ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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私は美少年から美青年、美中年ときて美老人になりそこねた者(不細工老人)なので、男に対する女性ルッキズム批判の感情はあまり感情移入しにくいが、気持ちは分かる。
「ちはやふる」は、カルタ競技を漫画で真剣に描いた意欲作で、アニメは面白く見たが、そこでの脇役少年たちの扱いがひどい、というのは心のどこかで感じた気がするが、意識には上らなかった。それに、主役級ハンサムふたりにしても、ハンサムゆえに周囲に騒がれるという描写は無かったように思う。その「特別さ」は主人公ヒロインと幼なじみであったためだけではないか。つまり、ヒロインは異性関係に鈍感であり、人間関係にも鈍感だから、あまり興味の無い人物を綽名で呼んでも罪悪感は無いわけだ。そこに作者の「ルッキズム」を言うのは、少し違うのではないか。
つまり、私は下に引用する文章の主旨には賛成しない。しかし、それを引用するのは、これがなかなかの論理性を持っていて、「小論文として面白い」からである。
なお、私はアニメしか見ておらず、漫画の原作は見ていないので、下の「小論文」への私の評価が適切だと主張する気はない。
さらになお、この文章の筆者は「少女漫画」への差別意識が強く、しかも少女漫画の名作をほとんど読んでいないのではないか、と私は疑っている。読んでいたら、そのような差別意識は生じないだろう。それに「NANA」は(私は読んでいないが、仄聞するところでは)少女漫画(読者に主に少女を想定している漫画)ではなく大人の女性向けの漫画だろう。
まあ、この文章の書き手は、アンチフェミニズムが高じてミソジニー臭く、かなり面倒くさい男だろうなあ、という感じだ。友達はいるのかねwww
(以下引用)
2024-04-21
■[漫画]ちはやふる[感想]少女漫画の本気のルッキズムに戦慄する。
コミックDAYSで無料というので、これまで何となくしか知らなかった本作を読んでみた。全体的に想像していた通りで、ドラマもバトル(試合展開)もよく出来ていて、まあ人気作だなあとは思った。のだけど、ちょっと悪い意味で「少女漫画だなあ」という部分も散見された。
主人公が「美形なのにかるたにしか興味のない残念美人」という設定なのはまあ良い。イケメンのヒーロー(少女漫画用語でヒロインの相手役)2人体制で、ドリカム構図なのもまあ良い。
しかし話が進むにつれて、美男美女の主人公らに対して、脇役の描写のトゲの多さにいやなものを感じてくる。
本作には、「不細工な男は名前で呼ばれない」というルールがある。
小綺麗な見た目で書かれるキャラクターは本名で呼ばれる一方で、「肉まん」「ヒョロシ(本名ひろし)」「机くん」など、不細工な男には敵味方問わず必ず、まるでそれに抗議する人権などなくて当然のように悪気なく侮蔑的なあだ名がつけられ、これもまた「善人」「悪人」の別なく誰からもその名で呼ばれる。
酷いのが「机くん」で、これは(本当にあっても不思議じゃない名前だが)もちろん本名ではない。
「ガリ勉なのにイケメンヒーローに負けて学年二位で、悔しくて必死に机にしがみついてる(ずっと勉強してる)」が由来の、完全なる陰口である。
それを、「残念美人」の主人公が、まるで親しみやすい鷹揚さのアピールのように、何気なく、悪気なく、使い続ける。
この恐ろしさが、作者にはわからないのだろうか????
