忍者ブログ
ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
カレンダー
12 2025/01 02
S M T W T F S
20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
フリーエリア
最新CM
最新TB
プロフィール
HN:
o-zone
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
P R
カウンター
[19]  [20]  [21]  [22]  [23]  [24
「In deep」というサイトから転載。
このサイトで映画の話が出るのは珍しいと思うが、この記事の後半、「フルメタル・ジャケット」(完全徹甲弾とでも訳すか。)の話は素晴らしく面白い。


(以下引用)



でも、今回の記事の話はわかりやすい話です。
アポロ11号の月面着陸の話です。

ちなみに、私は「アポロは月には行っていない」というような、いわゆるアポロ陰謀論とかに関しては「どちらでもいい」という人ですので、そういう話とは違う単純に「面白い話」です。

過去記事でも月面着陸に関しては何度かふれたことがあります。

2年くらい前には、

キューブリックの亡霊: 2001年宇宙の旅とアポロ11号の月面着陸
 2010年12月05日

という記事で、2002年にいわゆる「アポロ計画陰謀論」の先駆けとなったフランスのテレビ番組のことをご紹介したことがあります。

内容は記事を読んでいただくとおわかりかと思いますが、そのフランスのテレビ番組の中では、映画監督のスタンリー・キューブリックの 1968年の映画『2001年 宇宙の旅』についてふれられています。

この映画は、アポロ8号が初めて月の裏側を回って写真を撮影する前に作られた映画で、つまり、「まだ人類が誰も月から見た地球の光景を知らなかった時」の映画でした。まして、アポロ11号が実際に月面に着陸して、月の上の様子が実際にわかったのは映画の翌年の1969年でした。

その「誰もまだ月から地球を見たことがない時」に映画で描かれたその様子が下のシーンでした。




その後、アポロ8号が撮影した月面から入りこんだ地球の光景の写真は、まさに上の映画のシーンとそっくりだったのです。


しかし、それが、どうして「陰謀論」と結びつくのか私には不思議でした。
私はこれは人間の想像力とむしろ関係あると考えます。

スタンリー・キューブリックの想像力と科学検証ワークなら、この程度のことは十分になし得るだろうことは、他のキューブリックの映画を見ていればわかります。

たとえば、同じキューブリック監督の戦争映画「フルメタル・ジャケット」では、月面の様子どころではない「想像力の結実」が見られます。



架空の完全スナイパーを作り出した想像力

1980年代の映画「フルメタル・ジャケット」のラストのほうでは「ベトナム人少女のスナイパー」が出てきます。彼女は廃墟の物陰から米兵をひとりずつおびき出して正確に射殺していき、主人公の所属する小隊を混乱と恐怖に陥れます。

つまり、この映画の山場の戦闘シーンは「米兵の小隊の十数人 vs ひとりの女の子」という戦いなのでした。普通はこんな戦いはリアリティを持って描くことは難しいです。

しかし、その M16自動小銃を構えて米兵のボディを丁寧に撃ち抜いていくベトナム人少女の姿に、当時の銃器の専門家たちは驚嘆したものです。

「なるほど! こうやればいいのか」と。

当時は(基本的には今でも)実際の戦場で重い自動小銃を携行して撃つのは「男性の軍人」でした。しかも、米軍の彼らは、自動小銃を「オート」(連射のような感じ)でババババッと撃つので、あまり狙う必要がないんです。しかも、体格もあり、腕力もあるので、銃の扱いも簡単です。

ところが、当時のベトナム軍には銃弾は貴重なもので、無駄には撃てない。なので、普通の銃のように「一発ずつ単発で撃つ」ということが求められて、そして、当然、「一発ずつ撃って相手に当てるには高い技術」が必要です。それにはある程度の体格と腕力と、そして射撃力が求められる・・・と考えるのが普通です。

ところが、フルメタル・ジャケットに出てくる少女は、日本でいえば中学生くらいの体重でいえば30キロ代くらいの細い女の子で、その子がほぼノーミスで米兵を次々と倒していく。

過去記事(この記事の中の張桃芳とシモ・ヘイヘというセクション)」のフィンランドの伝説の射撃手であるシモ・ヘイヘみたいな超人ならともかく、「腕力のない普通の少女」が次々と相手を遠距離から単発射撃で撃つことは大変に難しい(シモ・ヘイヘも極めて背の低い人でしたが)。

しかし、映画では、

・そういう状況での狙撃はどうしたらいいのだろう。

ということが完全に再現されていたのです。
つまり、専門家が見ても、「これならできる」と太鼓判を押した架空の世界が再現されています。

多分、そういう状況(子どもの狙撃兵が単発射撃で正確に相手に当てていく)は、誰も経験したことがないし、方法論もなかったと思います。もちろん、「ひとりずつおびき出して撃つ」というのは、第一次世界大戦から現在まで続く、どんな戦場にでもある普通の戦闘スタイルですが、「中学生くらいの少女」というところがポイント。

いつだったか忘れましたが、米国の射撃協会だったか研究会だったか、どこだかの団体が、「歴代の映画の中で最もリアルな射撃シーン」というのを選んだことがあって、その第1位に選ばれたのが、この「フルメタル・ジャケット」でベトナム人のスナイパー少女を演じた女の子の射撃でした。女優さんの名前は知りません。

vietnam.jpg

▲ 映画「フルメタル・ジャケット」より。左に見えるのが銃を構えるベトナム人少女スナイパーの手と銃。これは、廃墟の適度の高さの窓枠を用いた方法と左手での自動小銃の押さえ方で、銃の揺れを最大限まで抑制し、「射撃のミスを少なくするため」の最善の方法のようです。


