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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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「ライブドアニュース」から転載。
現実には、特攻を命じた連中は自分たちだけ生き延びた例がほとんどだという話だ。それに、部下の命を救うために自分が特攻する、という話もナンセンスだろう。自己犠牲の話はどう作っても感動できる話になるものだが、それをこうした特攻隊美化の話に利用するその心根がさもしい。
ついでながら、原作や映画のヒット自体が、嘘くさい話だ、と私は思っている。電通的な仕込みである程度はヒットしたとは思ってはいるが、その数字はかなり嵩上げされたものではないか。それは政府の指示による操作だ、と私は推理している。安部右翼政権とのタイアップ企画、というわけだ。



(以下引用)


【エンタがビタミン♪】井筒監督、映画『永遠の0』を強烈批判。「観た記憶をゼロにしたい」。

井筒監督、映画『永遠の0』に噛みつく

写真拡大



井筒監督、映画『永遠の0』に噛みつく V6・岡田准一が主演した映画『永遠の0』が、昨年末に全国430スクリーンで封切られ1月15日までに観客動員約375万人、興行収入46億円を突破する大ヒット作となっている。安倍首相も観に行ったことを明かすなど久々に邦画の底力を見せつけた本作であるが、『パッチギ!』などで知られる映画監督の井筒和幸氏が痛烈に批判した。

16日放送の『井筒とマツコ 禁断のラジオ』(文化放送)に出演した映画監督の井筒和幸氏が、年末に観た『永遠の0』について感想を明かした。

『永遠の0』は、太平洋戦争での零戦搭乗員の悲劇を描いた戦争映画である。V6・岡田准一演じる特攻隊員が、「家族のもとに帰りたい」という思いを強く持ちながらも零戦に乗り込み、部下を守るために自らの命を犠牲にするというストーリー。井筒監督は「観たことを記憶ゼロにしたい」と、特攻を美談にする本作へ疑問を呈する。ストーリーや登場人物が実在したという証言もなく、現実味がないのにただ特攻を美談化するような描写に納得できないのだという。

本作のCMでは、上映を観た観客がスタンディングオベーションするシーンがある。しかしこれは初日舞台挨拶の時、観客が司会者に促され受動的に立ち上がった時のものだという話がある。これについても井筒監督は「エビの偽装問題と変わらんぞ!」と興奮した様子で強く非難した。

昨年には、広島の原爆や戦争を描いた漫画『はだしのゲン』の公立学校での閲覧制限が問題となった。戦後70年の節目を迎える2015年の夏に向け、生の戦争体験を耳にすることが難しくなった今だからこそ、エンターテインメントと戦争との関係を整理する必要があるようだ。
(TechinsightJapan編集部 佐々木直まる)


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映画界にとって久し振りの朗報である。
監督、脚本ともに最良であり、出演俳優も良さそうだ。
完成が待ち遠しい。
ちなみに、「寄生獣」を実写映画化せよ、と私は過去記事で書いているが、これほどの好キャスト(制作陣)は予想していなかった。特に脚本の古沢良太は、「まどマギ」の虚淵玄以外では、「寄生獣」の脚本家としてはベストだろう。



(以下引用)




漫画「寄生獣」が実写映画化 アニメ化も進行中

ITmedia ニュース 11月21日(木)19時31分配信





漫画「寄生獣」が実写映画化 アニメ化も進行中

画像:ITmedia

 岩明均さんの漫画「寄生獣」が実写映画化される。2部構成で、第1部は2014年12月に、第2部は2015年に公開予定。

 「ALWAYS三丁目の夕日」の山崎貴監督がメガホンを取り、脚本は山崎監督と「リーガル・ハイ」の古沢良太さんが担当する。主人公の泉新一は染谷将太さん、ヒロインの村野里美役は橋本愛さんが、そして“パラサイト教師”の田宮良子役は深津絵里さんが演じる。

 謎の寄生生物が人に擬態し社会に潜りこむというサスペンスに加え、人と地球の関係を問うメッセージ性で読者を魅了した同作。1995年の連載終了から十数年を経ているが、映画化に加えテレビアニメ化企画も始動したようで、再び話題を呼びそうだ。




(付録)過去記事の一部再掲載である。




古い邦画の見直しの勧め

「日の当たらない邦画劇場」から転載。
最近の映画プロデューサーは馬鹿ばかりだから、ヒットする映画を作ることができない。それは監督や脚本家のせいでもあるが、まず漫画などを原作にするのが間違っている。というのは、映画にしようというほどの漫画は、それ自体が傑作なのであって、それをどうやっても原作の漫画を超えることはできないのである。(あ、「寄生獣」は実写特撮映画で成功する可能性はある。
過去の名作映画をリメイクするのはそれ以上に愚かであって、世界がひっくり返っても過去の名作を超えることはありえないのである。まあ、稲垣浩の「無法松の一生」のように、同じ監督が、何かの理由で自分の作品をリメイクするのは別である。
で、「日の当たらない邦画劇場」は、現在の馬鹿な映画プロデューサーに教えるには惜しいが、これからヒットする映画を作りたい、と思っている人には貴重な情報の宝庫であると言っていい。過去の無数の邦画について書かれた記事を読んでいけば、「あ、この作品は、今作ればヒットする」というのが見えてくるのである。
たとえば「鴛鴦歌合戦」などもその一つで一部ではカルト的人気のある作品だが、このような「時代劇ミュージカル」は、うまく作れば、「映画を見る幸福感」を与えるという、まさしく今の映画に欠けている要素を持ったヒット作品になる可能性がある。ただし、チャン・ツィイーとオダギリ・ジョーの「歌う狸御殿」は失敗したが、あれはAKBと嵐あたりで作りなおせば、大成功作になる可能性が大いにある作品だ。監督のセンスの良さと悪さが半々に出て、トータル的には失敗した作品である。それに、日本ではチャン・ツィイーのファンはそれほどの数はいないのだから、「アイドル映画」のヒロインに使うべきではなかった。
あるいは「網走番外地」などは、シリーズ物のテレビドラマとして面白そうだし、いろいろと使える作品は多い。
一つだけ例として引用しよう。

(以下省略)









ゾンビラブコメ映画(らしい)「ウォームボディーズ」の、次の推薦コメントが面白い。
映画館で見る気はないが、DVDになったら見てもいいな。


(以下引用)





はっとりみつるコメント


「欲しいのは、君の思い出だーーー」こんな理由で脳を食らうゾンビ“R”に皆胸がキュンとするはず。そう、人間だってゾンビだって、ロマンティックなラブコメがしたいんです!




