛がぐっと突き出ていた。普段は銛先には革の鞘がかぶさっているので、我々がその鋭い刃先を目にすることはないのだが、その鞘を見てさえ我々は、それが作られた時の気味わるい話を思い出すのであった。
彼は、鍛冶屋(つまり船大工だ)に命じて、陸上にいた時から準備してあった極上の鉄と鋼で銛を打たせ、その刃先の焼き入れの時には、水ではなく人間の血を用いたというのである。クィークェグ、タシュテゴ、ダグーの三人がその目的のために呼ばれた。彼らの腕の血管がナイフで切られ、流れ出す血は桶に受けられた。そして、エイハブは、この三人の異教徒の血で銛に洗礼を受けさせながら、悪魔に白鯨への復讐を誓ったというのである。
船が日本海域に入って間もなく、ピークォド号は台風に遭遇した。
激しい風に帆の一部は裂け、帆柱と縄は震えて、ピークォド号は波と波の間に激しく上下した。
船底では、穴が開いて水漏れした箇所の修理が行われ、水がポンプで汲み出された。甲板の騒ぎもこれに劣らない。しっかり縛られていたはずの短艇やオールのあちこちが激しい振動で傾き、外れている。
真っ黒な空に、突然稲光が走った。
「避雷針、避雷針! 避雷針の下の鎖を海に投げ込め!」
落雷を恐れて、スターバックが叫ぶ。
「止めろ!」
いつの間に甲板に現れたのか、エイハブが怒鳴った。
「雷など恐れるな。たとえ神がわしの復讐の邪魔をしようとも、わしは地獄の底まででもあいつを追ってやる。雷ごとき、恐れはせんわ」
この涜神の言が吐かれたまさにその時、
「上を見ろ、火の玉だ!」
と、誰かが叫んだ。
見上げた者の目は、すべての帆桁、帆柱の上に青白い無数の小さな火が燃えているのを見た。
「神様、お助けを! セント・エルモの火だ」
迷信深い水夫たちは、この不吉な火を見て、跪いて祈った。
「うんうん、お前ら、良く見ておれ。あの白い火はな、白鯨への道筋を照らす火だ。こいつはな、神様がわしの復讐に協力してくださろうという深い思し召しだわな」
エイハブは、皆に言い聞かせるように、大声を上げた。
「船長、あなたの舟を御覧なさい!」
スターバックが指し示した小舟の舳先からはあの銛が突き出していたが、その鞘は嵐で外れており、その鋭い刃先にも、青白い炎が燃えていた。
「神様が、あなたを叱っているのです。ご老人、白鯨への復讐などおやめなさい」
スターバックの言葉も耳に入らぬ様子で、エイハブは小舟に近づいていき、舟から突き出た銛を外して手に取った。
乗組員たちは、恐怖の声を上げた。
エイハブは、白い炎に包まれた銛を高々と差し上げた。
「白鯨を殺すという、わしの誓いは、何者にも破ることはできないのじゃ。こんな炎ごときに何の意味がある。お前らが、火が怖いのなら、こんな物、こうしてくれるわ」
エイハブは、手で銛の先をさっと撫でた。銛の火は消えた。だが、その後長く続いた水夫たちの恐怖を消すことはできなかったのである。


第24章 羅針盤

翌日、風はなおも強かったが、天気はからりと晴れ上がり、青空に黄金のような太陽が輝いていた。
「ははは、わしの船は、まるで天空を行くアポロンの馬車さながらじゃわい。いったい誰がこの航海の前途をあれほど恐れたのか。こんな上機嫌な日には、誰であれ、白鯨などを無闇に恐れた自分の心が恥ずかしくなろうというものだ」
甲板に上がってきたエイハブは、満足そうな顔で呟いたが、ふと、何か気に掛かるように舵取りの所に行き、船の進路について尋ねた。
「もちろん東南東でさ、船長殿」
「この大嘘つきめ、朝のこの時間に東南東をさしていて、何で太陽が船尾にあるのじゃ!」
エイハブの言葉に、人々は驚愕した。確かに、彼らはコンパスに従って東南東に向けて舵を取っていたからである。
しばらく、その場の全員が、この不可解な現象に不審と恐怖の念を抱いて沈黙した。
やがて、エイハブが大声で笑った。
「分かったぞ! あの忌々しい雷のせいじゃ」
嵐の最中には、稲妻があたりを飛び交い、船の磁石を狂わせることがある。この奇怪な出来事は、そのためであった。
だが、スターバックを先頭に、エイハブを除く全員が、これはこれ以上東に進むなという神のお告げだと考えたのは言うまでもない。しかし、この時になってもまだその事をエイハブに面と向かって言える者はいなかったのである。



第25章 レイチェル号

ある朝、ピークォド号の前方に、もう一つの捕鯨船が見えた。
その船が声の届く所まで近づいた時、エイハブは拡声ラッパを手に怒鳴った。
「白鯨見たか!」
「ああ、見た。昨日だ。流れた捕鯨艇見なかったか?」
先方の答えに、エイハブは驚喜して、向こうの問いには答えず、もっと詳しい話を聞こうと、短艇を準備させた。しかし、向こうの船長がいち早く舷側から短艇を下ろすのが見えた。
ピークォド号の甲板に上ってきた男は、エイハブの旧知のナンタケット人だった。
「白鯨はどこにおった! まだ生きとるだろうな?」
気ぜわしくエイハブは疑問をぶつけた。
相手の船長は、白鯨との遭遇の様子を話した。
その時、彼らは他の鯨を追っている途中だったが、突然海面に顔を出した白鯨を見て、間近にいた短艇の銛打ちは、迷うことなく銛を投じた。銛は過つことなく白鯨に刺さったらしく、白鯨は猛烈な逃走を始め、それに引っ張られた短艇は姿を消した。そして、まる一昼夜を経過した今も、その短艇の行方が分からないというのである。
「お願いじゃ。どうか、我々と一緒に、そのボートを探してくだされ。そのボートには、わしの息子が乗っておったのじゃ」
エイハブ船長は厳しい顔で口を閉じていたが、やがてその口から出てきたのは、無情この上ない言葉であった。
「ガーディナ船長。その願いは御免被ろう。わしには今、一刻も無駄にする時間はないのじゃ。さあ、すぐにこの船から下りなされ。スターバック、出発じゃ。全速で東南東に向かうのじゃ!」
我々は、失われた子供を捜すレイチェル号を後に、やっと姿を現した白鯨の痕跡を探して、レイチェル号の来た方向へとすれちがっていったのであった。



