ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
カテゴリー
フリーエリア
最新CM
最新記事
(11/22)
(11/22)
(11/21)
(11/21)
(11/21)
(11/20)
(11/20)
(11/19)
(11/19)
(11/19)
最新TB
プロフィール
HN:
o-zone
性別:
非公開
ブログ内検索
アーカイブ
最古記事
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
P R
カウンター
昨日に続いて「In deep」からの転載である。
長編だが、馬鹿馬鹿しくて面白いので一挙転載する。本当は、これへの読者のコメントまで載せたいところである。そのコメントの中には答えは「たこ焼き」じゃないか、というのがある。まあ、宇宙人=タコ型生物などというのも相当古いので、筆者の盲点になっていたのだろう。で、相手はタコなのだから、大阪人は、相手をまったく恐れず、たこ焼きにして食ってしまったというわけである。
(以下引用)
2009年10月11日
大阪人はいかにして最強の宇宙兵器を倒したのか
先日、レンタル落ちの中古DVDが安く売られていました。
ふと思えば、昔、映画漬けのような生活をしていた時があったのが信じられないほどここ数年は映画を見ていない生活でした。
特に、リーマンショック後のこの1年はもう本当に全然映画なんて見なかったし、見る気にもなりませんでした。
まあ多分、「現実の方が映画より面白い時」は映画になんて興味がいかないのかもしれません。そういう意味では、今はまた「映画の方が面白いかも」という退屈生活だということかもしれませんが。
そんなわけで、その中古DVDのリストを見ていたら、スティーヴン・スピルバーグの「宇宙戦争」(War of the Worlds)が、150円で売られていました。「150円とは、スピルバーグも形無しだな」と思いつつ、それを買ったのでした。これは2005年の公開の時から気にはなっていて、「なんで今頃そんなものリメイクするんだ?」と思ってはいましたが、1953年版の宇宙戦争も好きだったので、いつかは見ようと思っておりました。
宇宙戦争はもともと1800年代の終わりに書かれている古典SFで19世紀末のイギリスを舞台にしたものです。詳しいところはこちらなどに出ていますが、要するに、火星人が地球にやってきて武力で人類に攻撃をしかける話で、その圧倒的な火力の前に人類は為す術なく殺されていきます。
エイリアンが使う兵器はトライポッドと呼ばれる戦闘マシンで、原作では「家より背が高い3本脚の戦闘機械」とされていますが、スピルバーグ版では家どころかビル・・・いや、ドバイの高層ビルより高そうな戦闘マシンで、そこから出る光線も昔はレーザー光線のようなものでしたが、スピルバーグ版では破壊力がアップしていて、光線というより、どうも一種の重力波的な感じの、本当にものすごい破壊力の武器で人間も建物もあらゆるものを破壊していきます。
▲ 最強の宇宙兵器トライポッド。高さは目算で数百メートルはありそうです。
この宇宙戦争は宇宙からきた円盤などにより攻撃されるのではなく、「あらかじめ地球の内部に埋められていた」戦闘兵器が一気に地上に出てくるところから話は始まります。「あらかじめ」というのは何万年も前からのようです。
で、あっという間にアメリカの各地の街は壊滅状態となり、人々の大移動が始まるのですが、その状況の中で様々な噂が飛び交うわけです。ヨーロッパは全滅らしいとか、いろいろな話が出てくるわけですが、途中、唐突に、
「大阪では(この戦闘兵器を)何体か倒したらしいぞ」
(Somehow they killed a few of these things in Osaka. That's what I heard. )
という台詞が出てくるのです。
自分でも理由はよくわからないのですが、この台詞を聞いた瞬間に頭を殴られたような感覚になり、個人的にはリーマンショック以来のショックがついにきたのです。
「大阪ショックかよ!」
と思いつつも、それ以来ずーっとこの言葉が頭にこびりついていて、最近そのことばかり考えています。他のことはあまり考えていません。最近、戦争マニアの友人とこの大阪問題を討論したりしましたが、兵器論の好きな彼からは「なぜか」という答えは導き出されませんでした。
このことに関してはこちらなどには、「これは『ゴジラ』をはじめ怪獣映画を多数製作している日本に、監督のスピルバーグが敬意を表したものである」とありますが、どうもそんな感じではない。
なぜなら、この戦闘マシンの圧倒的な火力と防御力は映画そのものが十分に語っていて、とても簡単にこんな「やっつけたらしい」なんて台詞を入れられるようなシロモノではないからです。映画ではアメリカ陸軍もお手上げの状態ですし、パッと見て、「何人くらいの人間で倒せるだろう」と考えると、たとえば、東京ドームに5万人くらい入るとして、その数を想像してみても、
「あー、だめだめ。5万人では話にならない」
ということが直感的にもわかります。
じゃ、100万人では?
500万人では?