「スタートレック イントゥダークネス」の予告編動画を少し見たのだが、この技術力でぜひ「銀河英雄伝説」を三部作くらいにして作ってほしいものである。ハリウッドも日本の漫画のパクリばかりしなくても、大衆小説にも面白いものはある。田中芳樹の「銀河英雄伝説」は、ハリウッド作品に最適の素材である、と私は断言する。と言うわりには、ヤン・ウェンレー以外の名前を覚えていないのが老化現象か。ついでながら、「スタートレック」に出たカンバーバッチ(テレビ版シャーロック・ホームズのあの俳優)は、ぜひ「銀河英雄伝説」の主役級で使ってほしい。あの顔は、出るだけで面白い顔である。昔は、そういう俳優がたくさんいたものである。ハリウッドで「銀河英雄伝説」が作られるなら、出来上がるまでの毎日が楽しみだ。そういう作品は、そう多くはない。
曲者俳優のオールスターキャストで、ぜひ作ってほしいものである。
監督はJ・J・エイブラムスでもいいのではないか。





前田有一の「超映画批評」から「ガッチャマン」実写版の批評を全文転載する。
映画を見なくても、その映画のすべてが分かったような気分になる、すぐれた文章だ。もちろん、それは錯覚なのだが、ここに書かれた批判の対象は、日本のクズ映画に良く見られる現象なので、日本の映画関係者は、襟を正してこの文章を読むとよい。
言うまでもなく、邦画がダメなのは、阿呆な監督を使うこと、阿呆な脚本家を使うことの2点が最大の理由である。もちろん、主役級にジャリタレを使って学芸会にするという欠点もしばしば見られるが、優れた監督が素人を使って見事な映画を作った例は枚挙に遑が無いから、やはり監督が有能か無能かが一番の問題である。有能な監督なら無能な脚本家は使わないはずだし。


(以下引用)



「ガッチャマン」4点(100点満点中)
Gatchaman 2013年8月24日公開 全国東宝系 2013年/日本/カラー/113分/配給:東宝
原作:竜の子プロダクション 監督:佐藤東弥 脚本:渡辺雄介 スタントコーディネーター:小池達朗 キャラクターデザイン:荒牧伸志(『APPLESEED』監督) VFX:白組 キャスト:松坂桃李 綾野剛 剛力彩芽 濱田龍臣 鈴木亮平 光石研

剛力ジュンが、原作ファンを過激に挑発

先ほど更新した「スター・トレック イントゥ・ダークネス」の記事で、「邦画エンタテイメントはハリウッドに比べて社会問題をテーマにするのが下手」と述べたが、その典型例がこれである。しかも、娯楽と時事性を高度に両立させて本国の批評家筋から高い評価を得た前者と同週公開とは皮肉である。

21世紀初頭、侵略者ギャラクターにより地球の半分が壊滅した。彼らに対抗できるのは「石」の力を引き出せる800万人に1人といわれる適合者のみ。ISO(国際科学技術庁)の南部博士(岸谷五朗)は彼らを幼いころから鍛え上げ、最精鋭のエージェント「ガッチャマン」として対抗しようとしていた。

70年代に放映されたアニメ「ガッチャマン」は、小林亜星作曲の熱い主題歌や科学忍法「火の鳥」などスタイリッシュな見せ場、クールなキャラクターといった魅力で人気を博した。特徴的なのは、当時の子供向けアニメとしては珍しく社会問題を扱ったりと意欲的な作風だったこと。子供向きアニメだからと馬鹿にせず、真摯に作品(脚本)の質を高めようとの気概がそこにはある。だからこそ長い年月にさらされても、高く評価されているわけだ。

ところがこの実写版は、そのどれも継承しないという、いささか挑発的な態度で原作ファンに戦いを挑む。

ガッチャマンたちはえらくラジカルな思想を持っており、一人を救うためなら一千万人がどうなろうとかまわない、とのトンデモない価値観で戦う斬新なヒーロー。これには福田赳夫元首相もびっくりだ。

内容の4割くらいは彼らヒーローが語る青臭い中二病的理屈を聞かされ、のこり6割は剛力彩芽演じるジュンの、ケン(松坂桃李)に対する横恋慕で構成される。

このジュンは色狂いの設定になっているのか、はたから見るとケンとどうすればヤれるのか、そんなことばかり考えているように見える。映画のほとんどはこの剛力さんの一人ラブコメを楽しむ形になる。

おまけに彼女の毒舌ぶりが半端ではない。たとえばケンの元カノが死んだ話を聞いた時、だからケンは彼女を忘れられないのかと意気消沈するが、それが実は他の男の彼女だったと知るや開口一番「なんだ、よかったぁ♪」とのたまう。他人の死より自分の恋の方が大事なスイーツジュン、である。

さらに、個人的にはうまく実写にしたなあと感心していた恰好いいスーツを「あんな醜いスーツ着せられて」などとディする場面まであり、まさに傍若無人といった風体だ。

そんなわけでこの映画を子供と見に行くと、「ねえお父さん、どうしてあの人たちは女の子の話ばかりしてて戦いにいかないの」と、返答に困る質問をされてしまうだろう。事前に回答を考えてから映画館に行くことをすすめたい。

私がこの映画にいいたいことは、仲間内のゴタゴタは後回しにしてさっさと困っている人を助けにいってくれ、地球を救いにいってくれ、という一点につきる。

君たちの所属するISOなる機関が税金で運営されているのかどうか、それは知らない。だが君たちが雇われている理由は、人類を救う仕事をするためのはずだ。南部博士よ、目の前でもめている彼ら従業員を頼むから叱ってくれ、大人として。

脚本はいちいちつじつまのあわない事だらけで、つっこみ始めたらきりがない。見る人たちは、なぜ、なぜ、なぜそうなるの? を脳内で何回も繰り返すことになることになるだろう。エンドロール後には、続編やる気満々のワンシーンも用意され、最後の最後まで観客を呆れ、いや驚かせる。

それにしても、この映画は年度を代表するエンターテイメント大作のはずである。冗談ならともかく、真面目に作ってこんな風になってしまうのなら、映画会社の製作システムのどこかに重大な問題があるように思えてならない。中小企業診断士なのかマッキンゼーなのか、誰が適切かは知らないが、一度外部のチェックが必要なのではないかと思わず頭を抱えてしまう。


「素晴らしき哉、クラシック映画!」というサイトの「bishop's wife」という映画のエピソード。これ自体がコメディ映画の核になりそうなエピソードである。「何かいいことないか仔猫ちゃん」でピーター・オトゥールが「僕は顔の左側(右側?)の方が自信があるんだ」みたいなことを言うが、俳優にとっては顔のどちら側から撮影するかは死活問題かもしれない。
なお、ヤングはロレッタ・ヤングという女優。グラントはロマコメの帝王、ケーリー・グラントである。


(以下引用)