専門家によれば、この少女の演技の自動小銃の持ち方、構え方、狙い方、すべてが「この状況の中では驚くほど完ぺき」だったとのことです。つまり、おかしな話、アメリカでおびただしく作られた「戦争映画」の中で、「最もきちんと兵士の姿を再現した」のは、たくましきハリウッド役者ではなく、ベトナム人役の少女だったということになります。

vietnam2.jpg

▲ 主人公の米兵に発見された瞬間のスナイパーの少女。でも、対面では適うわけもなく、主人公に拳銃で射殺される。


そして、この「架空ともいえる光景」を作り出したのは、スタンリー・キューブリックと彼の軍事指導スタッフだったわけで、すべては「実際には経験したことのないことを再現した」という意味では、2001年宇宙の旅の月面の光景と同じでした。


そんなわけで、もし仮に、ホントーにもし仮に、キューブリックが「月面着陸の映像を作ってくれ」と米国政府から頼まれたとしたら、それをできる想像力と検証力がキューブリックにはあったと思いますけれど、でもそんなことがあったとしても、それは「バイト感覚」でやったんじゃないでしょうかねえ。

1960年代の独立系の映画監督はお金がいつも必要だったはずなんですよ。
どんなに有名に見えても。

PR
「2チャンネル」から転載。いやあ、私はいい出来だと思うね。特に次元のカッコ良さは半端じゃない。正直、峰不二子はもっと美人がいいし、石川五右衛門は今一。しかし、演出が素晴らしい。この監督、才能あります。ぜひ、長尺で本物の実写版ルパンを作ってほしい。

(以下引用)

1:名無しさん@涙目です。(群馬県):2011/11/14(月) 15:29:17.97 ID:IBxpJmPH0
イタリアで ルパン三世が実写化、表情や走り方まで忠実に再現した 動画がスゴい

日本では 小栗旬がルパンを演じるとしてルパン三世の実写・映画化が一部のメディアで報じられ 大きな噂となっていますが 日本より一足先に、すでに実写化 させたイタリア人の動画が ネット上で大人気となっています。ルパン三世が、リアルに映画で始まったかのような空撮の画から始まり、銭形警部・次元・五ェ門……そしてルパンが登場。長いもみあげも、バッチリ キマッています。

ふーじこちゃーーん!という声が、聞こえてきそうなくらいリアルな ルパン三世の実写

2分弱ほどの映画予告編のようなこの動画にはクールな表情で炸裂する斬鉄剣や、次元の乱れ撃ち、不二子のオトナなシーンなど、それぞれのキャラクターの特徴がしっかり表現されていて、アニメならでは!だと思ってた、ファニーなルパンの「ニンマリ顔」も忠実に再現されています。

これは、ルパン三世のファンムービーとしてガブリエル・カッシュ という映像ディレクター(?)が作ったもので、この他にはミュージックビデオやショートムービーも手がけている人なのだそうですよ。世代を超えて、国境を超えて大人気のルパン三世。声優さんがこの度 交代になる!ということでも話題のルパン。本場・日本での実写化は、本当にあるのでしょうか?
http://tabetainjya.com/archives/owarai/post_1733/


動画
http://vimeo.com/19464495


 
「2ちゃんねる」に載っていた「ハリウッドで映画化してほしい日本漫画」というスレッドのコメントの中で唯一うなずいたのが、下のコメントである。
これはうける。チエのオヤジのテツに、いい俳優を使い、そして、母親のキャラをそのままに描けば、これはいい映画になります。母親(ヨシエ)のキャラは欧米男性には新たな聖母像になり、一大ブームを起こすはずだ。
もちろん、チエのキャラ、テツのキャラ、お婆さんのキャラも変えず、ただ舞台をイタリアの下町、あるいはナポリかどこかにすればよい。イメージ的には「日曜はダメよ」的な軽コメディだろうか。


(以下引用)

「じゃりん子チエ」をイタリアで実写


月夜の兎がどうのこうのという名前のブログから転載。
私は日本文化の中で漫画とアニメは世界をリードしていると思っているが、実際に世界への影響力は強いようだ。まあ、アニメを見てオタクになり、二次元妄想に浸っていれば現実でのできごとは二義的三義的になるから、悪いことはしなくなるものだ。暴力的アニメの影響で暴力的になるというのは短絡的発想である。ただ、オタクが増えると企業戦士的人間が減るから、資本主義的には好ましくないかもしれない。その代わり、平和でエコロジカルな世界になる。
下記記事の中で「火垂るの墓」を見て中国人が鬱になったというのは面白い。これはぜひアメリカにも輸出して、アメリカ人を鬱にしてもらいたい。そうすればイラク侵略やアフガン侵略のようなことをするのがいやになり、兵士も反戦主義者になるだろう。



(以下引用)


2010年10月12日 (火)

日本のアニメが知らぬうちに麻薬撲滅に活躍したり、中国にダメージを与えている件

タイトルが凄いんだけど、狙われてるのは私じゃ無いよw

なにが狙われているか…

日本アニメですw

じつは、国内、国外関係なく、日本アニメは最近「研究」の対象になってるようでして、世界中の学者さん達が、真剣に研究していて、彼方此方で「論文」が発表されてます。

特に、異文化が入り乱れる少数民族政策とかそういう辺りで、いわゆる異なる言語による意思疎通の低下が根本原因で、地域間のいざこざが絶えないエリアで、実は日本アニメがその共有認識の礎になっている(なってきている)という事実がありましてですねw、ようするに親同士が、宗教、イデオロギー、過去の因縁等で対立していても、子供同士は「昨日のマジンガー、かっこよかったなw(そう言う地域では、この辺りが人気ですw)」とか「ハイジはいつ山に帰れるんだ(低燃費じゃないよ)」とかそういう感じだそうです。