と考えてみると、多分、生身の人間だと(武装していても)何百万人いてもダメではないかという感じがするのです。
人間に倒せる相手ではない。
しかし、大阪では倒せた。
大阪にいるのは人間ではないのだろうか・・・・・。
現在の大阪首都圏の人口は1211万人らしいですが、高齢化の現在ではこの半数以上に戦闘意志がないと見ると、大阪人総出の戦闘能力人口は500万人程度。さて、500万人で、「何体かのこの戦闘マシンを倒せるのか」と思うと疑問視せざるを得ないのです。
どうも・・・大阪人はパワー対パワーで戦闘マシンに勝ったというわけではなさそうだ、という推察が成り立ってきます。
「力 vs 力ではない何かの方法」があったのだ、と思わざるを得ない部分があります。
それは何なのだろう・・・と最近ずっと悩んでいるわけです。
下らないといえば下らない悩みではありますが、これが「日本では・・・」とか「東京では・・・」という台詞ならそんなにこんなことは考えなかったと思うのです。しかし、「大阪では何体か倒したらしいぞ」となると妙に具体的な感じで、お酒を飲みながら映画を観ていたのですが、思わず、
「マジかよ」
と呟いていました。
▲ この台詞を聞いた時の私の顔
その瞬間から「しかし、どうやって・・・」という思いがつきまとって、そのせいで映画の後半はちゃんと見ていないので、全体的にどんな映画かということはあまり覚えていないのですが、上に書いたように、「武力 vs 武力で大阪人がトライポッドを倒した」とはスピルバーグも想定していないと思われます。映画に出てくる戦闘マシンはそんなレベルのものではない。
大阪に何があるのだろう・・・。
私は大阪のことをほとんど知りません。
たこ焼き、ソース2度づけ禁止の串カツ、イカ焼き、赤福、人形浄瑠璃、新喜劇・・・。
これらだけであのトライポッドを倒すのは難しい。
多分これらではない。
Wikipediaを見てみましたら、大阪の特徴として「大阪は商業の町としての性格上、お互いに角の立たない円滑で穏和なコミュニケーション術が発達した。こうしたことが大阪でお笑い文化が花開く素地となったのではないかとされる」とあります。
なるほど、それは知らなかったです。
「かめへん」などの言い回しに代表される、「まあいいじゃないか」的な思想もそのあたりと関係しているかもしれません
この「かめへん」主義は近隣アジアではわりとメジャーな意識で、韓国には「ケンチャナヨ」(気にすんなよ)、という言葉があり、タイ語では「マイペンライ」(まあいいじゃないの)という言葉があり、どちらも大変にメジャーな言葉です。
話は脱線しますが、今から20年近く前なので、今の韓国とはいろいろと違いますが、初めて韓国のソウルに行った時に、泊まったホテルのベッド横の照明が破損していて、しかも、冬なのにどうも暖房がちゃんと効いていない。
旅行本にあった韓国語で「いろいろと壊れているようなんだけど」と、ホテルのフロントに電話をしたのですが、相手は少し考えてから、
「ケンチャナヨ」(気にすんなよ)
と言ってきました。
この場合は私の方から言う分には角が立たないと思うのですが、向こうから言われるのはどうも変な感じがします。
しかし、私もすぐに、
「アラッソ」(うん、わかった)
と電話を切ったのでした。
考えてみれば、照明が壊れていようと、暖房が壊れていようと、部屋は寝るためだけのもので、別にそんなことはどうでもよかったからです。そして、「部屋は寒いし、すぐ外に行こう」と、ソウルの初めての夜に出て、それはそれは楽しいもので、「ああ、暖房が壊れていてよかったねえ」などと一緒に行った友人と話したりしました。
今でも韓国語は20語程度しか知らないですが、「ケンチャナヨ」はその中でも最初の方に覚えた韓国語です。
大阪の「かめへん」精神は、同じ日本での他の地域の思想よりも、むしろ上の「ケンチャナヨ」や「マイペンライ」の思想性に近いモノを感じます。
となると、武器は、
・角の立たない円滑で穏和なコミュニケーション術
・かめへん主義
うーん、これだけではあの戦闘マシンは倒せそうもないなあ・・・。
他に何が大阪にあるのだろう。
▲ トライポッドはシールドで防御されていて、陸軍のあらゆる攻撃、空軍のあらゆる攻撃に耐えられます。大阪人はこんなものをどこから攻略したというのか。
カオスの発祥地としての関西
通常の生活をしている分にはまったく関係のない話で恐縮なのですが、大阪というと、娯楽文化ではお笑いなどが挙げられることが多いと思いますが、実は日本と世界のアンダーグラウンド音楽の登場と発展に関しては、大阪や京都は歴史的に非常に重要な役割を担っていました。
特に、ノイズミュージックというジャンルがあって、これはクラシック音楽の実験音楽から発展したものと、パンクなどから発展したものがあり、ここではパンクから発展した方の話ですが、基本的にマニアックなジャンルなので、リスナーの数など全世界でも数千人から数万人かと思われるのですが、そのほとんどは白人文化系の白人と日本の日本人です。