ラブシーンの撮影でヤングは映りの良い左側から撮る事にこだわり、グラントがそれに付き合うことを拒否したために、二人を向き合わせることが出来なくなってしまった。そこで、コスターは二人が窓辺に並んで星を眺めるシーンに変更するが、このシーンを見たゴールドウィンは出来に満足せず、原因を知るとヤングに顔の半分だけ使う代わりに出演料も半分にすると脅して撮影を強制させた。




ハリウッドで「忠臣蔵」が「47RONIN」という題名で製作されるらしい。主演はキアヌ・リーブスで、ポスターを見ると「スター・ウォーズ」のような異世界SFチャンバラアクション映画のようだ。悪くないアイデアだと思う。もともと「スター・ウォーズ」自体、日本の時代劇映画(特に黒沢映画)からかなりヒントを得ているのだから、これまで忠臣蔵がリメイクされていなかったのは、案外盲点である。まあ、私ならむしろ西洋中世の騎士物語にして、よりリアリティを出すのだが、これはこれで面白いかもしれない。
なお、映画タイトルをよく見ていないので「47RONIN 」と書いてあったように思うのだが、「RONINS」と複数かもしれない。それとも浪人は鯉や鹿のように単複同形か。



(以下「47RONIN」公式サイトから引用)


キアヌ・リーブス(四十七士・カイ)

1964年生まれ。大ヒットアクション『スピード』(94)主演をきっかけに、一躍ハリウッドのスターダムに。さらに、『マトリックス』(99)で、世界を救う救世主ネオを演じ、その人気と地位を不動のものにする。続く『マトリックス・リローデッド』『マトリックス・レボリューションズ』(ともに03)にも主演。彼の存在とマトリックスシリーズは、単なる映画の枠を超えて新世代のカルチャーとなり、その後の映像作品に多大な影響を与えた。他にも『コンスタンティン』(05)『地球が静止する日』(08)など、ヒット作多数。常にその出演作が全世界に注目される、数少ない本物の"映画スター"である。

真田広之(四十七士・大石内蔵助)

1960年生まれ。数々の日本の映画に主演し、米国アカデミー賞外国語映画賞ノミネート作品『たそがれ清兵衛』では日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。『ラストサムライ』(03)で本格的にハリウッドデビュー。その圧倒的な存在感と重厚な演技で、一躍世界の注目の的になる。多くの名匠が彼にラブコールを送り、チェン・カイコー作品『PROMISE』(06)では得意のアクションとともに優雅な北京語を披露。ジェイムズ・アイボリー作品『上海の伯爵夫人』(06)『The City Of Your Final Destination』(2010)では繊細な演技で観客を魅了する。アカデミー賞監督ダニー・ボイル作品『サンシャイン2057』(07)や、ウォシャウスキー兄弟作品『スピード・レーサー』(08)、大ヒットアクションシリーズの第3弾『ラッシュアワー3』(07)など、続々と大作にも出演。2010年にはテレビドラマ『LOST the Final Season』にゲストとして登場、全米で話題を呼ぶ。その他、99年にはロイヤル・シェイクスピア・カンパニーに参加。『リア王』の道化役を演じ、日本人俳優として初めて名誉大英勲章第五位(MBE)を授与されるなど、世界を舞台に活躍を続けている。

柴咲コウ(浅野家の姫・ミカ)

1981年生まれ。『バトル・ロワイアル』(00)『GO』(01)などで、本格的に映画界に進出。新人離れしたその高い演技力が評価を受け、特に『GO』では日本アカデミー賞最優秀助演女優賞など、多くの映画賞に輝いた。その後も、『黄泉がえり』(03)『世界の中心で、愛を叫ぶ』(04)『日本沈没』(06)『少林少女』(08)『容疑者Xの献身』(08)『食堂かたつむり』(10)『大奥』(10)など、話題作・ヒット作に次々と出演。演技だけでなく、アクションもできる数少ない本格女優。今作品が、ハリウッドデビューとなる。

浅野忠信(吉良上野介)

1973年生まれ。90年の『バタアシ金魚』で映画デビュー。以来、その確かな演技力で、岩井俊二、石井聰亙、石井輝男、是枝裕和など、多くの名匠に愛され、彼らの作品の常連になる。近年の代表作は、『座頭市』(03)『母べえ』(08)『劒岳 点の記』(09)『ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~』(09)など。また、海外作品においても、クリストファー・ドイル作品『孔雀』(99)や、セルゲイ・ボドロフ作品『モンゴル』(07)など着々とキャリアを重ねる。今年ケネス・ブラナー監督『マイティ・ソー』(原題: Thor・11)にも出演。2012年はハリウッド超大作『バトルシップ』に出演予定。

菊地凛子(吉良家に仕える謎の女・ミヅキ)

1981年生まれ。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督『バベル』(06)でハリウッドデビューし、いきなり、アカデミー賞助演女優賞にノミネートされる。日本人女優のアカデミー賞ノミネートは、実に49年ぶりの快挙だった。その年、People誌が選ぶ「世界で最も美しい100人」にも選出。以後も着実にキャリアを重ね、『ブラザーズ・ブルーム』(09)『ナイト・トーキョー・デイ』(09)『サイドウェイズ』(09)などに出演。村上春樹原作、トラン・アン・ユン監督で大きな話題を呼んだ『ノルウェイの森』(10)でも、主演を務めた。

赤西仁(大石主税)





「リベラル21」というサイトから転載。
娯楽映画の評価が低く、芸術映画の評価が高いのかとも思ったが、「地獄の黙示録」「ゴッドファーザー」が割と高い順位にあり、昔ならかならず高い順位にあったベルイマンなどがベスト10外である。フェリーニでも、「道」より「8 1/2」が上など、わけがわからんし、ヒッチコックの中では愚作と思う「めまい」がベスト10入りするなど、わけがわからん。しかし、「東京物語」がベストワンというのは、やはり日本人としては嬉しい。しかし、これを選ぶなら、なぜベルイマンの「野いちご」が上位に来ないのか。映画界全体が幼稚化し、「文学青年」的な「映画青年」が主流になり、娯楽と文学性の止揚された本当の名作を理解する能力が無くなっている気がする。ベスト3の作品は、或る意味、「これを挙げておけば無難」という作品に票が集まった結果に見える。つまり、「他人を気にしながら投票した結果」だというのは私の邪推だろうか。というのは、これは記名投票であったらしいからである。下手な作品を選んだら、笑われると思ったから、相変わらずの「2001年宇宙の旅」や「市民ケーン」などが上位に来たのではないか。もちろん、これらが名作であることは確かだが、本当の名作は、キューブリックなら「時計仕掛けのオレンジ」の方だろう。「市民ケーン」になると、これは惰性でいつも上位に来ている作品としか思えない。いや、名作なんだが、普通人がこれを見て感心するはずはない作品であり、まさに批評家のための映画としか言えないと私は思う。