まぁ、「文化破壊だ」とか「民族浄化だ」とかって声もあるにはあるんですが、その前に共通の言語で話し合わないと、和解も何もあったもんじゃない。でもいきなり問題の核心に入ってしまうと、お互いの主張は間違いなくぶつかっているので話にならない。

古今東西、そういう時は「今日は天気がいいですね」とかそういう話から入るんだけど、そうそう天気の話ばかりも出来ないし、だからウチの畑の収穫が…とかって話にもなりかねない。

でも「ウチの孫がね」とかって話は、これ民族違っても大体共有の話題なんです。で、「良く知らないけど、アニメ好きなんですよ…なんかヘンテコリンなロボットって言うんですか?そんなのが出てくるんですけどね」「ああ、ウチの孫も見てますよ、いやはや何なんでしょうなあ」
見たいな…

で、孫が出てきてアニキの歌を歌ったりする訳。

これ、どっちの言語でも無いから、どっちにしろ何歌ってるか訳判らないんだけど、どっちの親からしても自分の子供の好きな歌な訳。

つまり、情勢とはまったく関係無い、共有出来る、楽しい話題なわけ。

日本人が見たら噴出しそうなシチュエーションなんだけど、日本人以外がこれ見ると、奇跡に近い物凄いホノボノした状態で、いい雰囲気になって行って、交渉の取っ掛かりとしては、結構良かったりするわけ。

中東に行った陸自の補給車両に「キャプテン翼」の絵を貼ったら(それもデカデカと)、敵も味方も喜んで通行させてくれた…なんて話もある。

何なんでしょうねぇ…世界…w

で、タイトルの件。

実は最近次のような研究発表がブラジルで発表されました

「日本アニメを見て好きになった青年(男女問わず)は、それらの関連商品を買う為に、麻薬に手を出さなくなる」

いや、そりゃそーだろw

まぁ、日本の親の中には、それが悩みの種って方もいらっしゃるだろうけどね…w

まぁ実際、地球の裏側にある国の、田舎の小さな町の農道でコナちゃんと同じ踊りを踊るのが夢です…とか言われても親は困惑するだろうけど、ヘロイン打ってラリラリになったり、お金払えないでぶっ殺されたり、逆に相手をぶっ殺したり…に比べれば、随分マシだわ。

そんなこんなで、日本アニメが広まると、麻薬組織にはダメージがデカイ訳。小さな講堂で、みんな集まって「ハレハレユカイ」を踊る人間が増えると、麻薬組織が困る。

大抵こう言う場合、その商品とかを扱う地元の商店とかを、マフィアがぶっ潰したりするんだけど、いわゆる「オタ商品」はそこらじゃ売ってない。

でも売ってないから「欲しい」んだよねw、ブラジルの皆さんw

だからお金掛かっても良いから欲しい。

そこで海外から直接お取り寄せするわけ。

とても麻薬なんて買ってる場合じゃありません。

そんなだから、なぜかペルー人が水色のセーラー服持ってたりする訳(動画アリ)

なので、マフィアも対抗しにくい構図があったりするんだな。

 

by ゆきだるま
あ~、世界が凄い事になってゆくなぁ…まぁいいけどw

と言う記事があったのだけど、つづき、↓

ーーーーー

以前、日本アニメが知らない間に麻薬組織に狙われていた…って日記を書いた
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1509253557&owner_id=38445&org_id=1511015247

内容的には、全然日本と関係無い異国の地で、日本アニメが民族紛争の仲介役にいつの間にかなっていたり、麻薬組織撲滅に一役買ってたり…

冗談のような話だし、話を聞いたときは「そんな眉唾な…」って思ったよ。

でも、シャレでも冗談でもなく、キチンとした学術論文を見て、考えが変わった。確かに効果がでてる。「いや、でも、こじつけだよ…」って言えなくも無いナァ…って思ってたんだけど、そういう研究があの日記の時点以降も続いていて、学会で発表されたりしてるんですよ…

日本人としちゃ、なんか複雑なような不思議な気分。

動画を見たときは、腰抜けるかと思ったよ。

ホメイニさん風の長老と、バリバリの軍人風の2人…どちらも眼光鋭いの。この2人は長年対立しているそれぞれの民族の主導的立場の人。もう何百年も殺しあってる間柄。その2人が、中東風の簡素な居間で、子供が歌う歌をニコニコしながら聴いてるの。ホメイニ風の人の孫なんだって。
そして歌ってる歌が、マジンガーZなの。しかも日本語。アニキ風。

大人の2人は勿論、それが何の歌か知ってるの。それぞれの孫や子供が大好きな日本アニメの歌。歌の内容は判ってるのかどうか知らないけど、とにかく言葉関係なく、自分の孫の好きな歌…それを聴いてニコニコしてるって映像…。

とにかく、和平交渉のテーブルに付くだけでも奇跡見たいな話なのに、仲介してるのがマジンガーZなんだよ…そして、欧米の学者が、そういう異文化交流における日本アニメの効能を研究して発表してる…っていう学会の記事で、上の動画が流れてるの…

まぁそんなのにビックリして書いた日記なのね。

でね、それはポジティブな話。

ところが、世の中ポジティブな面があれば、ネガティブな面もある。

つい最近…、中国ではいわゆる建国記念日みたいなのがあって、長期連休になったんです。まぁそんなのもあって、海外旅行に行く中国人が増えたりしてね。そんな中で例の尖閣事件があって、旅行がキャンセルに~なんて話もあったわけ。