そして、供給側となると、もう圧倒的に日本人の独壇場で、この世界では日本は1970年代から異常といってもいいリスペクトを受けています。「オレたちは日本人のようにはできない」という絶望感を多くのノイズマニアの白人たちは抱いていて、ここまで日本と日本人がリスペクトされているジャンルというのは音楽ではこれだけではないでしょうか。
世界のノイズ四天王というのは、イギリス人のホワイトハウスというのだけが白人で、あとは基本的には日本人です。
秋田昌美 (Merzbow)
非常階段 (Hijokaidan)
山塚アイ (Hanatarash)
山崎マゾ (Masonna)
が四天王といっていい存在で、それぞれリンクは Wikipedia ですので、 Wikipedia に載る程度の存在ではあることはおわかりになるかと思います。それぞれが1970-80年代くらいから活動しているのですが、このジャンルにはこの4名しか世界にはいなかった時代があります。全然関係ないですが、秋田昌美は徹底したヴィーガン(動物肉、魚介類、甲殻類、卵、乳製品、蜂蜜などをすべて食べない過激なベジタリアンで、革製品も絶対に身に付けない)で、日本で初めてそのことに関しての本を書いた人でもあります。
そして、リスナーの多くが白人というイビツな構造。
まあ、この音楽のこと自体はどうでもいいことですので、ここでやめますが、この人たちや、あるいは日本で最初期のパンクバンドの人たちの多くが「関西出身」なのです。特に京都と大阪が異常に多い。上でも秋田昌美だけが東京で、あとは関西です。
「混沌としたものはすべて関西から生まれる」というのは、音楽の世界ではウソではないです。
ちなみに、この音楽の内容自体は通常の方が聞くようなものではないのでアレですが、興味がある場合はYouTubeなどにたくさんあります。日本ではほとんど需要がないので、検索では、上の名前の後ろにつけた英語でなければ出てこないかもしれません。
さて、なんでノイズミュージックなんていう唐突なことを書いたのか。
私が今回の「大阪と火星の問題」でふと思い出したのが、1996年の火星人襲来コメディ映画「マーズ・アタック」。
火星から地球に襲来した無敵の火星人の弱点は、インディアン・ラブ・コール(リンクから聴けます)という古いウエスタンソングでした。それを聴くと、火星人は頭が爆発して死んでしまうのです。
つまり、火星人は特定の音に弱い可能性があるということです。ノイズミュージックを含めて、この「大阪にある音」というものも凶器になった可能性があります。(関西弁がダメだったという可能性も)
▲ 映画「マーズ・アタック」。古いウエスタンソングを聴いていたおばあさんが火星人に襲われそうになった時に、ヘッドホンのジャックががステレオから外れてこの歌が大音量で流れます。その瞬間から火星人たちは次々と死んでいきます。これがキッカケで地球は危機から救われます。つまり、映画ではこのおばあさんが地球を救ったのでした。
そういえば、ちょうどマドモアゼル愛さんの記事で、
モーター音、スピーカーから出る一切の音、あらゆるノイズが消え、自然音のみとなった時、人間の魂にある変化がきっと起こる。私たちを本当に攻撃しているものは、だからノイズなのだ。
という下りがありました。
ノイズには攻撃性が確かにあるようです。
ちなみに、ノイズミュージックの存在意義というのは、上でマドモアゼル愛さんが言っている「私たちを攻撃しているもの」を音によって再現させる試みで、そういう意味では左脳的な音楽と思われやすいのですが、実際には「不快を作り出す」ことに特化している極めて右脳的な音楽ジャンルです。
たとえば、ふだん生活している中では騒音は単に騒音として、あるいは自然の音さえも単なる音として過ぎていき、それを確認したりはしませんが、それをレコードやライブなどで再確認する試みと言えます。
ちなみに、私はいろんな音楽を聴きますが、ノイズミュージックはそういう興味の対象の中のひとつというだけで、いつもノイズを聴いているわけじゃないですよ(笑)。「毎日のBGMがノイズ」というほどには狂ってはおりません(海外にはそういう人もたくさんいるのです)。沖縄民謡もハードコアパンクもヒップホップもフォークソングもノイズミュージックもモダンジャズも私には等しく愛しいものなのであります。
さて、それはともかく、大阪=ノイズミュージックの街。つまり、「ノイズ攻撃」。これが対火星人に使える可能性が出てきています。
ここまでを整理すると(整理するようなこっちゃねーだろ)、大阪にあるボイントは、
・角の立たない円滑で穏和なコミュニケーション術
・かめへん主義
・ノイズ攻撃
が挙げられます。
しかし、これだけでは最強の宇宙兵器に対してはまだ弱い気もします。
私は北海道で生まれて、東京で大人時代を過ごしています。
大阪や関西の価値観は一番私から遠いもので、それは不思議でもあり、同時に部分的には少しの憧れもあります
外国人たちが体験する大阪ショック