(以下引用)



2012.08.25 世界映画史上のベストワンは『東京物語』
―英映画専門誌の監督投票で―
          
半澤健市(元金融機関勤務)

 英国映画協会(British Film Institute)発行の映画専門誌「サイト・アンド・サウンド」(Sight & Sound)は、「世界映画史上ベスト作品」の集計結果を発表した。同誌は1952年から10年に一度、専門家によるベスト作品を選んでおり今年は7回目になる。投票は、「映画監督」358人と「批評家」846人によって別々に行われた。批評家には、研究者、アーキビスト、評論家、映画業界人を含む。投票者はグローバル化しているが、結果はなお欧米中心となっている。ともあれ現在、世界で最も権威ある映画順位評価とみられている。二種の投票結果の上位10位は次の通りである。

■ 監督投票による世界映画のベストテン(英Sight & Sound誌、2012年9月号)
 順位 映画名          公開年     監督       投票数
 1.東京物語(日)      1953  小津安二郎       48
 2.2001年宇宙の旅(米) 1968  S・キューブリック 42
 2.市民ケーン(米)     1941  O・ウエルズ      42
 4.81/2 (伊)      1963  F・フェリーニ     40
 5.タクシー・ドライバー(米)1976  M・スコセッシ     34
 6.地獄の黙示録(米)    1979  F・コッポラ      33
 7.ゴッド・ファーザー(米) 1972  F・コッポラ      31
 7.めまい(米)       1958  A・ヒチコック     31
 9,鏡(ソ連)  1974  A・タルコフスキー 30
10.自転車泥棒(伊)     1949  V・デ・シーカ     29

■ 批評家投票による世界映画のベスト50(10位まで表す、出所は同上)
 順位 映画名 
 1.めまい
 2.市民ケーン
 3.東京物語
 4.ゲームの規則(仏)    1939  J・ルノアール
 5.サンライズ(米)     1927  F・W・ムルナウ
 6.2001年宇宙の旅(米)
 7.捜索者(米)       1956  J・フォード
 8.映画カメラを持つ男(ソ連)1929  D・ヴェルトフ
 9.裁かるゝジャンヌ(仏)  1927  C・T・ドライヤー
10.81/2

《監督投票で日本映画が初めて第1位に》
 今年のハイライトは、小津安二郎の「東京物語」が、監督投票ベストテンのトップに、批評家投票でも第3位に入ったことである。日本映画の第1位は、この調査70年の歴史上で初めてである。
「家族の絆が静かに崩壊する。それを諦観とともに比類ない映像で描く」。評者の小津作品観を要約するとこうなる。日本的といわれる小津の普遍性が評価されているのである。「東京物語」に一票を投じた監督には、ウディ・アレン、クエンティン・タランティーノ、マーティン・スコセッシ、フランシス・フォード・コッポラらの名前がみえる。

批評家の投票結果は235位までわかる。そのなかの日本作品を順不同で記す。
「七人の侍」「羅生門」「生きる」(黒澤明)、「生まれてはみたけれど」「晩春」「麦秋」(小津安二郎)、「雨月物語」「山椒大夫」「残菊物語」「西鶴一代女」(溝口健二)、「となりのトトロ」「千と千尋の神隠し」(宮崎駿)、「浮雲」(成瀬巳喜男)。タイトルは略すが、山中貞雄、清水宏、小林正樹、新藤兼人、今村昌平、深作欽二、大島渚、松本俊夫、鈴木清順らの作品も得点している。しかし今井正、木下惠介、吉村公三郎、渋谷実、豊田四郎、五所平之助などの名前がない。

《異なる東西の評価と大きな順位変動》
 一方、日本のファンが好む外国映画が意外な低位置にいたり、過去70年間で順位が大きく変動したものがある。批評家ランキングで例示すれば、「モダンタイムス」(63位、以下同じ)、「第三の男」(73)、「天井桟敷の人々」(73)、「アラビアのロレンス」(81)、「カサブランカ」(84)、「赤い靴」(117)、「しのびあい」(154)、「怒りの葡萄」(183)、「道」(202)という具合である。
順位を下げたのは、「街の灯」(52年2位から今回50位)、「戦艦ポチョムキン」(52年4位から102位)、「黄金狂時代」(52年3位から154位)などがある。

この種のランキングには賛否両論があるのは当然だ。
芸術に順位をつけるのはけしからんという意見もある。私も言いたいことは山ほどある。しかしなるべく私見を抑えて事実を述べた。英誌の記録は、作品を真ん中において映画作家と批評家が対峙して創り出す巨大なマトリックスである。更に興味ある読者は、Sight & Soundのサイトを参照されたい。要点は無料でみられる。



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Comment
読ませていただき私が感じた点は、
1.60年前の日本映画が今年世界で最も権威ある映画順位評価で一番に選ばれたことに驚きました。
2.映画評論家ではない筆者がSight & Sound という英国の映画専門誌を読んでおられることに感心しました。単なる趣味である筈の映画を筆者はここまで徹底して研究されていることに脱帽です。(この雑誌の存在を初めて知った私は興味本位にサイトを覗き、東京物語への評価を原文で読み、投票者の名前を閲覧しました)
3.昔から映画には余り興味がなかった筈の私が東京物語を翌年の1954年3月に観ていたのは何の偶然か。その後TVで放映された機会には何回か努めて観ていますが、これは余ほど気にいった所為と思われます。それが今回世界一になったとは、私の映画評価眼も間違っていなかったと、嬉しい限りです。
戸松孝夫 (URL) 2012/08/25 Sat 21:34 [ Edit ]
半澤さんの識見とご指摘に万雷の拍手を送ります。愚かしくも今山田洋次監督が松竹で『東京物語』をリメーク中。なんとも嫌な気分でおりましたので、なんとも愉しい誇らかな気分になりました。心地よい世界の識見に
山田は今、どんな思いでダヴィングしているのでありましょうか?