第14章 追跡1

捕鯨船が、鯨の群れに遭遇することは滅多にない。だから、それ以外の日常は、ごく平穏無事に過ぎていくのである。水夫たちはそうした日々を、船や小舟を磨きたて、道具の手入れをし、暇な時間には、愛用のナイフで木彫り細工をしたり煙草を吸って無駄話をしたりして暢気に過ごすのだが、それは見張り番の鯨発見の叫びでいっぺんに吹っ飛ぶ。
その時マストに上っていたのはゲイ岬人のタシュテゴであった。彼のインディアン特有の奇怪な叫びが、水夫全員を午後のまどろみの気分から叩き起こし、飛び上がらせた。
「鯨じゃ、鯨じゃ! あそこ、あそこ、潮吹いとる!」
船長室から飛び出してきたエイハブが、マストの上を見上げて怒鳴る。
「どっちじゃあ!」
「風下側じゃ。2マイル先、大群じゃあ!」
たちまち、甲板上は大騒ぎである。
舷側に吊り下げられた三隻の短艇がすぐに下ろされ、その中には、血気にはやる水夫たちが早くも怒号を上げている。
その時、私は不思議な一団を見た。
どこから出てきたのか、五人のマレー人らしい薄黒い顔色の男たちが、エイハブの周りに集まっていたのである。彼らは、この長い航海の間見たこともない顔ぶれであった。その時、私は、乗船の朝、港の霧の中に見た怪しい影のことを思い出し、奴らがこの五人に違いないと確信した。
「用意できたか、フェデラー」
エイハブは、その五人の頭目らしいマレー人に言った。
「おう」
低いかすれ声で、男は答える。
「短艇下ろせ!」
エイハブと五人の悪魔を載せた短艇は、するすると舷側を下り、海面に達した。
私はクィークェグと共にスターバックの舟に乗っていたが、スターバックもこの五人の事は知らなかったらしく、驚いたようにエイハブ船長の舟を眺めていた。
「何をぼんやりしとる! さっさと鯨めを追わんか!」
エイハブに怒鳴られて、スターバックもその他の舟も、気を取り直して鯨の追跡にかかった。
先頭に立って進むエイハブの舟の速さを見れば、この五人の悪魔どもの漕ぎ手としての技量が大したものであることはわかる。
やがて四隻の舟はそれぞれの鯨を追って分かれ、互いを見失った。


第15章 追跡2


鯨は、海面下に潜ったらしく、見えなかった。
やがて暗い緑色の海面に白い泡が立ち、蒸気のようなものが見えた。
「そこだ! 漕げ、漕げ!」
スターバックの叫びに、漕ぎ手たちはここを先途とばかり、必死で漕ぐ。背骨が折れても不思議ではない。
実際のところ、我々漕ぎ手は、進行方向に背を向けて漕いでいるのであり、前方の様子はほとんど見られない。頼りにするのは、船尾で舵を操っている短艇長の指示だけであり、彼が我々をどこに導いているやらさっぱり分かりはしないのである。彼が我々を死神の口に向かって漕ぎ進ませていようとも、我々にはそれは分からないのだ。
「さあ、頑張った。疾風が来るぞ。だが、風が来る前に、あの鯨めにがつんと一発食らわせるんだ。漕げ、漕げ、死ぬ気で漕げ!」
スターバックの、静かだが熱気に溢れた声が、我々を駆り立て、力を奮い起させる。
「あそこだ、クィークェグ、立て!」
舳先にいて、必死に舟を漕いでいたクィークェグが、その声ですっくと立ち上がる。
「今だ、打て、一発ぶちこめ!」
その瞬間、大きな衝撃を受け、小舟は何かの大きな力で持ち上げられた。
我々は、今や舟を漕ぐどころではなく、舟にしがみついているだけである。
疾風であった。風は我々の舟を持ち上げ、海に叩きつけた。小舟は転覆し、乗組員は海の上に投げ出された。私はしたたか海水を飲んだが、他のみんなも同じだろう。
クィークェグの銛は、空しく鯨をかすっただけで、鯨は悠々と逃れ去った。そして我々は転覆した小舟の周りを泳ぎながら、それにしがみついていた。
もしも、ピークォド号が運良く我々を見つけてくれなければ、この広い海原で孤児となった我々は、そのままそこで命を終えていただろう。そして、ゴタムの賢人の童謡よろしく、この話もここでお終いになったわけである。
だが、我々は救われた。そして、水浸しの体をみじめに震わせながら本船に収容された後、この壮大な追跡で、たった一頭の獲物もなかったことを知らされたのであった。