10年くらい前に、アメリカのソニック・ユースというパンクバンドの大御所が日本にライブに来たことがあります。
その後にアメリカの音楽雑誌に彼らのアジアツアーに関してのインタビュー記事があり、リーダーのサーストン・ムーアという人が、日本の、特に「大阪の驚き」ついて嬉々として語り続けていたことがあります。音楽雑誌のインタビューなんだから、ライブはどうだった、とか観客がどうだったとか言うのが普通なのですが、
「大阪はすごい・・・すごすぎる。あんな街が地球上に存在していたなんて・・・。今でもあれがリアルだとは信じられない。みんな異常にハイになっちゃって、結局、朝まで大阪で遊びまくったよ」
と興奮気味に語っていたのを思い出します。
彼らはニューヨーク出身で、そこを中心に活動しているので、都会の夜景なんかにそんなにショックを受けるわけがないと思うのですが、夜の大阪の夜景からものすごいショックを受けたらしいのです、夜の歌舞伎町もある程度のインパクトはあったようですが、大阪のショックはそれを上回っていたようです。
リドリー・スコットの「ブレードランナー」の夜景も日本・・・というより大阪の再現っぽいですし、ブラック・レインという映画では、日本が撮影場所になっているのですが、「 リドリー・スコットは『ブレードランナー』で描かれていたような雑多で猥雑なイメージを日本に求めていたが、実際の日本はかなり清潔な街並みであったために驚いたという」ということだったのだそうです。
▲ 映画「ブレードランナー」に出てくる屋台。やめてケレの左ト全っぽい店の主人は日本語で客に応対します。料理の量は多めらしく、変な食べ物を4つ注文する主人公に対して「2つで十分ですよ」としきりに言っています。
▲ 「ブラックレイン」。大阪の街で暴走族に囲まれるマイケル・ダグラスとアンディ・ガルシア。この15年後にこの大阪で、あのトライポッドが倒されることになります。
外国人には、「変な日本幻想」がある人たちがいるのは確かで、上のサーストン・ムーアのように本当に来てショックを受けるパターンと、リドリー・スコットのように、意識が先行し過ぎて、実際に見てガッカリするパターンとどちらもあるようなのですが、スピルバーグの、
「大阪では何体か倒したらしいぞ」
にはこのどちらかの意識も入っているかとは思います。
しかし、そこは天下のスピルバーグ。無意味であるわけはない。
もしかしたら、スピルバーグは夢か何かでトライポッドを打ち倒すたくましい大阪人の姿を見たのかも知れません。武器はお笑いかノイズかお好み焼きかはわかりませんが、「結局、大阪の一人勝ちかよ」と呟いているスピルバーグの姿が目に浮かびます。(どんな姿だよ)
不思議な日本人
それにしても、日本というのは日本人の私が言うのはヘンですが、不思議な概念に包まれていますね。日本が良いとか悪いとかではなくて、やっばり不思議だよなあと。
ヤスさんが配布して下さっている WebBot の予測には、ふだんはまったく日本のことが出てこないですが、最新のレポートに唐突に日本が出てきます。
日本では古代の日本文化のいわばルネッサンスのようなことが起こり、お辞儀などの伝統的な風習に込められた深いニュアンスや、その象徴的な意味が再認識されるようになる。これは世界に広められる。
とあり、しかも、これらの習慣は世界に伝わっていき、
この日本式礼儀作法とその思想は、今後100世代、2000年にわたって異なった種の間でコミュニケーションが行われるための基本的な方法となる。
とあるのです。
「異なった種の間」というのは人類同士だけではなく、エイリアンとのコミュニケーションも含まれるのだそうで、何とも驚く展開にはなってはいます。
日本式礼儀作法というのは、お辞儀とか、会釈とか、あるいは謙遜とか謙譲とか恥の概念とかそういうものも含まれるかもしれませんが、これらは私は日本人なのでそれらをある程度理解していて、また、大好きですが、多くの外国人にとっては、理解が難しい生活習慣であり、また概念じゃないかとは思うのですね。
これらの日本式礼儀作法の存在意義の根底には、多分、「白黒をはっきりさせない」という「曖昧OK」の部分があって、ここが特に白人文化圏や中国文化圏などとぶつかるような気がするのですよ。
しかしまあ、ここで上の
・角の立たない円滑で穏和なコミュニケーション術
・かめへん主義
というのも思い出したりして、「白黒をはっきりさせない」というのはひとつの処世術なのかもしれないなあ、なんて思います。そのパワーは最終的には「かめへん攻撃」として、最強の宇宙兵器トライポッドを倒してしまい、アメリカ人たちの間で噂になるほどのことになっていったのかもしれません。
まあ・・・一億人の日本人が「また、大阪かよ」と呟いて死んでいく時に1200万人の大阪の人だけは生きていくのかもしれません。
羨ましい気もしますが、まあ、どうでもいいか。
まさに「かめへん」であります。
いずれにしても、私を元気にしてくれたスピルバーグと大阪人に感謝します。
大阪に幸あれ!