横堀幸司 (URL) 2012/08/26 Sun 09:28 [ Edit ]
■横堀幸司様
「万雷の拍手」を有り難うございます。『東京物語』の上位獲得―特に監督投票の1位―は、歴史と文化をのっぺらぼうにするグローバリゼーションに対する芸術家の「異議申し立て」だと私は感じています。
半澤健市 (URL) 2012/08/26 Sun 21:29 [ Edit ]



「日の当たらない邦画劇場」から転載。
最近の映画プロデューサーは馬鹿ばかりだから、ヒットする映画を作ることができない。それは監督や脚本家のせいでもあるが、まず漫画などを原作にするのが間違っている。というのは、映画にしようというほどの漫画は、それ自体が傑作なのであって、それをどうやっても原作の漫画を超えることはできないのである。(あ、「寄生獣」は実写特撮映画で成功する可能性はある。)
過去の名作映画をリメイクするのはそれ以上に愚かであって、世界がひっくり返っても過去の名作を超えることはありえないのである。まあ、稲垣浩の「無法松の一生」のように、同じ監督が、何かの理由で自分の作品をリメイクするのは別である。
で、「日の当たらない邦画劇場」は、現在の馬鹿な映画プロデューサーに教えるには惜しいが、これからヒットする映画を作りたい、と思っている人には貴重な情報の宝庫であると言っていい。過去の無数の邦画について書かれた記事を読んでいけば、「あ、この作品は、今作ればヒットする」というのが見えてくるのである。
たとえば「鴛鴦歌合戦」などもその一つで一部ではカルト的人気のある作品だが、このような「時代劇ミュージカル」は、うまく作れば、「映画を見る幸福感」を与えるという、まさしく今の映画に欠けている要素を持ったヒット作品になる可能性がある。ただし、チャン・ツィイーとオダギリ・ジョーの「歌う狸御殿」は失敗したが、あれはAKBと嵐あたりで作りなおせば、大成功作になる可能性が大いにある作品だ。監督のセンスの良さと悪さが半々に出て、トータル的には失敗した作品である。それに、日本ではチャン・ツィイーのファンはそれほどの数はいないのだから、「アイドル映画」のヒロインに使うべきではなかった。
あるいは「網走番外地」などは、シリーズ物のテレビドラマとして面白そうだし、いろいろと使える作品は多い。
一つだけ例として引用しよう。
言うまでもなく、この映画はエドモン・ロスタンの「シラノ・ド・ベルジュラック」の翻案だが、映画的感動、細部の面白さという点で、「シラノ」は古今有数の作品である。もとは舞台劇だが、映画向きの筋だ。
で、下に書かれた内容紹介だけでも、これが映画的に成功する可能性が高いことは分かるだろう。
今なら、シラノは役所広司あたりか。だが、役所は「剣豪」とか「豪傑」の雰囲気が無いから、たとえば西田敏行のような喜劇系統の俳優のほうがいいかもしれない。
監督は中島哲也あたりか。とにかく、今の日本では「楽しい映画」を撮れる監督が払底しているのである。
とりあえず、「オリジナル」を紹介しておくことにする。
結論を言っておく。リメイクをするなら、過去の「ヒットしなかった作品」に目を向けることである。「早過ぎた傑作・良作」が、今ならぴったりということがあるわけだ。また、過去のチャチな映画技術による不成功は、今ならCGなどで簡単に乗り越えることができる。


(以下引用)

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或る剣豪の生涯


■公開:1959年
■制作:東宝
■監督:稲垣浩
■助監:
■脚本:稲垣浩
■撮影:
■音楽:
■美術:
■主演:三船敏郎
■寸評:ナイーブな三船敏郎


 石田三成の配下、十人槍・田島義文上田吉二郎瀬良明中丸忠雄他、中でも随一の暴れもの、兵八郎・三船敏郎は鼻が大きい事を気にして、幼馴染みの公家・織田政雄の千代姫・司葉子にも想いを打ち明けられない純情男。彼は武芸はもちろんだが、文芸にも秀でており、近所の子供を集めて私塾を開く心優しい人物でもあった。

 出雲の阿国・三好栄子の舞台に乱入した兵八郎は、徳川家康の家臣・河津清三郎に求愛されて困っている千代姫を結果的に救ってやったので、後日、彼が住む貧乏長屋を訪問した彼女にドギマギするのだが、実は千代姫にはすでに慕っている人がいた。

 十人槍の新入り、十郎太・宝田明は容姿端麗(タッパあり)だったが口下手。兵八郎は、この十郎太を紹介して欲しいと千代姫に頼まれる。芸術を愛好する公家の姫との仲立ちを、生意気だがまっすぐな性格の十郎太からも懇願された兵八郎は、自分の思いをグッと胸にしまって恋文の代筆を引き受ける。

 やがて関ヶ原の合戦となり石田三成の軍は敗走する。十人槍は最後まで勇敢に戦ったが、仲間の一人・平田昭彦(様)の裏切りにより徳川軍の待ち伏せにあい全滅する。なんとか生き延びた兵八郎は負傷した十郎太だけはなんとか千代姫のもとへ帰そうと必死にかばって奮戦する。

 しかし、兵八郎の千代姫に対する思いに気付いた十郎太は今までの兵八郎の行為に感謝しながら、彼の足手まといにならぬようにと急流に身を投げてしまう。

 十年後。関ヶ原の残党狩りは今だに続いていた。居酒屋のおやじ・藤原釜足の気づかいで追っ手を逃れていた兵八郎は、十郎太の命日になると、尼となった千代姫の元へ通い、世情の様子を面白おかしく話してやり束の間の逢瀬を楽しんでいた。

 徳川の密偵となっていた平田昭彦(様)の密告によりあやうく捕まりそうになった兵八郎は、頭に重傷を負ったが、なんとか千代姫のいる寺にたどり着く。千代姫が形見として肌身離さず持っていた十郎太の恋文を誦じる兵八郎の姿を見た千代姫はすべての事情を察し、兵八郎の優しさと品格に感動する。意識朦朧となった兵八郎は千代姫に看取られて死んでいった。

 なーぜかあんまり人気無いんだよね、本作品は。稲垣監督に期待されているモノが表現されていないっつう事なのかしら?派手なチャンバラがないとか、三船が豪快じゃないとか、合戦シーンが使い回しだとか(それはともかく)。

 ところがね、この「らしくない」ってのが意外と面白かったりするのよね。

 下品で軽い(役どころが多い)宝田明が女にオクテで口下手で、武骨で寡黙な(役どころが多い)三船がスラスラと乙女心をゲットする台詞をスラスラと吐くというのがミスマッチ。

 阿国の三好栄子の事を「ブサイク!」と罵倒する(イヤ、実際、そのとおりなんだが)三船は「シラノ・ド・ベルジュラック」のように小鼻が異様にデカい野蛮人顔。彫りの深い三船が目の玉をひんむいたり、表情をクルクルと変えて作り出す珍妙な顔は、元の整った顔とのギャップが大きいもんだからストレートに笑える。

 二枚目が演じるブサイク、ここんところがよろしいね。逆は悲惨だけど。そういうのは「演技派」とか「個性派」とか「性格俳優」とか呼ばれるわけだ。そんなの、嬉しいのか?呼ばれた本人は。