書いていて思い出したが、自分はこれに類する気持ち悪さを別の少女漫画でも感じたことがある。
『NANA』だ。
二人とも同じ「ナナ」という名前なのに、上から目線の強気な相手に「紛らわしいからお前はハチな」なんて言われる展開、男の漫画だったら喧嘩開始の合図でしかない。いや、男だけじゃなく女性作者であったとしても、このようなアイデンティティの否定を「親愛の証」として描く芸術作品は、世界広しといえども日本の少女漫画の世界くらいしかないのではないだろうか。
それぐらい、この自然な見下し感覚の浸透は異常なものだ。
本作ではこの見下し感覚の酷さに、それを選択的に行うルッキズムが加わる。
名前を奪われ、非人間化されるのは「不細工な男」だけである。不細工な男にはその不細工さを戯画化され弄ばれる当然の摂理があるという感覚が、作者にはあるのだろう。
作品外のさまざまな問題を見ても、この作者の描き方を「無邪気な善意」と見なすことは難しい。
話は飛ぶが、男が少女漫画(女性漫画)方面からのポリコレ的お為ごかしに辟易する原因はやはりこういうところにあると思う。
少女漫画、女性漫画のかかえる差別的問題は、少年漫画や青年漫画のそれよりも明らかに多い。
というのも、女性向けの世界には男性向けの世界に比べて、「正義を問う」という作品自体が少ないからだ。
男向けの漫画には、極めて差別的なものもある。一方で、「そういうの、だせえぜ」と逆を強く主張する作品もあるのが男の世界である。
女性向けの作品には、そういう「議論を呼ぼうと、叩かれようと、自分の主張を強く出す」という美学がない。
昨今のポリコレ風潮も、どちらかというと「空気を読む。和を乱さない」という女性コミュニティの同調圧力の一貫にしか見えないところがある。
だからこそ、女性漫画家は女性向け漫画(延いては、その根源となる女性誌やファッション誌にも蔓延る女性版ホモソーシャル世界)のルッキズム、差別性については何も述べようとしない。
男には、「男の責任を自覚するフェミニストになるべき」と言いながら、「女の差別も酷いよね」という女は「名誉男性」として排除されるような空気が、独善的で空虚なものにしか見えないのは当然だ。
多分、このようなことは、今後これも欧米や海外(中国韓国も、日本よりは本当の『平等』を真剣に考える論理力はあるだろう)方面から言われて、初めて「なるほどそういう考えも」とか神妙に考えたふりをし出すのだろう。それが日本人だ。それが日本の女だ。
論理を他罰の都合の良い武器でなく、自省と研鑽の道具にするという発想がない限り、上っ面でちぐはぐな権利の議論が踊り続けるだけなのだろう。
「ちはやふる」は、カルタ競技を漫画で真剣に描いた意欲作で、アニメは面白く見たが、そこでの脇役少年たちの扱いがひどい、というのは心のどこかで感じた気がするが、意識には上らなかった。それに、主役級ハンサムふたりにしても、ハンサムゆえに周囲に騒がれるという描写は無かったように思う。その「特別さ」は主人公ヒロインと幼なじみであったためだけではないか。つまり、ヒロインは異性関係に鈍感であり、人間関係にも鈍感だから、あまり興味の無い人物を綽名で呼んでも罪悪感は無いわけだ。そこに作者の「ルッキズム」を言うのは、少し違うのではないか。
つまり、私は下に引用する文章の主旨には賛成しない。しかし、それを引用するのは、これがなかなかの論理性を持っていて、「小論文として面白い」からである。
なお、私はアニメしか見ておらず、漫画の原作は見ていないので、下の「小論文」への私の評価が適切だと主張する気はない。
さらになお、この文章の筆者は「少女漫画」への差別意識が強く、しかも少女漫画の名作をほとんど読んでいないのではないか、と私は疑っている。読んでいたら、そのような差別意識は生じないだろう。それに「NANA」は(私は読んでいないが、仄聞するところでは)少女漫画(読者に主に少女を想定している漫画)ではなく大人の女性向けの漫画だろう。
まあ、この文章の書き手は、アンチフェミニズムが高じてミソジニー臭く、かなり面倒くさい男だろうなあ、という感じだ。友達はいるのかねwww
(以下引用)
2024-04-21
■[漫画]ちはやふる[感想]少女漫画の本気のルッキズムに戦慄する。