長編だが、馬鹿馬鹿しくて面白いので一挙転載する。本当は、これへの読者のコメントまで載せたいところである。そのコメントの中には答えは「たこ焼き」じゃないか、というのがある。まあ、宇宙人=タコ型生物などというのも相当古いので、筆者の盲点になっていたのだろう。で、相手はタコなのだから、大阪人は、相手をまったく恐れず、たこ焼きにして食ってしまったというわけである。
(以下引用)
2009年10月11日
大阪人はいかにして最強の宇宙兵器を倒したのか
先日、レンタル落ちの中古DVDが安く売られていました。
ふと思えば、昔、映画漬けのような生活をしていた時があったのが信じられないほどここ数年は映画を見ていない生活でした。
特に、リーマンショック後のこの1年はもう本当に全然映画なんて見なかったし、見る気にもなりませんでした。
まあ多分、「現実の方が映画より面白い時」は映画になんて興味がいかないのかもしれません。そういう意味では、今はまた「映画の方が面白いかも」という退屈生活だということかもしれませんが。
そんなわけで、その中古DVDのリストを見ていたら、スティーヴン・スピルバーグの「宇宙戦争」(War of the Worlds)が、150円で売られていました。「150円とは、スピルバーグも形無しだな」と思いつつ、それを買ったのでした。これは2005年の公開の時から気にはなっていて、「なんで今頃そんなものリメイクするんだ?」と思ってはいましたが、1953年版の宇宙戦争も好きだったので、いつかは見ようと思っておりました。
宇宙戦争はもともと1800年代の終わりに書かれている古典SFで19世紀末のイギリスを舞台にしたものです。詳しいところはこちらなどに出ていますが、要するに、火星人が地球にやってきて武力で人類に攻撃をしかける話で、その圧倒的な火力の前に人類は為す術なく殺されていきます。
エイリアンが使う兵器はトライポッドと呼ばれる戦闘マシンで、原作では「家より背が高い3本脚の戦闘機械」とされていますが、スピルバーグ版では家どころかビル・・・いや、ドバイの高層ビルより高そうな戦闘マシンで、そこから出る光線も昔はレーザー光線のようなものでしたが、スピルバーグ版では破壊力がアップしていて、光線というより、どうも一種の重力波的な感じの、本当にものすごい破壊力の武器で人間も建物もあらゆるものを破壊していきます。
▲ 最強の宇宙兵器トライポッド。高さは目算で数百メートルはありそうです。
この宇宙戦争は宇宙からきた円盤などにより攻撃されるのではなく、「あらかじめ地球の内部に埋められていた」戦闘兵器が一気に地上に出てくるところから話は始まります。「あらかじめ」というのは何万年も前からのようです。
で、あっという間にアメリカの各地の街は壊滅状態となり、人々の大移動が始まるのですが、その状況の中で様々な噂が飛び交うわけです。ヨーロッパは全滅らしいとか、いろいろな話が出てくるわけですが、途中、唐突に、
「大阪では(この戦闘兵器を)何体か倒したらしいぞ」
(Somehow they killed a few of these things in Osaka. That's what I heard. )
という台詞が出てくるのです。
自分でも理由はよくわからないのですが、この台詞を聞いた瞬間に頭を殴られたような感覚になり、個人的にはリーマンショック以来のショックがついにきたのです。
「大阪ショックかよ!」
と思いつつも、それ以来ずーっとこの言葉が頭にこびりついていて、最近そのことばかり考えています。他のことはあまり考えていません。最近、戦争マニアの友人とこの大阪問題を討論したりしましたが、兵器論の好きな彼からは「なぜか」という答えは導き出されませんでした。
このことに関してはこちらなどには、「これは『ゴジラ』をはじめ怪獣映画を多数製作している日本に、監督のスピルバーグが敬意を表したものである」とありますが、どうもそんな感じではない。
なぜなら、この戦闘マシンの圧倒的な火力と防御力は映画そのものが十分に語っていて、とても簡単にこんな「やっつけたらしい」なんて台詞を入れられるようなシロモノではないからです。映画ではアメリカ陸軍もお手上げの状態ですし、パッと見て、「何人くらいの人間で倒せるだろう」と考えると、たとえば、東京ドームに5万人くらい入るとして、その数を想像してみても、
「あー、だめだめ。5万人では話にならない」
ということが直感的にもわかります。
じゃ、100万人では?
500万人では?