第16章 遺言

「クィークェグよ」
私はつとめて平静な口調で言った。
「こんな事はしょっちゅう起こるもんかい。つまり、小舟が海の上でひっくり返って、乗っていた人間はあわやお陀仏になるなんてことがさ」
クィークェグは何の感情を表すでもなく、まあ、しょっちゅう起こるなあ、と言った。
私は降り出した雨の中で悠然とパイプを吸っている二等運転士に言った。
「スタッブさん、ぼくはあんたが、うちのスターバックくらい慎重な男はおらんと言ったのを覚えておるんですがね。風やら疾風やらの中で、鯨めがけて突進していくのを慎重な人間と言うんですかい」
スタッブは嘲笑うように煙をひとつ吐き出した。
「あたりきよ。じゃあ、お前、鯨が尻尾を振ってさよならするのを黙ってお見送りしろとでも言うんか」
私は近くに立っていたフラスクにも聞いてみた。
「フラスクさん、ぼくはこの道には新米だから、ひとつ、折り入ってお伺いしたいんですがね、この世界じゃあ、死神が口を開けて待ってるところへ、後ろ向きになって背骨が折れるくらいぐいぐい漕いでいくってのが、どうしても規則になってるんですかい?」
「もっとあっさり言ったらどうだい」とフラスク。
「そうさ、それが決まりだ。もっとも、漕ぎ手が前を向いたまま、鯨にぶつかっていったなら面白かろうとは思うぜ。そしたら、互いに見交わす顔と顔、とならあ。はっは」
私は、これらの証言を得て、得心し、クィークェグを呼んで言った。
「クィークェグ、来てくれ。お前を俺の顧問弁護士、兼、遺言執行人、兼、遺言引受人にしよう。下に行って遺言書を作るから、つき合ってくれ」
こうして私は、捕鯨船の乗組員となるということがどのようなものであるかということを学び、後顧の憂いなく、この儚い稼業に命を賭ける決意をしたのであった。



第17章 大烏賊


船は、アフリカ大陸最南端の喜望峰を越えて、北東に進み、インド洋に向かう。喜望峰は、その輝かしい名前とはうらはらに、嵐の海であり、かつての呼び名であった苦難峰そのものの難所であった。ピークォド号は、この嵐にも幸い船体をぶっ壊すこともなく、穏やかな海域に歩を進めた。途中、捕鯨を終えて帰途に就く船の数々を我々は羨ましい思いで眺めたが、船倉の樽の一つとして油の入っていない状態では、我々の帰れる日はずいぶん先の事になるだろうと、覚悟したものである。
ある透明な朝、超自然的な静寂があたりを支配する中で、マストに上って見張りをしていたダグーが、大声を上げた。
「出たぞ、白鯨じゃ! 真っ白な化け物じゃあ!」
水夫たちは名高い怪物を見ようと、甲板に飛び出した。私も、その中の一人となって、ダグーが指さす方向を見た。確かに、はるか前方に、この世の物とも思われない、輝くばかりに真っ白で巨大な生物がゆるゆると海上を浮きつ沈みつしている。
しかし、エイハブは、甲板上に凝然と立っている。あれほど、白鯨への復讐に執念を燃やしていた男が、この時になっていったいどうしたのか。
「スターバックさん、どうしたのです? 白鯨が出たんですよ。どうして短艇を下ろさないのです?」
「あれは白鯨ではない」
スターバックの顔は青ざめていた。
「あいつに出逢うくらいなら、モゥビィ・ディックの口の中に飛び込んだ方がましだわい!」
「あれはいったい何なんです?」
「大烏賊だよ。あいつに出逢って、生きて港に戻った船は、まず無いという話だ」
我がピークォド号は、この生きた海の幽霊を遠くに眺めながら、触らぬ神に祟り無しとばかりに船足を速めて立ち去った。だが、この出来事は、ピークォド号の前途について、乗組員全体の気分に一抹の影を残したのであった。

第18章 最初の獲物

大烏賊を見た翌日、クィークェグは、愛用の銛を砥石で研ぐのに余念がなかった。
「イカの野郎が見えたらな、とたんにマッコウの野郎が出てくるんじゃ」
そう、彼は私に教えた。
我々が今航海しているインド洋は、鯨の漁場としては有名ではない。だから、私はクィークェグの言葉を話半分に聞いていたのだが、その日のうちに彼の言葉の真実が証明された。
真昼のインド洋は、凪いで蒸し暑く、マストの上の見張り台に立っていた私と他の二人の水夫は、ほとんど居眠り状態だったが、睡魔に襲われてあやうくマストから転げ落ちそうになった刹那、私が海面に見たのは、まさしく鯨の姿だった。
風下の、およそ四十尋ほどの距離に、のんびりと潮を噴いているそいつの黒い姿は、平和そのものを絵に描いたようなものだったが、私は自分の発見に動顛し、他の二人を揺すぶり起こした。
我々の叫び声に、船の乗員たちはたちまち船室から飛び出してきた。
海面に下ろされた四つの短艇は、相手を驚かせぬように、こっそりと鯨めに近づいていった。だが、やがて鯨は、歓迎すべからざる客たちに気づいて、水面下に潜り込んだ。
我々は、鯨がどこに現れるか、海面を注視して待った。
やがて、鯨は再びその巨大な姿を海上に現し、本格的な逃走に取り掛かった。
「追え、追え、稲妻みたいに追っかけろ!」
鯨にもっとも近かったスタッブは、わめいて乗員を励ました。
「ウッ、フゥ! ワッ、ヒィ!」
タシュテゴがインディアン特有の掛け声をわめく。
「キィ、ヒィ! キィ、ヒィ!」
フラスクの舟のダグーもそれに劣らぬ野蛮な声を上げている。
「カ、ラ! クゥ、ルゥ!」
クィークェグがうなり声を上げる。
もっとも早く銛の投擲距離に達したのは、やはりスタッブの舟だった。
「立て、タシュテゴ! やっつけろ!」
スタッブの怒鳴り声で、ゲイ岬のインディアンは弾かれたように立ち上がり、ほとんど鯨を見るまでもなく銛を投じた。
銛は見事に刺さり、鯨とスタッブの短艇との間は一条の縄でつながれた。次の瞬間、苦痛から鯨は速度をいっそう速め、スタッブの舟は鯨に引っ張られて猛烈な速さで海の上を走りだした。鯨に縄を切られないために、捕鯨索には十分な長さが準備してあるが、鯨に引っ張られて轆轤から恐ろしい勢いで繰り出されるその縄は煙を上げている。
「索を濡らせ、索を濡らせ!」
轆轤の側の水夫が、自分の帽子で海水を汲んで縄にかける。じゅっと水蒸気が立ち上る。
やがて鯨は、大きな荷物を引っ張って泳ぐのに疲れて力を失い、速度をゆるめた。
「たぐり込め、たぐり込め!」
スタッブは、そう命令して、タシュテゴと位置を代えて舳先に立った。
舟が鯨と平行する位置に来ると、スタッブは投げ槍を手にして、一擲、また一擲と鯨に槍をぶつけていった。
今や、鯨の体のあちこちからは血が噴き出し、鯨は急速に力を失っていっていた。
頃は良し、と見たスタッブは舟を鯨に横付けにさせ、一際長い槍を鯨に刺した。そして、鯨の生命の最後の一滴を搾り取ったのである。
鯨は断末魔の一暴れをして水夫たちを慌てさせたが、やがて完全に力尽きて海上に静かにその体を横たえた。
(もちろん、私は別の舟に乗っていたのだから、この一部始終を見ていたわけではないが、断片的見聞を総合すれば、詩人的想像力によって他の細部は明瞭に想像できるのである。そのあたりは、読者の諸君にも了解しておいてもらいたい。すべて、飛躍やご都合主義の無い文学とは、詩的精神の欠如した無味乾燥の別名でもあるのだから、あまり固いことは言わないで欲しいのである。)