コミックDAYSで無料というので、これまで何となくしか知らなかった本作を読んでみた。全体的に想像していた通りで、ドラマもバトル(試合展開)もよく出来ていて、まあ人気作だなあとは思った。のだけど、ちょっと悪い意味で「少女漫画だなあ」という部分も散見された。
主人公が「美形なのにかるたにしか興味のない残念美人」という設定なのはまあ良い。イケメンのヒーロー(少女漫画用語でヒロインの相手役)2人体制で、ドリカム構図なのもまあ良い。
しかし話が進むにつれて、美男美女の主人公らに対して、脇役の描写のトゲの多さにいやなものを感じてくる。
本作には、「不細工な男は名前で呼ばれない」というルールがある。
小綺麗な見た目で書かれるキャラクターは本名で呼ばれる一方で、「肉まん」「ヒョロシ(本名ひろし)」「机くん」など、不細工な男には敵味方問わず必ず、まるでそれに抗議する人権などなくて当然のように悪気なく侮蔑的なあだ名がつけられ、これもまた「善人」「悪人」の別なく誰からもその名で呼ばれる。
酷いのが「机くん」で、これは(本当にあっても不思議じゃない名前だが)もちろん本名ではない。
「ガリ勉なのにイケメンヒーローに負けて学年二位で、悔しくて必死に机にしがみついてる(ずっと勉強してる)」が由来の、完全なる陰口である。
それを、「残念美人」の主人公が、まるで親しみやすい鷹揚さのアピールのように、何気なく、悪気なく、使い続ける。
この恐ろしさが、作者にはわからないのだろうか????
書いていて思い出したが、自分はこれに類する気持ち悪さを別の少女漫画でも感じたことがある。
『NANA』だ。
二人とも同じ「ナナ」という名前なのに、上から目線の強気な相手に「紛らわしいからお前はハチな」なんて言われる展開、男の漫画だったら喧嘩開始の合図でしかない。いや、男だけじゃなく女性作者であったとしても、このようなアイデンティティの否定を「親愛の証」として描く芸術作品は、世界広しといえども日本の少女漫画の世界くらいしかないのではないだろうか。
それぐらい、この自然な見下し感覚の浸透は異常なものだ。
本作ではこの見下し感覚の酷さに、それを選択的に行うルッキズムが加わる。
名前を奪われ、非人間化されるのは「不細工な男」だけである。不細工な男にはその不細工さを戯画化され弄ばれる当然の摂理があるという感覚が、作者にはあるのだろう。
作品外のさまざまな問題を見ても、この作者の描き方を「無邪気な善意」と見なすことは難しい。
話は飛ぶが、男が少女漫画(女性漫画)方面からのポリコレ的お為ごかしに辟易する原因はやはりこういうところにあると思う。
少女漫画、女性漫画のかかえる差別的問題は、少年漫画や青年漫画のそれよりも明らかに多い。
というのも、女性向けの世界には男性向けの世界に比べて、「正義を問う」という作品自体が少ないからだ。
男向けの漫画には、極めて差別的なものもある。一方で、「そういうの、だせえぜ」と逆を強く主張する作品もあるのが男の世界である。
女性向けの作品には、そういう「議論を呼ぼうと、叩かれようと、自分の主張を強く出す」という美学がない。
昨今のポリコレ風潮も、どちらかというと「空気を読む。和を乱さない」という女性コミュニティの同調圧力の一貫にしか見えないところがある。
だからこそ、女性漫画家は女性向け漫画(延いては、その根源となる女性誌やファッション誌にも蔓延る女性版ホモソーシャル世界)のルッキズム、差別性については何も述べようとしない。
男には、「男の責任を自覚するフェミニストになるべき」と言いながら、「女の差別も酷いよね」という女は「名誉男性」として排除されるような空気が、独善的で空虚なものにしか見えないのは当然だ。
多分、このようなことは、今後これも欧米や海外(中国韓国も、日本よりは本当の『平等』を真剣に考える論理力はあるだろう)方面から言われて、初めて「なるほどそういう考えも」とか神妙に考えたふりをし出すのだろう。それが日本人だ。それが日本の女だ。
論理を他罰の都合の良い武器でなく、自省と研鑽の道具にするという発想がない限り、上っ面でちぐはぐな権利の議論が踊り続けるだけなのだろう。
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