と考えてみると、多分、生身の人間だと(武装していても)何百万人いてもダメではないかという感じがするのです。
人間に倒せる相手ではない。
しかし、大阪では倒せた。
大阪にいるのは人間ではないのだろうか・・・・・。
現在の大阪首都圏の人口は1211万人らしいですが、高齢化の現在ではこの半数以上に戦闘意志がないと見ると、大阪人総出の戦闘能力人口は500万人程度。さて、500万人で、「何体かのこの戦闘マシンを倒せるのか」と思うと疑問視せざるを得ないのです。
どうも・・・大阪人はパワー対パワーで戦闘マシンに勝ったというわけではなさそうだ、という推察が成り立ってきます。
「力 vs 力ではない何かの方法」があったのだ、と思わざるを得ない部分があります。
それは何なのだろう・・・と最近ずっと悩んでいるわけです。
下らないといえば下らない悩みではありますが、これが「日本では・・・」とか「東京では・・・」という台詞ならそんなにこんなことは考えなかったと思うのです。しかし、「大阪では何体か倒したらしいぞ」となると妙に具体的な感じで、お酒を飲みながら映画を観ていたのですが、思わず、
「マジかよ」
と呟いていました。
▲ この台詞を聞いた時の私の顔
その瞬間から「しかし、どうやって・・・」という思いがつきまとって、そのせいで映画の後半はちゃんと見ていないので、全体的にどんな映画かということはあまり覚えていないのですが、上に書いたように、「武力 vs 武力で大阪人がトライポッドを倒した」とはスピルバーグも想定していないと思われます。映画に出てくる戦闘マシンはそんなレベルのものではない。
大阪に何があるのだろう・・・。
私は大阪のことをほとんど知りません。
たこ焼き、ソース2度づけ禁止の串カツ、イカ焼き、赤福、人形浄瑠璃、新喜劇・・・。
これらだけであのトライポッドを倒すのは難しい。
多分これらではない。
Wikipediaを見てみましたら、大阪の特徴として「大阪は商業の町としての性格上、お互いに角の立たない円滑で穏和なコミュニケーション術が発達した。こうしたことが大阪でお笑い文化が花開く素地となったのではないかとされる」とあります。
なるほど、それは知らなかったです。
「かめへん」などの言い回しに代表される、「まあいいじゃないか」的な思想もそのあたりと関係しているかもしれません
この「かめへん」主義は近隣アジアではわりとメジャーな意識で、韓国には「ケンチャナヨ」(気にすんなよ)、という言葉があり、タイ語では「マイペンライ」(まあいいじゃないの)という言葉があり、どちらも大変にメジャーな言葉です。
話は脱線しますが、今から20年近く前なので、今の韓国とはいろいろと違いますが、初めて韓国のソウルに行った時に、泊まったホテルのベッド横の照明が破損していて、しかも、冬なのにどうも暖房がちゃんと効いていない。
旅行本にあった韓国語で「いろいろと壊れているようなんだけど」と、ホテルのフロントに電話をしたのですが、相手は少し考えてから、
「ケンチャナヨ」(気にすんなよ)
と言ってきました。
この場合は私の方から言う分には角が立たないと思うのですが、向こうから言われるのはどうも変な感じがします。
しかし、私もすぐに、
「アラッソ」(うん、わかった)
と電話を切ったのでした。
考えてみれば、照明が壊れていようと、暖房が壊れていようと、部屋は寝るためだけのもので、別にそんなことはどうでもよかったからです。そして、「部屋は寒いし、すぐ外に行こう」と、ソウルの初めての夜に出て、それはそれは楽しいもので、「ああ、暖房が壊れていてよかったねえ」などと一緒に行った友人と話したりしました。
今でも韓国語は20語程度しか知らないですが、「ケンチャナヨ」はその中でも最初の方に覚えた韓国語です。
大阪の「かめへん」精神は、同じ日本での他の地域の思想よりも、むしろ上の「ケンチャナヨ」や「マイペンライ」の思想性に近いモノを感じます。
となると、武器は、
・角の立たない円滑で穏和なコミュニケーション術
・かめへん主義
うーん、これだけではあの戦闘マシンは倒せそうもないなあ・・・。
他に何が大阪にあるのだろう。
▲ トライポッドはシールドで防御されていて、陸軍のあらゆる攻撃、空軍のあらゆる攻撃に耐えられます。大阪人はこんなものをどこから攻略したというのか。
カオスの発祥地としての関西
通常の生活をしている分にはまったく関係のない話で恐縮なのですが、大阪というと、娯楽文化ではお笑いなどが挙げられることが多いと思いますが、実は日本と世界のアンダーグラウンド音楽の登場と発展に関しては、大阪や京都は歴史的に非常に重要な役割を担っていました。
特に、ノイズミュージックというジャンルがあって、これはクラシック音楽の実験音楽から発展したものと、パンクなどから発展したものがあり、ここではパンクから発展した方の話ですが、基本的にマニアックなジャンルなので、リスナーの数など全世界でも数千人から数万人かと思われるのですが、そのほとんどは白人文化系の白人と日本の日本人です。