 デリカシーのなさそうな兵八郎のところへ通ってくる狂女・淡路恵子はちょっとタカビーな司葉子に対して、観客の憐れを誘い印象に強く残るもうけ役。貧乏な子供や狂女、それに市井のオヤジ夫婦だけが結局は兵八郎の理解者だったわけだ。

 三船さんとタメ口とはいい度胸だな、オマエ全然チョンマゲ似合わねーじゃん!など三船ファンの怒りを一身に背負った(そんなたいそうな、、)宝田明も十八番のナイーヴな優男ぶりからは予想外の身投げをして名誉挽回。

 地味で真面目で心根が奇麗な人が最後に幸せになる話というのは、普遍的な感動を観客に与えてくれる。 三船敏郎のアクションはもちろん、お茶目と、優しさと、繊細さを一気に楽しめる本作品は、三船敏郎の隠し球。

1999年07月26日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■



昨日に続いて「In deep」からの転載である。
長編だが、馬鹿馬鹿しくて面白いので一挙転載する。本当は、これへの読者のコメントまで載せたいところである。そのコメントの中には答えは「たこ焼き」じゃないか、というのがある。まあ、宇宙人=タコ型生物などというのも相当古いので、筆者の盲点になっていたのだろう。で、相手はタコなのだから、大阪人は、相手をまったく恐れず、たこ焼きにして食ってしまったというわけである。
 
 
(以下引用)
 
20091011

大阪人はいかにして最強の宇宙兵器を倒したのか



先日、レンタル落ちの中古DVDが安く売られていました。
ふと思えば、昔、映画漬けのような生活をしていた時があったのが信じられないほどここ数年は映画を見ていない生活でした。
特に、リーマンショック後のこの1年はもう本当に全然映画なんて見なかったし、見る気にもなりませんでした。

まあ多分、「現実の方が映画より面白い時」は映画になんて興味がいかないのかもしれません。そういう意味では、今はまた「映画の方が面白いかも」という退屈生活だということかもしれませんが。


そんなわけで、その中古DVDのリストを見ていたら、スティーヴン・スピルバーグの「宇宙戦争」(War of the Worlds)が、150円で売られていました。「150円とは、スピルバーグも形無しだな」と思いつつ、それを買ったのでした。これは2005年の公開の時から気にはなっていて、「なんで今頃そんなものリメイクするんだ?」と思ってはいましたが、1953年版の宇宙戦争も好きだったので、いつかは見ようと思っておりました。

宇宙戦争はもともと1800年代の終わりに書かれている古典SFで19世紀末のイギリスを舞台にしたものです。詳しいところはこちらなどに出ていますが、要するに、火星人が地球にやってきて武力で人類に攻撃をしかける話で、その圧倒的な火力の前に人類は為す術なく殺されていきます。

エイリアンが使う兵器はトライポッドと呼ばれる戦闘マシンで、原作では「家より背が高い3本脚の戦闘機械」とされていますが、スピルバーグ版では家どころかビル・・・いや、ドバイの高層ビルより高そうな戦闘マシンで、そこから出る光線も昔はレーザー光線のようなものでしたが、スピルバーグ版では破壊力がアップしていて、光線というより、どうも一種の重力波的な感じの、本当にものすごい破壊力の武器で人間も建物もあらゆるものを破壊していきます。



▲ 最強の宇宙兵器トライポッド。高さは目算で数百メートルはありそうです。


この宇宙戦争は宇宙からきた円盤などにより攻撃されるのではなく、「あらかじめ地球の内部に埋められていた」戦闘兵器が一気に地上に出てくるところから話は始まります。「あらかじめ」というのは何万年も前からのようです。

で、あっという間にアメリカの各地の街は壊滅状態となり、人々の大移動が始まるのですが、その状況の中で様々な噂が飛び交うわけです。ヨーロッパは全滅らしいとか、いろいろな話が出てくるわけですが、途中、唐突に、

「大阪では(この戦闘兵器を)何体か倒したらしいぞ」

(Somehow they killed a few of these things in Osaka. That's what I heard. )

という台詞が出てくるのです。

自分でも理由はよくわからないのですが、この台詞を聞いた瞬間に頭を殴られたような感覚になり、個人的にはリーマンショック以来のショックがついにきたのです。

「大阪ショックかよ!」

と思いつつも、それ以来ずーっとこの言葉が頭にこびりついていて、最近そのことばかり考えています。他のことはあまり考えていません。最近、戦争マニアの友人とこの大阪問題を討論したりしましたが、兵器論の好きな彼からは「なぜか」という答えは導き出されませんでした。

このことに関してはこちらなどには、「これは『ゴジラ』をはじめ怪獣映画を多数製作している日本に、監督のスピルバーグが敬意を表したものである」とありますが、どうもそんな感じではない。

なぜなら、この戦闘マシンの圧倒的な火力と防御力は映画そのものが十分に語っていて、とても簡単にこんな「やっつけたらしい」なんて台詞を入れられるようなシロモノではないからです。映画ではアメリカ陸軍もお手上げの状態ですし、パッと見て、「何人くらいの人間で倒せるだろう」と考えると、たとえば、東京ドームに5万人くらい入るとして、その数を想像してみても、

「あー、だめだめ。5万人では話にならない」

ということが直感的にもわかります。
じゃ、100万人では?
500万人では?

と考えてみると、多分、生身の人間だと(武装していても)何百万人いてもダメではないかという感じがするのです。
人間に倒せる相手ではない。
しかし、大阪では倒せた。
大阪にいるのは人間ではないのだろうか・・・・・。

現在の大阪首都圏の人口は1211万人らしいですが、高齢化の現在ではこの半数以上に戦闘意志がないと見ると、大阪人総出の戦闘能力人口は500万人程度。さて、500万人で、「何体かのこの戦闘マシンを倒せるのか」と思うと疑問視せざるを得ないのです。

どうも・・・大阪人はパワー対パワーで戦闘マシンに勝ったというわけではなさそうだ、という推察が成り立ってきます。
「力 vs 力ではない何かの方法」があったのだ、と思わざるを得ない部分があります。

それは何なのだろう・・・と最近ずっと悩んでいるわけです。

下らないといえば下らない悩みではありますが、これが「日本では・・・」とか「東京では・・・」という台詞ならそんなにこんなことは考えなかったと思うのです。しかし、「大阪では何体か倒したらしいぞ」となると妙に具体的な感じで、お酒を飲みながら映画を観ていたのですが、思わず、

「マジかよ」

と呟いていました。



▲ この台詞を聞いた時の私の顔


その瞬間から「しかし、どうやって・・・」という思いがつきまとって、そのせいで映画の後半はちゃんと見ていないので、全体的にどんな映画かということはあまり覚えていないのですが、上に書いたように、「武力 vs 武力で大阪人がトライポッドを倒した」とはスピルバーグも想定していないと思われます。映画に出てくる戦闘マシンはそんなレベルのものではない。