で、その連休で、家族みんなでゴハンを食べて、一家団欒~!
見たいな時期にTVで、よりにもよって、「ほたるの墓」を流したんだって。

で、これが思いも寄らない事態を招いている。

ほたるの墓の内容は皆さんご存知の通りで、思いっきり戦時中の話じゃないですか。しかも見てるのは中国人。しかも尖閣事件の真っ只中。

これがですね、思いも寄らぬ精神攻撃になってるらしいの。

放送したTV局はどういうつもりで放映したのかわからないんだけど、とにかく億単位の中国人が、見た後に心に「不条理」を抱え込んじゃったの。

最初にこの話を聞いた時に、どうせ中国人があれ見たら、「馬鹿じゃねーの」とか「日本人が死んでざまーみろ」とか思ってるんじゃないの?とか思ったの。

TV局もそういうつもりで流したんじゃないのかなぁ…

実際そういう反応した人もいた。

2chとかで、そういう反応を拾ってきた人も居るみたい。

ところが、さすがジブリ…見た人は凄い割合で、あの兄妹に感情移入しちゃったの。

特に妹にね…

で、結構な割合の人が自分達の境遇を当てはめちゃったらしいんだって。
掲示板の短い書き込みだと、そんなに多く書いてないからそうでも無さそうに見えるんだけど、ブログ系の長いの読むと、ブログ主と周りの反応がわかる。それらを見ると、結構多いのが以下の感じ。

もう、さくまドロップが無くなって行くにしたがって、中国人民は、自分の境遇、自分の親達がかつて耐えた境遇、そういうのを思い出しちゃったの。

でも、日本のアニメだから…、いつも夢を運んでくれて、ひと時の安らぎを与えてくれる「ジブリ」だから…かならずこの妹には幸せが来るって、固唾を呑んで見てたらしいの。

まぁ、ストーリーはご存知の通り。

もうね…「ぐげげげぇえぇ~」って感じだったらしい。

でね、面白いんで(すいません、不謹慎です)、結構調べてみたら、中国の若い人って、結構日本アニメ(それも結構ツウな感じのも)みてるのね。

で、何が凄い影響だしてるか?っていうと、いわゆる「鬱」系w

まぁ、確かに日本人の僕が見ても、「うーん、これはキツイねぇw」ってのあるよ。でも、日本人の僕が感じる以上に中国人にはダメージある見たい。

ある意味では、そういう強烈なのには無菌状態と言うか抵抗力が無いと言うか…。

実世界では、日本なんかよりもよっぽど物騒な事が起きてるじゃないですか。回りで起きていても、できるだけ目を背けていたような、不条理な世界が、アニメでしかも自分が感情移入したキャラクターが巻き込まれてゆく。

日本人からすると、そういう不条理な世界って、一般的には無い情況だから、結構フィクションって割り切れるんだけど、どうもそうじゃ無いみたい。

見なきゃ良いのに…って思うけどねw

でも、日本で話題になると、やっぱりチェックしちゃうらしいのね。

で、いわゆるべらぼうに「鬱」作品って訳じゃなくても、琴線に触れるようのは、一気に響くみたい。

CANAANとか見たいなのでも、ダメみたいよ。

あれも、いわゆる民族浄化見たいな話じゃ無い?(現実的に見ればとっぴだけどね)まして中国舞台だったし、上海の街中で人々がお祭りで喜んでる中で殺し合いが行われていて、でも街の人は気が付かない(気が付こうとしない)みたいなシチュエーションとかね。

国による実験の結果として、人が人として扱われてない辺りとかね。

そうとうダメージ来るらしいよ。

まぁ、そういう訳で、やっぱり日本アニメをドンドン輸出すると、日本にとって良い事がある見たい…って事なんだろうねぇw(腹黒)

と言う訳で、SHUFFLE!とかSchoolDaysとか一杯一杯輸出してあげましょうね。

あ、あとね、日本のクラブ活動的なシーンも、ダメージある見たい。

学校で、楽しくスポーツや音楽なんかをしてるのが、あり得ないって思うらしいよ。だからあれはフィクションなんだと思ってるみたい。

学校って所は、自分の将来を決定する為の戦いの場であって、同級生は全員敵なんだそうな。

実際、ほんこーんさんの日記とか読んでてもそういうのがヒシヒシ伝わってくる。

自分のランクより、下の人達とは話しちゃダメなんだって。卒業したランクによって、受けれる大学が強制されるし、出た大学で将来の職業も強制的に決まっちゃうんだって。

日本でもある程度そういうのあるっちゃあるけど、でも機会は誰にも平等にあるでしょ?
別に、成績最悪でも、高校を卒業してれば大学受験出来るし、東大だって狙おうと思えば狙える。受かるかどうかは別にしてね。

ところが、中国はそうじゃないんだって。あちらは中高一緒の6年らしいんだけど、入学試験で決まったランクで既にある程度決定しちゃうらしいのね。しかもその学力を維持出来ないと、ドンドン下のランクに回されるらしい。下に落ちたら二度と上がれない。上がる機会が無いんだって。

そして、卒業したランクで、受けれる大学も決定されちゃうし(試験を受ける権利って事ね)、下の方にいたってはもう下層労働者決定なんだって。

だから、文字通り戦争らしいの。

で、ご存知の通り一人っ子政策でしょ?

