ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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小田嶋隆のコラムから転載。
相変わらず上手いね。「首長によるかまってちゃん改革」とはまさに言い得て妙である。これにマスコミが乗って、延々と下らない馬鹿騒ぎをするわけだ。そういう意味では橋下がマスコミの寵児になった理由もよくわかる。
別に橋下の理念や政策に賛同していなくても、「とにかく騒ぎを起こしてくれる、マスコミ的に歓迎すべき人物」であるとマスコミは見なしているからだ。当の橋下もそれをよく承知していて、マスコミを利用している。そういう相乗り作戦で馬鹿騒ぎが続くわけだが、その馬鹿騒ぎは重篤な被害者を無数に作り出している。大阪の公務員や教師たち、そして今度はそれが福岡に飛び火してきたわけだ。
橋下人気を羨んだ阿呆な首長がその猿まねをして「禁酒令」を出し、それで博多だか中洲だかに膨大な金銭的被害と精神的被害を与えても、この首長が咎められることはない。多分、ないだろう。つまり、今や少し地位がある基地外が基地外的行為をしても、その暴走が誰にも止められない、そういう世の中になりつつあるわけだ。
(以下引用)
福岡の市長による、この度の「禁酒令」は、メディアが大々的に報道することを意識した上での、一種の「広報活動」だと思う。どっちにしても、通常の意味で言うマトモな「施策」ではない。
昨年来頻発している「首長によるかまってちゃん改革」の一つだという言い方は、あまりに酷な決め付けに見えるかもしれない。が、選挙を意識する政治家は、見出しになれば何でも良いと思っていたりするものなのだ。
賛否両論を招く刺激的な改革案は、改革自体の成否とは別に、それを持ち出した政治家に巨大な知名度をもたらす。
いくつかの地方選挙を通じて、このことが学習されて以来、首長は、やたらとメディアに露出して、改革を訴えるようになった。で、今回の出来事も、そうした傾向を受けたパフォーマンスの一つであると、私の目にはどうしてもそんなふうに見えるのである。
(引用2)同じコラムの前の部分である。
われわれは良いことだけをして生きているのではない。
さまざまな良くないことが、人生の時間を作っている。
これは、中学校を出たすべての人間が、常識としてわきまえておかなければならない事柄だ。
一万数千人の人間が1カ月間禁酒をしたら、中洲はどうなるだろう。私はそれを心配している。単純に考えて、地域経済は数億円単位の減収に見舞われるはずだ。屋台の灯は消え、繁華街に人通りは絶え、夜の時間帯の地下鉄はため息を運ぶことになるだろう。いつまでも灯らないネオンの下に集まるガたちは、今年の分の繁殖をあきらめるかもしれない。
無論、それでもかまわないという人たちはいる。
あるいは、市民の半分ぐらいは、今回の禁酒を歓迎するかもしれない。
飲食店の売り上げが多少落ちても、タクシー業界や関連産業の経営に悪影響が出ても、結果として、福岡の夜が健全化し、市政が円滑に流れ、当地の勤労者の生産性が高まるのであれば、全体としてはお釣りが来るはずだ、と、そういう考え方をする人たちがきっといる。彼らは、人々が愚かな行為をやめれば、世界はそれだけ住みやすい場所になると信じている。そういう人たちのアタマの中では、悪徳は生産性の対立概念で、善きおこないと悪しきおこないは、水と油みたいに決してまじわらないことになっている。
ところが、世界は単純ではない。
ひとつの地域の人間に、強引に何らかの変化を押しつけることは、多くの場合厄災をもたらす。古来、神話や寓話の中で、何かを禁じたことによって、破局を招来する話が繰り返されてきたのは偶然ではない。禁忌は厄災をもたらす。厄災が禁忌をもたらす以上に、それは確実ななりゆきなのだ。
相変わらず上手いね。「首長によるかまってちゃん改革」とはまさに言い得て妙である。これにマスコミが乗って、延々と下らない馬鹿騒ぎをするわけだ。そういう意味では橋下がマスコミの寵児になった理由もよくわかる。
別に橋下の理念や政策に賛同していなくても、「とにかく騒ぎを起こしてくれる、マスコミ的に歓迎すべき人物」であるとマスコミは見なしているからだ。当の橋下もそれをよく承知していて、マスコミを利用している。そういう相乗り作戦で馬鹿騒ぎが続くわけだが、その馬鹿騒ぎは重篤な被害者を無数に作り出している。大阪の公務員や教師たち、そして今度はそれが福岡に飛び火してきたわけだ。
橋下人気を羨んだ阿呆な首長がその猿まねをして「禁酒令」を出し、それで博多だか中洲だかに膨大な金銭的被害と精神的被害を与えても、この首長が咎められることはない。多分、ないだろう。つまり、今や少し地位がある基地外が基地外的行為をしても、その暴走が誰にも止められない、そういう世の中になりつつあるわけだ。
(以下引用)
福岡の市長による、この度の「禁酒令」は、メディアが大々的に報道することを意識した上での、一種の「広報活動」だと思う。どっちにしても、通常の意味で言うマトモな「施策」ではない。
昨年来頻発している「首長によるかまってちゃん改革」の一つだという言い方は、あまりに酷な決め付けに見えるかもしれない。が、選挙を意識する政治家は、見出しになれば何でも良いと思っていたりするものなのだ。
賛否両論を招く刺激的な改革案は、改革自体の成否とは別に、それを持ち出した政治家に巨大な知名度をもたらす。
いくつかの地方選挙を通じて、このことが学習されて以来、首長は、やたらとメディアに露出して、改革を訴えるようになった。で、今回の出来事も、そうした傾向を受けたパフォーマンスの一つであると、私の目にはどうしてもそんなふうに見えるのである。
(引用2)同じコラムの前の部分である。
われわれは良いことだけをして生きているのではない。
さまざまな良くないことが、人生の時間を作っている。
これは、中学校を出たすべての人間が、常識としてわきまえておかなければならない事柄だ。
一万数千人の人間が1カ月間禁酒をしたら、中洲はどうなるだろう。私はそれを心配している。単純に考えて、地域経済は数億円単位の減収に見舞われるはずだ。屋台の灯は消え、繁華街に人通りは絶え、夜の時間帯の地下鉄はため息を運ぶことになるだろう。いつまでも灯らないネオンの下に集まるガたちは、今年の分の繁殖をあきらめるかもしれない。
無論、それでもかまわないという人たちはいる。
あるいは、市民の半分ぐらいは、今回の禁酒を歓迎するかもしれない。
飲食店の売り上げが多少落ちても、タクシー業界や関連産業の経営に悪影響が出ても、結果として、福岡の夜が健全化し、市政が円滑に流れ、当地の勤労者の生産性が高まるのであれば、全体としてはお釣りが来るはずだ、と、そういう考え方をする人たちがきっといる。彼らは、人々が愚かな行為をやめれば、世界はそれだけ住みやすい場所になると信じている。そういう人たちのアタマの中では、悪徳は生産性の対立概念で、善きおこないと悪しきおこないは、水と油みたいに決してまじわらないことになっている。
ところが、世界は単純ではない。
ひとつの地域の人間に、強引に何らかの変化を押しつけることは、多くの場合厄災をもたらす。古来、神話や寓話の中で、何かを禁じたことによって、破局を招来する話が繰り返されてきたのは偶然ではない。禁忌は厄災をもたらす。厄災が禁忌をもたらす以上に、それは確実ななりゆきなのだ。
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