第19章 スタッブの晩餐

倒された鯨を見たエイハブは、そっけなく、鯨を船につないでおけ、と簡単な命令を下して自分の船室に引っ込んだ。義務として他の鯨も捕るが、彼の頭には憎っくき白鯨を倒すことしか無いのである。
既に夜になっていたので、鯨の解体は翌日ということになり、鯨の巨体は船に横付けにされてつながれたという次第だ。
自分の手で鯨を倒したスタッブは、有頂天になり、はしゃぎながらダグーに言った。
「おい、ダグー、船から下りて鯨の尻尾のところをちょっと切ってきな。寝る前にステーキをひとつやっつけるからな」
スタッブは、甲板の上の絞盤を食卓代わりに、豪勢な夜食に舌鼓を打ったのだが、同じ時に船の下の海面では鮫どもが思わぬ鯨のご馳走に舌鼓を打っていたのであった。
「料理人、料理人、おい、羊毛親爺、こっちへ来い!」
スタッブの喚き声に、老黒人の料理人は、暖かなベッドのまどろみから叩き起こされ、よろめきながら仏頂面で甲板に現れた。
「何ですかな、スタッブさん」
「うん、お前にひとつ言いたいことがあるんだが、その前に下の方ではしゃいでいる鮫どもを少し黙らせてくれ。うるさくて自分の声も聞こえやせん」
羊毛親爺はランタンを手に、しぶしぶ舷側に近づいた。
「なあ、あんた方、スタッブさんが話ができんちゅうとるんで、お願いだから、少し静かにしてくれんかな。これ、静かにせい、ちゅうとるんじゃ、この悪魔どもめ!」
「こらこら、罰当たりな事を言うな。罪人を悔い改めさせるにはな、穏やかに話すもんだぞ。教会の説教を聞いたことがないのか」
「なら、あんたが説教すりゃあええ」
「まあいい。で、お前に話というのはだな、このステーキの焼き具合のことだ。お前、こいつをどう思う」
フォークに刺して目の前に突き出された鯨の尾のステーキの一片を羊毛親爺は頬張って、しなびた口をもぐもぐさせた。
「どう思うって、こんなうめえステイクは、おら今まで食ったことがねえだよ」
「この大嘘つきの老いぼれの悪魔め! こいつがうまいだと? いいか、こんな焼きすぎの、消し炭みてえなステーキを食ったのは、俺は生まれて初めてだ。今晩は許してやるが、もう一度こんな焼肉を俺に出してみろ、お前をあの鮫どもの晩飯に海に放り込んでやるからな。覚えておけ。いいか、ステーキは絶対に焼きすぎちゃあいけねえんだ」
「分かっただ」
口の中で文句を言いながら去ろうとした老黒人を、スタッブはもう一度呼び止めた。
「待て、明日、俺たちが鯨をばらす時にはだな、お前は忘れんで、鯨の鰭のところを取って置くんだ。それで塩漬けを作るんだぞ」
うなり声で返事して船室に潜りこもうとする後ろから、また声が飛ぶ。
「まだ話は終わっとらん。明日の朝飯には、鯨団子、晩飯には鯨のカツレツだ。それから、行く前に敬礼だ!」
階段を下りながら、羊毛親爺はぶつぶつ言う。
「神様、あいつが鯨食うより、鯨があいつ食った方がようがす。あいつの方が、下の鮫どもよりまるで鮫みてえだよ」
こうしてやっと、哀れな老黒人は再び寝床に潜り込むことができたのであった。