421世代って言うらしいよ。親と祖父母合わせて6人の面倒を将来その子が背負って立たないといけない。親たちも期待する。全力で協力する。

だから、選手として有能な人以外の人が楽しみでスポーツしたり、オーケストラに入るような優秀な演奏が出来る人以外の人が音楽したり…ましてや金にもならないような遊びみたいな事したり…そんなのはあり得ないだそうだ。

ましてや、女の子(男の子)との恋愛なんてもっての他、そいつは敵(ライバル)だ!ってね。

だから、ハルヒも、らきすたも、けいおんも…ありとあらゆる学園物はダメージになるらしいよ。

凄いよねぇ…
 
 
★ ところでその日本のアニメのどうでもいい表現の自由、静香ちゃんの入浴シーンとかゆるさんと児童ポルノ法案で徹底的に攻撃をしているのが、アグネスちゃんと日本ユニセフなんだよね。
 
麻薬撲滅のために、やめてほしいもんです。
 
 
「マスコミに載らない海外記事」から、英王室とナチスの関係についての備忘のため。それにしてもシンプソン夫人ってのはすごい。側にいるあらゆる男と寝ていたのではないか?イギリスの王冠を捨ててもそういう女と結婚する男はもっとすごい。尻軽ダイアナは、別に英王室の異端ではなく、むしろ伝統を守っていたわけだ。



(以下引用)

 

2011年2月18日 (金)

旗の下に、いざ集わん!:『英国王のスピーチ』

Paul Bond

 

2011年2月3日

 

トム・フーパー監督、デビッド・サイドラー脚本

 

『英国王のスピーチ』

 

歴史的な出来事を扱おうとする映画制作者は、ある種の課題に直面する。作品が成功するためには、出来事の一言一句、あるいは元の言葉に忠実な再話である必要はないが、映画には、根本的な歴史的真実や、現代との欠かせぬ関わりといった要素が必要だ。『英国王のスピーチ』は称賛や褒賞を多く与えられてはいるものの、この点では、ほとんど失敗だ。

 

『英国王のスピーチ』は、ある種の強さを示している。何より演技が素晴らしい。しかも、思いがけない、ありそうもない友情を通して、吃音を克服しようと奮闘する男の、比較的、繊細な描写を中心に据えている。映画の温かさと魅力は、このテーマに由来する。コリン・ファースは、子供時代から悩んでいる発話障害と苦闘するバーティ(アルバートの略称)、ヨーク公、後の英国王ジョージ6世(1895-1952)を素晴らしく演じている。

 

とはいえ、物語は、本質的に、イギリス王室、そして、その1930年代における、更により一般的な役割に関する、好意的で、往々にして畏敬の念に満ちた見方に基づいている。この二つのテーマが居心地良く両立しているわけではない。

 

バーティは、厳格でこどもを虐待するジョージ5世(マイケル・ガンボン)の次男だ。吃音のため、演説がうまくできない。映画は、吃音を埋め合わせるテクニックを教えてくれる、俳優としては成功しそこねて言語療法士になったライオネル・ローグ(ジェフリー・ラッシュ)のところに、彼がいやいやながら通う様子を描いている。障害で苦しんでいる人々を助けるべく最善を尽くそうとする、上品で寛容な人物のローグを、ラッシュは魅力的に演じている。

 

ローグが登場する場面には、王室のうぬぼれに対する、きわどい打撃となっている部分もあるが、決して無礼が行き過ぎることはない。バーティと妻のエリザベス(ヘレナ・ボナム・カーター)を穏やかに、からかうだけだ。映画俳優達にとって、セリフの品質への関心は明白だ。映画のキャストは非常に有能で、素晴らしい声の持ち主ばかりだ。バーティの言語障害は、ガンボン、デレク・ジャコビ、クレア・ブルーム等々、周囲の素晴らしい発声によって強調される。とはいえ、この映画、王冠をつけた『マイ・レフトフット』というわけではない。

 

バーティの吃音克服は、実際そうだったのだが、政治的行動に向けられたものとして描かれている。しかし、この描写にこそ問題がある。この映画での出来事の見せ方は、本質的に、戦時の敵に対する挙国一致を“イギリス最高の時”として描き出す為の一環として、戦時中に作られ、以来忠実に繰り返されているプロパガンダに沿っている。

 

バーティの吃音についてすら、映画は、彼の演説の結果について、受け売りで偽りの説明を提示している。戦時首相のウインストン・チャーチルは、実際、BBCにジョージ国王の演説の吃音部分を削除するよう指示を出していたのだ。

 

映画の弱さの核心は、1936年1月、ジョージ5世逝去後の憲法上の危機にまつわる、どこか浅薄で、好ましくない部分を削除した、この映画による説明にある。ジョージ5世の長男デビッド(ガイ・ピアースによる素晴らしい演技)がエドワード8世として王位についた。彼は一度離婚をしたことのあるアメリカ社交界の花形、ウォリス・シンプソン(イヴ・ベスト)と関係しており、王位に就いてから、彼女と結婚する意図を発表していたが、彼女はまだ二人目の夫と結婚状態にあり、それは許しがたいものと見なされていた。

 

シンプソンが離婚すると、カップルの事がアメリカのマスコミによって暴露され(イギリスのマスコミは、法律的にそうした報道をすることを禁止されていた)、イギリス国教会の長という国王の立場に対する道徳的な非難から君主制の名声を守るため、必死の準備がなされていた。一年以内に彼は退位し、バーティがジョージ6世となる道を開いた。

 

退位の危機は、歴史上の逸話としては、そういうことになっている。しかし一皮めくると、事件の背後には、それとは別の、シンプソンとエドワードのヒトラー・ナチス党との密接な関係を巡る、政治的にはるかに危険な懸念があったのだ。

 

シンプソンは、以前性的関係を持ったことのある外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップを含め、ナチス幹部と多くの密接な関係をもっていた。退位後間もなく、カップルはヒトラーの客としてババリアに留まった。カップルはナチスの侵略軍によって、再び王位につくことを進んで受け入れていたことも文書中で、明らかになっている。