大阪に何があるのだろう・・・。

私は大阪のことをほとんど知りません。
たこ焼き、ソース2度づけ禁止の串カツ、イカ焼き、赤福、人形浄瑠璃、新喜劇・・・。

これらだけであのトライポッドを倒すのは難しい。
多分これらではない。

Wikipediaを見てみましたら、大阪の特徴として「大阪は商業の町としての性格上、お互いに角の立たない円滑で穏和なコミュニケーション術が発達した。こうしたことが大阪でお笑い文化が花開く素地となったのではないかとされる」とあります。

なるほど、それは知らなかったです。
「かめへん」などの言い回しに代表される、「まあいいじゃないか」的な思想もそのあたりと関係しているかもしれません

この「かめへん」主義は近隣アジアではわりとメジャーな意識で、韓国には「ケンチャナヨ」(気にすんなよ)、という言葉があり、タイ語では「マイペンライ」(まあいいじゃないの)という言葉があり、どちらも大変にメジャーな言葉です。

話は脱線しますが、今から20年近く前なので、今の韓国とはいろいろと違いますが、初めて韓国のソウルに行った時に、泊まったホテルのベッド横の照明が破損していて、しかも、冬なのにどうも暖房がちゃんと効いていない。

旅行本にあった韓国語で「いろいろと壊れているようなんだけど」と、ホテルのフロントに電話をしたのですが、相手は少し考えてから、

「ケンチャナヨ」(気にすんなよ)

と言ってきました。
この場合は私の方から言う分には角が立たないと思うのですが、向こうから言われるのはどうも変な感じがします。
しかし、私もすぐに、

「アラッソ」(うん、わかった)

と電話を切ったのでした。

考えてみれば、照明が壊れていようと、暖房が壊れていようと、部屋は寝るためだけのもので、別にそんなことはどうでもよかったからです。そして、「部屋は寒いし、すぐ外に行こう」と、ソウルの初めての夜に出て、それはそれは楽しいもので、「ああ、暖房が壊れていてよかったねえ」などと一緒に行った友人と話したりしました。

今でも韓国語は20語程度しか知らないですが、「ケンチャナヨ」はその中でも最初の方に覚えた韓国語です。

大阪の「かめへん」精神は、同じ日本での他の地域の思想よりも、むしろ上の「ケンチャナヨ」や「マイペンライ」の思想性に近いモノを感じます。

となると、武器は、

・角の立たない円滑で穏和なコミュニケーション術
・かめへん主義

うーん、これだけではあの戦闘マシンは倒せそうもないなあ・・・。
他に何が大阪にあるのだろう。




▲ トライポッドはシールドで防御されていて、陸軍のあらゆる攻撃、空軍のあらゆる攻撃に耐えられます。大阪人はこんなものをどこから攻略したというのか。


カオスの発祥地としての関西


通常の生活をしている分にはまったく関係のない話で恐縮なのですが、大阪というと、娯楽文化ではお笑いなどが挙げられることが多いと思いますが、実は日本と世界のアンダーグラウンド音楽の登場と発展に関しては、大阪や京都は歴史的に非常に重要な役割を担っていました。

特に、ノイズミュージックというジャンルがあって、これはクラシック音楽の実験音楽から発展したものと、パンクなどから発展したものがあり、ここではパンクから発展した方の話ですが、基本的にマニアックなジャンルなので、リスナーの数など全世界でも数千人から数万人かと思われるのですが、そのほとんどは白人文化系の白人と日本の日本人です。

そして、供給側となると、もう圧倒的に日本人の独壇場で、この世界では日本は1970年代から異常といってもいいリスペクトを受けています。「オレたちは日本人のようにはできない」という絶望感を多くのノイズマニアの白人たちは抱いていて、ここまで日本と日本人がリスペクトされているジャンルというのは音楽ではこれだけではないでしょうか。

世界のノイズ四天王というのは、イギリス人のホワイトハウスというのだけが白人で、あとは基本的には日本人です。

秋田昌美 (Merzbow)
非常階段 (Hijokaidan)
山塚アイ (Hanatarash)
山崎マゾ (Masonna)

が四天王といっていい存在で、それぞれリンクは Wikipedia ですので、 Wikipedia に載る程度の存在ではあることはおわかりになるかと思います。それぞれが1970-80年代くらいから活動しているのですが、このジャンルにはこの4名しか世界にはいなかった時代があります。全然関係ないですが、秋田昌美は徹底したヴィーガン(動物肉、魚介類、甲殻類、卵、乳製品、蜂蜜などをすべて食べない過激なベジタリアンで、革製品も絶対に身に付けない)で、日本で初めてそのことに関しての本を書いた人でもあります。

そして、リスナーの多くが白人というイビツな構造。

まあ、この音楽のこと自体はどうでもいいことですので、ここでやめますが、この人たちや、あるいは日本で最初期のパンクバンドの人たちの多くが「関西出身」なのです。特に京都と大阪が異常に多い。上でも秋田昌美だけが東京で、あとは関西です。

「混沌としたものはすべて関西から生まれる」というのは、音楽の世界ではウソではないです。

ちなみに、この音楽の内容自体は通常の方が聞くようなものではないのでアレですが、興味がある場合はYouTubeなどにたくさんあります。日本ではほとんど需要がないので、検索では、上の名前の後ろにつけた英語でなければ出てこないかもしれません。

さて、なんでノイズミュージックなんていう唐突なことを書いたのか。

私が今回の「大阪と火星の問題」でふと思い出したのが、1996年の火星人襲来コメディ映画「マーズ・アタック」。

火星から地球に襲来した無敵の火星人の弱点は、インディアン・ラブ・コール(リンクから聴けます)という古いウエスタンソングでした。それを聴くと、火星人は頭が爆発して死んでしまうのです。

つまり、火星人は特定の音に弱い可能性があるということです。ノイズミュージックを含めて、この「大阪にある音」というものも凶器になった可能性があります。(関西弁がダメだったという可能性も)



▲ 映画「マーズ・アタック」。古いウエスタンソングを聴いていたおばあさんが火星人に襲われそうになった時に、ヘッドホンのジャックががステレオから外れてこの歌が大音量で流れます。その瞬間から火星人たちは次々と死んでいきます。これがキッカケで地球は危機から救われます。つまり、映画ではこのおばあさんが地球を救ったのでした。


そういえば、ちょうどマドモアゼル愛さんの記事で、

モーター音、スピーカーから出る一切の音、あらゆるノイズが消え、自然音のみとなった時、人間の魂にある変化がきっと起こる。私たちを本当に攻撃しているものは、だからノイズなのだ。