第10章 騎士と従者

船はいよいよ、海に出た。出帆の際の様々な騒ぎ、ナンセンス、あるいはセンチメンタルな情景は、それだけで優に一つの芝居の材料になりうるものだが、ここでは割愛しよう。ともあれ我々は、わずか一枚の舟板に自らの命運を賭けて、美しくも恐ろしい大海原に船出したのである。時はあたかも聖誕祭、キリスト様のお生まれになった記念すべき日である。神のご加護が我々の上にあらんことを! 
我らが航海の守護神は、一等運転士スターバック。この人は寡黙で信心深い人だが、熟慮と決断の人でもあり、温厚な外観に似合わず、何物をも恐れぬ勇気の持ち主で、多くの水夫たちの敬意を集めていた。
彼に続く地位の二等運転士スタッブは、気楽な怖いものなしの男である。彼にとっては、鯨は自分の遊び相手であり、大きな犬か猫のようなものだ。鯨を命がけで追っている際にも、彼の口から離れることのない有名なパイプと同様、彼の口からはひっきりなしの冗談が飛び出す。
勇気という点では、三等運転士のフラスクも負けてはいない。小柄だががっしりとした体のこの男は、鯨を親の仇と憎んでいるかのように、鯨捕りに執念を燃やし、自分の身の危険などというものは、少しも頭になかった。
この三人は、鯨を捕る際には、それぞれ短艇長として短艇に乗り込み、舟を操縦して鯨を追跡し、鯨に銛や槍を打ち込む役目であり、いわばいにしえの騎士にも比肩すべき存在である。そして、いにしえの騎士と同様に、彼らには従者がいた。従者とは、短艇長の助手として舟を漕ぎ、一番銛を鯨に打ち込む勇者たちである。
スターバックの銛手、つまり名誉ある従者に選ばれたのは、我らがクィークェグである。
スタッブの銛手は、ゲイ岬から来たインディアンのタシュテゴ。荒野に獣を追った偉大な祖先の名を辱めない、赤褐色の見事な筋肉質の体に、漆黒の髪、黒い瞳をした勇者である。
フラスクの銛手は、ダグーという巨大な体躯の黒人だ。その真っ黒な巨体は、それだけで見る者の肝を冷やすほどだが、この巨人が、よりによってあの小柄なフラスクの従者であるのは、一奇観とも言うべきものであった。
こうして見たところ、ピークォド号の乗組員は、様々な人種の混合という印象だが、実際、これは多くの捕鯨船に共通した特徴で、捕鯨船の多くは、その寄港する土地や島々で乗組員を補充することが多く、その結果、船は雑多な人種の混合体となるのである。しかし、これこそは、ある意味では我が愛するアメリカという国の特徴ではないか。もしも未来の世界に、すべての人種の相違が意味を失い、人類共同体ともいうべき世界が出現するなら、ピークォド号は、その先駆けともいうべきものであったと見なされることであろう。


第11章 エイハブ船長

船はしばらくは厳冬の海を進んでいったが、南に向かうに連れて天気も和らぎ、風は冷たいものの、暖かな太陽が顔を覗かせるようになってきた。
ある日、私が午前の当直に甲板に上がり、船尾に目をやった瞬間、私は何か前兆めいた戦慄を体に感じた。確かに、私は、それを見る前に感じていたのである。
エイハブ船長が後甲板に立っていた。
背が高く、老年ながら筋骨たくましいその体は、ベンベヌート・チェリーニのペルセウス像さながら、他人を寄せ付けない厳しい雰囲気は、荒野を歩むリア王さながらである。
彼の灰色の頭髪からは、溶けた鉛が流れたような一本の白い傷跡が顔を縦に走り、首筋を通って服の中に消えている。まるで、雷に打たれた巨木である。
彼の片足は象牙か鯨骨で作られたらしい義足だったが、彼はその骨の棒を、後甲板に掘られた穴に差し込んで、波に揺れる船の動きから身を守っていた。
やがて彼は自分の船室に姿を消したが、この日以来、彼はしばしば人前に姿を現すようになった。


第12章(前半) スペイン金貨


エイハブ船長は、何日もの間、夜になると甲板の上を歩き回り、その骨の義足の音で甲板の下で寝ている船乗りたちをうるさがらせたが、彼に表立って文句を言う者はいなかった。みんなは何となく彼の事を恐れていたのである。
ある日、彼は昼間から、いらいらした様子で甲板の上を歩き回っていた。明らかに何かの思念が彼を苦しめ、動かしていた。
「おい、気がついたか、フラスク、あの爺さんの頭の中で卵が孵ろうとしているぜ」
暢気者だが勘のいいスタッブは、フラスクにそっと囁いた。
日が海の上に落ちる頃、船室に戻っていたエイハブは再び姿を現した。
「全員集まれ! マスト番も下りてくるのじゃ!」
エイハブの命令に、乗組員たちは、何事が始まるのか、とぞろぞろ集まってきた。
エイハブは、長い間何も言わなかった。沈黙があたりを支配する中、エイハブが甲板を歩くコツコツという音だけが響いた。
とうとうエイハブは口を開いた。
「鯨を見たら、お前らはどうする!」
「合図をします!」
エイハブのだしぬけの質問に、何人かが咄嗟に答えた。
エイハブは満足したように大きく頷いた。
「それからどうする?」
「短艇を下ろして鯨を追います!」
「どんな調子で追うか言ってみい!」
「鯨ばらすか、短艇に穴があくか!」
熱狂的に水夫たちは答える。
「よしよし、その調子だ。みんな、こいつが見えるか?」
エイハブは高く手をかざした。その指先には、夕陽にきらめく、一枚のスペイン金貨があった。


第12章(後半)