 

王室がファシズムをあからさまに支持するというのは政治的に難題だったろう。スタンリー・ボールドウイン首相は辞任せざるを得なかったろう。ルーズベルト米大統領もエドワード8世のファシストへの共鳴を懸念していた。バーク貴族名鑑の出版局長ハロルド・ブルックス-ベーカーによると、“親ナチスの王を相手にしなくとも良くしてくれた”ので、ルーズベルトは、シンプソンを、起こり得ることとしては“最善の事”と考えていたという。

 

2003年、彼女がナチスに共鳴していた為、エドワードと彼女との結婚を承認するのをイギリス政府は拒否しており、二人が政府の秘密情報をナチスに提供しているかどうかをスパイすべく、この王室のカップルのもとに、FBIが工作員を送り込んでいたことを記した1940年代に集められたFBIファイルが公開された。

 

映画は、そうでなければならないが、ナチスに対する二人の共鳴を認めている。ヨーロッパ中の革命運動を警告されて、エドワード8世は主張する。“ヒトラー氏が連中を処理してくれるだろう。”これは1966年にエドワードが書き、“東方を攻撃して、共産主義を永遠に粉砕するよう、ドイツを奨励するのは、イギリスの、またヨーロッパの利益に適っていた”と言明した、ニューヨーク・デイリー・ニューズの記事と一致している。

 

対照的に、『英国王のスピーチ』は、バーティやエリザベスを含めた王室の他の人々の好ましくない部分を削除した描写を、依然として表明している。危機の克服で、善良で、個人的に勇敢な王の指導力のもと、ドイツにおけるファシズム発展に対する国民的反対の先頭に立つ君主制を実現したとして描かれている。

 

チャーチル(ティモシー・スポールは充分生かされていない)は、ヒトラーを懸念している、ジョージ国王に対する絶大な支持者と見なされている。ボールドウィン首相(アンソニー・アンドリュース)は、1937年に、ヒトラーに関して“チャーチルはずっと正しかった”と言って辞任を申し出る。偉大な先見の明のある、反ナチス指導者というチャーチルに関する戦時プロパガンダを映画はあおっている。実際には、ナチス・ドイツによるイギリスの権益に対する脅威を巡る懸念から、チャーチルがエドワード退位を支持するに至ったわけではない。王が“王党”を率いるという噂があった為、むしろ彼は懸命に王位に留めておこうとしていたのだ。

 

即位後、ジョージ6世も妻も大英帝国を守るという見地から宥和政策を支持した。1939年、ユダヤ人避難民達が“こっそりパレスチナに入り込んでいる”ことを知って、ジョージ6世は、外務大臣のハリファックス卿に、“これらの連中が出生国から離れることを防ぐための手段が講じられていることを嬉しく思う。”という手紙を書いている

 

ハリファックスは、ユダヤ人の“無許可移民をチェックすべく”ナチスを奨励するよう、駐ベルリン・イギリス大使に電報を送っていた。後の皇太后、エリザベスは、長年にわたる宥和政策の支持者、ハリファックスと親密だった。ハリファックスとの密接な同意を示していると見なされている彼女の文書の一部は、現在も公開が差し止められたままだ。

 

魅惑的なお話ではある。しかし、監督トム・フーパーと脚本家デヴィッド・サイドラーは繰り返し、手加減をしている。これは、お上による神話化作業について、ほとんど無批判な映画だ。フーパーは、『英国王のスピーチ』を、戦時中、英国空軍に服務して、亡くなった祖父に捧げている。彼はこれを“無益な死”と表現している。祖父の飛行機は作戦から帰還途中だったが、最寄りの空港への着陸を拒否されて、墜落したのだ。

 

制作ノートを引用すれば、彼にとって、ジョージ6世についての映画は“イギリス国民を鼓舞し、戦闘に団結させた”導き手として現われた。1939年、ジョージ6世としての初のクリスマス時の開戦演説で映画は絶頂に至る。次第に大きくなる音楽を背景に、放送局のスタジオと、国中の家庭や工場で演説を聞いている人々のうっとりとした表情のカットが繰り返される。これが、映画中でほぼ唯一、普通の人々の光景だ。演説を終えると、ジョージとエリザベスはバッキンガム宮殿のバルコニーへと向かい、とうとう彼の側についた群衆に歓迎される。

 

時折、本当の懸念に対するヒントもある。ジョージ5世が逝去する前に、バーティと父親は三つの選択肢について話し合う。“我々と、革製長靴と、プロレタリアの奈落の間に、誰がたちはだかるだろう?”

 

後にバーティは、新たに即位したエドワード8世と、進展しつつある政治状況について話し合い、ヨーロッパ王室が直面する革命の脅威について警告する。エドワード8世は“王様業”に忙しいと言い、バーティは“王様業とは不安定な職業です”と答える。

 

社会革命の危機に対する、このような遠回しの言及がこの映画の限界だ。これで、映画の体制順応的教訓を埋め合わせられるわけではない。ジョージ5世は、映画中の議論を驚くべきセリフで要約している。

 

“余が王なら、権力はどこにある? 余が宣戦布告をできるか? 政府を作れるか? 税金を取り立てられるか? いいや! それでも、余が発言する際には、余は彼等の為に発言していると、彼等が思っているがゆえに、余は全権力の座にある。”

 