そして、供給側となると、もう圧倒的に日本人の独壇場で、この世界では日本は1970年代から異常といってもいいリスペクトを受けています。「オレたちは日本人のようにはできない」という絶望感を多くのノイズマニアの白人たちは抱いていて、ここまで日本と日本人がリスペクトされているジャンルというのは音楽ではこれだけではないでしょうか。
世界のノイズ四天王というのは、イギリス人のホワイトハウスというのだけが白人で、あとは基本的には日本人です。
秋田昌美 (Merzbow)
非常階段 (Hijokaidan)
山塚アイ (Hanatarash)
山崎マゾ (Masonna)
が四天王といっていい存在で、それぞれリンクは Wikipedia ですので、 Wikipedia に載る程度の存在ではあることはおわかりになるかと思います。それぞれが1970-80年代くらいから活動しているのですが、このジャンルにはこの4名しか世界にはいなかった時代があります。全然関係ないですが、秋田昌美は徹底したヴィーガン(動物肉、魚介類、甲殻類、卵、乳製品、蜂蜜などをすべて食べない過激なベジタリアンで、革製品も絶対に身に付けない)で、日本で初めてそのことに関しての本を書いた人でもあります。
そして、リスナーの多くが白人というイビツな構造。
まあ、この音楽のこと自体はどうでもいいことですので、ここでやめますが、この人たちや、あるいは日本で最初期のパンクバンドの人たちの多くが「関西出身」なのです。特に京都と大阪が異常に多い。上でも秋田昌美だけが東京で、あとは関西です。
「混沌としたものはすべて関西から生まれる」というのは、音楽の世界ではウソではないです。
ちなみに、この音楽の内容自体は通常の方が聞くようなものではないのでアレですが、興味がある場合はYouTubeなどにたくさんあります。日本ではほとんど需要がないので、検索では、上の名前の後ろにつけた英語でなければ出てこないかもしれません。
さて、なんでノイズミュージックなんていう唐突なことを書いたのか。
私が今回の「大阪と火星の問題」でふと思い出したのが、1996年の火星人襲来コメディ映画「マーズ・アタック」。
火星から地球に襲来した無敵の火星人の弱点は、インディアン・ラブ・コール(リンクから聴けます)という古いウエスタンソングでした。それを聴くと、火星人は頭が爆発して死んでしまうのです。
つまり、火星人は特定の音に弱い可能性があるということです。ノイズミュージックを含めて、この「大阪にある音」というものも凶器になった可能性があります。(関西弁がダメだったという可能性も)
▲ 映画「マーズ・アタック」。古いウエスタンソングを聴いていたおばあさんが火星人に襲われそうになった時に、ヘッドホンのジャックががステレオから外れてこの歌が大音量で流れます。その瞬間から火星人たちは次々と死んでいきます。これがキッカケで地球は危機から救われます。つまり、映画ではこのおばあさんが地球を救ったのでした。
そういえば、ちょうどマドモアゼル愛さんの記事で、
モーター音、スピーカーから出る一切の音、あらゆるノイズが消え、自然音のみとなった時、人間の魂にある変化がきっと起こる。私たちを本当に攻撃しているものは、だからノイズなのだ。
という下りがありました。
ノイズには攻撃性が確かにあるようです。
ちなみに、ノイズミュージックの存在意義というのは、上でマドモアゼル愛さんが言っている「私たちを攻撃しているもの」を音によって再現させる試みで、そういう意味では左脳的な音楽と思われやすいのですが、実際には「不快を作り出す」ことに特化している極めて右脳的な音楽ジャンルです。
たとえば、ふだん生活している中では騒音は単に騒音として、あるいは自然の音さえも単なる音として過ぎていき、それを確認したりはしませんが、それをレコードやライブなどで再確認する試みと言えます。
ちなみに、私はいろんな音楽を聴きますが、ノイズミュージックはそういう興味の対象の中のひとつというだけで、いつもノイズを聴いているわけじゃないですよ(笑)。「毎日のBGMがノイズ」というほどには狂ってはおりません(海外にはそういう人もたくさんいるのです)。沖縄民謡もハードコアパンクもヒップホップもフォークソングもノイズミュージックもモダンジャズも私には等しく愛しいものなのであります。
さて、それはともかく、大阪=ノイズミュージックの街。つまり、「ノイズ攻撃」。これが対火星人に使える可能性が出てきています。
ここまでを整理すると(整理するようなこっちゃねーだろ)、大阪にあるボイントは、
・角の立たない円滑で穏和なコミュニケーション術
・かめへん主義
・ノイズ攻撃
が挙げられます。
しかし、これだけでは最強の宇宙兵器に対してはまだ弱い気もします。
私は北海道で生まれて、東京で大人時代を過ごしています。
大阪や関西の価値観は一番私から遠いもので、それは不思議でもあり、同時に部分的には少しの憧れもあります
外国人たちが体験する大阪ショック