「こいつは十六ドルもする奴だ。見えるか? スターバック君、あそこの槌を寄こせ」
スターバックから受け取った槌と釘で、エイハブはそのスペイン金貨を音高らかに大マストに打ち付けた。
「頭に皺の寄った、顎の曲がった真っ白な鯨を見つけた者には、この金貨をやるぞ!」
水夫たちは「万歳」の声を上げて熱狂した。かくいうこの私もその中の一人だったと白状しよう。十六ドル相当のスペイン金貨! 貧しい水夫には一財産である。
「船長、その白い鯨というのは、モゥビィ・ディックという奴ではないか?」
タシュテゴが言った。
「そうだ、タシュテゴ、お前奴を知っとるのか?」
「そいつの潮吹きの具合は、ちょっと妙な奴じゃあねえか」
ダグーが割り込む。
「そ、そいつ、銛が一杯刺さって、銛みんな曲がっている、違うか?」
クィークェグも、どもりながら言った。
「そうじゃ! そうじゃ! わしが探しているのはそいつじゃよ。わしのこの足を刈り取ったのは、あの悪魔めじゃ。わしはそいつを仕留めるまでは、生きていても仕方がない。みんな、わしの復讐に手を貸してくれるな?」
「そうだ、そうだ、忌々しい白鯨めをやっつけろ。モゥビィ・ディックをやっつけろ!」
水夫たちの熱狂をよそに、スターバックは一人、沈鬱な顔をしていた。
「エイハブ船長、僕は鯨を捕るためにこの船に乗ったのであり、あんたの復讐のために乗ったんじゃない。白鯨一頭倒して、何の儲けになります?」
意を決してスターバックは静かな調子でエイハブに言った。
「儲けじゃと? 損得勘定ではないわい。あいつを倒すまではわしは生きていないも同然じゃからじゃ」
「たかが畜生相手に復讐など、まともな人間の所業とは思えません」
「まあ聞け。お前らは損得などということで、物事を決めたがるがな、この世には損得よりも大事なものがあるんじゃ。そいつは頭などでは分からん。何のためにやるのか、やっている当人にすら分からんかもしれん。だが、それをやらにゃあならん事だけは分かるんじゃ。たとえそのために身を滅ぼそうともな。便々と生きながらえて炉端で居眠りしながら無事に死んでいくのもいいじゃろう。だが、やるべき事をやらなかった者には、本当の安眠は得られないのじゃ。さあ、議論などもういい。酒を持ってこい。皆の者に、前祝いに一杯ずつ振る舞うのじゃ!」
給仕の団子小僧がすっ飛んで行き、酒の器を持ってきた。狂熱的な雰囲気の中で酒が廻し飲みされ、水夫たちはエイハブ船長の白鯨への復讐に協力を誓ったのであった。


第13章 白い悪魔

かなり以前から、群れを離れた孤独な白鯨が、捕鯨船以外には訪れる者もない絶海のあちこちに出没していた。その白い鯨については、神秘的な噂が囁かれていたのだが、船乗りというものは迷信深いものだから、私は、その噂もほとんど信じてはいなかった。だから、今、エイハブ船長の目的が、その白鯨を倒すことだと聞いても、あまり現実的な感じは持てなかったのである。もちろん、私も、あの熱狂の中の一人であったのだが、それは酒の酔いと同じことであり、我に返った後では、自分が何であれほど興奮していたのか、馬鹿らしい気分にさえなったものである。
もちろん、モゥビィ・ディックが存在することは疑えない。一般に鯨は大人しい性質のものだが、抹香鯨は別である。捕鯨船に追われた抹香鯨は、しばしば自分に銛を投げつける短艇に向かって反撃し、短艇を打ち壊して海の藻屑とする。もともと鯨の偉大な体躯はそれだけでも人に畏怖の念を抱かせるものだが、鯨の持つそうした力への恐怖感が、鯨にまつわる様々な伝説を生み出した。モゥビィ・ディックは、そうした伝説の一つであり、その異常な体の色が、それを見た者に不可解な気持ちを与え、不思議な恐怖心を抱かせたものだろう。そう私は思っていたのである。だから、伝説の白鯨がこうして身近なものになったといっても、それは、名前だけ知っていた遠い従兄弟が近くに引っ越してきたくらいのもので、顔を合わせるまでは、そいつについて何とも判断のしようがないというくらいの気分であった。
しかし、この日から、白鯨についての話が水夫たちの日常に上るようになって、私はモゥビィ・ディックについて詳しく知るようになった。その中でも、もっとも奇怪な話は、モゥビィ・ディックは人間並みの知恵と感情を持ち、悪魔みたいに狡知に長けているという話である。
鯨のために命を失った人間は多い。しかし、白鯨の場合は、あらかじめ残忍をたくらんでやったとしか思えない、と老練の水夫は言うのである。
「俺は、あいつが舟を砕いて悠々と泳ぎ去る時、確かにあいつがにやりと笑うのを見たんだぜ」
そう言ったのは、この前の航海でエイハブと行動を共にした水夫の一人であった。
他の連中が、私と同様に、一時の狂熱からすぐに醒めたのは疑いない。だが、エイハブの執念は、船の乗組員全員に奇怪な磁力を及ぼし、彼に逆らえない雰囲気が作り上げられていた。あの冷静なスターバックさえ、あの日以来、エイハブの目的に対して、表立って反抗することはしなくなった。
「こんな広い海の上で、たった一頭の白鯨に出逢うなんて、奇跡に近い。それまでは、他の鯨を捕まえていればいだけだし、船の樽がみんな一杯になったら、あの老人もナンタケットに帰らざるを得ないだろう。要するに、これは普通の航海と同じことだ」
スターバックが自分にそう言い聞かせているのが私には感じ取れた。だが、おお、神の定めた運命は、スターバックの予想通りにはいかなかったのである。






夏休み特別付録として、ハーマン・メルヴィルの「白鯨」のダイジェスト版を、私の別ブログから転載する。この作品はサマセット・モームが選んだ「世界の十大小説」にも入っている名作だが、あまりにも長く、脇道が多いので、まともに最後まで読んだ人は少ないと思う。しかし、実に素晴らしい小説なので、これを読まずに一生を終えるのはもったいない話である。そのダイジェスト版(私が、自分の記憶からダイジェストした。)でも、読まないよりはマシだろう。別ブログでは25回くらいに分けてあるが、それを5回くらいにまとめる。ちょうど8月が終わるまでには全部載せられるだろう。