『英国王のスピーチ』は、イギリス国家の頂点に立ち、政治的関心によって形作られている君主制を、彼等が皆と同じ、感情的トラウマを患う一家ではあるが、国家の長という立場によって、一層困難にさせられているものとして描き出す、かなり陳腐で、大いに好意的な一連の映画の最新版に過ぎない。ローグは、患者の正体を知る前に、王室の一員であることを、年季強制労働に、知らずになぞらえてしまう。エリザベスは、“まあそんなところね。”と同意する。このような取り組み方には、ほとんど価値はあるまい。

 

記事原文のurl:www.wsws.org/articles/2011/feb2011/king-f03.shtml

----------

日本でも、似たようなセレモニーが今晩あるようだ。恥ずかしながら?これまで、一体何が、誰が、何を受賞したのか全く知らない。

speech、スピーチ、辞書をみると、「演説」だけでなく、「話し方」という意味もある。「言語障害」、speech impediment, speech disorder, speech defectなどと表現されるようだ。邦画名、この両方の意味を含められるよう考えているのだろう。

イギリスのマスコミ・映画界が、この映画を褒めそやすのは当然。

アメリカ史からは、同じテーマの映画は逆立ちしても作れない。日本でも多数の皆様がつめかけられるのだろう。

この映画をご覧になった後、『クイーン』も見たくなった。英国史を勉強したくなった、という勤勉な方々もおられるようだ。

 

名著『拒否できない日本』著者による新刊『中国を拒否できない日本』(題名は『中国も拒否できない日本』の方が相応しいだろう。)の中に

英国こそ真の敵だった」という見出しがある。(164ページ)

『大川周明の大アジア主義』で、英国こそが、米国に対日開戦を使嗾した大東亜戦争の主敵だったのではという仮説を提示した。

とある。『クイーン』を見ても、英国史を少々勉強しても、これには気づくまい。もちろん趣味は人それぞれ。

 

この映画の話で、犯罪被害者が、拉致犯人に、共感、愛情を感じるようになる、ストックホルム症候群を思い出した。国民総ストックホルム症候群。

 

案の定、オバマ大統領、反体制運動を弾圧したと、イラン政府を非難している。

暑くて、酒が呑め、米第五艦隊の司令部を擁する、天国のようなバーレン政府が反体制運動を弾圧し、死者を出した。

クリントン国務長官は「アメリカは暴力行使に強く反対し、民主化に向けた変革の動きを支持します」と述べた。
「すべての人は、平和的に集会を行う権利がある」と指摘したうえで、バーレーン政府に対し、治安部隊の暴力行為に深い懸念を伝えたことを明らかにした。
また、「国民のために、意味のある変革に続くプロセスに戻るよう要求する」と述べ、民主化改革を促した。

大切な盟友、サウジ、クェート、バーレン等、民主主義と無縁の専制王政縁故国家における本当の民主化を許容し、第五艦隊司令部を廃止するのだろうか。そうであれば、日本も独立を認められることになる。眉に唾。眉に唾。

 

 
 
町山智浩による「サマー・ウォーズ」批判を転載。「サマー・ウォーズ」を見た時の違和感の一つが何か、自分ではわからなかったが、多分これだったのだろう。もちろん、「水戸黄門」に限らず、権力の側に身を置いて、自分は安全を保証されながら「悪」と戦う、というのは観客にとっては快感セオリーの一つであって、作者側がそれを戦略として選んだのはわかる。だが、そもそも、この映画は、ヴァーチャルな世界に現実を支配する権力を認め、それを守る権力側の話であると、この映画の観客は意識しただろうか。その無意識による影響が、この社会をかえって悪化させるという可能性も無いではない。「面白ければいいじゃん」というのは確かにクリエイターの基本思想ではあるだろうが。


(以下引用)


ただ、すごく傲慢な話なんだよね。普通の家族が世界を救うみたいな感じに言われてるけど、おばあちゃんは政界フィクサーみたいなもんで、他にも警察官やら自衛官とかいて、物凄い体制側に位置しているじゃない。しかも、悪役として出てくる人はその中にいられないめかけの子っていう設定で、そこが保守的だなと。それがひっくり返ると思ったら返んないで、むしろ体制側に取り込まれるというか、体制側に妥協して降参する事で話が終わるというのが嫌だなと。「じゃあ、私たちは体制に全て妥協しなきゃいけなくて、それが大人になるってことなんですか!?」って思いました。だって、侘助が一番かっこいいじゃないですか。その彼が間違っているという風にしか描かれない。