10年くらい前に、アメリカのソニック・ユースというパンクバンドの大御所が日本にライブに来たことがあります。
その後にアメリカの音楽雑誌に彼らのアジアツアーに関してのインタビュー記事があり、リーダーのサーストン・ムーアという人が、日本の、特に「大阪の驚き」ついて嬉々として語り続けていたことがあります。音楽雑誌のインタビューなんだから、ライブはどうだった、とか観客がどうだったとか言うのが普通なのですが、
「大阪はすごい・・・すごすぎる。あんな街が地球上に存在していたなんて・・・。今でもあれがリアルだとは信じられない。みんな異常にハイになっちゃって、結局、朝まで大阪で遊びまくったよ」
と興奮気味に語っていたのを思い出します。
彼らはニューヨーク出身で、そこを中心に活動しているので、都会の夜景なんかにそんなにショックを受けるわけがないと思うのですが、夜の大阪の夜景からものすごいショックを受けたらしいのです、夜の歌舞伎町もある程度のインパクトはあったようですが、大阪のショックはそれを上回っていたようです。
リドリー・スコットの「ブレードランナー」の夜景も日本・・・というより大阪の再現っぽいですし、ブラック・レインという映画では、日本が撮影場所になっているのですが、「 リドリー・スコットは『ブレードランナー』で描かれていたような雑多で猥雑なイメージを日本に求めていたが、実際の日本はかなり清潔な街並みであったために驚いたという」ということだったのだそうです。
▲ 映画「ブレードランナー」に出てくる屋台。やめてケレの左ト全っぽい店の主人は日本語で客に応対します。料理の量は多めらしく、変な食べ物を4つ注文する主人公に対して「2つで十分ですよ」としきりに言っています。
▲ 「ブラックレイン」。大阪の街で暴走族に囲まれるマイケル・ダグラスとアンディ・ガルシア。この15年後にこの大阪で、あのトライポッドが倒されることになります。
外国人には、「変な日本幻想」がある人たちがいるのは確かで、上のサーストン・ムーアのように本当に来てショックを受けるパターンと、リドリー・スコットのように、意識が先行し過ぎて、実際に見てガッカリするパターンとどちらもあるようなのですが、スピルバーグの、
「大阪では何体か倒したらしいぞ」
にはこのどちらかの意識も入っているかとは思います。
しかし、そこは天下のスピルバーグ。無意味であるわけはない。
もしかしたら、スピルバーグは夢か何かでトライポッドを打ち倒すたくましい大阪人の姿を見たのかも知れません。武器はお笑いかノイズかお好み焼きかはわかりませんが、「結局、大阪の一人勝ちかよ」と呟いているスピルバーグの姿が目に浮かびます。(どんな姿だよ)
不思議な日本人
それにしても、日本というのは日本人の私が言うのはヘンですが、不思議な概念に包まれていますね。日本が良いとか悪いとかではなくて、やっばり不思議だよなあと。
ヤスさんが配布して下さっている WebBot の予測には、ふだんはまったく日本のことが出てこないですが、最新のレポートに唐突に日本が出てきます。
日本では古代の日本文化のいわばルネッサンスのようなことが起こり、お辞儀などの伝統的な風習に込められた深いニュアンスや、その象徴的な意味が再認識されるようになる。これは世界に広められる。
とあり、しかも、これらの習慣は世界に伝わっていき、
この日本式礼儀作法とその思想は、今後100世代、2000年にわたって異なった種の間でコミュニケーションが行われるための基本的な方法となる。
とあるのです。
「異なった種の間」というのは人類同士だけではなく、エイリアンとのコミュニケーションも含まれるのだそうで、何とも驚く展開にはなってはいます。
日本式礼儀作法というのは、お辞儀とか、会釈とか、あるいは謙遜とか謙譲とか恥の概念とかそういうものも含まれるかもしれませんが、これらは私は日本人なのでそれらをある程度理解していて、また、大好きですが、多くの外国人にとっては、理解が難しい生活習慣であり、また概念じゃないかとは思うのですね。
これらの日本式礼儀作法の存在意義の根底には、多分、「白黒をはっきりさせない」という「曖昧OK」の部分があって、ここが特に白人文化圏や中国文化圏などとぶつかるような気がするのですよ。
しかしまあ、ここで上の
・角の立たない円滑で穏和なコミュニケーション術
・かめへん主義
というのも思い出したりして、「白黒をはっきりさせない」というのはひとつの処世術なのかもしれないなあ、なんて思います。そのパワーは最終的には「かめへん攻撃」として、最強の宇宙兵器トライポッドを倒してしまい、アメリカ人たちの間で噂になるほどのことになっていったのかもしれません。
まあ・・・一億人の日本人が「また、大阪かよ」と呟いて死んでいく時に1200万人の大阪の人だけは生きていくのかもしれません。
羨ましい気もしますが、まあ、どうでもいいか。
まさに「かめへん」であります。
いずれにしても、私を元気にしてくれたスピルバーグと大阪人に感謝します。
大阪に幸あれ!
PR
この記事にコメントする