(以下自己引用)


第1章 海へ

長い人生の中には、どうしようもない憂鬱に捉えられる時期がある。たいていの人はそういう時、そんな憂鬱を黙って飲み込んだり、あるいはいっそ自分の頭をピストルで撃ち抜いたりするものだが、私はそんな時、海に行く。
私の名前はイシュマエル。仕事は、今のところは自由人、つまり浮浪者だ。学校を出てから、小学校の教師をはじめ、さまざまな仕事を転々としてきたが、中でも大西洋を航海する汽船の乗組員を何回かやり、その仕事は気に入っていた。私は海が好きなのだ。
定期的に訪れる憂鬱症の発作から逃れるため、私はまたしても海に向かった。しかし、今度は商船ではなく、捕鯨船に乗り込もうと思ってのことだった。この気軽な思いつきが、後に私を死ぬほどの目に遭わせることになるなどとは、その時は思いもしなかったのだが。



第2章 漁村の宿

私がナンタケットに着いたのは夜だった。捕鯨船の集まる一大基地であるナンタケットは、見たところ、只のうら寂しい漁村で、潮の匂いのする大通りには、数軒の宿屋以外には明かりの漏れている家はほとんどなかった。
私は一軒の宿屋に入って、夕食と一晩の宿泊を乞うた。主人はずるそうな顔で、「同宿で良ければ部屋はある」と言った。暖かいベッドに寝られさえすれば、私に文句はない。
ハマグリと、得体の知れぬ魚の切り身の入ったスープで腹をふくらまし、私は満足した気持ちで先にベッドに入った。同宿者が帰ってくるのを待って、寝ずにいるわけにもいかないからだ。
私がベッドに入ってしばらくして、階段を上る足音がし、部屋のドアが開いて、暗い室内に外の明かりが入ってきた。


第3章 クィークェグ

入ってきた男は、ベッドの中の私に気づかない様子で、何やらゴソゴソしている。私は、布団からそっと首を出して、男の様子を窺った。
神様! 助けてください!
私は心の中で叫んだ。
男は明らかに蛮人だった。剃り上げた頭の後方に、紐で結んだ長い辮髪が下がり、顔中まるでつぎはぎ細工のような入れ墨をしているではないか。
その野蛮人は、得体の知れない小さな木彫りの神像を暖炉の上に置いて、それに祈りを捧げている。その醜いちっぽけな神像の側に置いてあるのは、何と、人間の干し首である。
私はベッドの中でがたがた震えながら、この窮地からどのようにして抜け出したものかと必死に考えていた。だが、時遅く、その蛮人は、私のベッドに飛び込んできた。


第4章 救出

「助けてくれえ!」
私の悲鳴に驚いたのは、蛮人の方である。そいつは、ベッドの側に立てかけてあった捕鯨用の銛を掴むと、それを私に突きつけ、怒鳴った。
「お前、何者だ。うぬ、ここで何してる。言わぬと殺す!」
相手の凄い形相に、私は真っ青になって震えているばかりだったが、幸い、私の悲鳴を聞いて部屋に飛び込んできた主人が彼をなだめてくれた。
「これ、クィークェグ、やめなされ。こいつはお前のルームメイトじゃよ。お前、この人と同じベッドに寝る。分かったか?」
蛮人は事情を理解したのか、案外素直に頷いて、手真似でベッドの半分を私に明け渡し、自分はベッドの隅に身を寄せて目を閉じた。
私は、野蛮人と同じベッドで寝るのはいやだ、と主人に猛然と抗議をしたが、主人は笑って取り合わない。私は諦めて、クィークェグと呼ばれた褐色の男になるべく近づかないように、ベッドの隅に寄って寝ようと努めたのである。


第5章 友愛

翌朝、目覚めた時、私は何だか不思議な感覚に襲われた。誰かに保護されている、という感覚である。それが何のためか、一瞬分からなかったが、布団から顔を出して、それが、私を抱きかかえるように寝ているクィークェグの腕のせいだとわかり、私は照れくさい気分になった。
「おい、クィークェグ、よしてくれよ。新婚夫婦じゃあるまいし、男がこんな風に男を抱きかかえて寝るなんて、おかしいよ」
私はぼやいて、クィークェグの腕をどかそうとしたが、彼を起こさずにその作業をするのは難しそうで、やがて私はあきらめて、窓から射す朝日を眺めつつ物思いに耽った。
いったい、昨夜の私の狂態は何だったのか。彼が自分と違う風体をし、奇妙な儀式を行っているというだけで、彼を野蛮人と決めつけて一人で大騒ぎしたことを考えると、私は恥ずかしかった。それに比べて、クィークェグの振る舞いは、紳士的と言っていいくらい立派なものであった。突然、ベッドの中に現れた人間に死ぬほど驚いたのは当然だが、それに文句も言わず、ベッドの半分を明け渡したではないか。人間の気品という奴は、こうした振る舞いに現れるもので、文明人だとか、白人という連中が、違う肌の色をした人間より決して優れているわけではないのである。
そんな事を考えているうちに、クィークエグは目を覚まし、私を不思議そうに見た。「俺のベッドで寝ているこいつは一体何者じゃ」とでも考えていたのだろう。やがて昨夜のことを思い出したらしく、その目に親愛とまではいかないが、こちらを許容するような光が浮かび、同時に軽い羞恥心のような表情を見せた。
彼は、私に、先に身支度するように手真似で言い、私の後で朝の支度をした。
一緒に朝食をする頃には、私とこの「野蛮人」は、すっかり親しく打ち解けていたのであった。