「逆境ナイン」という映画をこの前DVDで見た。この映画の原作である島本和彦の漫画を読んだのはずいぶん昔だが、やっと時代が島本和彦に追いついたか、という感じである。「小林サッカー」の大ヒットで、漫画的表現と実写的表現の融合が世界的に許容されるようになってきたのだが、この作品もその一つである。主人公と、ヒロインを演ずる役者が島本和彦好みでないこと、したがって、原作漫画を愛する人間にはかなり違和感の残る風貌であることが欠点だが、それ以外の点では大健闘の出来である。お馬鹿な漫画の良さを映画に移植しようとしたそのチャレンジ精神だけでも大したものだ。
この映画、あるいは漫画には、様々な教訓が含まれている。自分の普段のポリシーにとって都合の悪い方向に話が行きそうになった時の「それはそれ、これはこれ」という名言は、島本ファンなら誰でも知っていて、座右の銘にしていると思うが、実は野球というゲームにとって、最大の教訓がこの話のプロットの中にある。それは、こちらがたとえ112点取っていても、ゲームセットになるまでは、試合に勝ったわけではない、ということだ。
野球は、27個のアウトを取らない限り、終わらないゲームである。26個のアウトを取っていても、そこから113連続安打が起こるかもしれない。そして、最後の1本は、当然、さよならホームランである。9回裏の1イニングだけで112対0という点差をひっくり返したという漫画は、数ある野球漫画の中でも、さすがに私の記憶ではほかにないが、少なくとも、可能性の問題としては、現実にもありうる話である。まあ、宇宙誕生から宇宙消滅の長い時間の間には、きっと1回くらいは起こるだろう。野球というゲームは、もう滅びてるよ、というサッカーファンの声も聞こえるが。
ありえただろうアリエッティについての妄想など。
アリエッティが、マチ針を見つけて、それを剣のようにスカートに挿す所があったが、そのマチ針が話の中で生かされていないのは残念。
まあ、それでネズミと戦うなどというのは、誰でも考える展開で、だからそういうアイデアは捨てたのかもしれないが、やはり映画の基本は活劇であり、戦いというものこそ映画的ドラマの王道ではないかと思うのである。それが、妙な婆さんとの戦いどころか、戦いにもならず逃げ出すというのでは、ドラマも何もあったものじゃない。しかも、それが少年の「好意」の結果であるというわけだから、見終わった後の印象があまりすっきりしない。
無責任な観客の立場からは、やはり、ここは陳腐な展開だろうが何だろうが、小人らしい特性を生かし、工夫に満ちた、ネズミや猫や犬との戦いのエピソードが欲しかった。「グレムリン」でグレムリンの中の一匹が映画の「ランボー」の真似をするが、そういう体の小ささを小道具で補った戦いは、観客を面白がらせたと思う。
もちろん、映画全体のトーンが静謐な印象なのだから、それと不調和になってはいけないのだが、しかし、ドラマ的な盛り上がりが無さ過ぎるのもどうか、ということだ。
しかし、米本(だったか?)監督には、かなりの力量があることは分かったのだから、今後は宮崎駿的キャラクター、ジブリ的描写からある程度離れて、冒険をしてもらいたいと思うのである。
夏目房之介氏による「アリエッティ」評。(無断コピーです。)やっぱりプロらしい見方だね。私の雑な印象批評とは違う。


観てきました。
いいんじゃないでしょうか。
原作を読んでませんが、小さな人々の視点からの世界を緻密に構築する手つきはジブリの伝統みたいなものを感じます。人間の目から見た庭や植物や家具の世界と、それを小さい者の視点で絵と運動について繰り返す映像作り。小さなティーポットから落とすお茶の表面張力。ドールハウスの使い方。要するにアニメの面白さの、少なくともひとつに「世界観を変えて緻密に隅々まで創り上げること」があるということに気づいている、という点で、可能性を感じさせる作品でありました。
成功してるかどうかはともかく、祖母の乗る古いベンツを、わざわざ3Dではなくて手描きで描いたのも、多分温かみみたいなものをそこに残したかったのだと思う。停まってるときも、くにくに動いてるのは愛嬌というべきかな。

ただ、どうしてもジブリ作品として観てしまうので、キャラクターの弱さを感じてしまうのも事実。
この作品でキャラがたってるのはお手伝いのハルさんで、樹木希林の声もいい。逆に宮崎アニメがいかにそれぞれのキャラを強く造形しているかに感心してしまう。
それと、この作品は「女の子」のためのものだなと感じる。ドールハウスに感じる夢みたいな感覚の中で作品が立ち上がるところが見所だが、「男の子」が無条件で感情移入できる部分がない。人間側の主人公は心臓手術直前で動けないし、アリエッティは冒険というほど動いていない。父親も何か物分りのいい定点なだけだし、いちばん「男の子」っぽい野性的なスピラーは、せっかくの弓に矢をつがえただけで射ってないし(藤原竜也を声にあててるのに使い方が勿体ない気もする)。まあ、そういう映画だからいいんだけど、もし「男の子」っぽい部分が結末にからんで盛り上がってたら、もっとすごい作品になってたかも。

ともあれ、女性と一緒に行くといい映画ですかね。女性はじゅうぶん満足すると思う。

「借り暮らしのアリエッティ」。なかなか面白かった。盛り上がりは無いが、描写の繊細さは、「ポニョ」の宮崎駿より上じゃないかな。ただ、話の終わり方は、ハッピーエンドではないので、あまり良くない。ジブリ作品の主な観客層は子供であることを考えると、はっきりとしたハッピーエンドで終わるのが作る側の義務だろう。もちろん、アンハッピーエンドではないから、それでいいと言えばそうなのだが、見ていた子供たちも、どういう反応を示せばいいのか戸惑っただろう。
アリエッティは、美人すぎ。原作を知らないから何とも言えないが、もう少し元気でボーイッシュな感じの女の子がよかった。
女中のお春さんは不気味すぎ。なぜあれほど小人を迫害するのか、理解しがたい。小人が泥棒するったって、たいした物は盗んでいないのだから、害虫駆除の会社の人間を呼ぶほどではないだろう。「殺さずに捕まえろ」とは言っていたが、捕まえてどうする気なのかがわからないから、不気味。アリエッティのお母さんを扱う乱暴な態度からすると、善意で捕まえているとはまったく思えない。屋敷の女主人が小人たちに好意を抱いているのは知っているはずだから、お春さんのこの態度はまったく不可解。しかも、小人の側に立つ少年をあらかじめ部屋に閉じ込めた上で小人を捕獲しようというのだから、まったく不気味な婆さんである。
でも、全体的には、丁寧な描写で、良い作品だった。
専門の声優を使わないという方針を相変わらず守っているが、ギャラの高い有名俳優を使ったところで、興行成績が上がるとは思えないし、貧しい声優たちの生活を守るために、専門声優を使ってやるべきだと思うのだが、どうだろう。それとも、専門声優は貧しくはないのかな?
忍者ブログ [PR]