という下りがありました。
ノイズには攻撃性が確かにあるようです。

ちなみに、ノイズミュージックの存在意義というのは、上でマドモアゼル愛さんが言っている「私たちを攻撃しているもの」を音によって再現させる試みで、そういう意味では左脳的な音楽と思われやすいのですが、実際には「不快を作り出す」ことに特化している極めて右脳的な音楽ジャンルです。

たとえば、ふだん生活している中では騒音は単に騒音として、あるいは自然の音さえも単なる音として過ぎていき、それを確認したりはしませんが、それをレコードやライブなどで再確認する試みと言えます。

ちなみに、私はいろんな音楽を聴きますが、ノイズミュージックはそういう興味の対象の中のひとつというだけで、いつもノイズを聴いているわけじゃないですよ(笑)。「毎日のBGMがノイズ」というほどには狂ってはおりません(海外にはそういう人もたくさんいるのです)。沖縄民謡もハードコアパンクもヒップホップもフォークソングもノイズミュージックもモダンジャズも私には等しく愛しいものなのであります。


さて、それはともかく、大阪=ノイズミュージックの街。つまり、「ノイズ攻撃」。これが対火星人に使える可能性が出てきています。

ここまでを整理すると(整理するようなこっちゃねーだろ)、大阪にあるボイントは、

・角の立たない円滑で穏和なコミュニケーション術
・かめへん主義
・ノイズ攻撃

が挙げられます。
しかし、これだけでは最強の宇宙兵器に対してはまだ弱い気もします。

私は北海道で生まれて、東京で大人時代を過ごしています。
大阪や関西の価値観は一番私から遠いもので、それは不思議でもあり、同時に部分的には少しの憧れもあります



外国人たちが体験する大阪ショック

10年くらい前に、アメリカのソニック・ユースというパンクバンドの大御所が日本にライブに来たことがあります。

その後にアメリカの音楽雑誌に彼らのアジアツアーに関してのインタビュー記事があり、リーダーのサーストン・ムーアという人が、日本の、特に「大阪の驚き」ついて嬉々として語り続けていたことがあります。音楽雑誌のインタビューなんだから、ライブはどうだった、とか観客がどうだったとか言うのが普通なのですが、

「大阪はすごい・・・すごすぎる。あんな街が地球上に存在していたなんて・・・。今でもあれがリアルだとは信じられない。みんな異常にハイになっちゃって、結局、朝まで大阪で遊びまくったよ」

と興奮気味に語っていたのを思い出します。

彼らはニューヨーク出身で、そこを中心に活動しているので、都会の夜景なんかにそんなにショックを受けるわけがないと思うのですが、夜の大阪の夜景からものすごいショックを受けたらしいのです、夜の歌舞伎町もある程度のインパクトはあったようですが、大阪のショックはそれを上回っていたようです。

リドリー・スコットの「ブレードランナー」の夜景も日本・・・というより大阪の再現っぽいですし、ブラック・レインという映画では、日本が撮影場所になっているのですが、「 リドリー・スコットは『ブレードランナー』で描かれていたような雑多で猥雑なイメージを日本に求めていたが、実際の日本はかなり清潔な街並みであったために驚いたという」ということだったのだそうです。



▲ 映画「ブレードランナー」に出てくる屋台。やめてケレの左ト全っぽい店の主人は日本語で客に応対します。料理の量は多めらしく、変な食べ物を4つ注文する主人公に対して「2つで十分ですよ」としきりに言っています。




▲ 「ブラックレイン」。大阪の街で暴走族に囲まれるマイケル・ダグラスとアンディ・ガルシア。この15年後にこの大阪で、あのトライポッドが倒されることになります。


外国人には、「変な日本幻想」がある人たちがいるのは確かで、上のサーストン・ムーアのように本当に来てショックを受けるパターンと、リドリー・スコットのように、意識が先行し過ぎて、実際に見てガッカリするパターンとどちらもあるようなのですが、スピルバーグの、

「大阪では何体か倒したらしいぞ」

にはこのどちらかの意識も入っているかとは思います。
しかし、そこは天下のスピルバーグ。無意味であるわけはない。

もしかしたら、スピルバーグは夢か何かでトライポッドを打ち倒すたくましい大阪人の姿を見たのかも知れません。武器はお笑いかノイズかお好み焼きかはわかりませんが、「結局、大阪の一人勝ちかよ」と呟いているスピルバーグの姿が目に浮かびます。(どんな姿だよ)



不思議な日本人


それにしても、日本というのは日本人の私が言うのはヘンですが、不思議な概念に包まれていますね。日本が良いとか悪いとかではなくて、やっばり不思議だよなあと。

ヤスさんが配布して下さっている WebBot の予測には、ふだんはまったく日本のことが出てこないですが、最新のレポートに唐突に日本が出てきます。

日本では古代の日本文化のいわばルネッサンスのようなことが起こり、お辞儀などの伝統的な風習に込められた深いニュアンスや、その象徴的な意味が再認識されるようになる。これは世界に広められる。


とあり、しかも、これらの習慣は世界に伝わっていき、

この日本式礼儀作法とその思想は、今後100世代、2000年にわたって異なった種の間でコミュニケーションが行われるための基本的な方法となる。

とあるのです。

「異なった種の間」というのは人類同士だけではなく、エイリアンとのコミュニケーションも含まれるのだそうで、何とも驚く展開にはなってはいます。

日本式礼儀作法というのは、お辞儀とか、会釈とか、あるいは謙遜とか謙譲とか恥の概念とかそういうものも含まれるかもしれませんが、これらは私は日本人なのでそれらをある程度理解していて、また、大好きですが、多くの外国人にとっては、理解が難しい生活習慣であり、また概念じゃないかとは思うのですね。

これらの日本式礼儀作法の存在意義の根底には、多分、「白黒をはっきりさせない」という「曖昧OK」の部分があって、ここが特に白人文化圏や中国文化圏などとぶつかるような気がするのですよ。

しかしまあ、ここで上の

・角の立たない円滑で穏和なコミュニケーション術
・かめへん主義

というのも思い出したりして、「白黒をはっきりさせない」というのはひとつの処世術なのかもしれないなあ、なんて思います。そのパワーは最終的には「かめへん攻撃」として、最強の宇宙兵器トライポッドを倒してしまい、アメリカ人たちの間で噂になるほどのことになっていったのかもしれません。

まあ・・・一億人の日本人が「また、大阪かよ」と呟いて死んでいく時に1200万人の大阪の人だけは生きていくのかもしれません。
羨ましい気もしますが、まあ、どうでもいいか。
まさに「かめへん」であります。

いずれにしても、私を元気にしてくれたスピルバーグと大阪人に感謝します。

大阪に幸あれ!
 
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