第6章 クィークェグの身の上

朝食の席で私がクィークェグからぽつぽつ聞き出したところでは、彼は太平洋の赤道に近いある島の酋長の息子であったらしい。つまり、蛮人のプリンスだ。彼はある日、海を越えてやってきた捕鯨船を見て、世界を自分の目で見てみたいという冒険心に取り憑かれ、その捕鯨船にこっそりと乗り込んで、以来十何年も鯨取りをしているとのことである。
彼が、その事を後悔しているかどうか、私は聞かなかった。おそらく後悔はしていないだろう。世間的な見方からすれば、王位を捨てて一介の船乗りになり、上級船員に顎でこき使われているなんていうのは、実に愚かな生き方ということになるのだろうが、しかし、この世に奴隷でない人間などいない。王といえど、境遇の奴隷にすぎない。少なくとも、クィークェグは、島の王様でいたら一生目にすることのない様々な不思議を見てきたのである。この世に生まれた目的のひとつが、物見をすることならば、一生を王宮の中で何不自由なく暮らすよりも彼は有意義に生きたのだと言えるのではないか?



第7章 ピークォド号

ナンタケットの港には、まもなく遠洋漁業に出かける捕鯨船が何隻か停泊していた。捕鯨は、およそ二年から三年もかかる仕事である。その目的は、鯨油を取ることだ。船一杯の空き樽に鯨油が詰め込まれるまでは、帰ることはない。従って、家族のいる者は、家族の顔を見ない期間の方がずっと長いわけである。こんな因果な商売を彼らが好んでやっているとも思われないが、中にはこの仕事が好きでたまらない人間もいるのだろう。
私とクィークェグは、港に停泊している船の一つに上がってみた。その船の名はピークォド号である。この時、他の船を選んでいれば良かったと、つくづく思う。
ピークォド号の甲板には、船主らしい老人がいて、船に乗せる荷物を一々帳簿につけていた。
私は、老人に「船に乗りたいのだが」と言った。
「捕鯨船に乗った経験は?」
「捕鯨船はありませんが、大西洋航路の商船には何度か乗ってます」
「商船か!」
老人は馬鹿にしたように鼻で笑った。
「あまり役に立つとは思えんが、乗りたいというならいいじゃろう。ただし、給料は七百七十七番配当じゃ」
数が多いからいい配当だとは限らない。これは、船の航海の利益の七百七十七分の一の配当ということである。まさしく、雀の涙というものだろう。もちろん、船の航海のための資金を出している株主全員への配当を考慮すれば、只の船乗りにそう多くの配当は出せないのは知っているが、これではあんまりだ。
交渉の末、三百番配当という数字で話がまとまり、次はクィークェグの番である。こちらは話が早かった。
「お前、鯨を捕ったことはあるか?」
老人の言葉に、クィークェグは手にした銛を見せ、舷側に吊られた小舟に飛び乗って言った。
「あそこの水の上の小さいタールの滴、見えるか? あれ、鯨の目とする」
クィークェグは、一瞬の動作で銛を投げた。銛は光を放って飛んでいき、海上に光る小さなタールの滴を砕いて海面に没した。
「お前、雇った! 九十番配当じゃ! このナンタケットの銛打ちに、そんな配当を出した船はかつてないぞ!」
老人は叫んで、契約書にクィークェグのサインを求めた。クィークェグは、それにサイン代わりの花押(ただの✖印だが)を書いて、めでたく契約は成立したのであった。



第8章 予言者

私とクィークェグがピークォド号から下りてきた時、どこから現れたのか、乞食のような汚らしい風体の男が私たちに声を掛けた。
「お前たち、あの船に乗るのかい?」
「ピークォド号のことかい? ああ、さっき契約したところだ」
私が答えると、男は首を横に振りながら、
「やめた方がいい。お前ら、エイハブ船長は見たのか?」
と言った。
「いや。なんでも、この前の航海で足を一本無くして、療養しているそうだが、もうすっかり良くなったらしいから、間もなくお目にかかれるだろう」
「無くしたのは足だけじゃないよ」
「他に何を?」
「魂さ。片足と一緒に鯨の腹の中に置いてきたんだ」
私はすっかり馬鹿馬鹿しくなって、クィークェグに、こんな気の狂った奴は放って向こうに行こうと促した。
「おうい、お前ら、船に乗ったら皆の者に、おいらは乗るのはやめたと言っていたと伝えてくんな。この航海は、どうせろくなことにはならんとな」
男の言葉に、私は後ろを振り返った。
「あんたの名前は?」
「イライジャ」
その名前に不吉なものを感じて私は男を見守ったが、男は灰色の空の下を、ふらふらとさまようように去っていったのだった。


第9章 影

二日後、私たちはピークォド号に乗り込んだ。いよいよ出航である。
甲板上は、航海のために運び込まれた荷物でごったがえしている。これから、長ければ三年間にもわたる長旅であるから、食料、燃料のほか、あらゆる家財道具が必要になってくるのだ。
私には、少し気になることがあった。
私とクィークェグの二人は、朝早い時間に宿を出て、このピークォド号まで歩いてきたのだが、十二月の霜の下りた道は霧が深く、下手すると、海岸の端にも気づかず海に落ちそうな具合であった。
私たちは、自分らが一番乗りだろうと思っていたのだが、霧に包まれた港の方を見ると、おぼろな人影のような物が霧の中を動いていく。ずいぶん早い奴らがいるものだと思いながら、私たちは足を速めた。しかし、船に乗り込んでみると、甲板で眠り込んでいる当直の水夫以外には、誰もいなかったのである。
私たちは狐につままれたような気分だった。
しかし、日が高く昇って、出航の喧騒が始まると、そんな奇妙な出来事はすっかり忘れてしまったのである。














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